ノート:性善説と性悪説
このページは、統合提案を経て性善説、性悪説、人性論から統合されています。統合に関する議論は、ノート:性善説と性悪説#統合提案をご覧ください。 |
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インターネット関連の記事で、“性善説”を挙げた幾つかの記事がある関係上で、便宜的に記事書きましたが、だいぶ主観入ってます…儒教思想に詳しい識者の忌憚無い訂正を待つ。--夜飛 2004年7月8日 (木) 17:04 (UTC)
詳しいわけではありませんが、いまの定義や内容ではまずい感じがします。性善説は人が善き方向に成長しうる可能性を本性上持つことを主張している学説で、孟子は人間本性が善であることの証左として四端の心を挙げます。
性善説や性悪説を儒教が唱えなくてはならないのは、なぜ人は儒教道徳に従って生き、徳を身につけねばならないのか、という問いに答え、儒教道徳を実践せねばならない理由を儒教的に基礎づけねばならないからです。性善説を採れば、人は君子になる素質(四端の心)を誰でも持っているのだから、悪い方向に捻じ曲がらないように修養によってこの素質を伸ばして(拡充して)徳にまで高めねばならない、ということになります(反対に性悪説は、人は素質においては捻じ曲がっているのだから儒教道徳によってこれを矯めなければならないと考えます)。本性が善であると言っているわけで、現実の人間が日常的に善き行為をし続けると言ってるのではないのです。
というわけで、先天的に人が善き行為をなすという今の性善説の定義のままでは、人は訓練しなくたって善き行為ができるわけだから、その論理に従うと儒教なんて必要なくなるのでまずいと思います。儒者はそんな自己論駁的な学説は採用しないでしょう。性善説を採用するからといって人が日常的には悪いことをするという事実を儒教は無視することはありません。性善説の眼目は儒教的な修養が決して無意味でないことを主張するところにあるわけです(性悪説に寄せられるような「人が本性上悪いのだったら修養なんて無意味じゃないか」という批判を受けることもありません)。---Setomanko 2004年7月16日 (金) 03:02 (UTC)
統合提案
[編集]本題の前に、現状を整理します。
- 「性善説」「性悪説」「人性論」いずれもほぼ無出典、スタブ。
- 他言語版は、「性善説」と「性悪説」双方に中国語・韓国語・シンプルイングリッシュの3言語版がある(wikidata:Q11072717、wikidata:Q11072720)。「人性論」は「zh:人性論」があるがwikidataで繋がっておらず、英語版で繋がりそうな「en:Human nature」は「本性」「zh:人性」と既に繋がっている。ちなみに中国語版は「zh:性善論」「zh:性本善論」「zh:人性向善論」が分立している。
以下本題です。性悪説と人性論を性善説へ統合後「性善説と性悪説」に改名(新設統合)。以上を提案します。特に反対意見がなければ一週間後に実行します。
実行後すぐ、出典付きで全面改稿(下書きはこちら)、「人性論」のリダイレクト先を「本性」に変更、「性 (儒教)」のリダイレクト先を現在の「人性論」から「性善説と性悪説」に変更、現在赤リンクの「性三品説」を「性善説と性悪説」へのリダイレクトとして立項、以上を行う予定です。--Vetalapancavimsatika(会話) 2023年5月13日 (土) 17:49 (UTC)
済 統合しました。--Vetalapancavimsatika(会話) 2023年5月19日 (金) 19:28 (UTC)