ノート:後漢
記事名は後漢か東漢か
[編集]後漢と言った場合は9割がた東漢を指します。現在の日本では後漢が一般的であり、移動の必要はないと思われます。--らりた 2004年12月11日 (土) 02:32 (UTC)
- 後漢 (王朝)ってのは、そもそも五代の後漢だって王朝には違いがないので記事名が不適切ではないでしょうか。--Safkan 2004年12月11日 (土) 05:37 (UTC)
系図の間違いについて
[編集]おすすめ記事になっていたので拝見したのですが、系図が間違っていると思います。第13代廃帝弁の母親は何進の妹である何皇后であり、献帝と同母兄弟ではありません。画像の修正はよくわからないので、ここで指摘しておきます。--Crystaltear 2007年2月15日 (木) 20:46 (UTC)
- 史書の記述を確認した上で取り急ぎ簡単に補正いたしました。--Kanbun 2007年2月16日 (金) 03:46 (UTC)
Template:中国の歴史における議論について
[編集]現在、Template‐ノート:中国の歴史において明を滅ぼした李自成が建国したとされる順をTemplate:中国の歴史に入れるか否か、また入れるとしたらどのように入れるかが議論されています。テンプレートに入れるべき王朝の範囲を決める重要な議論になるかと思いますので、順の位置づけも含め、ご関心のある方がいらっしゃいましたら、ぜひコメントとご教示をお願いします。--203.124.91.163 2008年10月19日 (日) 18:10 (UTC)
付属の地図について
[編集]「後漢の領域。」と説明されている地図ですが、前漢(元始2年=西暦1年)の地図の英語版で、長城の位置が誤っている不適切なものだったので削除しました。--Dourakuoyaji 2010年9月22日 (水) 05:06 (UTC)
- そうですね。ありがとうございます。代わりに別のを貼っときます。--トムル 2010年9月22日 (水) 08:27 (UTC)
- ありがとうございます。編集に不案内で、お手をわずらわせてすみません。--Dourakuoyaji 2010年9月23日 (木) 05:01 (UTC)
要出典の項目について
[編集]希望氏、大体の疑問には同意ですが、出来たらノートにも顔出ししていただきたく。
>材官、騎士、都尉などの地方の駐在軍を廃止し、徴兵制から少数の傭兵制へと切り換えた
>政局の混乱に耐えかねて民衆叛乱が頻発するようになっても、地方軍備の欠如が裏目に出て為すすべがなかった
まず、通説として辺境の都尉は省かれておらず、これらは軍役でまかなっていると見られるのが一般的であると思いますし、傭兵制化といってしまうのはやや勇み足でしょう。『後漢書』の異民族関連の列伝を参照しても、辺境の郡兵は鎮圧、防衛の中核を担っている感があります。
解放軍出版社の『中国歴代軍事制度』にも募兵と徴兵の併用であったと書かれていますし、世兵・募兵制への過渡期として位置づけられているようです。問題とされてるのは主に都試を行わなくなった事による兵士の質の著しい低下であるように思います。また、黄巾などについては首謀者は鎮圧されていますし、完全な鎮圧が何進死亡や董卓の専横などの政局によって行われなかっただけであり、為すすべがなかったというのはやや誇張含みではないでしょうか。
>中央政府は直接関与しないようになっていた。
>しかしこのことは荘園内部の治水などを中央政府が行わなくなったということでもあり、後漢に災害が多かったことの一端は適切な対応策を打たなかったことによると思われる。
一般的な説として確定しているのは、
・豪族による土地の兼併が進み、荘園経営をはじめた
・災害と対異民族戦争に予算を圧迫されて豪族への対処が出来なかった
までではないでしょうか。
講談社等の概説書を持っていますが、少なくとも私はこれ以上踏み込んで書かれている概説書を知りません。
引用前段について、「関与しなくなる」まで進むのは一般的に魏晋南北朝の貴族制からかと思います。
関与が困難になってきている状況であるのは事実ですが、後漢はそういった問題の過渡期的政権として見るのが一般的ではないでしょうか?
引用後段については、後漢において一番害をなしていて他の時代に少ない災害として地震が挙げられる状況と矛盾していませんか?
