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ノート:尼港事件

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大幅な改変の問題点

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事件の本質を歪めるような大幅な改変をする場合は合意を得てください。有益な記事もあるかと思いますので、加筆を合意を得られる形でできるように問題点を解決すべきと考えますので宜しくお願いします。

問題点1

尼港事件を「第一次のそれは日本人居留民ならびに守備隊の集団自決事件」とするのは一般的ではないようです。また、非常に膨大な書き換えの大部分が原暉之の著書に帰依した非常に偏った編集であることを指摘します。Pc100 2009年2月2日 (月) 16:02 (UTC)[返信]

返答

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《一般的ではないようです》

では、「一般的」とされる理解を文献を提示したうえで述べてください。依拠した文献を提示をしない、あるいはできない記述は、学術的なものと見なすことができません。また「一般的に」いえば、歴史学では資料の発見により事実が覆ることはしばしばあることです。

《大部分が原暉之の著書に帰依した非常に偏った編集》

私が知る限り、シベリア出兵ならびに同事件にまつわる記述は、日本語文献としては原氏がもっとも包括的なものです。日露欧米の一次資料の読み込みにせよ、資料の解釈にせよです。もし同氏の見解に異論があるのであるならば、上で述べたとおり、文献を提示したうえで反論なり訂正をお願いしたい所存です。それが学問的な手続きというものです。

以上

--Iketomatsu 2009年2月8日 (日) 06:21 (UTC)[返信]

編集合戦を起こす前に回答をしていただきたかったのですが、今後は強引な改変を避けて合意を形成してください。ネット上でも尼港事件を集団自決事件とするものが見られません。また資料としては大正9年4月20日付の「大阪毎日新聞」の海軍士官の手記や大正9年6月13日付「時事新報」でももちろん、著作や著名な研究者でそうした事件の捉え方をしているのは原暉之の著書以外に例がないようです。原の見解について他の研究者の評価する声も見当たらず、一般にそのように認識もされていないことから、その見解については評価に値しないものと扱われていることが伺えます。そうした異端説は、そのようにわかるように編集すべきで、ましてや主流であるかのように全面的に原の著書に帰依した改変は不適切です。Pc100 2009年2月8日 (日) 08:48 (UTC)[返信]

返答(2)

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《著作や著名な研究者でそうした事件の捉え方をしているのは原暉之の著書以外に例がないようです。》

まず先に述べたように、記述を行う場合は「一般に」参考にした文献を具体的にあげてください。

《原の見解について他の研究者の評価する声も見当たらず、一般にそのように認識もされていないことから、その見解については評価に値しないものと扱われていることが伺えます。》

本件にかぎっていえば、誰がどのように原氏の記述に反論しているのか、その記述を行ってください。

ネットの記述にせよ同様です。文献資料が記載されていないものは問題になりません。

また返答で唯一上げられてい資料である《大正9年4月20日付の「大阪毎日新聞」の海軍士官の手記や大正9年6月13日付「時事新報」》

これは原氏の著書を見る限り、政府のフレームアップをそのまま垂れ流していることは記事に書いたとおりです。最新の研究成果にもとづいた資料の提示をお願いします。たとえば以下のサイトで尼港事件にまつわる資料を調べられた上で、再度投稿をお願いしたい所存です。

http://webcatplus.nii.ac.jp/

以上

--Iketomatsu 2009年2月11日 (水) 06:12 (UTC)[返信]

原氏の著作にまつわるロシア史研究会・会誌編集長の評価

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以下の著作には原氏の著作にまつわる学会最新の評価が書かれております。ご参考までに引用します。

ロバート・サーヴィス『ロシア革命1900-1927』中嶋毅訳、岩波書店、2005年、索引26頁

「ロシア史家による、このテーマの最高水準の研究。シベリア・極東での革命運動と反共産党勢力との対抗も詳しく描かれている。」

また原氏自身の自己評価については以下のサイトを参照

http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/tenken/2001/hara.html --以上の署名のないコメントは、Iketomatsu会話投稿記録)さんが 2009年3月1日 (日) 08:46 (UTC) に投稿したものです(Kitimi会話)による付記)。[返信]

中嶋毅=学会でしょうか?またその評価の中で尼港事件を「集団自決」事件とする原氏の見解を支持していますか?Nittyieno 2009年3月5日 (木) 18:56 (UTC)[返信]

〈回答〉

同氏は現在ロシア史研究会の会誌編集長です。

http://read.jst.go.jp/public/cs_ksh_007EventAction.do?action4=event&lang_act4=J&judge_act4=2&knkysh_name_code=1000003732

であれば現在の学会の見解を代表している人物と見なしてかまわないでしょう。

《またその評価の中で尼港事件を「集団自決」事件とする原氏の見解を支持していますか》

ご自分でお調べください。自分は文献や情報を提示せぬままプロパガンダに類する記事を掲載しつづける一方で、こちらの提供した学術的な情報にたいしてはそのような質問を提起するのは、あえて申し上げれば学問的な怠惰・怠慢のみならず不遜だと申し上げざるを得ません。その程度の〈分業〉への努力はお願いしたい所存です。たとえば、同氏に直接お尋ねなさるなどしたらいかがでしょうか。即座に事実が判明することでしょう。

