ノート:忠州の戦い
ここは記事「忠州の戦い」の改善を目的とした議論用ノートページです。 |
出典検索?: "忠州の戦い" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · ジャパンサーチ · dlib.jp · ウィキペディア図書館 |
211.208.16.71氏による投稿
[編集]Untitled
[編集]linkを完璧に記録しました。--以上の署名のないコメントは、211.208.16.71(会話/Whois)さんが 2015年7月25日 (土) 19:17 (UTC) に投稿したものです(Quark Logo(会話)による付記)。
このように書き入れるのが正当だ
[編集]『象村集』 申砬 都中武士材官。幷抄三醫司閑良人能射者皆屬 (不明) [6]
傍邑兵 (不明) [7][8]
4月 26日 忠州 兵纔數千人 (数千)[9][10] 丹月驛 先鋒 李鎰(不明)[11][12]
このように書き入れるのが正当だ
なぜあなたは【『宣祖修正實録』と『象村集』によると、京城を離れ、忠州に行く道に申砬は旁邑兵8,000を収めて急いで忠州に行く。について、眞實を書くのを 防ぐのか?
[編集]なぜあなたは【『宣祖修正實録』と『象村集』によると、京城を離れ、忠州に行く道に申砬は旁邑兵8,000を収めて急いで忠州に行く。について、眞實を書くのを 防ぐのか?
watch this ..!!!。
[編集]watch this ..!!!。
[編集]報告 ここにあったコメントは除去しました。--Infinite0694(会話) 2015年7月25日 (土) 13:46 (UTC)
- 결국 뭐가 말하고 싶습니까?--hyolee2/H.L.LEE 2015年7月25日 (土) 11:53 (UTC)
no no no ..!!!。
[編集]令朝官各出戰馬一匹助之行, 收旁邑兵, 僅八千人。 -宣修 26卷, 25年(1592 壬辰 / 萬曆 20年) 4月 14日(癸卯) 6
又以申砬爲都巡邊使。益發都中武士材官。幷抄三醫司閑良人072_256c能射者皆屬焉。令朝官各出戰馬一匹以助之。發武庫軍器以資之。時徵諸道兵未至。砬驟往。只將傍邑兵。四月二十六日至忠州。- 象村集 第56券 志 諸將士難初陷敗志
砬至忠州, 忠淸道郡縣兵來會者八千餘人-懲毖錄
申砬は京城から抜け出した後から急いで傍邑兵8000万連れて早く忠州に急に下がります。 忠州に到着すると、忠淸道郡縣兵8000が
忠州に到着します。
- 引用の大量添付は困りものですが、出典に準拠しようという意思はありそうなので悪意はないんだろうけれど、そんなことをしているとグローバルブロックになるのでは? 日本語ができないとなると、意思疎通に問題があるので困りますね。
- 複数の史料を総合することが、よくないということはわかりますか? わかってませんよね。一つの真実が書かれているわけではなくて、史料はそれぞれの視点で、それぞれの説が書かれているので、それを総合すると、独自研究といわれますよ。そして何度も言うように、コピペしないでください。--Quark Logo(会話) 2015年7月25日 (土) 10:38 (UTC)
- 바른 역사를 공부합시다.--hyolee2/H.L.LEE 2015年7月25日 (土) 10:43 (UTC)
linkを完璧に記録しました。
[編集]linkを完璧に記録しました。--以上の署名のないコメントは、211.208.16.71(会話/Whois)さんが 2015年7月25日 (土) 19:18 (UTC) に投稿したものです(Quark Logo(会話)による付記)。
- 日本語わかりませんよね? 機械翻訳ですか? 日本語で会話ができないのであれば、半保護依頼ということになりますが。--Quark Logo(会話) 2015年7月25日 (土) 10:21 (UTC)
- 韓国語版で編集合戦[1]をして流れてきた人ですか。・・・韓国語版で議論を続けてください。--Quark Logo(会話) 2015年7月25日 (土) 10:29 (UTC)
旁邑兵 is not 忠州牧使 李宗長 忠清道 忠州 鎭管 屬邑軍
[編集]look this link http://min.us/i/Ygb6iWysseLy
旁邑兵(旁邑=京畿縣)(京畿道 鎭管 屬邑軍) 8,000
