コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ノート:愛洲久忠

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

陰流の節なんですが・・・。

[編集]

「刀の戦闘力」が気になります。抽象的で、刀の切れ味なのか刀さばきなのか、それらを含めた総合力なのか判然としませんし、なによりドラゴンボールな感じがしてしまいます。--ととりん 2006年11月21日 (火) 13:41 (UTC)[返信]

ドラゴンボールか・・・確かにそうですね(笑)。曖昧な記述をして申し訳ありません。正確には「刀を持った戦闘力」とすべきでした。訂正しておきます。--藤原 維新 2006年11月21日 (火) 19:04 (UTC)[返信]

上泉は弟子か?

[編集]

「弟子である」と明言できるほどの書証はなかったと思うんですが。上泉自身、「陰流を修めた」という以上の記述を残してないようですし。そもそも移香斎の伝記自体があまり残ってないのでは? 220.221.249.29 2006年11月30日 (木) 00:10 (UTC)[返信]

愛洲移香斎久忠 影流公式サイトについて

[編集]

愛洲移香斎久忠は今迄勝手な想像や創作に依って様々に仕立てられてきました。 剣祖影流 愛洲移香斎久忠顕彰会の主催する“影流”サイトは唯一公式サイトです。 確かな遣明貿易史料に依って宝徳度の伊勢法楽舎二号船・九号船の発遣以来、伊勢愛洲氏は室町幕府の遣明貿易に携わってきました。愛洲移香斎久忠が北京に赴いたのは第6次遣明貿易で文明15年12月に堺を出港、文明16年日向に寄港、北京には成化20年・11月に着いており、帰国は文明18年7月4日に戻っております。 これ等の事情は顕彰会刊行の「剣祖影流 愛洲移香斎久忠の系譜と伊勢大神宮神領奉行職伊勢愛洲氏の考察」に詳述されています。影流公式サイト--Aisukageryuu 2008年3月6日 (木) 03:23 (UTC)[返信]

本文に上記ホームページが出典と思われる部分があったので編集で明示しましたが、上記の「愛洲移香斎久忠顕彰会」なる団体が外部リンクの選び方信頼できる情報源の条件をクリアしているのか不明です。詳しい方の編集をお願いします。--KurmUmy 2010年6月11日 (金) 11:57 (UTC)[返信]
「剣祖影流愛洲移香斎久忠の系譜と伊勢大神宮神領奉行職伊勢愛洲氏の考察」について調べたところ、この論考は、三重県立図書館、秋田県立図書館、また、伊勢愛洲氏にまつわる伝承の有る市町村図書館、教育委員会に寄贈されているようです。また、この論考の基になった資料閲覧を許可されたと思われる神宮文庫、仏教図書館、東京大学史料編纂所、京都大学図書館、成蹊大学等にも寄贈されており、ひろく研究者に寄与していることは疑いありません。戦後から現在迄、伊勢愛洲氏の研究者は、中世古祥道氏、稲本紀昭氏、橋本菊月斎氏の三名しかおりません。
信頼できる情報源検証可能性についても、三重県立図書館などは愛洲氏の研究書として「剣祖影流愛洲移香斎久忠の系譜と伊勢大神宮神領奉行職伊勢愛洲氏の考察」を資料公開しているようです。また、国立国会図書館のレファレンスにもこの論考は登録公表されて居りますので検証可能性のガイドラインになんら抵触しませんし、むしろ、信頼できる情報源と考えられます。--MIKURIYA30 2010年8月9日 (月) 08:50 (UTC)[返信]
MIKURIYA30様、ありがとうございます。「愛洲移香斎久忠顕彰会」という会の問題であったのですが、近年公開された橋本菊月斎説とみなせば問題ないようですね。--KurmUmy 2010年8月9日 (月) 09:19 (UTC)[返信]

KurmUmyさん、編集ありがとうございます。「剣祖影流愛洲移香斎久忠の系譜と伊勢大神宮神領奉行職伊勢愛洲氏の考察」について、検証可能性に問題はありませんので「独自研究タグ」を外しておきます。ご確認宜しくお願いいたします。--MIKURIYA30 2010年8月31日 (火) 01:45 (UTC)[返信]

記事の編集について

[編集]

三重県の戦国史に興味を持っているMIKURIYA30と申します。KurmUmyさんの編集記事について地元の立場からいささか違和感があり、記事の訂正をさせて頂きます。

出自

[編集]

