ノート:崇源院
2度目の夫「秀勝」について
[編集]崇源院の2度目の夫、秀勝は、文禄の役で死亡とありますが、
秀勝については、天正19年(1591)、岐阜城主、参議、岐阜宰相と呼ばれ、
この年、19歳のお江、と22歳、あるいは、23歳の秀勝の結婚があったと思われますが、
確認していません。、
(天正20年)
=文禄元年(1592)6月、秀勝、朝鮮出陣があり、9月9日、死没、病死。
その年、完子誕生。
天正⇒文禄の改元が天正20年12月8日(グレゴリオ歴1592年1月10日)の
ため、年号と西暦がごちゃごちゃする時期ですので、わかりやすい記述
がよいかと思います。
もうひとりの秀勝、 信長の四男、お次丸、秀勝、亀山城で、病死、天正13年12月10日(1585)と 混同の可能性があります。 --以上の署名のないコメントは、Murata3465(会話・投稿記録)さんが 2010年11月14日 03:23 (UTC) に投稿したものです(58.188.122.67による付記)。
佐治一成との「結婚」について
[編集]わたしが節名を創設した際に「婚礼」の言葉を選んだ意図としては、加筆する際に福田千鶴「江の生涯」を参照し、従来の定説では江と佐治一成との婚姻を秀吉の意向とするものだったのですが、福田氏はこれを信長存命時の、江がまだ適齢期でない養女のころではなかったのかと新説を提唱しており、婚約のみであった可能性もあると示唆されております。
このため「結婚」よりも「婚礼」を用いたほうが婚約から実際に嫁ぐまでの幅のある表現でよいのではないか、ということです。「婚姻」のほうがより適切かもしれませんね。
「結婚」もしくは「婚礼」で?マークを節名につけてしまうのはどうだろうと思います。婚礼事態がなかったかのようなニュアンスを節名で与えてしまう懸念はあります。「江の生涯」を読む限りでは、まったく婚姻の話すらなかったとするような説はないようですし、あくまで福田氏の考える婚約のみではないか説から実際に嫁いでいたとする説までの幅であるように思いますし、「結婚」でも構わないには構わないと思いますが(福田氏の著作での章名にも用いられていますし)、「婚姻」がより適切かもわかりませんね。
と考えますが、いかがでしょうか。--でここ 2011年2月2日 (水) 14:17 (UTC)