"按京都所治爲赤縣。旁邑爲畿縣"-三峯集 第10券 經濟文鑑 下 縣令 http://db.itkc.or.kr/index.jsp?bizName=MK
臺諫啓請: “宜使大臣爲體察使, 檢督諸將。” 李山海請遣柳成龍, 從之。 金應南爲副使。 成龍問策於申砬, 砬曰: “李鎰以孤軍南下, 而無後繼。 體察使雖下去, 非戰將, 宜使武將星馳先往, 爲鎰後繼。” 成龍乃與應南請對, 請先遣申砬。 上召問砬, 砬亦不辭, 遂以爲都巡邊使。 成龍卽以所募壯士八千人, 屬砬行。 將發, 上引見砬, 賜寶劍曰: “李鎰以下不用命者, 皆斬之。” 時, 上以金汝岉才勇可惜, 命於防禦緊要處定配, 立功自效。 汝岉出獄, 成龍召與計事大奇之, 啓曰: “臣今始見汝岉論兵事, 不但武勇、才略過人, 請置幕中, 資其籌策。” 上許之。 砬又請: “臣曾鎭西路, 知汝岉非但才勇, 乃忠義之士。 請付臣先行。” 上又從之。 砬所將, 都中武士、材官, 竝外司庶流、閑良人能射者數千人。 令朝官各出戰馬一匹助之行, '收旁邑兵, 僅八千人。' -宣修 26卷, 25年(1592 壬辰 / 萬曆 20年) 4月 14日(癸卯) 6
又以申砬爲都巡邊使。益發都中武士材官。幷抄三醫司閑良人072_256c能射者皆屬焉。令朝官各出戰馬一匹以助之。發武庫軍器以資之。時徵諸道兵未至。砬驟往。只將傍邑兵。四月二十六日至忠州。- 象村集 第56券 志 諸將士難初陷敗志 http://db.itkc.or.kr/index.jsp?bizName=MK
'旁邑兵'8000は申砬が忠州に到着(4.26)する前前に収めた(收)軍兵です。 そして'旁邑兵'で旁邑'は京畿縣つまり京畿道を意味します。 旁邑兵=京畿道鎭管屬邑軍です。--以上の署名のないコメントは、211.208.16.71(会話/Whois)さんが 2015年7月25日 (土) 15:34 (UTC) に投稿したものです(Quark Logo(会話)による付記)。
- どこの邑から来ていて、何の兵なのかまで読み取れませんが、少なくとも宣祖修正實録には、柳成龍が募兵した八千と、申砬の数千と、邑兵の僅八千人、李鎰の六千の四つしかでてきません。あなたの編集だと、別の資料からの兵士を足してます。これは史料の合成であり、書き方が間違いです。そうやって足していったら、だんだん大きくなるのは当たり前です。
- ほかの史料を見比べて、邑兵と郡県兵はともに同じものをさしていると思います。どの道からの兵は別にして。八千を二つではなく、一つだと思います。『象村集』に未だ至らずとあるし、漢城からわずかですが忠清道の中も通って忠州に来てるわけで、どっちか明言してないので道中で拾った兵士ということなんでしょう。宣祖修正實録は忠州での兵士は書いてないので、これは二倍にすべきではありません。
- いずれにしても別の資料と足し算するとおかしなことになりますから、書くなら異説として、史料ごとの兵数を別々に書くべきです。--Quark Logo(会話) 2015年7月25日 (土) 09:09 (UTC)
李鎰の部隊 (丹月驛傍 先鋒) 4000兵+ 壯士 2000人( 合兵 6000人 )
[編集]please look this link => http://min.us/i/bnwG3ZAPVBzYP
李鎰の部隊 (丹月驛傍 先鋒) 4000兵+ 壯士 2000人( 合兵 6000人 ) (除外 尙州之戰 尙州邑民軍 1000(數百+數百) 戰死 ( 完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ 『暴君』秀吉の野望」 ), 精銳兵 300 首級 (-[懲毖錄],『西征日記』)
巡邊使李鎰之出師。只率軍官及射手六十餘人。行收兵得四千餘人。......。陣於丹月驛傍岸。遇李鎰。以鎰爲先鋒。-象村集 諸將士難初陷敗志
李鎰率壯騎軍官六十餘人行, 收兵得四千餘人, 促程馳赴 -宣修 26卷, 25年(1592 壬辰 / 萬曆 20年) 4月 14日(癸卯) 3
吉願自出招集, 乃達夜搜索村落間, 得數百人, 皆農民也。 鎰又發倉廩, 誘募散民, 得數百人, 倉卒徧伍, 合兵僅六千餘人- 宣修 26卷, 25年(1592 壬辰 / 萬曆 20年) 4月 14日(癸卯) 8