愛洲久忠とほぼ同じ時代で出自が定まらなかった戦国武将に北条早雲こと伊勢新九郎長氏(盛時とも)がいます。戦前迄は故田中義成博士が早雲の自筆文書である「勝山小笠原文書」を決定的な史料として、伊勢新九郎長氏は「伊勢国関氏」出自説を唱えられ定説となりました。 しかし、戦後藤井駿氏・小和田哲男氏・今谷明氏等が「諸家系図纂」七「北野杜家日記」等の史料を重用し「備中生まれの伊勢新九郎盛時」説が最近の定説として変わって来ました。斯様に北条早雲の出自が伊勢素浪人説・京都伊勢氏説・備中伊勢氏説・其の他2説を含めて5説あることに依り「早雲の出自は不明」とは記述されません。「愛洲久忠」の出自の場合も「伊勢愛洲氏」「熊野愛洲氏」の2説がある、との記述が宜しいのではないでしょうか。

「はっきりしない」は「出自不詳」との意味で使ったのではありません。定説が無いとの意味です。また説を具体化して並べておくことに反対しません。しかし、wikipediaの愛洲氏関連記事の問題なのですが、愛洲氏を「伊勢愛洲氏」「熊野愛洲氏」と分ける出典がまずありません。その上、私が追加した五ヶ所説の出典では愛洲久忠は「愛洲氏」出身とかかれており、「伊勢愛洲氏」「熊野愛洲氏」の見解は愛洲移香斎久忠顕彰会関係以外見えませんでした。2説の分け方が愛洲移香斎久忠顕彰会の視点になる虞があります。現状では「五ヶ所説」と「愛洲移香斎久忠顕彰会」出典の説の表現を変えるべきと思います。--KurmUmy 2010年7月31日 (土) 09:07 (UTC)[返信]

生涯

[編集]

「平澤氏家傳」に依りますと 「第一世久忠傳記 愛洲太郎・左衛門尉・日向守 傳テ曰享徳元年ニ生ス天文七年卒ス年八七法名移香斎云々家傳ニ曰世々伊勢国ニ住ス」と記述されて居り「志摩国」の記述は一切ありません。依って「明らかな誤記」に依り訂正させて頂きます。「志摩国」との表記は珍しく、戦前の武道史家の殆ど(青柳武明翁や現在の「伊勢国五ケ所説」の多くの論者)が「伊勢国五ケ所」と誤記しています。 現在の三重県南伊勢町五ケ所は平成の大合併前迄、三重県度会郡南勢町五ケ所村です。江戸時代徳川御三家であった紀州藩に属する事になり、それまでの「神領」から外され伊勢国度会郡に編入されました。しかし伊勢神宮の記録「内宮儀式帳」には「五ケ所村等熊野灘沿いの村々は志摩国に属す旨の境界」が明示されています。五ケ所城跡の観光案内版と研究論考を同次元で論ぜられるのはいささか乱暴なのでは?ノートにて議論すべきと考えます。基本的な神宮史の欠如による誤謬に依り削除・訂正致します。

御提示の「増補改訂武芸流派大事典」の元と思われる「武芸流派辞典」は昭和38年3月1日人物往来社から編者、綿谷雪、山田忠史として出版されています。「愛洲陰流」の項目で「愛洲移香斎久忠」の記述があります。内容は秋田市の武道史家故青柳武明氏が昭和10年10月号の歴史公論に掲載された「日本剣法の古流陰流と愛洲移香」を抜粋した内容です。御指摘の記述は青柳翁の論考『鵜戸大権現に仕奉り則神主職を蒙り今に至り日向国の杜に存在せり。』を引用されたと思われますが、しかし青柳翁は特に注釈を加えられ『資料である(新陰流外の物謀略巻略解口訣之條々)は素より信ずるに足らないが、ただ最後の則神主社職を蒙り今に至り云々の文句のみは無下に捨て去ることが出来ない。』と、確証がある訳ではない事をワザワザ断っている箇所です。 綿谷雪氏の「愛洲久忠」に関する記述は以上の様に青柳武明翁の論考の抜粋や借用であってとても学説として通用するとは考え難いのでは? 因に、「武芸小伝」で伊勢愛洲氏がこれに従事されたとする「海外での貿易・略奪にかかわる。」等の記述は元禄期松下見林の「武備志」の記述からの「想像」だけだと思われますが?上述の理由に依り上記出典部分の記述を削除致します。--MIKURIYA30 2010年7月31日 (土) 07:03 (UTC)[返信]

