ノート:存在
記述が一般的ではない(2003年3月14日現在)-- 210.172.77.194さん
- Wikipediaでは、多くの人が書き換えて行くうちに記事が中立になって行くと考えます。したがって210.172.77.194さんが、一般的と思えるように記事を書き換えて見て下さい。もちろん、210.172.77.194さんが書き換えても、他の人から一般的でないと思われるとさらに書き換えが行われます。--Yoshitaka Mieda 00:36 2003年3月14日 (UTC)
- この項目を書き換えるには、簡単にできるわけではないので、とりあえず一言メモしたわけです。--210.172.77.194(2003年3月14日現在)
- 了解です。決して書き換えは義務ではないので、気が向いたときで良いと思います。--Yoshitaka Mieda 01:12 2003年3月14日 (UTC)
お気に召すかわかりませんが、いろいろ変えてしまいました。もっとよい案がありましたら遠慮なく変更して下さい。Tomos 01:22 2003年3月14日 (UTC)
Existanceってexistenceの誤り?-- TakuyaMurata 03:27 2003年3月14日 (UTC)
先ほど行った編集について一応いくつかメモしておきます。
科学的存在を「検証」と結び付けることは、文章が断定的な口調であることも考え合わせると、不適切だと思ったので検証の語は外して「確認」にしました。科学ではどのような理論も検証することはできず、反証だけが可能だ、という広く知られた説や、反証可能性自体に疑問を投げかける説などがあるので、「検証」の語を用いるのはもう少し慎重にした方がよいのではないか、と思いました。
ただ「確認」という語は検証の語と比べて特定の(科学哲学や認識論上の)議論を連想させないだけで、意味は似ています。もっとよい言い回しに置き換えられればそれに越したことはない気がします。
それから、冒頭の定義部分は、科学的存在についての説明と実質的に同じ(既存の理論との整合性と実証可能性の2つを基準としたもの)であり、わかりやすい表現でもないと思ったので書き直してみました。
見出しがひとつだけついているのは妙だと思ったので、一応2つにしてみましたが、余りよい状態にはないと思います。もっとよいアイディアをお持ち方が再編、変更して下さることを望みます。
それから、以前るがこむさんが要約欄で指摘していた通り、パウリの排他原理は存在とは余り関係がないように思うのでそれに言及したパラグラフは除去しました。
Tomos 18:52 2003年8月29日 (UTC)
社会的存在
[編集]唐突に、
また毎日、ウィキペディアの編集・監視を続けるという非生産的行為に明け暮れているウィキペディアン達は、社会的には存在しないも同然だと言える。
と出てきますが、根拠はなんでしょう。
1. 非生産的であると言える理由
2. 社会的に存在しないも同然だと言える理由
--しまでん 2005年5月24日 (火) 20:40 (UTC)
- 突っ込みどころがおかしいような。「どうして生産性が社会的存在の用件足りうるのか」を問うだけでよいと思います。最初に書き込んだ人は非生産的であることが社会的非存在の理由としている(2の理由を非生産性に求めている)ようですので。そしてウィキペディアが生産的であるか否かはどういう尺度を採ったときにそのように判定されるのかに依存する、つまり社会的存在という用語に対する本筋の疑問から外れていくと思います。(もちろん付随的にはしまでんさんがおっしゃるようなものも含めて色々疑問はわきますが。「生産性とは何の生産性なのか?」、「社会的存在と言った場合、自然的ではない(国家社会によってのみ可能となる)存在を通常指すのではないか?」等々。)
もし、生産性が社会的存在の根拠のつもりなら、「また、ウィキペディアン達は毎日、ウィキペディアの編集・監視を続けることに明け暮れているが、これは非生産的な行為なので、彼らは社会的には存在しないも同然だと言える。」のようにしないと読み手に伝わらないでしょう。元の文では、「ウィキペディアの編集・監視を続けるという非生産的行為に明け暮れている」は「ウィキペディアン達」を修飾しているだけであって、「社会的には存在しないも同然」の理由を示しているようには読めません。それから、元の文の前後にも、生産性が社会的存在の根拠であるような記述も見当たらないので、唐突な感じがしました。--しまでん 2005年5月29日 (日) 01:06 (UTC)
- あと、ウィキペディアが云々の話はWP:SELFに触れますのでやめましょう、と言うか本文編集に対しては無意味です。--220.221.205.116 2006年9月7日 (木) 14:32 (UTC)