また、太守の各伝記を参照しても実際地震や叛乱が多く予算が圧迫されていると見られる時期や地域ではあまりありませんが、大きな河川付近であれば治水をしっかり行っていますし、皇帝の側でも兼併を防ぐために災害発生地域に種籾の貸し出しや資本提供などを継続して行っており、和帝~順帝期の把握人口増加の要因の一つともなっています。そして、寒冷化が長雨を招くのは15、6世紀などの他の寒冷化時代を含めた歴史気象学的な実証のあることですから、寒冷化が進む後漢時代に水の災害が多い要因を、豪族の土地兼併に求めるのはかなり強引な気が致します。
それぞれ出典があるのであれば、参照したく思います。
ネット全般に言える事ですが、後漢関連は賛美についても批判についても踏み込みすぎた解釈や定説化していない説の濫用が目立つようにも思います。
--臨邑 2012年2月29日 (水) 06:03 (UTC)
- また時間ができたらコメントさせて頂きます。先日試験があり、今しがた少し多忙でして・・・それが終わりましたら。済みません、よろしくお願い致します。--希望(会話) 2012年3月3日 (土) 01:08 (UTC)
- ええと、基本的に私はこのページには要出典しかつけてはおらず、加筆等は殆どしていません。該当の節に関しては、関与している、とも関与していない、とも書いてはいません。そして、
- 「一般的な説として確定しているのは、
- ・豪族による土地の兼併が進み、荘園経営をはじめた
- ・災害と対異民族戦争に予算を圧迫されて豪族への対処が出来なかった
- までではないでしょうか。」
- この話はなんとなくイメージできますが(それが正しいかどうかは別として)、私の専攻とも近い分野な訳です。
- 1、荘園経営をはじめた
- 2、災害と対異民族戦争に予算を圧迫されて豪族への対処が出来なかった
- 2に関しては今まで聞いたことがなく、出典を求めたくはあります。1に関しても、後漢代に大土地所有者がいたことはわかっています(通説)が、荘園とは何なのか、もう少し詳しい説明を求めたいところではあります。例えば何十年も前の話ですが、西村元佑は漢代の豪族の労働力は奴隷が主体でそれには売買の自由すら伴った、と主張すれば、対して宇都宮清吉が、主体は下層民でそれは多少の権利はあった、と反論するなど、結構激しい論争があったと思うんです。後者ならば、豪族が土地を所有していたことは確かにしても、不輸不入の権はあったのか、その土地経営を荘園と呼んでいいのか、などなどいろいろと指摘はできてしまうわけでしょう? ですから、どうして一般的なのか?荘園だと言っているのは一体誰か?などなど各所に明確な出典を求めたいわけです。--希望(会話) 2012年3月3日 (土) 04:45 (UTC)
- 後漢末に災害が頻発していたのは史料に十分にありますし、異民族の騒乱が頻発していたのも記録にあります。ただ、それに予算を圧迫されて・・豪族対策、というのは、独自研究ではないかと思います。既存の専門誌等に掲載された研究があればいいですが、あるでしょうか。そもそも豪族対策とは、予算を必要とするものなのか、等々、公の場(学会、発表の場等)で言えば突っ込まれてしまう可能性はあると思います。仰りたいことは、イメージはつくのですが。(予算というより、国力を外的問題に消耗した為、とすれば説明はつくか? でもそもそもそれが豪族が力を持った要因と果たしていえるか?等々、やはり結構問題はあると思う。) --希望(会話) 2012年3月4日 (日) 09:50 (UTC)
お二人の議論をふまえて卑見
[編集]上のお二人の議論を踏まえた卑見は以下の通りです。
兵制について