なお今後同種の質問を提起した場合、回答を一切拒絶する所存ですので悪しからず。

以上

--Iketomatsu 2009年3月9日 (月) 04:05 (UTC)[返信]

著作権侵害の虞

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Iketomatsuの編集は尼港事件を集団自決事件と看做す一学者の個人的見解を通説のように記述し中立的な観点に違反しているだけでなく、ほぼ全面的に原暉之の著書からの転載になっていますので著作権侵害の虞があると思われます。2009年3月9日 (月) 09:15 (UTC) --以上の署名のないコメントは、Nittyieno会話投稿記録)さんが 2009年3月9日 (月) 09:15 (UTC) に投稿したものです(Kitimi会話)による付記)。[返信]

2009年の議論とされるもの(ここより上)

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「原氏の著作に寄りすぎているIketomatsu氏の編集」とされるものに問題が何もないというつもりはないのですが(集団自決の存在やその位置づけの大きさがネットではあまり見かけられないというのは事実かもしれないとして、素人なりに各種文献を比較して公平を努力した(からといって正確であるとも思いづらい点も多々ある)『尼港事件の背景を探る』(佐藤誠治)でもほぼ無視しています。とはいえ別にIketomatsu氏の編集が「尼港事件を集団自決と見なしている」と読むのもまた理解に苦しむのですが)、見たところ、現状のひどさの方が明らかに目立ちます。原氏の文献が別の当時の複数の資料に依っていることも明記されている情報も完全に無視した一方的な現状の編集の方がましという理由私には理解不能です。このノート頁の議論はPeace氏のソックパペット濃厚としてブロックされたユーザのみであるという点を無視しても、その主張の稚拙で彼(ら?)の意見を基準にする理由はないです。上記議論らしき何やらをもって「議論中で合意に至っていない」と見なす理由はないと考えます。自ら出典を示して新たな議論を提起される方がいれば是非どうぞ。 Kozawa 2011年2月16日 (水) 16:12 (UTC)[返信]

完全に独自研究ですね。大胆に再編集する必要がありそう。--大和屋敷 2011年9月30日 (金) 12:59 (UTC)[返信]

まず、第一次・第二次という区分は完全な独自研究と思われます。原の著書にそのような用語は見出せません。集団自決に関しては、引用文の通りの個所が原の著書にあるのは確認できますが、居留民が全滅したのは他殺だけでなく自殺が大きな要因という趣旨で、ただちに沖縄戦などのいわゆる集団自決論争と対比する趣旨ではないようです。その他、原の著書に全面的に依拠しつつも、略奪などを繰り返していた韓人第一中隊については触れないなど執筆した利用者の主張にとって都合の悪い個所は省いたり、独自の評価を加えている個所も見られます。--Snlf1 (会話) 2012年3月2日 (金) 03:11 (UTC)[返信]
 尼港事件に関しまして、戦後日本の歴史学者がろくに研究していませんで、原氏の著作以外にまとまったものがありません。しかし、みなさんのご指摘がありますように、原氏の著作は非常に偏向していまして、恣意的な史料解釈が各所に見受けられます。事件からあまりたっていない時期に、白系ロシア人の人々が被害をまとめました英語の記録がありまして、それが近年和訳されました。「ニコラエフスクの破壊」A.Ya.GUTMAN著/訳:齊藤学、ユーラシア貨幣研究所出版です。しかし、ごく少部数の出版だったらしく、北海道の図書館と、国会図書館でしか見つかりませんで、私は国会図書館で読んだのですが、2001年の出版ですので、全文コピーは不可能です。尼港事件は、白系ロシア人たちの虐殺事件でもありまして、もちろん日本人の虐殺にも触れているのですが、パルチザンのあまりの蛮行に、白系ロシア人たちが命がけで残しましたこの調査記録が嘘だったとは、私にはとても思えません。原氏の著作は、この記録と大きく乖離しています。二つをつきあわせて、これにアジ歴の史料を加えて、書き直す必要があると思います。ちょっと私の手にはおえそうもないのですが、どなたか、なさる方がいらっしゃらないものでしょうか。--Iratume会話2012年7月8日 (日) 06:10 (UTC)[返信]
 この項目の参考書としまして、原氏の著作が一番問題となりますのは、パルチザンと日本軍の軋轢のみがクローズアップして捉えられていることです。「ニコラエフスクの破壊」で見ますかぎり、尼港事件は、まずは無法パルチザン部隊によりますニコラエフスク市民(日本人も含む)の虐殺、略奪にはじまっています。その認識が希薄ですから、後の事実がすべて、ゆがんだ鏡に映した像のようになっています。1989年、ソビエト崩壊以前に書かれました原氏の著作以外、研究書がない日本の状況がおかしいと思うのですが、客観的な立場に立ち、ちゃんとした研究をなさる学者さんはおられないのでしょうか。--Iratume会話2012年7月8日 (日) 11:08 (UTC)[返信]

