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ノート:幸徳事件

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最初に書かれた方の「誤認識」と雑駁な「まとめ」が気にかかります。 DK 2004.3.19

 その後の履歴を見ると、根本的な点は変えてなく踏襲されいるので 冒頭の部分だけでも疑問点を呈しておきます。

1 >幸徳秋水事件は、大逆事件の一つ。説明抜きで単に「大逆事件」と言われる際は、この幸徳秋水事件を指すと解するのが一般的である。幸徳事件とも呼ばれる。

ここは主観的な選択かもしれませんが、私が見た範囲の文献では「幸徳事件」と呼称していました。 森長英三郎、荒畑寒村のテキスト


 補注 2004.3.30 DK

1 『幸徳事件の全貌』渡辺順三著、1948年刊 国会図書館の所蔵文献リストでタイトルに「大逆事件」以外を付しているのは、この本だけです。

2 『大逆事件記録 第一巻 獄中手記』神崎清編、編者の言葉 1950年5月 神埼清「さいきんこの事件は幸徳事件とよばれるようになってきた」     

3 『自由思想』4号 1961年2月刊、18頁掲載、伊藤信吉テキストの記述「大逆事件(当時は幸徳事件といった)の余波を受けて検挙され」   神埼清と伊藤信吉の説明は違うのですが、いずれも「幸徳事件」という呼称に関しては同一です。   ''''''1940年代から70年代の文献で「幸徳秋水事件」と呼称しているのは私は未だ見ていません、そう呼称している文献を挙げてもらえますか''''     

2 >明治天皇を爆裂弾で暗殺しようとした計画が発覚、  最初の発覚は爆裂弾の材料の所持です。

3 >この事件を口実にすべての社会主義者、アナキストに対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、  「すべて」と断定する根拠はどこにあるのでしょうか。    数的な記録としての官憲資料にはお目にかかっていないのですが、名古屋関連、新宮関連での 被取調者、被家宅捜索者の実名と「被逮捕者」との関係が史料として30名余り残されていますが 社会主義者、周辺に居た人たち、家族です。

4 敗戦後、関係資料が発見されて事件の全容が明らかになった。暗殺計画にいくらかでも関与・同調したとされているのは、宮下太吉、管野スガ、森近運平……

「森近運平」という説は初めて聞きました。具体化に程遠い管野たちの「暗殺計画」には森近の名は出てきません。

 管野、新山忠雄、古河の獄中記では森近の名は「計画」関与者として挙げられていません。 宮下、管野、新山忠雄の「予審訊問調書」にも森近は自分の生活を優先する立場になっています。 11月謀議の延長で、事あれば「東京」に駆けつけるというような話もありますが、フレームあっぷ 誘導されたものでしょう。

5 >敗戦後の1960年代に復権の動きが起こり、2001年に和歌山県で犠牲者を顕彰する会が生まれるなど、いまもなお事件の検証と犠牲者の復権への運動は続いている。

 この「事件」の場合、敗戦後に「復権」というのは以下の件を指します。 ≪1946.2.24 坂本、岡林 刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」  1948.6.26 崎久保、飛松「復権」≫  この場合は「フレームアップ」が「認められた」のではないようです。


 後の「年譜」では触れられているようですが「真実を明らかにする会」の 活動には触れていないのはバランスが悪いですね。

6

全体的に

周辺の事象には細かく記している点もあるにも拘わらず、フレーム・アップ された「事件」の実相には全く触れていないというのは、あんまりではないでしょうか。 契機となった明科事件から、検挙→大審院の判決というのは「概要」にしても 説明不足ですね。

7 年表にかんして、

>6月1日 幸徳秋水、管野スガらを湯河原で逮捕

これは、全く文献を読まずに書いていますね。 湯河原で逮捕されたのは幸徳一人です。

管野は『自由思想』刊行の件で5月18日に罰金を払う代わりに 自ら収監を選んでいます。それで爆裂弾を投げる計画は 半ば「凍結」状態になっていたわけです。

8

管野の名の「表記」に関して

 両親に付けられた本名は、ひらがなの「すが」ということらしいです。 それが1895年、15歳で大分県に「転籍」した時に戸籍上は「スガ」と カタカナで表記されてしまいます。  『管野須賀子全集』1984年刊、弘隆社刊の年譜。編者、清水卯之助に よる註書き。戸籍法の改正かと疑問付き。それまでの戸籍は、ひらがな の「すが」ということらしいです。

 文章を書くようになって、執筆テキストの多くは須賀子を使っています。 1905年以降。獄外に居た時の書簡類も須賀子。  獄中からの手紙も須賀子を最後まで使っています。

