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ノート:広域地名

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定義について

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「宇佐市」というのは広域地名になるんでしょうか? 元はといえば、千年以上の伝統を持つ「宇佐神宮」に由来するのですし、逆に小さい範囲を示す地名が拡大されてきたと考える方が自然だと思うのですが。「出雲市」なんかもそうですね。「大和」という日本全体を表すような言葉でも、本来は大和三山付近だけを表す小さな区域の地名だったわけですし、そのような古くからの伝統に由来する地名まで「広域地名」とするには抵抗があります。細かい事情は地元の人間でなければ分からないでしょうし(地元の人でも知らない場合もあるかも)、漠然と「広域地名っぽい」ものをリストアップするのは賛成しかねます。「さいたま市」(本来の「埼玉」は行田にあるらしい)や「筑後市」(「筑紫」ならともかく「筑後」となると明らかに旧国名)みたいに、広域地名であることが明白であるものだけを代表例として書いておけばよいのはないでしょうか。私の認識が誤っているかも知れないので、出来れば他の方のご意見を伺いたいと思います。--ハイゼン 2006年4月12日 (水) 23:18 (UTC)[返信]

概ね同意します。リストには明らかに間違ったものが存在していると思います。例えば、「壱岐市」や「対馬市」等は昔の範囲と一致しており、広域名を小規模自治体が名乗っているとは言えません。
小規模自治体が本来の範囲より広域にあたる地名を名乗っているものしか載せてはいけないのでしょうか? 広範囲に対して用いられた地名が一つの自治体に収斂されたようなケースも広域地名の一種ではないかと思いますが? --Bururururu 2006年6月13日 (火) 13:14 (UTC)[返信]
それは収斂後の自治体の規模によるでしょう。広域地名の範囲より狭域であれば広域地名の借用ですが、大部分を占めているか一致している場合は、既に広域地名ではなく地名の一種であると思います。 --与太郎 2006年6月27日 (火) 02:15 (UTC)[返信]
広域地名の範囲と当該自治体の範囲がほぼ一致している場合、借用ではありませんが、広域に対して用いられた地名を採用している以上、広域地名であるといえると思います。借用・僭称でなくとも広域地名という概念は否定されないのではないでしょうか? --Bururururu 2006年6月27日 (火) 14:09 (UTC)[返信]

定義について 2

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広域地名(こういきちめい)とは、都道府県名や旧国名、郡名などといった、広い地域を指す地名である。 これだと、「ユーラシアは広域地名じゃないのか?」というツッコミが入りそうなのですが……。この記事の論調では実際の行政範囲と地名の指す範囲を相対的に比べて'「広域である」としているわけですが、それが「広域地名」の定義のすべてであるかというと疑問を感じます。--211.1.193.111 2006年7月10日 (月) 13:25 (UTC)[返信]

上記の論争にもありますが、旧郡の範囲と全く一致している自治体と極僅かしか占めていない自治体(奥州市等)を、広域地名を採用しているからといって同列に扱うのはどうかと思いますね。--台風0号 2006年9月27日 (水) 03:55 (UTC)[返信]
「広域行政」のように、「広域」の語には複数の地域単位を包含するという意味合いがあり、「広域地名」の語でもそのニュアンスで用いられています。定義は「元来、他の地方公共団体を包含する地域を指し示すものである地方公共団体の名称」ということではないでしょうか。--Extrahitz 2006年11月17日 (金) 18:49 (UTC)[返信]

「僭称」について

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「広域地名を僭称している主な自治体一覧」という見出し名をはじめ、いくつかの項目で「僭称」という言葉が使われていますが、

「僭称」とは「自分の身分より高い称号を勝手に自称すること」をいうが、本来地名に広域・狭域の区別は存在しても身分の差は存在しないため、「僭称地名」という言葉は比喩に近い。

と書いているとおり(私が最初にこの部分を書いたときは「比喩」ではなく「誤用」と書きましたが)、かつての(一部では現在の)人間と違って身分階級の差のない地名に「僭称」を用いるのは本来正しくない表現です。また、この表現は「狭域の自治体に広域の地名を用いること」を良くないと考える立場の人間がそれを批判的・侮蔑的に表現したものであり、中立的な表現ではありません。この表現を用いないようにするのが百科事典としての取るべき道だと思います。--春野秋葉 2006年6月13日 (火) 03:00 (UTC)[返信]