書き直します

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まず、先にみなさんが述べられておりますように、第一次・第二次などといいます区分は、原氏の著作にもありませんし、原氏でさえも、日本人居留民の虐殺が集団自殺だとまでは強弁しておりません。反証が載っていますのは、生き残ったニコラエフスク住民(パルチザンを含む)の証言を集めました「ニコラエフスクの破壊」(A.Ya.GUTMAN著/訳:齊藤学、ユーラシア貨幣研究所出版)です。今回、子細に原氏の著作の注を見て気がつきましたが、原氏は、この文献のロシア語版(1924年ドイツで出版)を参考になさって、引用までされながら、自説に都合の悪い記述はすべて無視されているんですね。これから少しづつ本文を書き直して参りますので、疑問がおありの場合は、お申し出ください。--Iratume会話2012年7月10日 (火) 13:22 (UTC)[返信]

まだ、もう少しかかりますが、全部書き直しました時点で、タグをはずしたいと思います。異議がおありの方は、お申し出いただければ幸いです。--Iratume会話2012年7月24日 (火) 02:52 (UTC)[返信]
上記の経緯を拝見させていただいたところ、強化記事の趣旨にまったくもってぴったりなのでWikipedia:メインページ強化記事投票所に推薦させていただきました。秀逸な記事になるよう頑張ってください。--Chichiii 2012年7月29日 (日) 11:15 (UTC)[返信]
ありがとうございます。だいたい書き終えました。あとは、全国にある尼港殉難者の碑について、です。『アムールのささやき―尼港事件秘録』 (1972年) に詳しい情報が載っているようなんですが、これは地方出版物で、近辺の図書館にはなく、古書は高価なんです。もう少し安価な古書が出るのを待つつもりです。小樽と水戸の碑は、地元の方が写真を撮ってウィキメディア・コモンズにあげてくださると嬉しいのですが。行けそうにないものですから。--Iratume会話2012年7月30日 (月) 07:10 (UTC)[返信]
大変精力的ですね。これだけ出典が付されて充実した記事はなかなかありません。事件にいたるまでにそれ相当の経緯があったことが分かって勉強になりました。Iratumeさんがアップされたご遺体のファイル:Nikolayevsk Incident-2.jpgにスキャン時に何か混入したようなので可能ならば再スキャンもしくは画像修整していただけないでしょうか?--Chichiii 2012年7月30日 (月) 10:56 (UTC)[返信]
シベリア出兵が日本に関係する偏向した記述だけに偏っているようです。興味がありましたら足を運んでみてください。--Chichiii 2012年7月30日 (月) 11:23 (UTC)[返信]
写真は、大正時代の本からスキャンしたものでして、写真のページに虫の死骸がこびりついていたのに、そのままスキャンしてしまったようでして、再スキャンして修正しました。シベリア出兵は、金ギョン天を書いたときにリンクしましてから、原暉之氏の丸写しに近いのでは? と気になっていまして、もっと新しい研究がないものか、と思って見つけましたのが、井竿富雄『初期シベリア出兵の研究』です。視野が広く、非常に興味深い視点で書かれているのですが、しかし名前の通りに、初期のことしか書かれておりませんで、これだけではどうしようもないんです。井竿氏のご研究が進むのを、待つしかないような気がします。他にも、ソ連べったりではない研究者の方が、出てこられないものなのでしょうか。ソ連が崩壊してもうずいぶんたちますのに、信じられない状況です。--Iratume会話2012年7月30日 (月) 15:12 (UTC)[返信]

精力的な加筆お疲れ様です。機会がありましたので、水戸の記念碑を撮影してきました。--Snlf1会話2012年8月5日 (日) 13:28 (UTC)[返信]

ありがとうございました。途中、表現の調整もしていただきまして、助かりました。苦慮していたところでした。尼港事件の加筆は、長年気にかかっていたのですが、論争のある項目ですし、躊躇していたのですが、みなさまのおかげで、いい記事になったと思います。--Iratume会話2012年8月5日 (日) 23:58 (UTC)[返信]

田中義一

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陸軍大臣辞めてますか? 井竿富雄『尼港事件と日本社会、一九二〇年』p4の最後の行に、「進退伺い程度で済んでしまい」とありますし、グートマンは「だれも辞めなかった」と書いているので、辞めてないと思ったのですが。--以上の署名のないコメントは、Iratume会話投稿記録)さんが 2012年7月31日 (火) 13:31 (UTC) に投稿したものです(Kitimi会話)による付記)。[返信]

失礼しました。辞めてますね。確認をとらなかった私が悪いですね。--Iratume会話2012年7月31日 (火) 13:44 (UTC)[返信]
事件から大分経ってから辞めてますから、捉え方によっては辞めなかったとみることも出来るのかもしれません。中野正剛氏の演説集『國民に訴ふ』昭和四年発刊では満洲事件での田中総理の対応を攻撃するために言っているので、本人はどう思って辞めたかは誰にも分からないですね。--Chichiii 2012年7月31日 (火) 13:59 (UTC)[返信]

