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ノート:宮地厳夫

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  • 此度は方全先生と霧島神境の記事について、ウィッキペデアに多大なご迷惑をお掛け致しました。確かにご指摘の通りでありまして、私今回はよく調べもせず、ある箇所に於いては、明らかに独断と偏見的な一方的勘違いで、この文章を物しました事、汗顔赤面深く反省致しておりますし、以後はこのような事のなきように、まずはログインして己の興味のある項目に関しましては、記載致したく思う所存であります。私自身書き込みを、ついついキャンバスに見立てて絵を描くような感覚でいつも書きなぐっておりますが、途中でカットされてしまいますと、すこしハードであります。過去の事も反省しつつ「霧嶋山幽境真語」を紐解きまして下記のような事が判明致しましたので、参考までに記載いたします。間違いました私の文章の訂正もしくはその削除を希望致します。記事の信憑性の大切さを痛感いたしております。再度繰り返しますが間違いの箇所は速やかに訂正もしくは削除を希望致します。不手際御寛恕下さいませ。調べて判ったのですが八田知紀大人も平田門下ではありませんでした。大変申し訳御座いません。では宜しくお願い申し上げます。

「幽境真語」の平田篤胤翁序文によると、「今は昔の事になるが、私の友人に木村某と言うものがいて、呼び名を力蔵と申し、装束の衣紋を習得して、人と交流しておられた。思い起こせば文化三年の春の頃に、彼の口から次のような不思議な話を聞いた。薩摩国の伊木某なる知り合いが、なんでも霧島山に神境と思しき処があり、当地にすむ山の仕事に携わる奴僕の一人が山に迷い込み、女仙のもとに度々往来するようになった男がいて、当時幽境の掟により数十年他言する事を控えていたが、幽許されて今はその当時の模様を具に人に話せりとの情報を得た。異境や異界に興味を抱く篤胤はこの話を聞き、直ぐにでも当地を訪ねたく希望したが、遠方ゆえに出向く事は果たせなかった。 以後数年の歳月が流れ去ったが、篤胤は霧島山神境の事が忘れられずにいた。文政12年に薩摩から、篤胤のもとに一人の男が入門に来た。名を大橋昌尚と申し、彼の紹介により薩摩国から殿人たちも含め次々に教え子として入門する。この中に木村鈴満と申す人がおり、名を休右衛門と称す。歌を詠み神道に対する学識もあり、篤胤はこの弟子に興味を覚えた。奇しき事に鈴満は霧島神境の事をいたく存じており、帰国の折に詳細を記録してまいりますとの事で別れる。篤胤はとても楽しみにしておられたが、それから数年後の五月昌尚は逝去する。篤胤はこの知らせを聞かされ慟哭したと云う。次の年に弟子の大橋某の紹介で薩摩から入門者が一人あった。名を池田武純と申される聡明な男である。早速面談した篤胤は、教え子で先般逝去した薩摩の鈴木鈴尚と面貌が重なった。話は霧島神境の談になり、その当時の模様について甚く詳しく論じたので、篤胤は再度驚かれたと云う。弟子になった武純は一旦郷里に帰り、翌年の葉月に、篤胤念願の「幽境真語」を持参する。篤胤はこの書を受け取って欣喜雀躍したという。実にこの資料を入手するのに30年の歳月がかかっているのだ。明治36年に復刻された和綴じ本「幽境真語」を開き見ると、序のあと浅井才一郎の奇談そして最後に霧嶋山幽境真語が掲載されている。文章は11丁半で鹿児島藩士ハ田知紀識とある。最後の一丁半がこの記録を書記した池田武純になっている。」この記事を参考に方全先生と霧島神境についての訂正もしくは削除を希望致します。大変ご迷惑おかけいたしました。

「神仙得道之法」以下削除の提案

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「神仙得道之法」以下は文体が適当でないため、削除を提案いたします。--Kafuka1964 2007年3月2日 (金) 07:09 (UTC)[返信]

「経歴」以下は文体が適当でないため、削除を提案いたします。--Kafuka1964 2007年3月3日 (土) 05:58 (UTC)[返信]