ノート:庚申塔
--しょうけら 2012年1月5日 (木) 15:51 (UTC)庚申塔の解説には個人的な見解と思われる、あるいは誤解を招く部分が多いです。 現在の記述をされた方がどのような情報をベースにしているのか不明ですが、より詳しい方が修正すべきと考えます。 私は疑問点を指摘することはできますが、自信を持って記述するだけの知識はありません。
>猿田彦神は道祖神とも信仰されるため、庚申信仰が道祖神信仰とも結びつくこととなった。
庚申信仰が道祖神信仰と結びついている例はありますが、現在の表現は完全に融和しているかのように読めます。 道祖神信仰と庚申信仰は基本的に全く違う信仰であり、ごく稀に結びついている例があるという方が正確ではないかと思慮します。 また、そのような希少例を取り上げて紹介するのであれば、他の山王信仰や地蔵信仰、阿弥陀信仰、観音信仰、地神信仰との融合、名数塔など多様な例も並列すべきであることを指摘しておきます。
>これは道祖神など他の路傍の石仏にはあまりみられない機能であり、庚申塔の特色とされている。
他の石仏にはあまりみられない、庚申塔の特色とされている、この2つの記述には根拠が示されていません。 確かに道標を兼ねる庚申塔はありますが、他の石仏でも珍しくない地域(相模国、武蔵国)はあります。 馬頭観音塔が道標を兼ねていることもありますし、相模国であれば大山道標は不動明王塔が多いです。
>特に旧相模国を中心とした地域では数多くの庚申塔が建立された。
相模国の庚申塔はさほど多くありません。相模国は四千基台ですが、武蔵国はその倍はあります。 それにもかかわらず相模国を中心とすると記述するには、造塔数以外の理由があると思われますが、根拠不明です。
>なお相模国には日本で初めて三猿が彫られた庚申塔(茅ヶ崎市輪光寺、市重要文化財)や青面金剛が彫られた日本最古の庚申塔などが残っている。
これは、万人が参考とするwikipediaに相応しくない記述です。茅ヶ崎市輪光寺の三猿塔は庚申塔かどうか議論があり、結論は出ていないと思われます。 三猿を彫っただけの石塔であれば現存最古は三重県にあると記憶しており、造塔年は輪光寺が寛永17年なのに対し、三重県は永享12年です。 いずれにしましても日本で初めて三猿が彫られた庚申塔と断言するのは誤解をまねく表現であると指摘します。 また、青面金剛が彫られた日本最古の庚申塔という部分は誤りか、あるいは庚申塔の定義が不足していると思われます。 現在の記述は下大曲神社の承応2年塔を指していると思われますが、福井県に正保4年の石祠型三面四臂青面金剛が現存しています。 石祠型を庚申塔でないと定義するのであれば正しい記述になりますが、その場合は庚申塔の定義を明示するべきです。
>当初は三猿像や青面金剛像を彫り付けたものが大多数であったが、
当初をどの時期に設定しているのか不明です。全国的に見れば庚申塔の初期は室町期と見ることもできます。その時期に刻像塔は極めて稀です。 江戸時代初期と限定したとしても、三猿像や青面金剛像を彫ったものが大多数と記述するのであれば根拠が必要です。 江戸時代初期において、一猿や二猿の庚申塔は現存しており、それらより三猿塔が多いと記述するのであれば具体的な数の比較が必要ではないでしょうか。 また、少なくとも現状の記述に出ている相模国であれば、江戸初期の庚申塔を青面金剛塔が大多数と記述するのは誤りです。 大曲一帯に限定される四臂青面金剛塔を除く(数が少ない)と、初期は地蔵や阿弥陀など諸仏を主尊とする刻像塔の方が圧倒的に多いです。
>今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、「庚申尊天」と書かれた石柱を全国で見ることができる。
庚申塔を全国で見ることができるのは間違いありませんが「庚申尊天」と書かれた(彫られた?)石柱が全国にあるというのは誤りです。
以上長い指摘になりましたが、現在の記述は庚申塔に対する正確な理解の妨げになる可能性が高いと考え投稿しました。
--しょうけら 2012年1月11日 (水) 14:38 (UTC)