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ノート:山沖之彦

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  • 2007年12月30日 (日) 03:47の版より、「JR北海道野球部に監督就任予定」(また、「佐藤義則がコーチ就任予定」)という旨の記述がありましたが、ソースらしいソースが見当たらなかったため、削除しました。--崎宏 2009年2月4日 (水) 23:20 (UTC)[返信]

1990年の打席について

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「1990年9月12日の日本ハム戦では投手として打席に立ち、この時は四球を選んでいる。」との記述がありますが,1990年の9月12日は日本ハム戦ではなく近鉄戦です([1]参照)。おそらくソースはこちらのサイト[2]と思われますが,このサイトの記述が間違っている可能性が高く,近鉄戦でリリーフ登板して打席が回ってきたのか,あるいはちょうど翌週9月19日に日本ハム戦で先発登板をしているのでこちらの試合で打席が回ってきたのかどちらかだと思います。正しい情報がわかり次第,訂正しようと思うのですが,どなたか情報をお持ちの方はいらっしゃいませんか--Marinejet09会話2013年5月4日 (土) 15:48 (UTC)[返信]

報告 情報 日本プロ野球記録によると、1990年9月12日の近鉄vsオリックス 24回戦には出場しておらず、9月19日の日本ハムvsオリックス 25回戦で1四死球を記録しています。ただし、「このサイトについて」には「個人サイト」との記載があり、出典としては使えなそうです(もし商業メディア等で同サイトの運営者であることを公表したうえで活動しているのであれば、考慮の余地があるかもしれません)。活字資料も存在するはずですが、とりあえず出典を追加せずに記述を修正しました。
なお、翌9月20日の朝日新聞朝刊(東京本社14版22面、大阪本社14版23面)を確認しましたが、ボックススコアの記載が打数・安打・打点のため、先発投手の山沖が途中から打順に入ったことしか確認できません。記事本文でも言及されていないようです。
(守備位置を考えると山沖が九番に入るのと同時に福原峰夫が八番打者として二塁守備についたことが確認でき、その福原が1打数を記録しており、ボックススコアによると30打数、四死球6、犠打飛1、ファイターズの失策0(⇒妨害による出塁0)で合計37打席なので山沖にも打順が回ったことが確認でき、村上信一が犠飛を記録したことが記事中で触れられているので、山沖が四死球で出塁したことが論理的に導ける……はずですが、こういった論理の展開はできれば避けたほうが望ましいと思います)
蛇足ながら、同選手に限らず一般論として、ウィキペディア日本語版の日本プロ野球選手の記事では成績等の典拠がほとんど示されていないようです。(私の勘違いかもしれませんが)体系的に整備されたわけでもメンテナンスされているわけでもなく、信頼性が担保されていないウェブ上の情報を出典も示さずに孫引き・曽孫引きしているうえ、ボット等で無謬性を確保しているわけでもないようです。ウェブ上の日本プロ野球についての情報がかなり充実した現在となっては、選手記事での成績の掲載はむしろ有害だと思います。典拠に基づいていない現状を考えると、個人サイトのほうが属人的に信頼できる点で有益でしょう。そもそも個人的には日本語版に限らずウィキペディアそのものが功より罪のほうが大きいと思っていますが……。 --KAWASAKI Hiroyuki会話2016年5月31日 (火) 18:05 (UTC)[返信]

脚注

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  1. ^ http://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/3320/order/1990braves.html
  2. ^ http://cgi.sainet.or.jp/~nishizak/baseball_faq/i/trivia_T3.html