ノート:平氏政権
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- これまでの議論
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- 2005年12月21日 (水) 02:35までの議論->ノート:平氏政権/ログ - (主な内容)平氏政権は武家政権か?学説の変遷は?
- 2006年2月4日 (土) 01:03までの議論->ノート:平氏政権 ログ2 - (主な内容)項目執筆する上で依拠すべき根拠とは?
延暦寺as反平氏勢力
[編集]水野白楓さんのこの編集につきまして。自分が当該箇所を記述したのですが、そのとき参照したのが『日本社会の歴史(中)』(網野善彦、岩波新書)です。同書によれば、清盛による前例無視の挙行に対して、それまで対立し合っていた延暦寺・園城寺・興福寺らが合同して、清盛に反対の意を示したという旨の記述がありましたので、それに依って記述したものです。網野先生が上記記述の根拠とされた史料が何だったのか自分は調べておらず、判りません。とりあえず情報としてここに記しておきます。--shimoxx 2006年3月14日 (火) 16:32 (UTC)
- ちょっと興味がわいたので調べてみました。玉葉の治承4年3月17日[1]に「御幸延引の事、園城寺の大衆発起し延暦寺及び南都の衆徒を相語らい」とあるようです。平家物語には「三月十七日新院安芸の一宮厳島の社へ御幸なるべきにありけるが、東大寺興福寺園城寺の大衆等、京へうち入べきよし聞えて、京中さわぎければ、御幸俄に思召とどまらせ給ひけり」[2]とあります。とりあえず情報として。参考にして下さい。--俊 2006年3月14日 (火) 17:18 (UTC)
- まあ、網野先生は『日本社会の歴史』でかなり大胆な議論展開、換言すれば勇み足をだいぶやらかしてまして、平氏政権に対する延暦寺の姿勢についても、玉葉だけを根拠としている気がするようなしないような・・・。shimoxx 2006年3月15日 (水) 14:06 (UTC)
- 一応、私は元木泰雄氏あたりの著書を参考にしたのですが、平家と比叡山が協調関係を取っており、二条天皇崩御直後の比叡山の強訴に清盛は出陣を拒み(平家物語にも記載)、藤原成親が比叡山の圧力で流罪になった折も平家が比叡山の僧兵を食い止めなかったためだと法皇の不満を買っているようです(鹿ケ谷の陰謀の際に法皇が比叡山討伐を強く清盛に命じているのは両者の連携を絶つ為だった可能性がある)。ただ、「玉葉」の話がガセかと言えばそうではなく、この頃から計画が進められてこの年の夏に行われた福原京遷都に比叡山側は強く不満を抱き、大衆を中心として上へ突き上げる形での反平氏の園城寺や興福寺と連携の動きがあったようです。ただ、当初はこの動きを無視する態度を取っていた平家側も富士川の敗北を機に勢力建て直しの必要に迫られて比叡山側との関係修復に乗り出した結果、京都還都後に取りあえず比叡山との関係は改善されて、清盛在世中(取りあえず義仲上洛あたりまで)はその関係が維持された…という流れのようです。--水野白楓 2006年6月9日 (金) 13:34 (UTC)
評価と意義
[編集]「1970年代・1980年代頃から、史料に基づく実証的な研究が進んでいくと、平氏政権も鎌倉幕府に先立って武家政権的な性格を呈していたことが判明するようになった。」とのことですが、代表的な論文を脚注で示しておいたほうが良いと思います。219.97.105.61 2006年12月20日 (水) 05:51 (UTC)[
- とりあえず書いてみました。ご指摘どうもありがとうございました。--shimoxx 2007年5月12日 (土) 15:41 (UTC)