ノート:寺島宗則
「宗徳」ではなく、「宗則」ではないでしょうか?--219.110.68.212 2005年3月16日 (水) 09:00 (UTC)
慶應義塾五十年史
[編集][1]について、「松木弘安は中津藩江戸藩邸内で蘭学を学ぶ傍ら、翌年蕃書調所が出来たためそちらに出講することになったが、その後も箕作秋坪らと共に互いに往来していた」を検証可能な記述が、50年史の何ページにあるのですか。--rshiba 2010年5月5日 (水) 18:18 (UTC)
- 何故かご自分の知らないことを指摘されると逆ギレされるようなので、『寺島宗則関係資料集』と犬塚孝明著『寺島宗則』を参考にした北康利氏の著書を引用させていただきました。--118.10.135.9 2010年5月5日 (水) 20:18 (UTC)
- 犬塚孝明『寺島宗則』は通読済みです。なお、河北展生さんのの著書に、『幕末10年間の学塾経営の苦心談』というタイトルのものはないようですが、もしかして『三田評論』32-42(2006年12月)「幕末十年間の学塾経営の苦心談 (講演録 〔慶應義塾〕創立一五〇年を前に)」ですか。 --rshiba 2010年5月6日 (木) 00:10 (UTC)
河北展生講演「創立150年を前に」
[編集]『三田評論』32-42(2006年12月)「幕末十年間の学塾経営の苦心談 (講演録 〔慶應義塾〕創立一五〇年を前に)」を通読した。冒頭2段落目(32頁)で河北さんはつぎのように問うている。
- その前に皆様の関心をそそるに違いない質問をしてみたいのです。それは慶應義塾の創立が安政五年、一八五八年だというのはおかしいのではないかということです。もしそうだとしたら、慶應四年まで十年間、慶應義塾には名前がなかったということになってしまう。このことをどう考えたらいいのでしょうか。
その問いへの回答は、末尾より1頁前のつぎの文章、「ここで冒頭の質問に戻りますと、福澤先生が経済的にも経営的にも大変苦労しながら、ヨーロッパ風の学問所として出発させたのが慶應四年の四月だったわけです。」(41頁)であろう。この両者をつなぐのが「福澤先生はまず藩校として学校教育をやろうと考えていたと思うのですが、このように文久三年から元治元年の間に、いまの藩の状況ではとてもだめだ。だから私立の学校を自分たちでつくってやろうと考えた。」(40頁)という転機についての記述となる。北河さんは、慶應4年(1868年)4月以前は、慶應義塾ではないと主張し、その上での個別の論述を行っている。本項目の現在の本文の(寺島宗則は)「1855年(安政2年)中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾)に出講する傍ら」という部分に付された3つの脚注のうち、3番目はつぎのようなものである。
- 〔岡見彦三は〕薩摩の松木などは、中津藩小田原町の自宅に住まわせ、そこに出講させた。中津での勤めをせず、適塾で勉強していた福沢が、江戸藩邸に呼ばれたのは、福沢にとって喜ばしいことだったが、それを『自伝』には書いていない。安政の大獄が起ころうかという時期だ。中津の国元でも、攘夷論が強く、それは怖い。岡見は「目立たないように教えてくれ」と言い、福沢や松木が慶應義塾に出入りしていることを世間におおっぴらにはしない教え方を求めたのだ。 河北展生(慶應義塾大学名誉教授)『幕末10年間の学塾経営の苦心談』参照
(亀甲括弧による補註は引用者による)。河北さんの講演の文章を読み違いしているのは、上記引用の末尾近くの「福沢や松木が慶應義塾に出入り」という文言であろう。(1) 河北さんは慶應4年以前は藩校であって慶應義塾ではないとの論であるから「慶應義塾」とした部分は読み手の誤解が投影されたものである。(2) 少なくともこの河北さんの講演に福沢が江戸に来た慶應5年以降の松木(寺島)についての記述はないから、「福沢や松木が」という部分は、正確には「安政4年春までの松木や安政5年冬以降の福沢が」と書かれるべきものである。--rshiba 2010年5月13日 (木) 10:41 (UTC)
これを上記脚注に反映させると、つぎのようになろう。
- 〔岡見彦三は〕薩摩の松木などは、中津藩小田原町の自宅に住まわせ、そこに出講させた。中津での勤めをせず、適塾で勉強していた福沢が、江戸藩邸に呼ばれたのは、福沢にとって喜ばしいことだったが、それを『自伝』には書いていない。安政の大獄が起ころうかという時期だ。中津の国元でも、攘夷論が強く、それは怖い。岡見は「目立たないように教えてくれ」と言い、安政4年春までの松木や安政5年冬以降の福沢が中津藩江戸藩邸の蘭学塾に出入りしていることを世間におおっぴらにはしない教え方を求めたのだ。 河北展生(慶應義塾大学名誉教授)『幕末10年間の学塾経営の苦心談』参照。
しかしこうなると、本文の「1855年(安政2年)中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾)に出講する傍ら」のうち、「(慶應義塾)」は削除するほかなくなるであろう。「1855年(安政2年)中津藩江戸藩邸の蘭学塾に出講する傍ら」が相応しい記述であるということになる。--rshiba 2010年5月13日 (木) 11:40 (UTC)
コメントかなり文章に装飾と独自研究、個人意見ばかりが載っているが、「慶應義塾」が中津藩の蘭学塾の流れを汲むのは規程事実で、柴崎氏が慶応4年からが「慶應義塾」だとここで主張してもこれを覆すのは無理です。しかも、河北展生氏の講演の内容を柴崎氏が独自解釈することも不可能です。慶應義塾史事典編集委員会編 編『慶應義塾史事典』慶應義塾大学出版会、11 2008年(平成20年)。ISBN 978-4-7664-1572-8 。参照。--114.172.112.173 2010年5月18日 (火) 17:08 (UTC)
関連する他所での対話
[編集]この件は、関連する対話がノート:慶應義塾大学の人物一覧#杉亨二、松木弘安の記載についてにもあります。--rshiba 2010年5月14日 (金) 23:53 (UTC)