ノート:忌部氏
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房総の開拓節について
[編集]「忌部氏#房総の開拓」節についてですが、出典に書かれていない「編集者自身の思い込み」が多分に盛り込まれているようです。例えば忌部氏による奈良時代の造作説について、「日本書紀に対して古語拾遺の史料価値がないから」という文末の『国史大辞典』には無い記述が付加されています。この説の原典にあたっていないのでわかりませんが、この説の論拠はそのような史料価値のみを問題としているのでしょうか。例えば、現実的に文献上で安房国の人物(国司・郡司など)として忌部氏の存在が見えない、ということなどもあるのではないでしょうか。また『日本書紀』の史料価値批判として飛鳥京の木簡が出されていますが、この木簡出土によって潤色が明らかになったのは郡評表記および大化の改新の詔に関してであり、今回の忌部氏の東遷伝承のような日本書紀全体に関する史料価値批判として引き合いに出すのは不適当ではないでしょうか。あと出典の『藤原京 -よみがえる日本最初の都城-』のほか『千葉県の地名』(平凡社)安房郡項では、この木簡は「上捄国」ではなく「上挟国」として紹介されています。「橘樹神社 (茂原市)」の時にも「編集者自身の思い込み」が付加されたことがありましたが、こういったことは「独自研究」に相当するので特に留意すべきと思いますが、いかがでしょうか。--Saigen Jiro(会話) 2015年10月29日 (木) 22:20 (UTC)
- Saigen Jiroさんがそうおっしゃるのであれば、あえて反対はしませんが、私の書き込みは情報としてとらえ、要出典のタグをはるのではなく、適切な表現に改めていただきたいと思います。なお、『古語拾遺』の記述を伝承とするのは、納得できないことも申し添えます。--106.167.179.12 2015年10月29日 (木) 22:34 (UTC)
- 問題を理解して頂けていないようですが、「最初の段階で出典に基づいて情報を出して下さい」と申しております。要出典タグを張ったのは「貴方様に出典を出して頂くよう促す」ためです。貴方様でなければ、また貴方様が一定期間経っても出典を示されなければ削除するところです。また、論拠の出典も分からないのに改められるはずがありません。編集者の独自研究など「無い方がまし」とご理解下さい。これはWikipedia全体の信用性にも関わる問題ですから、その責任はIPユーザであろうがログインユーザであろうが同じです。
- 出典を提示されましたが、「日本書紀に対して古語拾遺の史料価値がないから忌部氏東遷説は奈良時代の造作である」という「説の論拠」は『日本古代史地名事典』の「上総国」に出典として掲載されていると理解してよろしいですね? あと、『藤原京 -よみがえる日本最初の都城-』には「上挟国」と記載されている点、および千葉県教育委員会のホームページの記述から「『古語拾遺』の記述の信憑性が再評価された」という文章を導くのは不適当と思われる点について、お考えをお聞かせ下さい。--Saigen Jiro(会話) 2015年10月29日 (木) 22:51 (UTC)
- あと、『国史大辞典』(1979年-1997年)の記述は、当該木簡の出土(1967年)の後に編纂されたものであり過去形は不適当であることを申し添えておきます。「多面的な検討」辺りの私の記述ミスに関しては失礼しました。--Saigen Jiro(会話) 2015年10月29日 (木) 22:57 (UTC)
- そうおっしゃるのであれば反対はいたしません。また、私は追加した出典にたいして実際にあたってみたわけでもありません。総国#史料の再評価にそう書いてあったということだけですので、それらを勘案して編集いただき、よい記事にしていただきたいと思います。なお、『国史大辞典』(1979年-1997年)の記述は、当該木簡の出土(1967年)の後に編纂されたものであるから、このことが反映されれているはずだというのは、思い込みです。--106.167.179.12 2015年10月29日 (木) 23:16 (UTC)
- 「出典にたいして実際にあたってみたわけでもない」ということで記述の信用性が喪失してしまい、私からも「貴方様が出典を示されなければ削除する」とすでに申しており、貴方様からも「よい記事に」ということですので、当該記述は一旦差し戻させていただきます。本文の編集でも申しましたが、今回のように編集者自身の考えが入ることが多分にあるため、出典のないWikipediaの他記事を出典として使用するのはお控え願います。こういった「既存の独自研究による記述」の修正は、「今まさになされた独自研究による記述」の修正よりもはるかに労力が必要ですので、とても手が及びません。
- あと『国史大辞典』に関しては、私は「過去形は不適当だ」と申したに過ぎません。そのため、私は「~という説がある。一方~という説もある」と同列に改めようとしましたが、その方が穏当でしょう。「反映されていない」ことを前提とした過去形の記述もまた思い込みであることを申し添えておきます。それでは、これにて失礼いたします。--Saigen Jiro(会話) 2015年10月29日 (木) 23:39 (UTC)
- (追記) 「橘樹神社 (茂原市)」の時と同様に「反対はしない」ということで、依然として「理解・納得した」のではないようですね。同じことの繰り返しを避ける意味でも、次の編集に取り組む前に、(IPユーザ・ログインユーザ問わず)Wikipediaで編集活動を行う上での基本ルール全般、特に独自研究は載せないと出典を明記するを読んで理解なさるよう、切にお願い申し上げます。--Saigen Jiro(会話) 2015年10月30日 (金) 01:02 (UTC)