[編集]>まず、通説として辺境の都尉は省かれておらず、これらは軍役でまかなっていると見られるのが一般的であると思いますし、傭兵制化といってしまうのはやや勇み足でしょう。『後漢書』の異民族関連の列伝を参照しても、辺境の郡兵は鎮圧、防衛の中核を担っている感があります。解放軍出版社の『中国歴代軍事制度』にも募兵と徴兵の併用であったと書かれていますし、世兵・募兵制への過渡期として位置づけられているようです。問題とされてるのは主に都試を行わなくなった事による兵士の質の著しい低下であるように思います。また、黄巾などについては首謀者は鎮圧されていますし、完全な鎮圧が何進死亡や董卓の専横などの政局によって行われなかっただけであり、為すすべがなかったというのはやや誇張含みではないでしょうか。
というご指摘の通り、確かに本項目の「徴兵制から少数の傭兵制へ切り替えた」という箇所はおかしいと考えます。そもそも「傭兵」が何を指すのかがわかりません。
例えば濱口重國氏は、後漢の兵制には有事の際に臨時に徴兵・募兵するもののほか、五校尉・黎陽営の営士など兵役の義務を代々課せられたものがあり、これと曹操が代々兵役を課した兵戸との間に「若干の脈絡」があることを認め、さらにこの兵戸が曹魏・両晋・南朝へと継承されていったことを指摘されています(「後漢末・曹操時代に於ける兵農の分離に就いて」「両晋南朝に於ける兵戸と其の身分に就いて」東京大学出版会『秦漢隋唐史の研究』上巻所収)。用語は違いますが後漢が「世兵・募兵制の過渡期」であるというご指摘と軌を一にするものといえるでしょう。
ただ、本項目で後漢王朝が反乱に対し「地方軍備の欠如」のため「為すすべがなかった」というのは、根拠が示されていない点はまったく不当ですが 内容自体は当たらずとも遠からずといったところであり、誇張というほどでもないのではないでしょうか。
この問題に関し、濱口氏「光武帝期の軍備縮小と其の影響」(同上所収)は、羌人の乱以降黄巾に至るまで後漢後半期の反乱が拡大した原因を後漢初期の大規模な軍縮に求めています。例えば羌人の乱に際して、内郡や王国の警備が皆無に近い状態にあったため、微力な営兵や都尉の他、各地から常備部隊や臨時徴発部隊などを派遣しても役に立たなかったという趣旨の指摘がなされています。
これは別に新奇な珍説などではなく、東晋次氏が 狩野直禎氏『後漢政治史の研究』(同朋舎出版)の書評(『東洋史研究』52巻3号)[1]で 「当然引用すべき先行論文」として「光武帝期の兵制に関する濱口重國氏の有名な論文」を挙げられたように、後漢兵制の研究史上重要なものというべきものでしょう。
むろん濱口論文でも都試を廃止したことや辺郡で都尉・郡兵といった常設軍が存続したことなどの指摘はなされているのであり、全体として観察すれば後漢王朝が反乱鎮圧の力を失った大きな要因として軍縮が挙げられるということです。むしろ後漢王朝が反乱鎮圧を十分になし得なかった原因を、都試の廃止という数ある軍縮政策の中のいち事象にのみ求めるほうが難しいのではないでしょうか。
「荘園」の節について
[編集]- 「荘園」と王朝の施策との関係について
本項目の「豪族は窮迫した農民を囲い込んで荘園経営を始め、中央政府は直接関与しないようになっていた。しかしこのことは荘園内部の治水などを中央政府が行わなくなったということでもあり、後漢に災害が多かったことの一端は適切な対応策を打たなかったことによると思われる」という箇所もまた内容自体は当たらずとも遠からずといったところで、説明不足なのと根拠が提示されない点に問題があると思われます。
>後漢において一番害をなしていて他の時代に少ない災害として地震が挙げられる状況と矛盾していませんか?