變初, 嶺南之人, 顒望王師, 有如失母之赤子, 列郡之卒, 無所統屬, 及李鎰來到尙州, 發倉粟而饗士, 出誠言而曉諭, 一日之間, 得壯士三千人。- 宣祖 65卷, 28年(1595 乙未 / 萬曆 23年) 7月 24日(乙未) 1
please look this link => http://min.us/i/bnwG3ZAPVBzYP
得壯士三千人 = 2000 壯士(=宣祖 65卷, 28年(1595 乙未 / 萬曆 23年) 7月 24日(乙未) 1) + 900(=尙州民軍 + 京精兵 300=[懲毖錄] )--以上の署名のないコメントは、211.208.16.71(会話/Whois)さんが 2015年7月25日 (土) 15:34 (UTC) に投稿したものです(Quark Logo(会話)による付記)。
- 李鎰の兵士が最終的に6000になることは日本語で書いていました。繰り返しですが、日本語が読めないなら編集はお控えください。--Quark Logo(会話) 2015年7月25日 (土) 09:09 (UTC)
- あと、邊璣の兵数のところは大量の漢文で全体の意味がわかりかねるので、日本語で説明をお願いします。西厓集の数字はこのときにこんなに鳥嶺にいたんですか? 日本軍の一番隊と二番隊の両方と戦えそうな数ですよ。これが戦わずに撤退して、大敗したということなら、死傷者も大量にあったはずですが。参加人数だけではなく書いて被害についての記述はありませんか?話の整合性がとれないような・・・。--Quark Logo(会話) 2015年7月25日 (土) 09:21 (UTC)
211.208.16.71氏へ
[編集]IP:211.208.16.71(会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois)さん、まず第一声として、日本語はわかりますか? 韓国のIPユーザーのようですが、韓国語版や中国語版に書いたらどうですか? 漢文とはいえ、大量の中国語の文章を書かれても、読める日本人はほとんどいません。あまりに度が過ぎるのではないでしょうか?引用は最小限にとどめてください。有用性がよくわからないところは削除しています。できれば、日本語で訳文をつけて投稿してください。基本的に日本語版のウィキペディアは日本語で書かなければなりません。中国語で書きたければ中国語版に、韓国語で書きたければ、韓国語版に行ったらどうですか?
- 次に韓国語古典総合データベースのリンクアドレスが間違ってます。個別のページにリンクしてください。該当の部分を探す必要があるようなリンクはおかしいです。リンクのていをなしてません。「072_256c」のような記述をみると、同サイトから明らかにコピペをしているようですが、それはブロック相当に違反行為です。版削除にしなければならないのでやめてください。削除依頼が出た場合はあなたの投稿以前の段階に戻ることになります。
- さらにですが、漢文と英語だけでは、百科事典としての説明文にならないので、長いものには日本語で訳文をつけてください。少なくとも概要を日本語で書く必要があると思います。でないと、誰にも通じません。我々日本人は漢文学者ではないのです。またほかの部分の日本語の説明と、あなたの編集には重複しているものがあります。ということで、最低限わかる範囲だろうということで、下記の指摘は参考にして一部訂正して、過去版に戻させてもらいます。--Quark Logo(会話) 2015年7月25日 (土) 09:09 (UTC)
朝鮮軍は大軍だった
[編集]朝鮮側兵力数「80,000人」にどうしてもこだわっている方・・
『フロイス日本史』は確かに重要な史料ですが、全ての数字においてまで全幅の信頼をおけるわけではありません。 こだわるのなら少なくとも他の一次資料も提示するべきでしょう。参考に挙げた『日本戦史』は現代に一般刊行された書籍ですが、帝国陸軍の戦史研究によって考証された、ある意味公的機関が関わった資料ではあります。
この時期に8万の兵力があったら朝鮮ももうちょいとどうにかなったでしょうに。日本軍の初期の快進撃は相手側の準備不足もあるわけですから(日本軍が強いのは当然として)。 --Nagamati 2011年11月8日 (火) 11:48 (UTC)