付け加えます。「僭称」とは身分に対するものであって、個々の固有名詞に対するものではありません。たとえばジョンという国王がいる王国にマイケルという男爵がいたとします。マイケル男爵が「マイケル」と名乗ればそれは僭称ですが、マイケル男爵が王と名乗らず、ただ「ジョン男爵」と改称するのは僭称ではありません。それをそのまま地名の例に移せば、田中県鈴木郡山田村という村があったとして、山田村が「山田」や「山田」に改称すれば僭称ですが、山田村が「鈴木村」や「田中村」に改称するのは僭称ではありません。本来の意味から外れた用法はなるべく避けるべきだと思います。--春野秋葉 2006年6月13日 (火) 03:40 (UTC)[返信]
仰りたい事は理解致しました。では、「広域地名に一致していない主な自治体一覧」ではどうでしょうか? --与太郎 2006年6月14日 (水) 08:18 (UTC)[返信]
僭称の使い方は確かに誤用ですが、他に適切な言葉が無い事と、言葉が本来の意味から転じて別の意味を持つ事例は間々有る事なので、これもその一つと捉えれば問題無い(少なくともwikipedia外での使用は個人の自由であり、不適切ではない)と思います。--与太郎 2006年6月14日 (水) 08:38 (UTC)[返信]

────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────う~む。「正しい日本語」を提供するのも百科辞典の役割ではないかと思うのですが。地名研究家が自分の書物で誤用やPOVに基づいて「僭称地名」を用いるのはWikipediaの関与するところではありませんが、Wikipediaが地名研究家に乗せられて「僭称地名」を用いるのはちょっとまずいのではないかと思います。

他に適切な言葉が無い事と

項目名の「広域地名」では適切ではないのでしょうか? そもそも、「広域の地名を狭域の自治体が名乗ること」を特に問題視する必要があるのでしょうか? 地名研究家は基本的に従来の方法を踏襲した「中心部の地名」以外は新自治体名にふさわしくないと考えています。だから、「広域の地名を狭域の自治体が名乗ること」についてはそれを批判的に表現する必要があったのです。「僭称地名」という言葉は「僭称」という言葉のイメージから、それがいかにも「いけないこと」であるかのようなイメージを持たせる表現になっています。誤用がわざとか知らず知らずにかは知りませんが、誤用の背景にはPOVがあるはずです。こんな言葉はWikipediaでは使うべきではありません。--春野秋葉 2006年6月21日 (水) 08:10 (UTC)[返信]

ですから、僭称は止めて「広域地名に一致していない主な自治体一覧」ではどうでしょうか?と提案しているのですが。--与太郎 2006年6月24日 (土) 08:10 (UTC)[返信]
そのようにしていただいてかまいません。ただ、「『僭称地名』という言葉の用法は誤っている」ことは消さないでほしいです。--春野秋葉 2006年6月24日 (土) 15:18 (UTC)[返信]
言葉というものはそんなに厳密に定義されて使われているものではありません。言葉の使い方は人によって様々ですから、春野さんの理論にはちょっと無理があるような感じがします。言葉の意味はある程度広めに解釈しないと、世の中の多くの文章は訂正しなければなりません。「小が大を名乗る」という点では明らかに僭称ですし。何でもかんでもPOVはダメ、ではいかなる言葉も使えなくなってしまいます。
>広域の地名を狭域の自治体が名乗ること」を特に問題視する必要があるのでしょうか?
例えば、個人レベルでは「加賀百万石」という言葉は加賀市のことを指していると勘違いしている人がいたり、行政レベルでは旧丹波国に属していた市町村が「丹波市」という地名にクレームをつけたりなどといったことが起きています。広域地名の借用は地理感覚の混乱を招きやすく、皆で使うべき地名を独占してしまっていることなどもあり、方角地名ひらがな・カタカナ地名などよりも顕著に問題が現れています。--211.1.193.111 2006年7月10日 (月) 13:14 (UTC)[返信]
そのような細かいことは多々ありますが、昭和の大合併で広域地名を名乗った市町村が半世紀たっても「致命的な」問題(例えば、市町村が金銭的損害をこうむるとか、どうしても改称しなければならない事態に陥るとか)を起こしていないことから見ても、「たいしたことのない問題しか起きていない」と受け取るべきでしょう。--春野秋葉 2006年7月10日 (月) 17:38 (UTC)[返信]

────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────「僭称地名」という表現が間違いならば、そもそも「借用地名」だって間違いであるということになります。名前を「勝手に使う」というのはできても「借りる」ことはできませんから。返しようもないし。

>市町村が金銭的損害をこうむるとか、どうしても改称しなければならない事態に陥るとか)を起こしていないことから見ても、「たいしたことのない問題しか起きていない」と受け取るべきでしょう。

金銭的被害は本当にないのでしょうか? 春野秋葉さんがご存知ないか、あるいは検証した人がいないだけで実際には起きているかもしれません。実際にデータに現れにくい「機会損失」というものもあります。「本来できるはずのことができない」というのも立派な被害です。それに被害は何も金銭だけではありません。歴史・伝統・文化・誇りなどといったものをお金で換算できないからと言って軽視することはできません。

