ノート:失われた時を求めて
この「失われた時を求めて」には下記のような選考・審査があります。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は一度ご参照下さい。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
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1. | 2021年5月17日 | 良質な記事の選考 | 不通過 |
時間について
[編集]2005年9月11日 (日)の 17:02 82.126.239.124氏による編集によれば「主人公は幼少期から作家になることを夢見るものの、書くべき素材が見当たらず、長い間時間を無駄に費やすのだが(失われた時)、晩年になりふとした偶然から過去が生き生きと蘇ってくる体験(無意志的記憶)により、書くべき素材は自らの過去であったことを悟り(見出された時)、ついに作家になる、という作家誕生の物語。」ということであるが、何やら図式的で単純な整理のようにも思われる。 --忠太 2005年11月15日 (火) 17:19 (UTC)
問題の記述は、「図式的で単純な整理」としては間違っていないように思います。多くの研究書に似たようなことが書いてあります(文学研究書がいかほどに信用できるのかは分かりませんが)。文学作品をいかに百科事典の一項目にするか、というのは難しい問題ですが、編集方針として、「図式的で単純な整理」というのは百科事典の性質上いたしかたないことと思われます。 ただ作品の魅力を伝えない「図式的で単純な整理」は避けるべきで、この意味では問題の記述は、変更の余地があるでしょう。作品の一つの魅力として、「失われた時」と「見出された時」が混交する瞬間があると、個人的には考えているので、上記の図式化が大筋において正しいにせよ、その図式が崩れる瞬間もやはり大事なことだと思われます。しかしながら、ここまでくると百科事典の記事としては不向きであると思います。 一般論ですが、一級の文学作品には単純な図式化を拒む要素が多かれ少なかれあるもので、そうした単純な図式化を拒む、矛盾に満ちた作品だからこそ、その作品の持つ意味は汲み尽くせず、解釈が解釈を呼び、最終的に傑作として看做される、ということもあるでしょう。 そうした事情を踏まえれば、文学作品を一つの辞書の項目にしてしまうのは、絶望的な試みに過ぎないと思われます。 蛇足ですが、2006年6月20日現在の記事の「単に過去から未来への直線的な時間や計測できる物理的時間に対して、円環的時間、そしてそれがまた現在に戻ってきて、今の時を見出し、円熟する時間という独自の時間解釈」という表現も多くの問題をはらんでいます。 まず作品が円環的時間を本当に表現しているか、というと疑問の余地があります。「今まで語ってきた自分の人生こそが、自分の描くべき作品の題材になる」ということを作品は言っているに過ぎず、作家としての時間は未来に向かって開かれている、とも考えられます。従って、『失われた時を求めて』が円環的時間概念を表現している、というのは早計です。 さらに「それがまた現在に戻ってきて、今の時を見出し、円熟する時間」というのは、なんとなく理解できるものの、よく考えれば意味不明瞭であり、プルーストが「円熟する時間という独自の時間解釈」を持っていたというのは著者の個人的な推測ではなかろうか、と憶測します。 しかしながら、時間が作品の重要なテーマであることには間違いがなく、これといって、代替案も持ち合わせていません。また百科事典の性質上「図式的で単純な整理」に陥らざるをえないため、記述があいまいになることもいたしかたないと思います。またあまりに正確さを期しても、フリー百科事典としての面白みにかけてしまうので、あえて修正案は提示しません。ただノートとして横槍を入れるに留めておきます。 --忠吉
- 「長い間時間を無駄に費やす」=失われた時、と決め付けられるのではあんまりではないか、と思いますが…。円環的時間云々について、(均質に一方向にのみ流れるカント的な時間ではなく?)ベルグソンの影響などが言われているようですが、
自分では書いてませんのでよくわかりませんです。 --忠太 2006年6月20日 (火) 14:28 (UTC)
