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ノート:対馬丸

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定義部分で、項目名の説明のはずが、事故であるとなっている。これでは項目名が事故名となる。識者の修正を求める。0null0 2005年11月30日 (水) 12:32 (UTC)[返信]

>修正しました。--恵比須 2005年12月1日 (木) 10:48 (UTC)2005年12月1日(木)19:47(UTC)[返信]

一度投稿された方の中に、無記名で「ご両親が対馬丸撃沈のあの時『和浦丸』に乗船されていた」と書いておられた人がいました。事件の詳細をお聞きしたいので、差し支えなければどちら様か名乗っていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。--恵比須 2006年5月26日 (金) 10:32 (UTC)[返信]

>全く見ていなかったので、気付かず申し訳ありません。2006年4月28日に編集した者です。母親が祖母(母の母)と伯母伯父(母の姉と兄)と共に和浦丸に乗船していました。当時母は4歳。那覇市上ノ蔵町(当時の町名なので、今はどこに当たるかは判りません)で医院を経営していた母方の祖父(私から見ると曾祖父)の家に住み、伯母は那覇市立天妃国民学校に通っていました。:本来小学生である伯母は、一緒に通っていた従姉妹2人と同じ対馬丸に乗船予定でしたが、親が一緒に疎開するのであれば、家族一緒がいいだろうということで、伯母だけ従姉妹や級友と離れ、和浦丸に乗船したということです。航海中は大きく揺れ、大分波も被ったそうです(荷物を入れた木箱が潮を被り、中の物がダメになった)。夜中に大きな音が聞こえ、甲板から外を見ると、斜め後ろの海が赤く燃えていたそうです。何なのか判らないまでも、薄気味悪さを感じさせるような光景だったそうなのですが、祖母(母の母)から「見ちゃいけません!」と言われ、船内に連れ戻されたそうです。結局、対馬丸に乗船した従姉妹は助かりませんでした。私の祖父(母の父)は、『鉄の暴風 沖縄戦記』で敵前逃亡したかのように悪く書かれている、1944年当時の沖縄県衛生課長です。ただ、祖父の名誉の為に書いておくと、陸軍の軍人によって、疎開船に強制的に乗せられたそうです。戦後、沖縄に残ったかつての部下からも、ひんぱんに物を送られたりと交流があり、あの本に書かれたように「部下を見捨てて勝手に逃げた」人であれば、部下の感情としても昭和20〜30年代という時期にひんぱんに交流はしないでしょう。祖父は沖縄に戻りたい旨話していましたが、本土復帰の1年前に他界、祖母も伯母も既に他界してしまいました。……母も今年他界してしまいましたので、生前母から聞いていた「対馬丸」の話はこれが大体全てといっていいと思います。これだけでも、私の身元は大体推測がつくと思いますので、本名を書くことはご容赦ください。私が知っている、他の和浦丸乗船者は、綾町に記載がある「綾の手紬染色工房」の代表者の方がいます。他にも、宮崎市大島地区には沖縄からやって来た人々が多く住んでいます。(珠)--220.214.88.74 2010年5月24日 (月) 13:59 (UTC)[返信]

こちらこそまったく見ておりませんでした。そして嫌な記憶のはずなのにまさかここまで書き込んで頂けるとは思っておりませんでした。無礼な書き込みすいませんでした。--恵比須 2010年6月5日 (土) 07:59 (UTC)[返信]

ボーフィンが知りえた情報について、対馬丸に狙いを絞っていた、民間人が搭乗していたことを知っていたとの記述はカットしました。出典としてWikipedia以外に無いようですし、船団であり、他の船もいるのに一隻に狙いを絞るのは不合理です。[1]にあるボーフィンの航海日誌の日本語訳によれば、どこにも民間人搭乗の件は記載されていません。また、同HPには乗組み員は民間人搭乗を知らなかったという記載もあります(これらの元ネタは琉球新報みたいですが)。あと、沖縄タイムズにも民間人搭乗を知っていたとの記載はありません。ということで、対馬丸に狙いを絞っていた、民間人が搭乗していたことを知っていたとの記述はカットしました。--Los688 2006年12月21日 (木) 11:00 (UTC)[返信]