ノート:山田城
出典明記のお願い
[編集]まず、築城の『矢板市史』年表関連の要出典を要出典範囲と間違えて編集・取り消したことをお詫びします。 さて、この要出典範囲ですが、『矢板市史』の年表が矛盾するのは事実です。しかし、その矛盾を説明する説・話の出所が不明です。地元の人の噂では困るため、出典明記をお願いします。--KurmUmy 2009年9月2日 (水) 10:50 (UTC)
- 上で指摘した『矢板市史』の問題について出典なく除去されたためタグを復帰しました。「塩谷朝業」(塩谷朝業顕彰会編、1975年)は『矢板市史』発行前で市史の評価はできません。地元郷土史家のなかで『矢板市史』の解釈がなされ常識となっているのかもしれませんが、その解釈を本などに記載しなければ、wikipediaでは情報源として使えません。
- なお山田八郎の家系が家老となったのではとする推定を行った本、山田城の三重の堀切を考証した本もありませんでしたのでタグを追加しました。なお「廃城後の山田城」における地元伝承の様子と墓の推察も出典がありませんでしたが、記述からwikipedia執筆者の調査結果報告の疑い大とみなし除去しました。--KurmUmy 2009年9月9日 (水) 12:08 (UTC)
荒らし行為はおやめください
[編集]すでに参考資料で明示されています。KurmUmyさんは、読み落としなく、正確に資料を読まれる事をお勧めします。自分の読み落としや誤解で、何度も勝手に記事を消したり、要出典を乱発したり、独自研究や憶測的記述など、感情に任せた誹謗中傷をノートに書き込む、あるいは、乙畑城の記述では、中途半端な理解で、明らかに間違った記述を書き込み、正しい見解の記述を削除されてしまうなどの荒らし行為をされていますが、自分が読み落としたり理解出来ないだけで、あるいは、自らの勝手な解釈で、そうした行為をされるのはおやめください。まずは、出典をきちんと読まれることをお勧めします。--Y_mon 2009年9月12日 (水) 21:33 (UTC)
- ではお聞きします。なぜ私が追加した出典ある部分まで差し戻すのですか?次に、『塩谷朝業』の書誌情報を消去するのは何故ですか? そして、上記で指摘した『矢板市史』の、年表が矛盾することがおかしいとみなし、その解釈をした部分の出所が書いてないことは、一体どこにありますか? なお、たった2名だと平行線なので、コメント依頼で広く意見を募りたいのですが、いかがでしょう?--KurmUmy 2009年9月12日 (土) 14:34 (UTC)
「応永21年築城説について」節の問題点
[編集]記事本文にある上記題名の節に出典が不足しています。 まず節の前段部分は問題ありません。『矢板市史』の年表に、応永21年山田城築城の記述があるのは間違いなく、また市史がこの年の築城の根拠を記述せず、市史の山田城の記述とも異なる表現なのは明らかです。「他の矢板市刊行物の年表」が具体的に何を指すのか不明ですが、矢板市教育委員会の『ふるさと矢板のあゆみ』(1989年)・『歌人 塩谷朝業』(1998年)でも触れていない説です。しかしこの事実を解説する次の部分が出典不足です。
- 「(矢板市史の年表では)那須氏の歴史と併記して表記されているため、この山田城築城は、那須領片田の山田城の築城と誤解したものではないかとも考えられている。その一方で、この年に近隣の沢村城で、那須内紛の戦が行われているため、この頃に、これに備えて那須との境界にある山田城が整備され、詰め城である山城部が築かれたのではないかとする説があり、これを支持した矢板市史の編纂者が、年表に載せたとする話もある。」(記事本文より引用)
参考資料として挙がる「矢板市史」「塩谷朝業」ですが、まず『矢板市史』記述の解釈の文章ですので、解説文出典に『矢板市史』は該当しません。一方、書誌情報が無い「塩谷朝業」は、私の管見では『塩谷朝業』(塩谷朝業顕彰会編、1975年)がありますがこれは市史発行前で市史の解釈は不可能です。似たような題の『歌人 塩谷朝業』(矢板市教育委員会、1998年改訂版発行)は子供向けの平易な文章であり、先行研究の解説は全くありません。書誌情報が不足した「塩谷朝業」が出典で、上記に示した本と違うものなら正確な書誌情報が必要ですし、別の文献であればやはり出典を追加しなくてはなりません。--KurmUmy 2009年9月16日 (水) 08:25 (UTC)