日本人犠牲者の数

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Chichiii さん、お示しになっている文献を見ていないので躊躇したんですが、このままでは、本文と数がちがってしまいますので、疑問を。802名という日本人犠牲者の数は、どこから出ているんでしょうか。軍人の数は、370余名(一人、二人ちがう資料もあって、確かめなければいけないのですが)でまちがいないのですが、民間人の数が、はっきりわかっていないはずなんです。1919年1月の調査ではニコラエフスクの日本人は291名だったのですが、半年後、1919年の6月には大幅に増えていて、たしか400名を超えていました。ただ、ニコラエフスクの人口は、夏は多く、冬は少ないんです。民間人犠牲者の数は、わかっているだけで350名ほど。それ以上いた、といわれるのですが、はっきりしませんで、通常、全犠牲者700名あまり、とうことになるのだと思います。もしかしまして、軍人の数に1919年6月の人口調査の数をそのままプラスして802人なのでしょうか?--Iratume会話2012年8月2日 (木) 02:48 (UTC)[返信]

問題提起ありがとうございます。私としてはこれだけの事件であり、かつその記事の分量も多大なものでありながら事件の犠牲者についてはやや分かりにくい形になっていると思いましたので、まず、冒頭で事件について何となくわかった上で以降を読み進みやすくしようと思いましたので簡単に書かせていただきました。ところが、自分で書く以上、自分が確認したものであったほうがよいこと、それにIratumeさんが参考にされたものは事件当時のものであり、それから時間を開けてから出版されたのものの方が学術研究などを参照したものでより正確であろうと思われましたから、石黒善次郎『夕日はやはり赤かった』文芸社2003年121頁に802人と書いてあったからそれを引用させていただきました。ただ、当該書籍は満洲からの引き揚げのなかの葛根廟事件にふれる中で尼港について「この事件での日本人死者は、日本軍関係者とその他の日本人を合わせても802人である。」とあります。ご指摘を受けてから他にも調べたところ、同じく文芸社の長谷川僚太郎『女スパイシベリヤお菊』2006年70頁ではユフタでの日本軍全滅事件の説明の後に、尼港についてふれ「五月までに在留邦人七百人以上が虐殺された。内訳は、軍人と捕虜合わせて、三百八十人、民間人三百四十七人である。」と書かれており727人となっています。文芸社はあまり著名ではない作家の書籍が多いようなので、それらの作家はご自身ではなく何かを参考にして執筆しただけだと思われます。尼港事件について詳述された書籍があればそちらを優先的に参考した方がよいと思います。--Chichiii 2012年8月2日 (木) 12:56 (UTC)[返信]
『西伯利出兵史要』は幸いにも近デジにあったので見ることができたのですが、要約がすぎていて、詳しい数字が出てこないんです。『西伯利出兵史』そのものを見るべきなんですが、これがまた、近所の図書館にありませんで。やっぱり、『アムールのささやき―尼港事件秘録』を見るべきだと思いましたので、買いました。届いたら、確かめてみます。--Iratume会話2012年8月2日 (木) 13:50 (UTC)[返信]
『アムールのささやき―尼港事件秘録』が届きました。慰霊碑などとも犠牲者名を照合しているようで、かなり確かそうなのですが、軍人軍属など合わせて三百八十人、民間人三百四十七人。それに外務省の領事一家四人を加えまして、731人が判明している犠牲者数です。これに基づいて直します。本文の方も直す予定です。--Iratume会話2012年8月4日 (土) 07:16 (UTC)[返信]
自身の記述に少々疑問があったのでより正確なものを提供していただき感謝しております。ありがとうございます。--Chichiii 2012年8月4日 (土) 16:48 (UTC)[返信]
こちらこそ、いろいろと整理をしていただきまして、ありがとうございます。『アムールのささやき―尼港事件秘録』を見て、生存者の山本夫婦に関する件など、よくわからなかった点もはっきりしましたし、値打ちがありました。--Iratume会話2012年8月5日 (日) 04:45 (UTC)[返信]

中国砲艦の関与

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中国砲艦の関与について、中国の新聞記事によると、直接の戦闘加入ではなく艦載砲2門と砲弾21発を領事館攻略用に貸し出したとなっています(人民網-環球時報2004年10月28日)。また、中国砲艦が尼港で越冬した原因も、日本軍の砲撃による移動妨害としています。中国側指揮官の陳世英(砲艦「江享」艦長)は軍法会議で有罪判決を受けるも、実際に処分はされず陳季良と改名して日中戦争時の艦隊司令官になったようです(経済網-世界新聞報2007年12月11日)。論争的な問題で新聞報道を根拠として編集するのはためらわれますが、参考までに。--Snlf1会話2012年8月6日 (月) 05:25 (UTC)[返信]