「社会的存在」は独自の研究とも取れるぐらい浅はかなので取り敢えず、自分なりの独自の研究を加味してみました。独自の研究テンプレートを貼っても良いかも。--125.201.186.116 2006年9月7日 (木) 14:27 (UTC)
脚注の5.の正確性に疑問
[編集]「脚注」の5.(2009年3月20日現在)には、こうあります。
- >生物は物質でできている、と一応は言えるが、生命は物質そのものではない。近代の(つまり一昔前の古い)生物学では「機械論⇔生気論」などという非常に単純化した図式(一種の2項対立思考)を採用する考え方や議論が学者の共同体に蔓延し、この説明がそもそもあくまでひとつの仮説にすぎないということにも気づかないで教条のように扱う科学者まで現れたが、現代の先端の生物学では生物情報学が登場し、生命を物質とだけ捕らえていては理解できない、情報の流れという無形の存在が重要なのだと、健全な科学者には認知されるようになってきた。(ただし、いまだに「機械論⇔生気論」いう図式で全てを把握しようとする人が学者の共同体には(年配の方々を中心として)多数存在する。このように図式(仮説)を否定する事例が提示されても図式(仮説)を棄却できないというのはもはや健全な科学的な思考プロセスとは言えず、観念にとりつかれてしまっている状態、一種の「固定観念」化している状態とも言える。あるいは、科学共同体の内に潜む、一種のドグマ主義や原理主義にあたるとも言え、共同体内部の問題だけに非常にやっかいな問題である)(生命のとらえ方、概念の発展については生物学の項も参照可)
私が一見したところ、現代の生物学の潮流に対する、いくつかの誤認識があるように思われるため、それなりの典拠が必要ではないかと考えた次第です。
- >現代の先端の生物学では生物情報学が登場し、生命を物質とだけ捕らえていては理解できない、情報の流れという無形の存在が重要なのだと、健全な科学者には認知されるようになってきた。
生物情報学は、生物体を流れる情報の学問ではなく、情報技術を応用した生物学です。 少なくとも、「生物は物質だけではない」という気づきから生まれるような学問とはいえないと思います。
次は微妙ですが、わかりにくいところの一つです。
- >「機械論⇔生気論」いう図式で全てを把握しようとする人が学者の共同体には(年配の方々を中心として)多数存在する。このように図式(仮説)を否定する事例が提示されても図式(仮説)を棄却できないというのはもはや健全な科学的な思考プロセスとは言えず、観念にとりつかれてしまっている状態、一種の「固定観念」化している状態とも言える。
現代の生物学者は、いくら年配であっても、機械論のみをとり、生気論を考えに入れないはずです。
「機械論⇔生気論」という表現は、それを説明できていないと思うのです。
「機械論⇔生気論」という図式を否定する事例が提示された、というのも、具体的に何の出来事を指しているのか、私にはよく分かりません。これは筆者が「生物情報学」の定義を誤解していたことによりますね。削除します。Neo chemistry 2009年3月20日 (金) 12:23 (UTC)追記
そもそも、「存在」の記事に生物学を持ち込む必然性は疑問ですが、まずは正確性を検証する必要があると思います。--Neo chemistry 2009年3月20日 (金) 12:17 (UTC)
- (コメント)「生命」に対して付加された脚注なので「生物(学)」についで論じているのではないとは考えます。--あら金 2009年3月20日 (金) 12:29 (UTC)
- (説明不足を補足)『生命を物質とだけ捕らえていては理解できない』を『生命(現象)を物質(面)だけで捕らえていては理解できない』とすればわかりやすいと考えます。生命現象のことを「生命」と言ったり物質面を「物質」と言い表すことはあります。生命は哲学のテーマの一つであり生気論は実証を必要としない哲学上の原理です。機械論は生化学の根本原理です。(ここで生気/機械論を原理といっているのは、どちらも実験や観察で証明できないからです。つまり機械論を証明するには低分子化合物から自発的に生命を構築できるかということで、ウイルスの人工合成が証明することではなく、RNAワールド仮説のように偶然介在がないラショナルな生命起源の論理が作れるかということだと考えます)なので『「機械論⇔生気論」いう図式』というのは比喩的表現を避けるならば『「哲学的原理⇔生化学的原理」という図式』ということになります。この図式自体は生物学的アプローチではなく哲学的なアプローチですから「生物(学)」についで論じているのではないとは考えます。生気論は「生命現象は生命の関与が必須」ではないと生化学的に実証されて破綻しましたが、機械論もまた「生命現象は生化学的構造と代謝システムのみで説明できる」という立場はエピジェネティクスのような生物情報学の実証により破たんしています。なので『「機械論⇔生気論」いう図式』(『「哲学的原理⇔生化学的原理」という図式)はどちらも正しくないと実証されているということだと考えます。当該記述の上で「全てを把握しようとする人が学者の共同体には(年配の方々を中心として)多数存在する。」という部分はNPOVであるかどうか判定は困難なので正しいとも正しくないとも言えないように考えます(各個人の教育の問題で、そんな生物学者はいないとは思いますが、数学者や物理学者ならば『「機械論⇔生気論」いう図式』を教育されたままかもしれません)。--あら金 2009年3月20日 (金) 18:34 (UTC)
