ノート:小寺則職
小寺則職(室町時代)について
[編集]この室町末期から戦国にかけて活躍した「小寺加賀守則職」という人物について、過去に立項しようとしたものの十分な情報を集められず断念し、とりあえずリダイレクトだけを作って長らく放置していたのですが新たに編集が加わったのでこれを機に議論が出来るかなと思い、「要検証」のタグを入れさせて頂きました。
永正17年(1520年)に『赤松記』などにおいて浦上村宗に敗れて敗死したとされる「小寺加賀守則職」を「小寺勘解由左衛門尉祐職」と同一視する説はどうやら『赤松諸家大系図』が出典のようでしてこれは私も資料に当たる中で把握しておりましたが、この系図は後年になって書かれたものである上に岩屋城の攻防戦について永正16年(1519年)と誤記するなど今ひとつ信憑性に欠ける部分がありましたので採用はしませんでした。
また、小寺則職が小寺豊職の改名後の名前であるという仮説についても『蔭凉軒日録』においては明応2年(1493年)の項に「小寺加賀守」が度々「小寺勘解由左衛門尉祐職」と共にそれぞれ別人として登場致しますし、明応5年(1496年)に赤松政則が亡くなった際には、その後継を一門の道祖松丸(赤松義村)とする時の5人の家老の中にも「小寺加賀守則職」が署名を遺しております(播磨国書写山縁起)ので延徳3年(1491年)に亡くなったという「小寺伊勢守豊職」の事績とは符合しません。この説については『姫路城史 (上巻)』(橋本政次著)が出典かと思われますが、同書において橋本自ら問題点にも言及し、「後考を俟つ」として締めくくっていたので橋本氏個人の研究の域は出ていないと判断いたしました。--Bakira(会話) 2013年12月7日 (土) 11:39 (UTC)
調べた所、室町から戦国初期にかけての「小寺藤兵衛」または「小寺加賀守」は大別して3度活躍した記録がありました。
- 長禄の変(1457年)において功を挙げた「小寺藤兵衛入道」「小寺藤兵衛性説」
- 文明年間から明応年間に赤松政則の元で段銭奉行などをしていた「小寺藤兵衛」「小寺加賀守則職」
- 永正17年(1520年)に岩屋城近郊の戦いで討ち死にしたとされる「小寺加賀守則職」
これら①②③がすべて同一人物であるという可能性は63年という時代の開きからしておそらく低いと思います。
豊職改名説は『嘉吉記』に記述が残る「小寺伊勢守豊職」を①②と同一人物であると推定して③については若き日の小寺則職(戦国時代)と「小寺勘解由左衛門尉祐職」とを混同した結果の誤記であるとする説ですが、前述のように②の小寺則職と豊職の没年との整合性が付かない点が問題です。
これも私の独自研究に当たりそうなので立項は出来ませんでしたが、個人的に①と②は同一人物ではないと考えています。①は既に入道しているのに②は入道しているという記述がある資料を見つけることは出来ませんでしたし、①から30年ほど経った②の人物が入道前の諱をまた名乗り始めるという事は不自然です。
また、②は文明16年(1484年)の『赤松家老臣連署書状案(蜷川家文書)』では「小寺藤兵衛尉則職」(入道ではない)と署名してますが、明応2年(1493年)の『蔭凉軒日録』では「小寺加賀守則職」に名乗りが変化しています。
②と③の間についても「小寺加賀守」という人物が義村当主期にも要職に就いていたという事を示す書状は残っておりまして、『守光公記』に永正10年(1513年)7月12日条に洞松院が「小寺加賀守」に宛てて四条隆継の知行する穂積余田の対応について記した書状があります。当時19歳である小寺則職(戦国時代)がこの「小寺加賀守」であると見ることも可能ではありますが、あくまで私個人としては①が別人で②③がそれぞれ同一人物なのではないかと推測をしておりました。
しかしながらあくまでこの推測も個人研究の域を出るようなものに仕上げられなかったので単独での立項は見送った次第です。長々と失礼しました。--Bakira(会話) 2013年12月8日 (日) 03:13 (UTC)