実は、ですね。中国の新聞記事からご紹介いただいた中国側の言い分は、大方、伊藤秀一著『ニコラエフスク事件と中国砲艦』ロシア史研究23 (1975年)収録に出てまいります。ciniiにあるのですが、有料論文ですのでご説明しますと、どうやら伊藤秀一氏は、日中関係史の専門家ではないのかと思われます。論文に付随して、砲艦利捷の副官でした陣抜の回顧談(陣鐸記)が和訳されていますし、中国側の史料が使われ、伊藤氏の視点も、相当に中国側に好意的なものです。「直接の戦闘加入ではなく艦載砲2門と砲弾21発を領事館攻略用に貸し出した」という部分は、陣抜の回顧談によるものと思われます。これによれば、「12日夜、ニーナ・レベデワから日本領事館を攻撃するために大砲二門を借りたいと申し出があって、陣世栄艦長が江亨艦の三インチ側砲一門と利川艦のガトリング砲一門を貸し、側砲の鋼鉄弾と榴散弾それぞれ三発、ガトリング砲の砲弾15発を与えた」ということなんです。一方ですね、現在の本文は、「日本軍兵営を悽惨極めるほどに破壊し、後藤部隊は消息不明となった。このため、後藤大尉隊は殆どが全滅した後、生存者は砲艦目がけて突撃して全滅したのではないかと香月昌三一等兵は書きとめている」となっているんですが、えーと、よくよく状況を考えますと、「兵営の破壊」と「後藤大尉隊全滅」は話がまったく別なんです。ニコラエフスク市街の略図(『西伯利出兵 憲兵史』のものが一番わかりやすかったのですが、近デジの『西伯利出兵史要』にもあります)があれば説明しやすいのですが、兵営は山手の方にあるんです。領事館、病院、憲兵隊宿営はアムール河岸にありまして、兵営と領事館などがならぶ河岸の間に、赤軍本部や島田商会があります。したがいまして、おそらく、兵営が砲艦でやられた、というのは、誤解です。赤軍側はチヌイラフ要塞の砲を持っていましたから、そちらを使った可能性が高いんです。赤軍が借りだした砲艦は、やはり領事館攻撃用だったのだと思います。問題は、後藤大尉隊です。この隊がなにをしようとしていたのかは、『西伯利出兵 憲兵史』と『西伯利出兵史要』でも話がちがっていまして、私は、後藤大尉隊が河岸の 憲兵隊といっしょになったことからしましても、『憲兵史』の方の説に従いまして、「監獄を襲って、赤軍に捕らえられていた白軍や市民を解放しようとしていた」説をとりましたが、いずれにせよ、河岸に近いところで全滅したようなんです。で、この隊が砲艦でやられていたことにつきまして、ロシア人の目撃証言があるみたいなんですね。ここらへん、両論併記するべきなんでしょうか? 「中国砲艦が尼港で越冬した原因も、日本軍の砲撃による移動妨害」といいますのは、『ニコラエフスク事件と中国砲艦』によりますと、シベリア河川の航行権を拡張しようと、砲艦の航行をめぐり、北京政府は、オムスク政権に対する斡旋を、日英米仏各国に頼んだんですが、アメリカをのぞいて、どの国も冷たく、北京政府は、軍事同盟を結んでいるにもかかわらず、日本が中心になって中国艦の航行を疎外しようとしている、として、当時の中国の新聞もそう書き立てたました。日本は、この問題に関与する意志のないことを明確にし、艦隊のニコラエフスク入港に寄与したにもかかわらず、中国の新聞がそういう記事を載せることに抗議しています。とはいいますものの、中国艦隊の航行を拒む白軍に、それまでの日本は肩入れしていたわけですから、中国側の言い分もゆえのないことではないかもしれません。「陳世英が改名して日中戦争時の艦隊司令官になった」といいます部分も、『ニコラエフスク事件と中国砲艦』に出てきます。どうしたものでしょうか。--Iratume会話2012年8月6日 (月) 17:07 (UTC)[返信]
中国評論新聞にも同様の話が詳しく書いてあります。辛亥革命之後哪一年中國版圖最大? 中国評論新聞 2010-08-27。タイトル見ればわかる通りシベリアも中国の影響下にあったことがいいたいようです。中国共産党にとって都合のよい話である『ニコラエフスク事件と中国砲艦』と概ね一致する説を中国共産党が多数のメディアを通じて報じているという厳然たる事実があるわけですから、記載すべきだと思います。政治色を帯びているもののようですから、中国共産党によるとなど、誰もしくは誰に好意的な立場から主張しているかが明確に分かるかたちで記述すればよいと思います--Chichiii 2012年8月6日 (月) 17:32 (UTC)[返信]
兵営の砲撃の件は、香月一等兵の記述をもとに砲艦からの発射とされており、領事館の方は未記載ですが、上記の出典などでは陸揚げした大砲やガトリング砲とされている分けですから、お互い別の話なのではないでしょうか?軍艦に搭載されている大砲は主として遠方を射つ大型のものですから兵営を砲撃したとしても問題は感じられません。要塞から砲を持ってきたとする説があればそちらも記述して問題ないと思います。--Chichiii 2012年8月6日 (月) 17:46 (UTC)[返信]
『アムールのささやき』が、一番合理的に説明していました。領事館を破壊した後、兵営の方に借りた砲を持っていったそうです。チヌイラフ要塞の砲も使われ、大隊本部は全壊し、中隊兵舎に立てこもった者のみが生存者です。後藤隊全滅の方は、後藤隊の最後の一団と、さらには炎上する領事館から逃げ出した居留民なども、艦砲でやられた、とあります。似たような記述は、グートマンの著作にもあって、原暉之の論文では、『アムールのささやき』とグートマンの本文は、「尼港に於ける赤軍の行動及其残虐行為の概況」という聞き取り書を下敷きの一つにしているらしい、とのことなんですね。これは、ニコラエフスクに救援に入った日本軍の、外人取扱所(疎開から帰ってくるニコラエフスク市民の身元調査をした部署)で作られたものでして、原暉之氏もきわめて資料価値が高い、としているんですけれど、原本所在不明です。併記する形ならば、よさそうに思いますので、少しづつ、書き直します。今日はちょっと忙しいので、取りかかれるかどうかわからないんですけれど。--Iratume会話2012年8月7日 (火) 02:45 (UTC)[返信]
上記で政治色と申し上げましたが、どうもそうではなさそうですね。当時の日本政府は中国軍の砲艦が兵営を砲撃したことまでは掴んでいた。それ以上は知らなかった、だから中国側も日本政府の抗議に対して指摘されて点だけ認め謝罪した。ところが中国側では日本政府が把握していない中国軍の関与もきちんと記録されており、公開しても差し支えが無い状態になったから、公開したというところではないでしょうか。しかし、大砲など専門技術が必要なものを過激派が貸与されてすぐに使えこなせるとは思えませんね。実際のところは陸揚げした大砲も中国軍が使用したのではないでしょうか。領事館への砲撃だけは正規軍が行ったとはさすがに認めるわけにはいかないから貸与としたというところでしょう。--Chichiii 2012年8月7日 (火) 15:23 (UTC)[返信]