- 迅速な回答、ありがとうございます。
- 哲学的・生化学的観点からの詳細な解説をたまわり、大変参考になったと感じております。
- 揚げ足とりで恐縮ですが、一点だけ確認させていただきます。
- >機械論もまた「生命現象は生化学的構造と代謝システムのみで説明できる」という立場はエピジェネティクスのような生物情報学の実証により破たんしています。
- とのことですが、機械論が破綻したとは、機械論そのものではなく、従来の機械論に矛盾が生じた、という意味でよろしいのでしょうか。
- 生物情報学の台頭に伴って、「生命現象は生化学的構造と代謝システムのみで説明できる」とする従来の機械論の立場は否定されたにしても、機械論の原義である「生命現象は物理的・化学的因果律によってのみ説明できる」という立場が否定されたり、「生命現象には情報の流れがあり、それは物理的・化学的因果律では決して説明できない現象を含む」と生物学者が主張したりしたわけではありませんよね。--Neo chemistry 2009年3月28日 (土) 10:18 (UTC)
- 『「機械論⇔生気論」いう図式』というのは19世紀に提案されたオリジナルの定義のことだと考えます。たとえばセントラルドグマは機械論から派生するとしても機械論とは同義ではないと考えます。それはエピジェネティクスも同様で、機械論に遺伝情報と環境因子が加味されています。同一の遺伝形質を共有する一卵性双生児間であっても虹彩パターンやいくつかの慢性疾患では形質の発現が同一にならない事例は知られています。これらは物理的・化学的機構では説明できますが(たとえばいかにして酵素-DNA複合体がDNAがメチル化するか説明できるという意味です)、その因果関係を物理的・化学的には論述できません(どのような条件分岐によりDNAがメチル化されるとこまでたどり着くかは物理学・化学では論述できないという意味です。言い換えると、遺伝形質の発現にDNAとタンパク質との複合体が関与するということは物理的・化学的機構ですが、個々の形質発現の状況においてDNA-タンパク質が形成されるか否かは物理学・化学では決定論的には論述できないです。)また因果律は決定論が存在するということを意味していると考えます。機械論が意味するところの因果律とは現状(ないしは初期状態)から決定論的に任意の時刻の状態が予測できるというのがその骨子です。たとえばマックス・ボルンの量子力学の確率解釈(統計的解釈)に対して「神はサイコロを振らない」とアインシュタインが述べた立場が機械論です。では生命にあてはめると初期状態である精子と卵子の遺伝情報によって形質が決定論的に確定できないというのは一卵性双生児の形質発現(似ているところはにているけれど完全なコピーにはならないこと)であきらかですし、その科学的裏付けの一つがエピジェネンティクスです(つまり生命もアインシュタインの言うところの「サイコロ」を振る存在なわけです)。ですから「エピジェネンティクスにより機械論(が言う因果律)は破たんした」と私は申し上げました。また、問題の注釈文では「科学者は」ないしは「学者は」としか述べられていないので立場が生物学者による視点に限定されるものでもないと考えます。そしてデカルトが言い出した哲学としての機械論を生物学者が正しく認識しているか否かはその人の受けた教育の成果により異なりますから、すべての生物学者が機械論の定義を発展的に誤解しているともしていないとも断言できないと考えます。つまりです。物理学においては「相対論」では特異点を除く時空連続体においても機械論の言うところの決定論は破たんしていません。しかし量子力学ではその決定論は破たんしています。同様にセントラルドグマは機械論の言うところの決定論は破たんしていませんが、前述のようにここ20年のバイオインフォマティクスの研究によりその決定論が破たんする状況も今日では研究対象になっています。ですから生気論と機械論とでは破たんするレベルが違う(前者は思考の範疇でのみ無破たんですが、後者は(物理学であれ生物学であれ)現実世界のほとんどで破たんのしっぽを出しません)のですが破たんした(言い換えれば限界が証明された)原理である点では同様であると考えます。--あら金 2009年3月30日 (月) 05:34 (UTC)