とのご指摘がありますが、そもそも後漢では地震の被害が突出して多いとみられているわけではなく、先行研究ではむしろ地震より水災・旱災・蝗災による被害の大きかったこと、とりわけ水災が重篤であったことが指摘されています。また、
>災害と対異民族戦争に予算を圧迫されて豪族への対処が出来なかった
というご理解は学界において一般的とはいえないと思われます。
例えば、多田狷介氏「黄巾の亂前史」(『東洋史研究』26巻4号)[2] では、安帝の頃以降に黄河中下流域で水害・旱ばつ・蝗害が多発したことや西北部で羌人の反乱が拡大したことと、豪族による大土地経営との関係が考察されています。
そこでは、大規模な治水灌漑工事・貧窮する農民の賑恤・「異民族」対策といった施策は国家が小農民からの租税徴発や徭役編成によって行うものであって、農民が豪族に隷属させられた状態では国家はこうした施策をなし得ず、豪族が国家に代わってなし得るものでもないという趣旨の指摘がなされています。
そして、黄河中下流域において「”豪族経営の発展→下位小共同体(引用者注:郷里社会の共同体のこと)の瓦解→水利灌漑機能の荒廃・縮小→大量の小農民の生産過程からの放逐”という経過」をたどったことが述べられ、「安帝代における異民族の反乱を平定することの困難さ・連続する自然災害・破産農民の増加は、いずれも根本的には豪族経営の進展がもたらした上位の共同体としての国家の機能の弱化の結果であるといえよう」と結論されています。
また前掲濱口論文にも、後漢後期には大家富豪の土地兼併が進行し、農民が土地の寡少さのために窮乏したり傭耕者・小作人・奴隷となったりして徴兵の対象から外れ、羌寇に始まる反乱を鎮圧するための兵力を新たに確保できなかったという趣旨の指摘があります。
さらには、概説書では例えば川本芳昭氏が『中華の崩壊と拡大』p23(講談社・中国の歴史第5巻)で、後漢以降の中国社会にみられる現象として、豪族層が一般人民を囲い込むことにより、本来国家に集中されるべき税収が豪族に集中する事態が進行し、公権力の弱体化を招いたことを述べられています。この指摘は上記の先行研究の成果を踏まえてのことと考えられます。
豪族の存在が災害対策や国防といった王朝の施策の妨げになっていたというこれらの研究の構図は本項目も大体同じといえるでしょう。
>後漢時代に水の災害が多い要因を、豪族の土地兼併に求めるのはかなり強引な気が致します。
というご意見がありますが、以上の学説に拠る限り別に強引というほどのことはないと思われます。むしろ災害や戦争のために豪族対策ができなかったというご意見は、上記の説とは逆の理屈であって「一般的な学説として定着している」とはいえないと考えられます。
なお、前掲多田論文では、順帝・桓帝期の淮南・江北地域においては没落小農民を隷属民化した豪族の私的経営の力量内で小規模の水利灌漑施設を維持しやすく、「”豪族経営の発展→下位小共同体の瓦解→水利灌漑機能の荒廃・縮小→大量の小農民の生産過程からの放逐”という経過」は黄河中下流域におけるほどにはドラスチックには起こらなかったという趣旨の指摘がなされています。このことからすれば、本項目で上記のような現象があたかも後漢一代を通した全国的な事象であったかのように述べられているのは粗略に過ぎるように思われます。
- 「荘園」の定義
ご指摘の通り、確かに宇都宮清吉氏は前漢末以来の舂陵劉氏や樊氏の所有地を例とし、奴隷ではなく良民の下戸層が漢代豪族の私有地の主たる労働力であったとされています(「僮約研究」「劉秀と南陽」など、弘文堂『漢代社会経済史研究』所収)。これに対し、西村元佑氏はこれを批判して主に奴隷が用いられたとされています(西村氏による宇都宮説批判については「漢代王・侯の私田經營と大土地所有の構造 -秦漢帝國の人民支配形態に關連して-」(『東洋史研究』31巻1号)[3])。
もっとも、耕作者の地位についてのこうした見解の相違にかかわらず、両氏ともに漢代豪族の大土地を「荘園」と呼んでおられます(前掲西村論文、前掲宇都宮「僮約研究」「劉秀と南陽」、「漢代豪族研究」(創文社『中国古代中世史研究』所収)、「漢代大私有地に於ける小作者と奴隸の問題」(『東洋史研究』1巻1号)[4]など)。そこでは不輸・不入の権の有無は問題にはされていません。