『ニコラエフスク事件と中国砲艦』にも同内容の記述があるのであれば、当該論文を出典として火砲貸与説を併記すべきと思います。出典の示し方は「砲艦利捷の副官の回顧録等に基づく伊藤秀一の研究によれば」くらいの書き方が良いのではないでしょうか。伊藤の著作を見る限り[1]かなり中国寄りの立場なのだろうなとは思いますが、「中国に好意的な伊藤」などの評価を勝手に付けたら独自研究でしょうし。また、Chichiiさんのおっしゃる中国共産党が報じているとか過激派には操作できなかったはずというのは独自研究に踏み込んでいるのではないかと危惧します。
中国語はわからないのですが、「辛亥革命之後哪一年中國版圖最大? 中国評論新聞 2010-08-27」には、領事館陥落後に逃げてきた日本兵を武装解除して凍死させたようなことも書いてある気がします。伊藤論文に言及があれば、この点も足した方が良いと思います。
ともかく、これまでのIratumeさんの加筆で記事の基本的な立て直しは済んでいると思いますので、無理されずゆっくりと作業なさって下さい。--Snlf1会話2012年8月7日 (火) 18:45 (UTC)[返信]

当然に出典のない私の感想については記述すべきではないと思ってます。出典の示し方については、中国共産党(人民網)、ニュース・オブ・ザ・ワールド、伊藤氏が報じていることから、伊東氏の独自研究と受け止められるような形で記述するのは疑問です。--Chichiii 2012年8月7日 (火) 23:16 (UTC)[返信]
出典なのですが、基本的に伊藤氏の論文によります。当時の中国側の見解として、記述します。原氏もそうなのですが、研究者の論文は、その思想的傾向がどうであっても、事実関係はかなり厳密に検証して記載しています。その上で、独自の見解を述べていますので、本当は、例え原氏の論文を基調に尼港事件を記述したにしましても、以前のこの項目のようなことにはならないはずなんです。論文によった上で、最後に、当時の中国側見解は、基本的に現在の中国でも受け継がれている、ということで、新聞報道をあげる、ということでいかがでしょうか。--Iratume会話2012年8月8日 (水) 01:52 (UTC)[返信]
本件につきましては、伊藤氏の論文にあったが当時の日本外交文書には記載されていなかったということから、Iratumeさんがペンディングなさっていたというだけで、その他の出典も見つかりましたので、Iratumeさんが記述された他の事象と同様に今まで通りの感覚で執筆されればよいと思います。--Chichiii 2012年8月8日 (水) 15:48 (UTC)[返信]
一応、書き終わりました。伊藤氏の論文を読み直して思い出したのですが、書き直しましたように、北京政府の要求で、事件の調査報告書が非公開になってしまいましたので、現在も残っているのかどうか、見ることができませんから、真相は藪の中らしいということで、めんどうになって簡略化してしまっていたんです。書き直しの過程で、私にもだいたいのことが呑み込めました。
「日本兵を武装解除して凍死させた」という話は、日本側の文献にはまったく出てこないのですが、『アムールのささやき』にのみ、ロシア人の目撃情報としまして、「憲兵隊庁舎に領事館から邦人が逃げ込んできて、憲兵隊は国際法を信じて邦人とともに投降した。しかし、監禁されたあげく、全員が銃殺された」とありまして、これがそれに近いでしょうか。しかし、他のものはすべて、憲兵隊は全員戦死、となっています。--Iratume会話2012年8月9日 (木) 06:58 (UTC)[返信]
お疲れ様です。当時の調査報告書や外交交渉記録はアジア歴史資料センターのウェブサイトで公開されているものがあります。例えば「尼港支那砲艦事件」 アジア歴史資料センター Ref.C03010396500 は陸軍の関係電文や生存者の調書などの捜査資料、『尼港ニ於ケル帝国官民虐殺事件/支那砲艦砲撃事件 第四巻』の「分割1」 アジア歴史資料センター Ref.B08090312800 ・「分割2」 アジア歴史資料センター Ref.B08090312900 ・「分割3」 アジア歴史資料センター Ref.B08090313000 は主に共同調査関係。ただ、参考としては面白いですが、かなり膨大なうえに史料批判を経ていない一次史料群ゆえ、無理して手を出すこともないかなとも思います。
共同調査の判決では、(1)中国砲艦が錨地周辺の立ち入り禁止を宣言していたところ日本兵が3月12日夜に無断立入りしたため、不審者として機銃で攻撃して日本兵3人を死亡させたこと、(2)なんらかの形でガトリング砲1門がパルチザンの手に渡って使用されたこと、(3)中国水兵の一部が私的に日本兵を撃ったり砲の使用法を教えたこと、を認定しているようです(「分割2」 アジア歴史資料センター Ref.B08090312900 の画像16以降)。外交的配慮を含んだ結論と思いますが、ひとつの見解かなと思います。
武装解除・凍死云々は論文には出てこないんですね。あるいは、そもそも私の中国語の読み違いかもしれません。--Snlf1会話2012年8月9日 (木) 10:39 (UTC)[返信]
アジ歴にあったんですね。加筆する以前に読みかけたんですが、あまりに膨大で、整理ができていない文書ですし、読みこなす気力がなく、ほとんど見ていなかったんです。ありがとうございます。--Iratume会話2012年8月9日 (木) 13:36 (UTC)[返信]
伊藤氏の論文に基づいて加筆されたと思われる部分に出典の付し忘れが見受けられますので補ってくださると助かります。--Chichiii 2012年8月9日 (木) 13:49 (UTC)[返信]

