コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ノート:安藤季長

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

記事名が「季長」という名前を採用していることから、他の出典では「季長」表記が主要なものとして記されているのでしょうが、「北条氏系譜人名辞典」には、「貞季」が主要な名前として記されております。--ShellSquid/履歴 2014年1月6日 (月) 02:27 (UTC)[返信]

当該人物については、安藤氏の乱に関する一級史料である『諏方大明神画詞』には明確に「又太郎季長」と記載されており、『鎌倉年代記』、『鎌倉大日記』にも「季長」とされています。「貞季」の名は系図類や地元の伝承には見えますが一級史料に見当たらないため、通常学術書レベルでは誰かの別名だろうと書かれています。講談社の『日本人名大辞典』でも「季長」か「宗季」の別名か「季長の子」とされていますし、学術書とは言いにくいですが郷土史家の手になる『安東氏―下国家400年ものがたり』では「法季」の別名としています。「北条氏系譜人名辞典」が大変便利でかつ有意な書籍であることは理解しておりますが、失礼ながらShellSquidさんは単一の出典に依拠しすぎておられるのではありませんか。「上国家」と「下国家」の系譜関係についても諸説あり、単純に言いきれるものではないこともご承知おき下さい。--ろう(Law soma) 2014年1月6日 (月) 04:54 (UTC)[返信]
単一の出典に依拠し、虚偽・誤謬を反映させてしまったことをお詫びします。「上国家」「下国家」についての記述ですが、北条氏系譜人名辞典の42ページに「貞季は十三湊に新たに城を築城して下国家を称した(津軽安藤氏)」「宗季・季久は小泊など西海岸を占めて上国家を興した(秋田安藤氏)」(引用)という記述があり、これを出典に加筆したものです。他のより正確性、信頼性のおける書籍や論文、一次史料と食い違う情報は記載すべきでないということでしょうか。あるいは、「こういう見解もある」という文書形式であれば、記載、加筆をしても大丈夫、ということでしょうか。--ShellSquid/履歴 2014年1月6日 (月) 05:59 (UTC)訂正。--ShellSquid/履歴 2014年1月6日 (月) 06:00 (UTC)[返信]
安東氏をお読み頂ければお分かりかと思いますが、安東氏研究では学説も多岐にわたっており、定説と言えるものも少ないのが現状です。「こういう見解もある」という文章であっても、書けるものと書けないものがあります。『東日流外三郡誌』は論外としても、系図類や1990年代以前の自治体史、『新羅之記録』に頼りすぎた北海道史も注意深く読む必要があります。安東氏関係の研究書には一般向けのものが少ないので、遠藤巌氏の一連の著作と、それに対する入間田宣夫氏の反論、大石直正氏、齊藤利男氏などは押さえておいた方がバランスの取れた記述ができるでしょう。
具体的に申し上げますと、「貞季は十三湊に新たに城を築城して」は『十三湊新城記』(秋田家文書)がベースだろうと思いますが、本書は偽書の疑いが残っております。一級史料である米良文書の「奥州下國殿之代々之名法日記」には下国家の初代が「安藤又太郎宗季」と書かれております。宗季が「西海岸を占めて」いたことを説いている研究者には黒嶋敏氏がいますので書けないことはありませんが、宗季を上国家の祖とするのは30年以上前の加藤民夫氏の説くらいであり、加藤氏は宗季の父を季長としています。なお、定説では宗季とは季久の改名後の名前です。有力説としては秋田安藤氏・上国家は季長に関係しているとするものが複数あります。
両論併記をするにも、どちらかが確実に有力説であるならば書き方が変わってきます。その辺に気を付けられれば「記載、加筆をしても大丈夫」とも言えます。--ろう(Law soma) 2014年1月6日 (月) 08:13 (UTC)[返信]
ちょっと確実なところを書いておきます。
  1. 季長と季久が争った。『諏方大明神画詞』
  2. 岩木川を挟んで東北側(青森市)と西南側(深浦町)にそれぞれ拠点を構えた(どっちがどこかは学説が分かれる)。『諏方大明神画詞』
  3. 幕府は季久に味方し、最終的に季久が勝った。『鎌倉年代記』『鎌倉大日記』
  4. 主戦場は西南側。『遠野南部家文書』
  5. 同じ頃に「宗季」が子息に所領を譲る証文を書いているが東北側を先に、西南側(一部を除く)を後に譲っている。『新渡戸文書』
  6. 季長の子孫は秋田に移住した。『安藤系図』
  7. 下国家の初代は宗季。『米良文書』
齊藤氏は、主戦場が西南側なので敗者(季長)の根拠地が西南だと見ています。で、幕府が味方した時点で東北側の譲状、最終的に勝って西南側を手に入れてから譲ったとし、季久が宗季と改名したとしています。除かれた一部西南側の土地は季長の遺族に残ったとすると辻褄が合うとの由。
黒嶋氏は、季久が宗季に改名したと見ていますが、元々西南側領主であったので、幕府が味方して季長の領地をもらった時点で争いのないように譲状を書いたと見ています。
いずれにしても、『北条氏系譜人名辞典』の当該記述は理解に苦しみます。「貞季は十三湊に新たに城を築城したとする伝承がある。津軽安藤氏は下国家を称した。」「宗季(季久)は下国家を興した。西海岸を占めていた一族は秋田安藤氏となり上国家を興した。」なら理解出来ますが。--ろう(Law soma) 2014年1月9日 (木) 04:56 (UTC)[返信]
安藤貞季を別項目として立項しました。--ろう(Law soma) 2014年1月15日 (水) 03:19 (UTC)[返信]
併せて福島城関係の記述を貞季に転記しました。--ろう(Law soma) 2014年1月15日 (水) 04:28 (UTC)[返信]

遅くなりましたが(この一件すっかり忘れていました)、Law soma様、丁寧な説明、及び新規記事立項を含む情報の整理及び提示、ありがとうございました。併せて私の調査不足及び一つの出典のみを根拠に編集強行した無礼、軽率な行動について、お詫びします。--ShellSquid/履歴 2014年6月22日 (日) 00:45 (UTC)[返信]