 官憲の資料、法廷記録は「スガ」と表記されています。戸籍表記第一 「主義」なのか。幸徳は「伝次郎」とされています。

 ちなみに官憲の資料は堺の夫人、為子も「タメ」、大杉の夫人保子も「ヤス」 と表記されています。(『社会主義者沿革』に掲載の動静事項において。)

 私自身は本名を使いたいと思っていますが「すが」。 しかし『全集』編者が「須賀子」を選択しているし、 本人が社会主義者になってからは須賀子で通しているようなので 複雑なところです。

 仲間うちでは幽月、幸徳宛には「月」と記す場合があります。


 以下のノートはDKとは別の方の書き込みです


 現在の日本の学界では、「幸徳事件」という呼称はあっても、「幸徳秋水事件」という呼称は存在しません。また、「幸徳秋水事件」と表現した事例も、1次資料を含めてほとんどありません。「幸徳秋水事件」は「幸徳事件」にあらためるべきだと思われます。

「大逆事件の真実をあきらかにする会」か「初期社会主義研究会」に問い合わせてみてはどうでしょうか? 


 関連人物の欄、幸徳から管野まで、刑死した順番で並んでますね。


編集しました DK 2004.4.12 3月19日に「課題」を提起したのですが、それまでに編集した方の反応が ないので。



幸徳秋水事件」という呼称について。岩城之徳著 / 近藤典彦編『石川啄木と幸徳秋水事件』(吉川弘文館、1996年10月。ISBN 4-642-03665-2)という研究書があります。故岩城氏は、「幸徳秋水事件」という呼称を使っています。220.220.124.132 02:59 2004年5月18日 (UTC)

記事移動

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いつまでも本文中に「誤用である」と書かれているのもどうかと思うので「幸徳事件」に移動させようかと思います。「幸徳事件」の法がよく使われているようですし。移動後は「幸徳秋水事件」は「幸徳事件」へのリダイレクトとして残ります。こちらもそのような表記がないわけではないようなのでリダイレクトとして残しておいたほうがよいと思います。U.S.S.Momotaro 2004年10月16日 (土) 04:52 (UTC)[返信]

何の反対もないようなので移動させました。U.S.S.Momotaro 2005年3月31日 (木) 08:18 (UTC)[返信]

記事名については何とも...ですが、(2004年4月11日 (日) 14:17の版)で投稿された内容は、 [www.ocv.ne.jp/~kameda/koutoku-giken.html|幸徳事件] のコピペではないでせうか? --忠太 2004年10月24日 (日) 14:16 (UTC)[返信]

忠太さんが挙げられたページは金子文子ノートに書かれている方と同一ですので、おそらく大丈夫だろうと思いましたが、念のため確認のメールを出しておきました。U.S.S.Momotaro 2004年11月13日 (土) 07:16 (UTC)[返信]
成程、お手数をお掛けしました。--忠太 2004年11月13日 (土) 16:02 (UTC)[返信]

秋季逆謀とは?

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一体何なのでしょうか? --忠太 2005年5月11日 (水) 12:16 (UTC)[返信]

「秋季」の「逆謀」ということだと思いますが、秋季運動会でもあるまいに、何か変なので「秋季」はとりました。--Calvero 2007年8月16日 (木) 20:29 (UTC)[返信]


★「秋季逆謀」は大審院の「判決理由」本文において使用されている語です。逆謀はペーパー版の辞書をひけば掲載されているはずです。秋季はその時期に実行するという幅をもたせた表現に過ぎません。1910年の1月の「会合」を秋の時期の「謀りごと」と認定したのが大審院の判決理由。ご自身のレベルで学校運動会しか思いつかず、「何か変なの」と情緒的に判断するのではなく1900年代に司法の場で使用されている言語表現を認識した上で判断をすべきでしょう。変更をするならば一次史料、「大審院判決」程度をせめてお読みになってから判断したらどうでしょうか。  当該本文<大審院判決理由において「爆裂弾を用い馬車で通行する天皇に投げつける」秋季逆謀>  大審院の認定<1910年1月1日 幸徳方、4人会合、1月23日 古河、幸徳を訪問、幸徳は病気で寝ていた、管野、新村と秋季逆謀の実行協議>Futei

仏教関係のカテゴリ除去しました

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出来事のごく一部に寺社信徒が関係したと言うだけで仏教関係のカテゴリに追加しないでください。(きわめて多数の記事を追加する事に繋がるため)--Krkrkrme会話2020年12月2日 (水) 02:28 (UTC)[返信]