同じ段落で、出典も全部そうだと、最後につけて終わりにしているのですが、だめですか? 「中国艦艇による砲撃問題」は段落が同じといっても省きすぎかなと補いましたが、ほかに補うべきところがあれば、ご指摘下さい。修正、整理、ありがとうございます。--Iratume会話2012年8月9日 (木) 14:56 (UTC)[返信]

別にだめではないんですけど、後で滅茶苦茶に書き換えられたときにどこまでが出典に従っていたか不明な場合にはリバートしにくくて弱いと思いましたので。せっかく頑張ったんだから荒らされないよう完璧にしといた方がいいと思いません?--Chichiii 2012年8月9日 (木) 15:29 (UTC)[返信]
短文ごとにつけるのは、見てうっとうしい感じがしたんですが、これまでもめてきた項目ですし、これから、できるだけそのように修正してみます。--Iratume会話2012年8月10日 (金) 04:32 (UTC)[返信]

ファイルの日付

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Iratumeさんがコモンズにアップされたファイルの日付欄に撮影日時ではなくスキャンされた日付を記載されているようです。お時間ありましたら直しておいてください。--Chichiii 2012年8月18日 (土) 12:08 (UTC)[返信]

一応、直してみたのですが、以前とアップの仕方が変わってしまいまして、撮影日時を入れるというのがわかっておりませんでした。以前にトリャピーツィンたちの写真をアップしたときには、日付欄にはソースになりました本の出版日を入れていたんです。出版後50年以上たった本で公開されている撮影者不明の写真で著作権切れ、ということですので。ところが、今回流れに従ってアップしましたら、スキャンした日になってしまっていました。もし、お暇がございましたら、これでいいのか、また見てやってくださいませ--Iratume会話2012年8月19日 (日) 14:04 (UTC)[返信]
ファイル:Niko-hannin.jpgはトリャピーツィンが処刑された後の日付になっているのでこれも直した方がいいと思います。ソースの出版日はコモンズの出典欄や概要欄などに記述すればよいのではないでしょうか?私はあまり詳しくないのですが、古い書籍からご自身の撮影された御写真にいたるまで大変コモンズに貢献されているあばさーさんを参考にしてみてはいかがでしょうか?--Chichiii 2012年8月20日 (月) 16:25 (UTC)[返信]
ありがとうございます。直しておきました。ご紹介くださった方が古い書籍からあげておられるのを見ますと、やはり日本のパブリックドメインになさってますね。以前のコモンズでは、アップ時に日本のものが選べたのですが、現在、アメリカのものしか選べなくなっていまして、自分が撮った写真ならば問題がないのですが、古書籍からのものは、どうしたものかと悩んでしまいます。もう少し、その方の例を見せていただいて勉強します。ありがとうございました。--Iratume会話2012年8月21日 (火) 14:24 (UTC)[返信]

名前について

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香月一等兵と香田一等兵のどちらが正しいのでしょうか?外務省文書では香月となっていますが、原暉之氏の著作を参考にIratsumeさんが記述されたところは香田となっています。外務省文書を参考にしたところでも香田とされていたところもあったのですが、出典元は香月となっていますので、そちらは出典に即して香月にしておきました。ただ、事件当時にはお名前を多少間違えて記録していたという可能性もあるので香月が正しいとは断定できません。中国艦の艦長の名前についても参考文献によって異なっているようです。御意見お願いします。--Chichiii 2012年9月27日 (木) 15:06 (UTC)[返信]