そもそも他人の名前に対して抗議するということ自体が異常事態です。 地名に限らず人間の名前でもそうですが、通常は他人の名前に対して抗議するなんてことはありません。基本的には他人の名前が何であろうと自分に被害が及ぶことはないですから。批判程度ならありますが「その名前はやめてもらわないと困る」というほど切羽詰まったものではありません。しかし、広域地名の借用のように他の都市から抗議がくるということは他者に迷惑をかけるような名前であるからこそなのです。 --211.1.193.111 2006年8月28日 (月) 00:44 (UTC)[返信]

だったら、その抗議自体が間違っているということではないのですか? 具体的な被害を算出できないからこそ、それが「たいした被害が発生していない」ということの傍証となっているのではないでしょうか。「算出できない被害」の存在をあれこれ仮定して抗議する者に賛同することよりも、オッカムの剃刀に従って「そんなものはない」とバッサリ切り捨て、抗議する者に賛同しないことのほうがより合理的です。--春野秋葉 2006年8月28日 (月) 04:25 (UTC)[返信]
>具体的な被害を算出できないからこそ、それが「たいした被害が発生していない」ということの傍証となっているのではないでしょうか。
それは違います。前にも言いましたが、
  • ないのではなく知らないだけではないか?
  • データに現れにくい機会損失というものもある
  • 歴史・伝統・文化・誇りなどといったものをお金で換算できないからと言って軽視することはできない
この3点を検討いただけなければ永遠に議論は平行線のままです。
あと、私からすれば春野秋葉さんの「僭称地名という表現は間違っている」という意見自体も中立性を欠いた意見でしかありません。ただ間違っているということを少し述べるだけなら理解できますが、それに固執しすぎて2行も3行も使用するのは感情的になっているようにしか見えません。結果的に地名研究家を批判しているように見え中立性を欠いています。
多くの「地理マニア」や地名研究家が広域地名を批判している以上、それを「たいした被害が発生していない」と判断するのは実状を無視した個人的な意見でしかありません。
--211.1.193.111 2006年9月1日 (金) 03:33 (UTC)[返信]
私の意見が正しいかどうかちゃんと検討していただけるなら議論の余地はありますが、そういう気配はなさそうなのでここに来るのはやめにしようと思います。最後に私の意見を述べると、
言葉というものはそこまで厳密に定義されているものではないので間違いと断言することはできない。ただし春野秋葉さんが間違いだと思うのであればそれはそれでいいと思う。しかしここは百科事典。持論を述べる場ではない。「僭称という表現は厳密に言うと間違いである」ぐらいにとどめておくのであれば問題ないと思うが、それに固執し過ぎて僭称地名という言葉が間違いである事を説明するのに2行も3行も使用するのは地名研究家を批判するために感情的になっているようにしか見えず中立的でない。
--211.1.193.111 2006年9月1日 (金) 03:50 (UTC)[返信]

────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────ご意見ありがとうございます。211.1.193.111さんが(広域地名を使用した自治体に対して改名や損害賠償をさせるのが適当であると認められるほどの)「重大な被害が発生している」という結論を導き出すために挙げられた3点は、

  • 「ない」のではなく「知らない」のかもしれない
  • データに現れにくい「機会損失」というものもあるかもしれない
  • 歴史・伝統・文化・誇りなどといったものを、お金で換算できないからと言って軽視することはできないかもしれない

のように書き換えることが適当です。これは重要な点で、この「かもしれない」がなければ、「重大な被害が存在する」と仮定することは(現実に「重大な被害の存在」を確認できていない以上)ますます困難になるからです。

これを証明するには、上記3点が「かもしれない」ではなく、「確かに存在する」ということを典拠を明らかにしてあれこれ証明する必要が生じます。証明できなければ、すなわち上記3点は「ない」ということになり、そこからただちに「重大な被害は発生していない」という結論が導き出され、それで終わりとなります。

以上を踏まえて「重大な被害が発生しているのか否か」という命題を考えると、「発生している」と主張するほうに証明責任があるわけですが、証明責任のある211.1.193.111さんは自ら証明を放棄すること(=「ここには来ない」という意思表示)を宣言していらっしゃますので、「ない」と結論付けるのが正当であるということになります。

証明できないものは「ない」のと同じです。あるものの存在を自ら証明せずに、その存在を仮定したうえで話を進めるのが道理の通らないことであるということは、211.1.193.111さんではなくとも知っておくべきでしょう。--春野秋葉 2006年9月4日 (月) 15:13 (UTC)[返信]

211.1.193.111さんが述べられたもうひとつの論点について。「僭称という表現は厳密に言うと間違いである」ということを主張するからには、それについて論点を明らかにして説明しなければなりません。そうでなければその主張は空論になってしまうからです。「僭称という表現は厳密に言うと間違いである」という主張に対して、それに対する説明は欠くことができないのです。--春野秋葉 2006年9月4日 (月) 15:23 (UTC)[返信]