ノート:岡倉天心
岡倉天心の思想性について
[編集]Wikipedia中国語版及びWikipedia英語版には岡倉天心の大アジア主義思想が軍国主義につながったということを主張しておりますが、日本語版はどのような対応を取ればいいでしょうか。そのようなことも記述したほうがいいでしょうか。
参考
中国語の原文(2006年8月27日現在のもの) http://zh-two.iwiki.icu/wiki/%E5%86%88%E4%BB%93%E5%A4%A9%E5%BF%83
虽然冈仓将亚洲文明视为一体,但是他认为日本应当承担“兴亚”的使命,甚至以战争实现。他的思想是后来的“大东合邦论”以及以“兴亚”为名、以侵略为实的政策的重要源流。
しかし岡倉はアジアに文明で一体と見なして、ただし彼は日本が“興亜”を引き受けなければいけないことの使命と考えて、甚だしきに至っては戦争によって実現する。彼の思想は“興亜”をもって名としておよび“大東の合国論”は以後で、もって実際を侵略する政策の重要な源流とする。(yahoo版の日本語訳)
英語版の原文(2006年8月27日現在のもの) http://en-two.iwiki.icu/wiki/Okakura_Kakuzo
His book, The Ideals of the East, (1904), published on the eve of the Russo-Japanese War, is famous for its opening line, "Asia is one." He argued that Asia is "one" in its humiliation, of falling behind in achieving modernization, and thus being colonized by the Western powers. This was an early expression of Pan-Asianism.
But then afterward, Okakura was compelled to protest against a Japan that tried to catch up with the Western powers by sacrificing other Asian countries in the Russo-Japanese War. Japan rapidly advanced militarily across Asia, but was forced to do an about-face after its defeat in World War II.
日露戦争勃発の直前に発行された岡倉天心の著書「東邦の理想」(1904年)の冒頭において「アジアは一つである」としました。岡倉は、アジアは、近代化に遅れ、西洋列強によって植民地化されたという点において同じ屈辱を受けているということを主張しました。これは、岡倉最初の汎アジア主義の表明です。
しかし、その後、岡倉は日露戦争において西洋に対抗するために他のアジア諸国を犠牲にして追いつこうとする日本に対する抵抗を受けることをを余儀なくされました。日本は早くからアジアへ軍事的進出を行いましたが、第2次世界大戦の敗北によって方向転換を余儀なくされました。
--Tamachan21 2006年8月27日 (日) 02:38 (UTC)
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