いずれが正しいか存じませんが、陸軍省の『大正九年七月西受大日記』に収録の報告書では、香田昌三工兵一等卒としているものがあります(アジ歴:C07061003900画像26枚目以降[2])。なお、同報告書には日記の抜粋が含まれており、原暉之もこの記事を参考にしたのではないかとも思います。--Snlf1会話2012年9月28日 (金) 03:10 (UTC)[返信]
遅くなりました。原暉之氏の著作『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』は、近くの大学の図書館から借りてきたものでして、すでに返してしまって手元にないのですが、香田一等兵になっていたと思います。といいますのも、香田一等兵の日記の一節が引用され、出典が『西伯利出兵史―大正七年乃至十一年』になっていましたので、香田一等兵の日記の原本があるのかどうか知りたくなりまして、防衛研究所に問い合わせました。そのとき、香田一等兵ということで話は通じていたように思います。結局、原本があるのかどうなのか、そのときはわからなかったのですが、『西伯利出兵史―大正七年乃至十一年』が正式な記録ですし、その記述に従うのが一番かと思いますので、明日にでも、防衛研究所に問い合わせてみます。(なお『西伯利出兵史要』には出てきません。) なにしろ、『西伯利出兵史―大正七年乃至十一年』は近くの図書館にありませんし、古書でも出ていません。尼港事件の部分だけならば、国会図書館でコピーが可能ではないのかと思い、これも問い合わせてみるつもりではいます。記事の精度を上げるためには、見る必要のある文献だと思っています。戦闘時のニコラエフスクの町の図も詳しいものが収録されていると思われますので、それをもとに、デジタルで図を制作する必要もあるのかな、と考えていたりもします。--Iratume会話2012年9月30日 (日) 13:25 (UTC)[返信]
防衛研究所史料閲覧室に問い合わせてみましたところ、昭和16年に復刻されました『西伯利出兵史』中巻P832にニコラエフスクの廃墟で陸軍が収拾しました資料について書いているそうでして、これには「香田一等卒」になっているそうです。調べてくださった史料閲覧室の方のご助言で、殉難者名簿を見れば一番確かではないか、ということでしたので、「アムールのささやき」を見てみました。これの軍人名簿は、小樽と水戸の碑と照合してあるということでして、まちがいないと思います。これによれば、臨時第一電信隊尼港軍用通信所所属・佐賀県・工兵一等卒・香田昌三です。全部、香田で統一すべきなんでしょうか?--Iratume会話2012年10月1日 (月) 05:53 (UTC)[返信]
ちなみに、『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』の脚注に従って、『西伯利出兵史―大正七年乃至十一年』の指摘の箇所で香田日記引用をさがしましても、実はそういう記述が出てまいりません。前回もそうだったのですが、今回も史料閲覧室の方がお手元の『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』の脚注をご覧になって『西伯利出兵史―大正七年乃至十一年』を見てくださったのですが、出て来ませんでした。これが不思議でならなかったのですが、原暉之氏は、Snlf1さんのおっしゃる通りに『大正九年七月西受大日記』の方を参照なさって、『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』の脚注の参考文献名をまちがえて書かれたのではないか、と、思えてきました。なお、地元の図書館を通じて依頼をすれば、『西伯利出兵史―大正七年乃至十一年』の尼港事件に関係する箇所を、というだけの指定で、国会図書館でのコピーが可能のようですから、コピーしようかと思うのですが、やりとりにかなり時間がかかりそうです。--Iratume会話2012年10月1日 (月) 09:01 (UTC)[返信]
Snlf1さん、Iratumeさん調べてくださってありがとうございます。お二人のお話によると当該一等兵の所属機関が香田昌三としているということですから、本文においても香田昌三に統一させていただきました。Iratumeさんの新たなリサーチ、楽しみに待っています。--Chichiii 2012年10月1日 (月) 13:25 (UTC)[返信]

文意不明

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<<日本軍決起にともなって、日本人居留民のほぼ全員が惨殺された。しかしソ連側文献は、「居留民の死は決起した日本軍にあり、パルチザン側にはない」という見解をとっている<<
この文意が不明です。--219.35.22.28 2015年4月23日 (木) 13:32 (UTC)[返信]

返答が遅くなりましたが、ご指摘の箇所は、注釈にありますように、В. Г. スモリャーク著、藤本和貴夫訳「ニコラエフスク事件」、『ロシア史研究』45(1987年)pp. 61-70、NAID 110001365266からの引用です。いま、この論文が手元にありませんで、確かめることができないのですが、できるかぎり原文に近い表現にしたと思います。趣旨としましては、「日本人居留民が決起した日本軍を援助したから殺すことになったのであり、日本軍に居留民の死の責任はある」ということでしょう。「責任」という言葉を入れておきます。--Iratume会話2016年10月15日 (土) 07:28 (UTC)[返信]