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ノート:小牧・長久手の戦い

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ノート:小牧の役から転送)

人名の表記

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文章はこなれていて読みやすいのですが、ただ1点、人名が初出を過ぎると名前だけの表記になって、フルネームの確認が難しいのが辛い。「家康」とか「秀吉」はまだしも、「氏次」とか「氏重」となると歴史に詳しくないとそれだけではわからない。そこで、前の項目に出た人名でも、項目が変わる毎にフルネームで記述してほしい。--Kogane 2005年12月26日 (月) 18:52 (UTC)[返信]

過去の議論

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過去ログ1(2005年12月13日 13:35(UTC)まで

記事名は「小牧・長久手の戦い」か「小牧の役」か?
→未解決。決定事項は、暫定的に「小牧・長久手の戦い」とすることのみ。過去の議論のまとめと議論の続きは、Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 軍事史

秀吉が征夷大将軍になれなかった理由

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秀吉が征夷大将軍になれないのは東国云々よりも出自の問題ではないの?(2006年3月26日 (日) 13:51 60.38.168.135さん)

出自が問題だったとすると関白になることも難しかったかも知れません。それはともかく、征夷大将軍任官に当たって東国勢力を屈服させとくことが必要不可欠だった、ということは、多くの戦国史研究者が言及しておりまして、今では通説になっているようです。--shimoxx 2006年3月26日 (日) 13:44 (UTC)[返信]
遅いレスで失礼します。この時期に秀吉が将軍になれなかったのは、足利義昭が健在だからではないでしょうか。 --しんや

政治史的意義について根本的な疑問

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そもそも、秀吉が征夷大将軍になれなかったのは、しんや氏の記載のように、足利義昭が京都追放後も15年間にわたって将軍職に居座り続けたためでしょう。秀吉は義昭の養子(正確には猶子)になることで将軍職を継ごうとしましたが、それを拒絶されてしまったために近衛前久の猶子となって関白職を得たわけです。結局、「小牧・長久手の戦い」と「秀吉の将軍就任挫折」との間には、ほとんど因果関係らしきものはないものと思われます。第一、秀吉が関白になった後も「東国に幕府を開く」ことに固執しているのであれば、最も警戒すべき家康を東海から「関東」に移封しようと考えるはずがありません。仮にもしそうならば、 家康を西国に移封した上で、自ら本拠を関東に移動させるか、秀次のような一族の武将を関東に配置したはずです。しかし、実際には天下統一を達成した後も、秀吉は大坂を本拠として関白職による支配体制を維持しており、小牧・長久手での「戦術的敗北」が秀吉の「東国開幕」を妨げたという説には疑問が生じます。さらに言えば、室町幕府は京都を本拠としながら、出先機関の鎌倉府によって東国を支配することで成立した政権であり、秀吉はこの前例に倣うことも出来ましたが(北条征伐の頃には、義昭も将軍職を返上して秀吉に臣従していたので、将軍になれる可能性もあったはずです)、関白による全国支配を継続しています。この事実から見ても、「徳川家を滅亡させることに失敗したこと」が「秀吉の将軍補任を不可能ならしめた」という因果関係は、成立しないように思われます。北条討伐後に天下人となった秀吉には、その気になれば東国を直接支配することも出来たという点を見逃してはなりません。

ですが、小牧・長久手で戦った徳川の存在も秀吉が征夷大将軍になれなかった(ならなかった)要因の一つではある、というのがもっとも妥当な考えのような気がします。ifの話でしかありませんが、小牧・長久手の戦いで秀吉が快勝していたら、その後の義昭の態度も変わっていたかもしれませんし。家康は改姓した時から狙う気マンマン、さらに義昭の存在など考えた上で、関白になるという絶妙な結論に至った、とまあこんな感じではないでしょうか。--116.65.226.191 2009年4月5日 (日) 14:47 (UTC)[返信]
まず、このあたりの政治史を論じた文献・論文を収集することからはじめるべきであると考えます。藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造』という本を見つけました。これの第二編に小牧・長久手前後の秀吉と家康の関係の政治史を論じた論文が収録されていますし、脚注の論文を拾っていけば研究史が把握できるものと思われます。「政治的意義」を著述するのであれば、まず本書を参照することからはじめてみてはどうでしょうか。--でここ 2010年12月15日 (水) 16:09 (UTC)[返信]