- 善意で解釈すると、史料に忠実に書きたいのでしょう。ただ史料を合成されておられるので、逆に忠実ではなくなっているところが残念です。--Quark Logo(会話) 2015年7月25日 (土) 09:09 (UTC)
「十萬精兵, 一敗塗地」ということ
[編集]變初, 以申砬爲都巡察使, 領大軍, 禦賊于鳥嶺。 砬不爲據險把截之計, 迎入於平原廣野, 左右彌滿, 曾未交鋒, 而十萬精兵, 一敗塗地。 遂使京城不守, 乘輿播越, 痛哉 — 宣祖実録
利用者:Exmkt(会話 / 投稿記録 / 記録)さん、出典は上記のものですね。まず脚注の出典11をご覧ください。すでに掲載されていることがわかると思います。だから同じ文章を書き足す編集は必要ありません。
次に内容ですが、「精兵十万が一敗地に塗れ」とあります。つまり口語すると”10万人の精鋭部隊が大敗した”という意味で、犠牲者が何人かとか死者が何人かとかは、全くわかりません。その後くだりで、京城を守ることができなくなったとかありますが、常識で考えれば、10万人の人間が消えてしまったとも思えないし、逃亡したにしてもいずれにしても出典に記述がないので、不明というだけです。だから被害にところに書くのは不適切です。だいたいからして十萬=大軍の意味っぽい上に、余りに大雑把。十万が逃亡したとか、死んだとか、そういう内容ではないのは明らかでしょう。負けたという表現のみです。--Quark Logo(会話) 2015年8月17日 (月) 01:58 (UTC)
では「10万の軍の壊滅」とします。重要な文献の資料ですし載せてもおかしくはないでしょう。
"だいたいからして十萬=大軍の意味っぽい上に、余りに大雑把。十万が逃亡したとか、死んだとか、そういう内容ではないのは明らかでしょう。"
それはあなたの個人的意見ですよね?
Exmkt(会話) 2015年8月17日 (月) 09:18 (UTC)
- どこに「壊滅」とありますか? 日本語はわかりますか?--Quark Logo(会話) 2015年8月17日 (月) 13:11 (UTC)
- 一敗塗地 意味をご覧ください。完敗と壊滅は全く意味が違います。
- またrefのname属性はわかりますか? 同じ文章を書く必要が無いことを理解してませんよね。--Quark Logo(会話) 2015年8月17日 (月) 13:15 (UTC)
- 「重要な文献の資料ですし載せてもおかしくはないでしょう」とのことですが、すでに載ってると言っているのです。敗北の件もわかっておりますから、被害についての項目に書くのは間違いなので訂正されせてもらいます。--Quark Logo(会話) 2015年8月17日 (月) 13:20 (UTC)
"一敗塗地 意味
再び立ち上がることができないほど大敗すること。完敗すること。▽「塗地」は肝脳を地に塗る、すなわち惨殺され、戦死者の肝臓や脳などが大地に散乱して、泥まみれになること。一般に「一敗いっぱい、地ちに塗まみる」と訓読を用いる。"
壊滅で問題ないと思いますが。 Exmkt(会話) 2015年8月18日 (火) 01:54 (UTC)
例えば元寇のページですが、
"総損害 日本人195人戦死、下郎は数を知らず"
という非常に曖昧な説明があります。それに比べれば、10万の軍の壊滅、もしくは大敗、という文を 損害の項目に書くことがそれほどおかしいと思いません。 Exmkt(会話) 2015年8月18日 (火) 02:14 (UTC)
- 利用者:Exmkt(会話 / 投稿記録 / 記録)さん慣用句ですよ。慣用句。史記にでてくる有名な慣用句の意味にいちゃもんつけるって、何です? それが独自研究というのです。コメント依頼をしないとダメですか?
- 百歩譲って、壊滅だとしても、被害はなんぼですか? 何人死んだんだと聞いております。「総損害、日本人195人戦死、下郎は数を知らず"」は、日本人195人と下郎が多数という被害があったと書いてある。書いてありますねよ。読んで字のごとくです。曖昧でも書いてある。
- 變初, 以申砬爲都巡察使, 領大軍, 禦賊于鳥嶺。 砬不爲據險把截之計, 迎入於平原廣野, 左右彌滿, 曾未交鋒, 而十萬精兵, 一敗塗地。 遂使京城不守, 乘輿播越, 痛哉のどこに被害が書いてあるわけすか? 書いてないわけですよ。よしんば、出典に「数知れず」とでも書いてあれば、損害のところに数知れず書くわけですよ。わかりますかね?