「増補改訂武芸流派大事典」の出典を除去には反対します。wikipediaは論文ではありませんので、「増補改訂武芸流派大事典」の内容の真偽などを我々が検証してはいけないのです(独自研究は載せないを参照)。MIKURIYA30さんの論考・推測は正しいのかもしれません。しかしそれはwikipedia執筆者が行うのではなく、研究者が行うことであり、我々が「増補改訂武芸流派大事典」の内容を否定したいなら、「増補改訂武芸流派大事典の記述は間違い(疑わしい)」と書かれた出典に基づかなければなりません。または別見解・新解釈の論文・学術書を別の出典として、文章を書き直すことになります。
あと五ケ所城説を削除してしまったのはなぜですか?城跡の観光案内版と資料館があるのは事実でしょう。案内板は出典とできない理由はありません。設置時の行政・地元の見解です。当然学術書のほうが優先されますが。もしMIKURIYA30さんがよりよい出典をお持ちでしたら変更してください。
あと愛洲移香斎久忠顕彰会はノートで私が指摘した問題があります。五ヶ所説否定の橋本菊月斎 『剣祖影流 愛洲移香斎久忠の系譜と伊勢大神宮神領奉行職 伊勢愛洲氏の考察』は会員の意見の出版の恐れがあり、これまた掲載可能なのか微妙な問題があります(Wikipedia:信頼できる情報源)。
なお「志摩国」は追加した出典のどれかで「秋田市「平沢氏家伝文書」」を出典として書いたはずですが、どれか失念して私の誤記かしれないため、削除に反対しません。あとノート節構造をちょっと変えました--KurmUmy 2010年7月31日 (土) 09:07 (UTC)[返信]
(1)五ケ所説を削除したのは何故か?削除した理由は「志摩国」の表記を詳しく説明しました通り「伊勢国五ケ所」は「基本的神宮史の欠如による誤謬」に依るからで、「志摩国五ケ所」の表記であれば何ら問題はないと思います。
(2)「増補改訂武術流派辞典」の記述を再度掲載される際には、出典の論考である青柳武明翁の「但し書き」(資料である「新陰流外の物謀略巻略解口訣之條々」は素より信ずるに足らないが、ただ最後の則神主社職を蒙り今に至り云々)を挿入させて頂きます。--MIKURIYA30 2010年8月9日 (月) 08:50 (UTC)[返信]
(1)(2)の理由であれば異論ありません。ただし懸念があります。『増補改訂武芸流派大事典』(武芸流派大事典)の記述は"『鵜戸大権現に仕奉り則神主職を蒙り今に至り日向国の杜に存在せり。』を引用されたと思われます"としているので、そのまま「増補改訂武術流派辞典の記述は引用元の青柳武明論文では疑わしいとされる」などと書けません。武芸流派大事典はあまり学術的でない不親切な本で引用を明示せず、wikipediaでは「引用元」と記述できません。引用と書かずほぼ同文などとごまかす必要があります。編集者の推測になってしまいますので。または大事典の内容が青柳論文と大して変わらなければ、青柳論文を出典と置き換え、但し書きを追記すれば全く問題ないでしょう。一般向けより研究論文のほうがよいですし。私は青柳論文を閲覧できる環境に無いのでよくわからないのですが、MIKURIYA30様、置き換えても構わない内容なのでしょうか?--KurmUmy 2010年8月9日 (月) 09:19 (UTC)[返信]

綿谷雪氏は「増補武芸小伝」(1971年)で「秋田の平澤家傳記」を「伊勢愛洲氏の後裔である会津米沢の平沢家伝書云々」と間違って紹介しながら「愛洲久忠」については「伊勢国飯南郡を根拠にした土豪、愛洲氏の出であろうと想像する。」等、他の研究者の論考を行き当たりバッタリ引用する為、収拾がついていません。「鵜戸の神官説」は昭和十年、秋田の「平澤家傳記」が世に出ぬ前に伝承されて来た説の一つと思われます。主に「肥後新陰流四代目上野喜三右衛門の口述書」が論拠になっていると思われます。しかし、この説は、元禄元年、松下見林の「異称日本伝」所載「武備志」を享けている事は間違いなく、只、空想的に発展させた文で論拠がある説ではない事は明白です。柳生厳長翁は「剣道八講」で「愛洲日向守が日向国鵜戸の巌窟で修行したとの説は正統伝書にはなく、予はこれを採らぬ。鹿島大社の末社なる鵜戸権現の神人と断定する。」と、主張され、存在しない神社の神人とされています。御参考までに。--MIKURIYA30 2010年8月26日 (木) 02:01 (UTC)[返信]

置き換えができないようなので、『武芸流派大事典』説(綿谷雪の説か)を復帰させ、MIKURIYA30さんご指摘の青柳武明氏、柳生厳長氏の見解を加筆しておきました。橋本氏あたりが久忠の研究史を概観した論文を書き、そこで武芸流派大事典の問題点でも指摘してくれればあっさり否定できて楽なんですが。また何かあったら加筆修正お願いします。--KurmUmy 2010年8月27日 (金) 12:33 (UTC)[返信]