ノート:徳川家康三方ヶ原戦役画像
この「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、下記のような選考・審査を経て良質な記事に選出されています。さらなる加筆と改善によって、秀逸な記事となるような編集を歓迎します。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2016年9月11日 | 良質な記事の選考 | 通過 |
2. | 2016年10月28日 | 良質な記事の再選考 | 維持 |
観点に関する問題の指摘
[編集]この記事には、原(2016)の研究を推奨しすぎている、という問題と、原(2061)の研究内容を正確に記していない、という問題点があると思います。
冒頭の概要文で、「しかし、2015年(平成27年)8月18日に発表された原史彦(徳川美術館学芸員)の調査により[3]、(…)が明らかにされた[1](後述)。」として、
- 同像はそもそも、徳川治行(第9代尾張藩主・徳川宗睦の養嗣子)の正室・聖聡院[注釈 3]が、江戸時代後期の1780年(安永9年)に紀州藩主徳川家(以下、紀州家)より尾張家へ嫁いだ際に持参した道具の一つであり[9]、
- 明治時代から昭和時代初期までの尾張家では「長篠の戦いにおける家康の肖像」として扱われていたのが[10][注釈 4]、
- 1936年(昭和11年)に当時の徳川美術館長・徳川義親侯爵(第19代尾張家当主)およびその周辺から出された無根拠な創作的口伝が発端となって三方ヶ原の戦いと結び付けられて語られるようになり、
- 1972年(昭和47年)までに「敗戦を肝に銘ずるため」「慢心の自戒として生涯座右を離さなかった」などの情報が加わって現在知られる内容の伝承が形成されていったこと
の4点が挙げられていますが、原(2016)が指摘している「マチガイ」というのは
- 尾張徳川家初代・義直が命じて描かせた、という伝があったが、紀伊徳川家由来だったので、そうではなさそうだということ
- 明治時代から昭和時代初期に、誰かが複数枚ある家康の肖像画を識別するために、適当に「長篠戦役図」とか「長久手戦役図」とか振ったらしく、「長篠戦役図」とされ、そして何故か(家康がしかめつらをしている絵だったので)「長篠敗戦図」とされたこと
- 1936年頃に徳川義親が座談会で「家康が描かせた三方が原の図だ」と発言し、「家康が」は「義直が」に訂正されたが、「三方が原」は誰も訂正せず、新聞記事になったこと、おそらく、長篠で家康が敗戦したというのはおかしいからという理由で、三方が原になったと推測されること
- その後、話に尾ひれがつき、徳川美術館でも尾ひれのついた誤伝を宣伝していたこと、今後美術館としてどう対処するかは考え中だということ。
だと思いますが、本記事では論点がズレていて、何だか徳川義親とその周辺ばかりを悪者にしているように感じます。
また特に2点目について、最近、香山(2014)(香山, 里絵「徳川義親の美術館設立想起」(pdf)『金鯱叢書』第41巻、徳川美術館、2014年3月、1-29頁、ISSN 2188-7594、2016年10月3日閲覧。)を読んだところ、その中に、三方が原戦役図は『国華』第240号では「長篠敗戦図」と説明されていた、ということが書いてありました。「三方が原でなく長篠」の図だった、ということについては2014年には指摘があったことになると思います。しかし、本記事では香山の研究について全く言及がなく、原(2016)由来とされています。原(2016)を読むと、20頁の註14でこの香山の研究に言及がありますので、原(2016)に悪気はなく、記述が不正確なのはWikipediaの編集上の問題に帰着すると思います。
また記載内容を岡本(2015)の新聞記事に依拠している箇所がいくつかありますが、岡本の記事は原の講演の内容をベースにして、それをやや不正確に書いているように思いますので、これを引用しても原(2016)の内容を歪める結果にしかならないと思います。
以上について、記事内容の改善をご検討いただけないでしょうか(といいながら、私が自分で編集するかもしれません)。--宇井木辺出夫(会話) 2016年10月27日 (木) 15:13 (UTC)
- 初版執筆者の方から特にコメントいただけなかったのは残念でした。香山(2014)を読むと、原(2016)がどういう経緯でこの図の由来を調べたのかがもう少し明確になり、また原の立ち位置も現行の記事内容とは違って見えたのでその点を修正し、また原(2016)の報告内容の叙述についても、口伝が明治期の「長篠戦役図」の後、1910年の展覧会、1936年の展覧会、そして1972年の図録とおよそ3段階で発展してきた(ので、1936年の新聞記事のみに創作的口伝が広まった全責任を押し付けるのはおかしい)と解釈すべきと考え、そのように書き改めました。--宇井木辺出夫(会話) 2016年11月7日 (月) 12:17 (UTC)
- 初版投稿者です。本記事のタグ貼り付けとノートでのご指摘を受けてから、改稿の文案を考えながら他の作業を行っていましたが遅かったようです。香山論文を確認しなかったのはこちらの不注意でした。ご投稿いただいた内容をまだ全部確認したわけではありませんが、表現や出典などで気付いた点があれば修正などしていくつもりです。また、こちらの加筆や修正などで気になった点があればご指摘・ご訂正をよろしくお願いします。--Ihimutefu(会話) 2016年11月8日 (火) 04:38 (UTC)
Weblioテンプレート除去について
[編集]Template:Weblioが2017年10月に廃止されましたので、当記事に於いても出典として使用されておりました同テンプレートを「出典ごと除去」致しましたことをお知らせします(差分)。5出典を除去しましたけども、「単語物品が実在すること」の出典であり、解説としての現在の文章を改訂する必要を感じませんでしたのでテンプレート除去編集のみに留めました。--Nami-ja (会話 / 履歴) 2017年11月8日 (水) 12:02 (UTC)