さらには、宮崎市定氏も樊氏の土地を例として漢代豪族の大土地を「荘園」とされています(「中国史上の荘園」岩波書店『宮崎市定全集8・唐』所収)。
同氏による中国史上の荘園の定義は「(1)大土地所有の経営であること、(2)封鎖的な経済が予想されること、(3)労働者は不自由民であることが予想されること、の3つの性質」を備えるもの、ということです。
そして、宮崎氏は「荘園の起原」節で中国における荘園のはじまりを漢代に求め、漢代「荘園」の労働力たる隷属民には奴隷と農奴とがあり、 後者がより多かったと想定されています。宮崎説においては耕作者の地位が「不自由民」であること、すなわち地主に対し何かしら隷属的な立場にあれば荘園の労働力といえるのであり、人格の全く認められない奴隷か何らかの権利を有する者かは問われないということです。不輸・不入の権の有無を問題にしないことも上の両氏と同様です。
また、王朝が私有地に
>「関与しなくなる」まで進むのは一般的に魏晋南北朝の貴族制からかと思います。
とのご指摘がありますが、宮崎氏の定義において「経済が『封鎖的』である」というからには王朝の関与を事実上拒むことができるぐらいの状況にはあったことを前提としているのでしょう。
- 「荘園」の語句を用いることの是非について
漢代豪族の大土地を「荘園」と呼ぶ立場はおおむね以上のようなものですが、Wikipediaにおいては漢代豪族の大土地を「荘園」と呼ぶこと自体が問題であると考えられます。そもそも漢代には「荘園」という語句が広く通用していたわけではなく、耕作者を使役して経営する私有地は「園田」「園囿」「園」などと称されていたのであり、宇都宮氏はこれらを実質的に「八−九世紀の荘園に近いもの」であるとみて便宜上「荘園」と呼ぶこととされています(「僮約研究」)。
そして、Wikipediaにおいて漢代豪族の大土地を「荘園」と呼ぶことの問題は時代区分論との関係でもっとも顕著になると考えられます。すなわち、周知の通り時代区分論は東洋史学界において宋代中世説と宋代近世説とが激しく対立した一大論点です。このうち宮崎氏の宋代近世説は三国から五代末までを中世とし、この時代における大土地所有を中世社会の要素のひとつとしての「荘園」とみるものです。
前掲宮崎論文の「結語-中世とは何か」節でも「私は中国史上の荘園を論じながら、中国において用いられた荘園という名前にあまり拘泥せず、寧ろ中世的な土地経営を主題として論を進めてしまった。その結果、荘園という名がまだなかったものを荘園として取上げ、荘と名のつくものをも切すてねばならなかった」とし、「中国における荘園的土地経営は既に漢代に胚胎し、南朝に盛んであり唐に続いた」「私家の中世的荘園も唐末から五代宋初には没落する」と述べられています。
宮崎説が漢代豪族の経営した大土地を「荘園」と呼ぶことには、古代の完成期たる漢代にすでに中世的要素の萌芽としての「荘園」が存在したという意味が含まれていることがわかります。
一方、宋代中世説の論者が漢代豪族の経営する大土地を「荘園」と呼ぶことはないと見受けられます。
さらには、例えば鶴間和幸氏が漢代豪族の大土地所有を「荘園」と呼びつつも「豪族の荘園拡大が全国的に普遍的な社会現象であったかどうかは断言できず、荘園の存在即中世という判断には慎重でなければならない」とされる(山川出版社『中国史』第1巻p557)のも、こうした学説の対立から一歩引いた立場からの叙述を心がけてのことなのでしょう。
このように中国史上の「荘園」という語句は、時に特定の立場から特別な意味を込めて用いられるものであり、本項目で漢代の大土地所有を「荘園」とすることは、特定の立場からの叙述をできる限り避けるべきであるとするWikipediaのルール上望ましくないと考えます。
まとめ
[編集]本項目は何となくそれらしいことが一通り述べられてはいるものの、典拠が全く挙げられていない点や学説の先鋭な対立に無頓着である点が致命的であると考えます。他にも「光武帝は王莽のような簒奪者を再び出さないために更に儒教の力を強めようとした」とありますが、光武帝が儒教を振興した理由をこのように明言できる根拠は何なのかなどの疑問があります。ただしこれらの問題点をただちに改善する用意はないので以上のことを指摘させて頂くに留めます。--Fish40(会話) 2012年11月13日 (火) 13:02 (UTC)