ノート:島津忠信
西木田の島津山周防院専光寺には、忠綱の念持仏とつたえる阿弥陀如来像や薩摩から運ばせたという「島津石」があると『神戸史談』に記されていましたが、実在するのでしょうか?もしお知りでしたら、お教えください。
実は、以前、これら[阿弥陀如来像]と「島津石」がみたくて、福井市専光寺を探し、「嶌津山弘誓(ごせ)寺が専光寺であった」とのweb上の記事をみ、弘誓(ごせ)寺が専光寺と思っていました。弘誓(ごせ)寺に行ってみましたが、「島津石」らしきものはありませんでした。寺の家の表札は島津さんでしたが、お会いできませんでした。また、お寺の島津家の墓の家紋は「丸に筆十字」でした。専光寺および弘誓(ごせ)寺の御住職は、やはり共に、越前島津家末裔のかたなのでしょうか。
650回忌が行われたのは、やはり、弘誓(ごせ)寺のほうでしょうか。文献『播磨の島津氏について』では、650回忌が行われたのは「福井市専光寺」としか記されておりません。明治時代にはすでに、弘誓(ごせ)寺となっていたのなら、文献にも「福井市弘誓(ごせ)寺」と記載されてもおかしくないと思います。もし、これら事実関係について、お知りでしたら、お教えください。
また、忠信のよみかたは、「ただのぶ」でしょうか「ただあき」でしょうか?
分かる範囲ですが・・・
[編集]分かる範囲ですがお答えさせていただきたいと思います。
忠綱650回忌法要が行われたのは、弘誓寺の方だと思います。というのは、忠綱の没年を1244年としているのは弘誓寺の伝だけであり(専光寺文書にはそのような記述はありません)、いうまでもなくこの没年は明白な誤伝ですから、この没年を根拠に法要を行うのは弘誓寺以外にはありえないのではないかと思います。また、専光寺の歴史を調査した殆ど唯一の文献として蓮川義雄『専光寺略伝』がありますが、同書にもそうした事実は記載されておりません。これらのことから、「播磨の島津氏」が云うところの専光寺は、専光寺の弟格ともいうべき弘誓寺と考えるのが妥当と思われます。専光寺の弟格の寺院としては専蓮寺がありますが、こちらは鯖江市ですので違うと考えます。ちなみに弘誓寺の寺伝はやや疑義が多く、忠綱の没年だけでなく、南北朝時代の人物である「祖海(=島津忠信)」を江戸後期の人物としていることなど、初歩的な誤りが目立ちます。なお、決して専光寺が弘誓寺になったのではありません。分離独立したといった方が正確なようです。忠綱伝来の阿弥陀如来像と島津石が伝存しているのは専光寺の方です。
忠信の読みは「ただのぶ」で良いのですが、西木田専光寺の文書類にも異説があります。簡単に系図を表示すると下記の3通りが確認されています。
- 忠綱-忠景-忠宗-忠秀-忠信(祖海)-忠章(戦死)-祖準法師
- 忠綱-忠景-忠宗-忠章(祖海)-忠準(戦死)
- 忠綱-忠氏-□□-忠光-忠信(祖海)-忠晴(戦死)
といった具合で、祖海の俗名は忠信となっているものと忠章(ただあき/ただあきら)となっているものがあります。忠信としている系図では、その子の名が忠章とされている場合もあり、かなり記録が混乱していると言わざるをえません。また、祖海の子が戦死している点はいずれも一致しますが、越前国鯖江の三峰城合戦で戦死したとするものと、京都六波羅で戦死したとするものがあり、ここでも食い違いが生じます。
なお、3例目の系図の忠氏の子にあたる人物ですが、私の見た資料では省略されていたり、虫損のためか表示されていなかったりで確認できませんでした。ご存知の方がいらっしゃいましたなら御教示いただけると幸いです。
訂正
[編集]弘誓寺伝の記述は、播州島津家系図の記載に基づくものと思われ、法要が行われたのは専光寺であると考えられます。本文も訂正しました。