ノート:往生院 (泉南市)
表示
「織田信長の根来寺攻めによって焼失」と書いてありますが、信長と根来寺は一度も敵対したことはありません。ですのでこれは明らかに誤りなのですが、執筆に使用した資料ではどのように書かれていたのでしょうか。参考文献にそう書かれていたのなら、間違いであってもそれを踏襲せざるを得ないだろうとは思いますが。独自研究を述べますと、
- 1577年の信長の雑賀攻めの巻き添え(根来寺は信長に味方)
- 1585年の秀吉の紀州攻めの巻き添え(根来寺は秀吉と敵対、焼亡する)
- 槇尾寺のように、信長の和泉支配の過程での出来事
のいずれかを誤伝したのではないかと思いますが、もちろん出典はありません。--Arawodas 2009年12月13日 (日) 06:12 (UTC)
- 長慶寺 (泉南市)・林昌寺でも同様の問題があります。--Arawodas 2010年1月10日 (日) 02:08 (UTC)
4年前の当該箇所の執筆者です。ご指摘ありがとうございます。参考にした資料はJR西日本のパンフの解説文です。往生院の資料は発見できていませんが、林昌寺と長慶寺の資料は発見でき、私の誤読ということが判りました。申し訳ございません。以下に、そのままを写します。
- 林昌寺の解説文
(略)創建当時からの伽藍は、天正5(1577)年、織田信長の雑賀攻めの際に消失し、今の建物は江戸時代初期から中期に建立されたもの。(後略)
- 長慶寺の解説文
(略)もともと根来衆で有名な根来寺の北の玄関口として栄えたが、信長・秀吉と続く雑賀・根来攻めで焼失後、豊臣秀頼の命により唯一残った観音堂を現在の場所に移築し、当時の年号(慶長)を逆さにとって長慶寺としたそうだ。
--663h 2010年1月10日 (日) 14:22 (UTC)2010年1月10日 (日) 14:35 (UTC)
- 回答ありがとうございます。こちらでも資料を探していますが、加筆に使える資料が確保できるかは分かりません。とりあえずの措置として、該当部分を原資料に忠実な形に直しておいて頂けないでしょうか。--Arawodas 2010年1月11日 (月) 11:37 (UTC)
- 出典依頼に応じたら、すぐに編集依頼とは・・・。なぜ私に依頼するのでしょうか。Arawodasさんと私の2人だけで記事を作っているのではありません。ウィキペディアは不特定多数の利用者による共同作業です。以前も申しましたが、個人の会話ページに出典を求めにいらっしゃらなくとも、当該ノートにて提議して、相応の期間待っても出典の提示がなかったら、Arawodasさんが粛々と編集されればよいのです。その手順を踏めば、Arawodasさんが責められることはありません。ご理解いただけないのでしょうか。私は当該箇所を編集することに吝かではありませんが、こういったことが癖になられたら困るので、もうご依頼には応じないようにします。ウィキペディアは編集したい人が編集するのです。Arawodasさんは編集したいから、今回提議されたのでしょう?--663h 2010年1月11日 (月) 16:36 (UTC)
- 出典を確保できていない私が編集するなら、該当部分を全除去するしかありません。それ以外は独自研究です。ですが今回の場合、焼かれたという事実まで除去するのは問題がありすぎます。焼かれたことを疑っているのではなく、焼かれた経緯が史実に反した説明になっていて、実際がどうだったのかよくわからない。上に書いた通り、どのように間違えたのかも複数の解釈がありえ、焼かれた時期もそれに付随して前後する可能性がある。さらに、間違えたにしても、どの段階で間違えたのかも分からない(執筆者か、資料か、寺の伝承か――寺がそう伝えているならそれはそれで意味があるのかもしれない)。とこのような考えから、現状で最も事情に詳しいであろう執筆者の方に問い合わせたのです。修正を663hさんにお願いするのも同じです。内容を損なわずに問題を解決する最善の方法と思うからです。いい加減に書かれた記事ならこんな手間はかけません。問答無用で削ります。私としては執筆者に最大限の敬意を払っているからこそ今回このように対応しているのですが、それが煩わしいとおっしゃるなら今後は連絡は致しません。ところで以前とは? こちらから問い合わせるのは初めてのはずですが。--Arawodas 2010年1月12日 (火) 04:10 (UTC)
