ノート:戸田勝隆
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勝隆が暴政を敷いた、という記述について
[編集]「小早川隆景に優遇されていた旧領主の西園寺公広を自邸で謀殺するなど、内政面でも暴政を敷いたとされる。」という記述がありますが、勝隆は検地奉行や朝鮮の役での講和交渉などを担当しており、決して政治オンチの猪武者ではなかったように思われます。何をもって「暴政」と捉えたのか?西園寺公広を謀殺したという一件だけをとって「暴政」というのは言い過ぎなような気もします。そもそも公広謀殺が勝隆の独断だったのかどうかも怪しいし・・・これが独断だったら改易されていてもおかしくないでしょう。実際に勝隆が「暴政を敷いた」と呼べるような根拠は他に存在するのでしょうか?--ポテンシャル0 2009年6月8日 (月) 08:49 (UTC)
- 見たわけではありませんけど、司馬遼太郎氏の著書にそういう記述があるからだと思います。--Kangoshiyouichi 2009年6月8日 (月) 15:45 (UTC)
- 詳しくわかりませんが、それは小説の話でしょうか?もし、それが根拠で暴政者扱いされているのであって外に論拠がないのであれば、「暴政」の部分は削除しても構わないでしょうか?--ポテンシャル0 2009年6月10日 (水) 14:53 (UTC)
- ちょっと説明が適当だったので司馬遼太郎の話は忘れてください。厳密な典拠は見つかってないのですが、[1]や大州市関係のホームページをいくつか見る限りでは、勝隆が暴君だという前提で記事を作成しても差し支えないかと思いました。--Kangoshiyouichi 2009年6月10日 (水) 15:53 (UTC)
- ざっと調べただけですが、司馬視点での批評以外で、これといった根拠は見当たらないように感じます。外に史家などの具体的な資料があったら誰か補記お願いします。「暴君」に値するどのような行為があったのかが、わからなければ司馬氏の批評だけで暴君とするのはどうかと思います。--ポテンシャル0 2009年6月11日 (木) 16:16 (UTC)
- 『村上水軍全史』(新人物往来社・森本繁著 ISBN 4404035020)によると、村上元吉が海賊禁止令に違反したとして切腹を命じられそうになった際に、小早川景隆と共に戸田勝隆も能島村上氏の助命嘆願に協力したとあり、「小早川隆景に優遇されていた旧領主の西園寺公広を~(そもそもこの優遇していたという論拠も出典は?)」というのが事実であれば小早川氏に属していた能島村上氏の擁護などもしないと思うので、誰か「暴政」の根拠について、いわゆる「司馬史観」以外で詳しい方がおられましたら補記・修正をお願いします。--ポテンシャル0 2009年7月14日 (火) 06:16 (UTC)
- 西園寺公広が謀殺されたとされている時期は、小早川氏が伊予から筑前に移封された後の話で、秀吉の政策といった側面もあるのでしょうね。小早川氏が伊予の在地勢力を優遇したという話は、たしか河野通直(牛福丸)の生涯について研究した論文で言及されていたと思いますし、伊予西園寺氏の処遇についても同様なのかな、とも思います。あと「司馬史観」もそんなに忌避するものでもないと思います。歴史家といっても玉石混淆ですし、少なくとも私やポテンシャル0さんよりは司馬氏の方がずっと詳しいハズですから。--Kangoshiyouichi 2009年7月14日 (火) 14:06 (UTC)(リンク直し--Kangoshiyouichi 2009年7月14日 (火) 16:07 (UTC))
- 勘違いしないで欲しいのですが、私は別に司馬さんの主張を否定しているわけでも、私が暴政者だったとか、そうでないとかを評価しているわけでもありません。確かな根拠・資料があるなら知りたいので補強をお願いします、と述べているだけです。ただの一般人である私やKangoshiyouichiさんより歴史物を扱う仕事を本業としておられる小説家の方が詳しいのは言うまでもなく当然の事ですが、歴史者も玉石混淆だから、小説家の主観でも事実として採用していいのか?という話になります。(なら司馬遼太郎は~と評価しているなどと書き換えるべきです)最初に提案した「具体的に何をもってして彼が暴政をひいた」と特定したのか?の根拠が示されていないわけですから。--ポテンシャル0 2009年7月15日 (水) 04:41 (UTC)
- 最初に提案をしてから、1ヶ月以上これといった追加情報、補記もないようですので、「小早川隆景が西園寺公広を優遇していた」「戸田勝隆が暴政をしいていた」などの具体的根拠が提示されていない該当部分は「西園寺公広を誘殺した」という事実のみに改変したいと思います。個人的にはKangoshiyouichiさんの推論のように秀吉の政策として西園寺氏は滅んだ(滅ぼされた)のだと考えるのが自然ですし、(勝隆が西園寺氏の旧領に新領主として封じらているわけですから)それ以外に具体的な「暴政」の根拠がよくわからないので。--ポテンシャル0 2009年7月23日 (木) 20:06 (UTC)
- 勘違いしないで欲しいのですが、私は別に司馬さんの主張を否定しているわけでも、私が暴政者だったとか、そうでないとかを評価しているわけでもありません。確かな根拠・資料があるなら知りたいので補強をお願いします、と述べているだけです。ただの一般人である私やKangoshiyouichiさんより歴史物を扱う仕事を本業としておられる小説家の方が詳しいのは言うまでもなく当然の事ですが、歴史者も玉石混淆だから、小説家の主観でも事実として採用していいのか?という話になります。(なら司馬遼太郎は~と評価しているなどと書き換えるべきです)最初に提案した「具体的に何をもってして彼が暴政をひいた」と特定したのか?の根拠が示されていないわけですから。--ポテンシャル0 2009年7月15日 (水) 04:41 (UTC)
- 西園寺公広が謀殺されたとされている時期は、小早川氏が伊予から筑前に移封された後の話で、秀吉の政策といった側面もあるのでしょうね。小早川氏が伊予の在地勢力を優遇したという話は、たしか河野通直(牛福丸)の生涯について研究した論文で言及されていたと思いますし、伊予西園寺氏の処遇についても同様なのかな、とも思います。あと「司馬史観」もそんなに忌避するものでもないと思います。歴史家といっても玉石混淆ですし、少なくとも私やポテンシャル0さんよりは司馬氏の方がずっと詳しいハズですから。--Kangoshiyouichi 2009年7月14日 (火) 14:06 (UTC)(リンク直し--Kangoshiyouichi 2009年7月14日 (火) 16:07 (UTC))
『秀吉神話をくつがえす』という本に少しだけ勝隆の「暴政」について言及があったのですが、それによると、どうも土居清良の『清良記』の記述が根拠史料のようです。もう少し調べておきます。--Kangoshiyouichi 2010年1月29日 (金) 15:53 (UTC)