フランス語でperdre le temps という表現は「時を無駄にする」という定型表現で、「失われた時」(le temps perdu )という表現に「無駄にされた時」というニュアンスがこめられていることは哲学者のドゥルーズをはじめ、多くの研究者によって指摘されています。 なぜ無駄か、というと社交に、恋愛に旅行に時間を費やしてしまい、芸術創造に携わらなかったからです。(プルーストにとっては、恋愛すら作家としての活動を阻害するという意味で、否定的にとらえている趣があります。本当にひどい。)『失われた時を求めて』は「マルセルが作家になる」という物語ですが、そこにこめられている文学、ひいては芸術に対する価値付けは並々ならぬものがあります。逆に言えば、芸術家でない人達には非常に厳しい視線が投げかけられています。スワンやシャルリュスなど、芸術家としての素養をもちながらも、芸術創造に携わらない人に対しては、容赦のない言葉が浴びせられています。そうした視線は主人公自身にもむけられていて、自分は作品が書けない、書こうとしても素材が見つからない、なんて自分は駄目なんだ、今日も時間を無駄にした、ということが作品内で幾度も語られます。そのような「無駄にされた時」=「失われた時」は、最終巻で、無意思的記憶により想起されます。そのとき、長い間無駄に過ごしてきたこの時間こそ、自分が長らく探し求めてきた作品の素材であることを悟ります。つまり「失われた時」が「見出された時」に劇的にひっくりかえります。この啓示体験のおかげで、作家になることができる、というのが作品の流れです。 従って「長い時間を無駄に費やす」=「失われた時」というのは、作品を理解するうえでの基本的な事項の一つとされています。このことはフランスの中高生向けのセンター試験用マニュアルにも書かれていることです。つまり非常に通俗化され、使い古された、卑俗な解釈であり、「図式的で単純な整理」で、偉そうなパリあたりの大学で、偉そうなヒゲを生やした気取ったフランス人教授が、永遠と繰り替えす解釈であります。だからたしかにあんまりだと思います。作品を最後まで読んだ時の、「失われた時」と「見出された時」のどんでん返しが面白いと思うし、このことを理解したうえでまた最初から読み直してみると「失われた時」の中に「見出された時」が混じっている―おそらくプルーストは意識的にこのことを行っている―のがまたかっこいいというのが私見です。 プルーストにおけるベルクソンの影響が叫ばれていたのは、主に作品発表当初で、その理由も彼らが従兄弟だったから、というくらいの理由です。プルースト自身ベルクソンの哲学とははっきり袂を分かつ、ということを『失われた時を求めて』でも言っています。ただもっと大きな歴史的視点から見れば、プルーストの時間観念はカントなどの直線的時間とは違う、という意味でベルクソンに近い、という言い方はよく見かけます。でもちょっと強引なまとめ方だと個人的には思っています。直線でなければ円環、というのは短絡的ですし、円環的時間といっても、文化人類学が扱うどこかの部族の時間から仏教の輪廻転生までいろいろあると思うので、プルーストの時間が円環的、と言われても僕にはよく分かりません。 ただ作品構造が円環的、ということとの関連で円環的時間ということはしばしば言われていたように思います。この点に関しても、微妙な問題化かと。というのも、作品の円環構造を認める認めないは、プルースト研究者の間でも議論が分かれ、特s草稿研究者などはこの円環構造をあまり認めたがらないような気がするので。 --忠吉
デルフトの眺望について
[編集]本文に「ベルゴットの死の情景は、死の前年(=1921年?:引用注)に実際にジュ・ド・ポーム美術館のオランダ絵画展で『デルフト眺望』を見たプルースト自身の経験をもとに書かれた」とありますが、「デルフトの眺望」のキャプション部分に、1902年にハーグ美術館で見た云々、とあって整合しませんので「要検証」を付けました。(死の前年で間に合うのでしょうか…?) --忠太(会話) 2014年3月13日 (木) 16:45 (UTC)
キャプションの方は「プルーストは1902年にもオランダのハーグ美術館でこの絵画を見ており」と書かれています。「にも」ですから、二回観ていると言うに過ぎないと思います。1902年に観たが、1921年にもう一度観て、その時の鮮明な印象をもとにこの部分を書いた、ということでありましょう。ベルゴットの死が書かれているのは第五篇(死後に刊行)ですから、製作過程と照合しても間に合うと考えられるでしょう。