- たびたびすいません。うるさいかも知れませんが、今度の編集について若干説明します。仰られているように、『藤原京 -よみがえる日本最初の都城-』には、「捄」でなく「挟」と記載されているとのこと、確認しました。つまり、この本の書かれた2003年には、「捄」とする説はなかったということだろうと思われます。また『日本古代史地名事典』「上総国」の項にも、『古語拾遺』に良い麻のできる「総の国」を二分して上総・下総ができたというが、これは伝承にすぎない。藤原宮出土木簡に「己亥年十月上挟国阿波評松里」(己亥年は文武三年、西暦699年)とみえることから推察してこの少し前の天武朝頃に上総と下総に分割されたのであろう。となっており、この本は2007年の出版ですから、千葉県史料研究財団・編『千葉県の歴史 通史編 古代2』(千葉県、2001年)(これは図書館に無いので確認できませんでした)の「捄」説が浸透するにはかなりの時間がかかり、『国史大辞典』(1979年-1997年)に反映されているとは到底考えられません。そうでなくとも『国史大辞典』のようなものはそう簡単には改定できませんので、新しい情報が反映されているとは限らないということはご理解いただけると思います。私とは違ってSaigen Jiroさんにはそれなりのスキルがあるはずですから、単に削除するような後ろ向きの編集ではなく、根拠を探していただいて良い記事にすることに力を割かれることを期待しています。我ながらしつこすぎるという気もしないでもありませんが、この編集にこだわるわけではなく、これを元に良い記事にしてもらいたいということです。単なる情報の削除では、良い記事にはならないと考えます。--106.167.179.12 2015年10月30日 (金) 06:44 (UTC)
- 1点目に、すみませんが「出典を明記する」はWikipediaのルールですから、出典は確かでないが削除しないで、という「自分ルール」の押し付けはやめて下さい。
- 2点目に、中身も見ず出典を提示されたことは了解しましたし、文献調査には感謝しますが、そもそも「上捄国」説が正しくて「上挟国」説は間違いに至っている、という前提に根拠はあるのですか。
- 3点目に、崎元正教氏は歴史学者ではないですよね。その方の主張が前面に押し出されることは、記事の信頼性からいってかなり抵抗感があります。
- 4点目に、先も言いましたが、千葉県教育委員会のホームページの記述から「『古語拾遺』は伝承でない」という文章を導くのは不適当と考えます。曲解です。私の方でも暇な時に調べてみます。--Saigen Jiro(会話) 2015年10月30日 (金) 07:31 (UTC)
- 私のつたない主張をご理解いただき感謝しております。良い記事にしていただきたいというのが私の願いなので、取り敢えず最後の編集は情報ということで差し戻します。そのうち暇ができましたら編集して良い記事にしていただきたいと思います。その際できれば私の主張も考慮したいただけるようお願いします。どうもありがとうございました。--106.167.179.12 2015年10月30日 (金) 09:14 (UTC)
- ご理解して頂けたことに心からの感謝を申し上げます。急がず慎重なのは良いことだと思います。とりあえず調べたところ、木簡学会編『木簡から古代がみえる(岩波新書1256)』(2010年)p. 16では「上挟国」、『飛鳥の木簡 -古代史の新たな解明-(中公新書2168)』(2012年)p. 50では「上捄国」となっていますが、どちらが正しいか記載されていませんね。--Saigen Jiro(会話) 2015年10月30日 (金) 09:44 (UTC)
- 私のつたない主張をご理解いただき感謝しております。良い記事にしていただきたいというのが私の願いなので、取り敢えず最後の編集は情報ということで差し戻します。そのうち暇ができましたら編集して良い記事にしていただきたいと思います。その際できれば私の主張も考慮したいただけるようお願いします。どうもありがとうございました。--106.167.179.12 2015年10月30日 (金) 09:14 (UTC)
- たびたびすいません。うるさいかも知れませんが、今度の編集について若干説明します。仰られているように、『藤原京 -よみがえる日本最初の都城-』には、「捄」でなく「挟」と記載されているとのこと、確認しました。つまり、この本の書かれた2003年には、「捄」とする説はなかったということだろうと思われます。また『日本古代史地名事典』「上総国」の項にも、『古語拾遺』に良い麻のできる「総の国」を二分して上総・下総ができたというが、これは伝承にすぎない。藤原宮出土木簡に「己亥年十月上挟国阿波評松里」(己亥年は文武三年、西暦699年)とみえることから推察してこの少し前の天武朝頃に上総と下総に分割されたのであろう。となっており、この本は2007年の出版ですから、千葉県史料研究財団・編『千葉県の歴史 通史編 古代2』(千葉県、2001年)(これは図書館に無いので確認できませんでした)の「捄」説が浸透するにはかなりの時間がかかり、『国史大辞典』(1979年-1997年)に反映されているとは到底考えられません。そうでなくとも『国史大辞典』のようなものはそう簡単には改定できませんので、新しい情報が反映されているとは限らないということはご理解いただけると思います。私とは違ってSaigen Jiroさんにはそれなりのスキルがあるはずですから、単に削除するような後ろ向きの編集ではなく、根拠を探していただいて良い記事にすることに力を割かれることを期待しています。我ながらしつこすぎるという気もしないでもありませんが、この編集にこだわるわけではなく、これを元に良い記事にしてもらいたいということです。単なる情報の削除では、良い記事にはならないと考えます。--106.167.179.12 2015年10月30日 (金) 06:44 (UTC)
- そうおっしゃるのであれば反対はいたしません。また、私は追加した出典にたいして実際にあたってみたわけでもありません。総国#史料の再評価にそう書いてあったということだけですので、それらを勘案して編集いただき、よい記事にしていただきたいと思います。なお、『国史大辞典』(1979年-1997年)の記述は、当該木簡の出土(1967年)の後に編纂されたものであるから、このことが反映されれているはずだというのは、思い込みです。--106.167.179.12 2015年10月29日 (木) 23:16 (UTC)