- 被害についての言及がない。これに尽きます。曖昧どころじゃない。言及なしをどう書けと? 被害の人数を書こうとしてます。そもそも壊滅したなんてわかってます。本文に書いてますから、そんなの百も承知。被害の人数が問題になってる。全然、Battleboxの項目の意図をわかってませんよね。casualtiesに言及してくださいよ。せめて。でないと、話にならないんです。
- 「10万の軍が、惨殺され、戦死者の肝臓や脳などが大地に散乱して、泥まみれになる」と書いてますが、それが完全な独自研究ですね。どこに惨殺されたと書いてあります? 戦死者の肝臓や脳などが大地に散乱とか言ってますが、慣用句として使われているので、そういう原義で使われません。史記の故事の表現から転じて成句が生まれたのですよ。常識でわかりますよね? ふざけてますか? 荒らしですか? そもそも慣用句ってわかってますか? 単に完敗した、激しく負けたという意味しかない。常識ですが。
- そしてですが、さらに二百歩譲っても、10万の軍のうち「何人が」惨殺されたかが問題だと言っているのであって、そこの言及がないから書けないということを、そろそろわかってください。自分の文章でも何人なくなったか示せないっておかしいでしょ。次はコメント依頼をします。 --Quark Logo(会話) 2015年8月18日 (火) 03:10 (UTC)
別ソースで文章を変えました。 生存者3名 宣祖修正實錄 二十五年(1592年)、 二十五年 四月、 宣祖修正 25年 4月 14日 http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wnb_12504014_016&tabid=w&mTree=0&inResult=0&indextype=1
"砬不知所爲, 直鞭馬進向州城, 軍不成列, 稍稍散匿。 城中賊發角三聲, 一時出擊, 砬衆大潰, 而賊已四圍, 砬還趨結陣處, 人爭投水, 流屍蔽江。 砬與汝岉馳射殺賊數十人後, 皆赴水死。 砬有姊子從行欲走免, 砬怒曰: “汝何生爲?” 捽頭同溺焉。 壯士脫免者數三人。" </ref> Exmkt(会話) 2015年8月18日 (火) 06:34 (UTC)
元が同じ資料なので、10万人のうち生存者3名、でも問題ないと思うので、さらに文を変えます。 Exmkt(会話) 2015年8月18日 (火) 07:06 (UTC)
- casualtiesの項目の意図を理解されたことは評価します。しかしその史料で、壮士は三千人と出てくるので、三千人のうち生存者三名です。--Quark Logo(会話) 2015年8月18日 (火) 21:37 (UTC)
- 李鎰など将官、軍官も生き残ってるので、生存者三名では話がおかしい。壯士脫免者數三人なんだから、壮士の中の逃れたものが三名ということ。で、その前に壮士八千を柳が集めた話があるので、八千のうちの三人が脱出者つうことなんだろう。--Quark Logo(会話) 2015年8月19日 (水) 13:31 (UTC)
壮士の意味 "http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/128584/m0u/ 壮年の男性。意気盛んな男性。" ですし、"宣修26卷,25年(1592壬辰/萬曆20年)4月14日(癸卯)"においての壮士がどの兵を指すかも不明です。 Exmkt(会話) 2015年8月20日 (木) 02:44 (UTC)
- あのですね。何度も言いますが、出典に書いてあるようにしか、基本的にかけない。壯士脫免者數三人とあれば、壮士で抜け出して免れたものが三人というだけ。主語を無視することはできません。何か分からないからそこを抜かして後を書く・・・ていうようなことは許されません。つうかあり得ない。明らかに意味が変わるので。独自解釈傾向をなんとかしてください。秒殺で、この文章のなかでも李鎰がいるから、4人以上は確実じゃないかとツッコミの入るようなものはかけません。
- 次に及倭寇卒至, 朝廷遣巡邊使申砬禦之, 砬到忠州敗軍, 全軍更沒於月落灘。 所謂岳卽維缶降申也, 聳立也, 雲根石也。 潭空月影, 卽月落灘溺死之言也。 其下句, 卽都民避亂, 倭寇入城之言也。は、なんか難しいことを書いてあるわけですが、利用者:Exmkt(会話 / 投稿記録 / 記録)氏の口語訳を聞かせてください。というのも、わかるところだけ訳して、独自解釈をしてませんよね? 共通の理解に達しているか、不安です。--Quark Logo(会話) 2015年8月21日 (金) 00:28 (UTC)