- 人違いでした!Arawodas様、大変失礼いたしました!申し訳ございません。ごめんなさいませ。少し前に似たような名前の人とのやりとりで疲弊したことがあったため、錯覚してつい感情的になってしまいました。私が悪うございました。心よりお詫びいたします。Arawodas様の今回の一連の行動、すなわちノートで提議し、数週間待って誰からもレスポンスがないので、当該箇所の執筆者の会話ページに依頼するという手順は、全くもって正しいです。私も同じことをするはずです。されど編集につきましては、先ずは提議した方が提出されたソースに基づいて自分の思われるとおりに編集されることが望ましいと私は思います。それは、他の利用者が提議者の意に反する執筆をした場合など、再議論となって結局提議者が執筆したり、再議論の末そのまま放置等まで想定されるからです。申し訳ございません。--663h 2010年1月12日 (火) 14:08 (UTC)
- 編集手順についてのお考えは理解致しました。また人違いの事情についても了解しました。ともあれ、問題解決へのご協力に感謝します。--Arawodas 2010年1月13日 (水) 13:23 (UTC)
- 人違いでした!Arawodas様、大変失礼いたしました!申し訳ございません。ごめんなさいませ。少し前に似たような名前の人とのやりとりで疲弊したことがあったため、錯覚してつい感情的になってしまいました。私が悪うございました。心よりお詫びいたします。Arawodas様の今回の一連の行動、すなわちノートで提議し、数週間待って誰からもレスポンスがないので、当該箇所の執筆者の会話ページに依頼するという手順は、全くもって正しいです。私も同じことをするはずです。されど編集につきましては、先ずは提議した方が提出されたソースに基づいて自分の思われるとおりに編集されることが望ましいと私は思います。それは、他の利用者が提議者の意に反する執筆をした場合など、再議論となって結局提議者が執筆したり、再議論の末そのまま放置等まで想定されるからです。申し訳ございません。--663h 2010年1月12日 (火) 14:08 (UTC)
- 林昌寺・長慶寺は最低限の修正はしておきました。--Arawodas 2010年1月12日 (火) 05:26 (UTC)
- ありがとうございます。申し訳ございません。--663h 2010年1月12日 (火) 14:08 (UTC)
- 出典を確保できていない私が編集するなら、該当部分を全除去するしかありません。それ以外は独自研究です。ですが今回の場合、焼かれたという事実まで除去するのは問題がありすぎます。焼かれたことを疑っているのではなく、焼かれた経緯が史実に反した説明になっていて、実際がどうだったのかよくわからない。上に書いた通り、どのように間違えたのかも複数の解釈がありえ、焼かれた時期もそれに付随して前後する可能性がある。さらに、間違えたにしても、どの段階で間違えたのかも分からない(執筆者か、資料か、寺の伝承か――寺がそう伝えているならそれはそれで意味があるのかもしれない)。とこのような考えから、現状で最も事情に詳しいであろう執筆者の方に問い合わせたのです。修正を663hさんにお願いするのも同じです。内容を損なわずに問題を解決する最善の方法と思うからです。いい加減に書かれた記事ならこんな手間はかけません。問答無用で削ります。私としては執筆者に最大限の敬意を払っているからこそ今回このように対応しているのですが、それが煩わしいとおっしゃるなら今後は連絡は致しません。ところで以前とは? こちらから問い合わせるのは初めてのはずですが。--Arawodas 2010年1月12日 (火) 04:10 (UTC)
- 往生院の由緒書(大阪教育大学名誉教授 芝野庄太郎 謹撰)によると、豊臣秀吉の根来攻めで全焼したと書いてあります。なのでそのように直しました。--Oilstreet 2010年1月12日 (火)(UTC)
- ありがとうございます。申し訳ございません。--663h 2010年1月12日 (火) 14:08 (UTC)
- ありがとうございます。助かりました。--Arawodas 2010年1月13日 (水) 13:23 (UTC)
- 出典依頼に応じたら、すぐに編集依頼とは・・・。なぜ私に依頼するのでしょうか。Arawodasさんと私の2人だけで記事を作っているのではありません。ウィキペディアは不特定多数の利用者による共同作業です。以前も申しましたが、個人の会話ページに出典を求めにいらっしゃらなくとも、当該ノートにて提議して、相応の期間待っても出典の提示がなかったら、Arawodasさんが粛々と編集されればよいのです。その手順を踏めば、Arawodasさんが責められることはありません。ご理解いただけないのでしょうか。私は当該箇所を編集することに吝かではありませんが、こういったことが癖になられたら困るので、もうご依頼には応じないようにします。ウィキペディアは編集したい人が編集するのです。Arawodasさんは編集したいから、今回提議されたのでしょう?--663h 2010年1月11日 (月) 16:36 (UTC)