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ノート:岡精義/内容整理例

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 来歴 

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明治39年(1906年)12月、 岡山県倉敷市で生まれた。岡精義は、幼少の頃から叔母の元で育った。旧制中学校を卒業した後、大正12年(1923年)、神戸市へ移住し、港湾荷役沖仲仕として働き始めた。

昭和5年(1930年)、神戸の賭場で、田岡一雄(後の山口組三代目組長)と知り合った。その後、金銭的に苦しかったこともあり、田岡一雄の借り上げた部屋に、度々滞在し寝食を共にするようになった。

昭和9年(1934年)8月、海員争議が起こり、会社側から二代目山口組・山口登組長に、紛争解決の調停役を依頼された。山口組舎弟の西田幸一田尻春吉が、山口登の代理人として会議に出席した。話し合いがこじれ乱闘となり、西田幸一は殺害され、田尻春吉も重傷を負った。その知らせを受けた田岡一雄[1] が、岡精義とともに、海員組合争議本部に乗り込み、日本刀で組合長を斬りつけ、重傷を負わせた。田岡一雄は傷害罪懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所に服役した。

昭和10年(1935年)、港湾荷役の下請け業となり、東南アジア各地の湊の軍役荷役に従軍した[2]

昭和18年(1943年)、岡精義は、帰国して、神戸港運株式会社を起こした。

昭和21年(1946年)10月13日(文献により異論あり[3])、田岡一雄の山口組三代目襲名式が行われた。その4日後、襲名披露宴の席において、岡精義は田岡一雄の若衆(後に舎弟)となった。

昭和22年(1947年)8月15日、民間貿易の再開が許可された。岡精義は田岡に対して、これを機に港湾事業へ積極的に参加していくことを提案し、田岡はこれを容れた。しかし、昭和23年(1948年)6月、連合軍司令部(GHQ)の指令により目論見が外れる。GHQ経済科学局民間運輸課の指令(コンファレンス・メモ)は、荷役作業の元請け業者のみを認めて、荷役作業の下請けと第二次下請けを禁止するものであった。これには港湾運送事業の統制会社を解体し、港湾労務の中間搾取を排除する狙いがあった。荷役作業の下請けと第二次下請けの会社は、元請け会社に組み込まれ、元請け会社の「作業部」になった。これにより、田岡の港湾事業は頓挫した。田岡は、岡精義を保阪運送会社の神戸支店作業部長に送り込み、しのぎの確保を目指した。

昭和25年(1950年)6月25日、朝鮮戦争が勃発した。同年6月28日、北朝鮮は、韓国の首都ソウルを陥落させた。神戸港は、朝鮮半島の米軍への補給基地となった。港湾業務の下請けを禁止したGHQのコンファレンス・メモは有名無実となった。これにより、田岡には、再び神戸市の港湾事業を押さえるチャンスが巡ってきた。

昭和26年(1951年)5月、運輸省は、コンファレンス・メモに代わって、港湾運送事業法を制定した。この法律で、港湾業務が一般港湾運送(元請け)、船内荷役、はしけ運送、沿岸運送に分けられ、それぞれが基準に沿った登録制となった。田岡は、岡精義の進言に従い、再び港湾事業に進出した。岡精義は、三友運輸株式会社を設立した。なお、三友運輸は翌年「三友企業」に改称している。

昭和27年(1942年)8月29日、田岡一雄は全国の船内荷役の第二次下請けが集まった全国規模の団体である「全国港湾荷役振興協会」を設立しし、岡精義は常任理事となった。

同年8月、田岡一雄は、岡精義を含む7名による協議機関「七人衆」を設置した。

昭和40年(1965年)、山口組に対する第一次頂上作戦が開始された。4月25日、岡精義は兵庫県警捜査四課を通じて、田岡一雄に引退届けを送った。5月2日、田岡一雄は岡精義の引退を認めた。

脚注

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  1. ^ 当時はまだ正式な若衆ではなかった。
  2. ^ 飯干晃一『山口組三代目 野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9のP.76
  3. ^ 飯干晃一『山口組三代目 1 《野望篇》』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では、「昭和21年(1946年)10月13日に田岡一雄の山口組三代目襲名式が行われた」としているが、溝口敦 外『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4では、「山口組三代目襲名式が行われたのは、昭和21年8月」としている