ノート:平康頼
「ふるさと森山」 鴨島町森山公民館郷土研究会TEL.FAX 0883-22-3655 1186年(文治2年)以降の平康頼 阿波国麻植保保司の頃の康頼に関し最も信頼出来る資料と思われます。 --114.156.88.97 2009年5月14日 (木) 15:39 (UTC)
検非違使の位として、督(長官)一人、佐(次官)左右各二人、判官(三等官)大尉は左右各二人、少尉は人数不定、志(主典 四等官)人数不定となり、上から、別当、左衛門佐、右衛門佐、左衛門大尉(平康頼)、右衛門大尉、左衛門少尉、右衛門少尉、左衛門大志、右衛門大志、左衛門少志、右衛門少志、となり、この下に下級役人の、衛門府生、看督長、案主、火長、(無官 下級役人)などがいて、その下に、下級兵士がいた。 左衛門大尉は康頼の検非違使の組織上の階級です。--114.156.88.97 2009年5月27日 (水) 15:08 (UTC) 、--署名が削除されていたため復帰。さらに114.156.88.97 2009年5月29日 (金) 12:06 (UTC)により記載内容の修正が行われています。--Snap55 2009年5月30日 (土) 04:42 (UTC)補記
長官を別当といい、公卿出身で衛門督か兵衛督を兼ている者から選ばれ、中納言であることが多い。次官は左・右衛門佐が二人ずつで四人、家柄や人物から選ばれる。尉は大と少があり、大尉は左・右二人ずつ、少尉は人数不定で武士で構成され、追捕の指揮に当たる。佐と尉を唐(中国)名で廷尉と呼び、また尉だけは和名で判官と呼ぶ。四等官は大志と少志があり、その下に衛門府生、看督長、安主(書記)、火長(兵士十人の長)などがいて、更にその下に下級兵士がいた。 大尉は明法道(法律)出身の中原・坂上家から選ばれる。康頼は従五位上であったから大尉であった。尉の位階は、ふつう正六位止まりとされているが、たまには五位に上る者もあり、康頼は頭角を現している人物の一人であったから、従五位上という最高の位階であった。 ふるさと森山(鴨島町森山公民館郷土研究会 1990年)10-11ページ --114.156.88.97 2009年5月27日 (水) 15:08 (UTC) --署名誤り、正当な署名は--114.156.88.97 2009年5月29日 (金) 12:06 (UTC)です--Snap55 2009年5月30日 (土) 04:42 (UTC)補記
- (114.156.88.97 2009年5月27日 (水) 15:08 (UTC) に対する回答)
- 当方の認識は以下です。出典は(和田秀松『官職要解』講談社学術文庫,140,147,150-155頁)です。
- 恐縮ですが、「左衛門大じょうは(康頼の)検非違使の組織上の階級」と主張されるのであれば、出典を明示頂けませんでしょうか。当方も確認してみますので。--Snap55 2009年5月27日 (水) 15:57 (UTC) 修正--Snap55 2009年5月27日 (水) 16:16 (UTC)
- (114.156.88.97 2009年5月29日 (金) 12:06 (UTC)に対する回答)
- 2009年5月29日 (金) 12:06 (UTC)に記載頂いた「長官を別当といい~」以下の内容については概ね認識相違ありません(衛門府生が検非違使の構成要素であることを除く)。但し、この内容では「左衛門大じょうは(康頼の)検非違使の組織上の階級」とは解釈できません。具体的には検非違使の尉は「検非違使尉」と解釈するのが自然であり、これを「衛門尉」とは解釈できません。ついては、以下ご回答お願いします。
- また、ノートページへの投稿書式が適切ではありませんでしたので、当方にて署名等補記を行っております。恐れ入りますがHelp:ノートページをよくお読みの上投稿下さいますようお願い致します。
- --Snap55 2009年5月30日 (土) 04:42 (UTC)
[ふるさと森山」森山公民館 TEL.FAX 0883-22-3655 十数冊の在庫があるそうです、お問い合わせください。 本の値段1500円--114.169.161.155 2009年9月30日 (水) 04:54 (UTC)
- 論点がずれています。誰も購入先など知りたいわけではありません。
- なにかというと『ふるさと森山』ですが、『ふるさと森山』はそんなに信頼性がある著書なのでしょうか。
- また、執筆者は誰で、その論説は学会などでどの程度支持されているものなのでしょうか。
- --220.215.160.165 2009年10月30日 (金) 18:43 (UTC)