ノート:天武天皇
この記事は2014年2月18日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、版指定削除となりました。 |
この「天武天皇」には下記のような選考・審査があります。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は一度ご参照下さい。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2011年5月14日 | 良質な記事の選考 | 不通過 |
私は浅学にして天武天皇誕生年についての文献は存じませんが、その根拠となる文献について本文に記載していただけないでしょうか。Izayohi 2005年2月24日 (木) 01:57 (UTC)
- 2005.3.2 に58.0.116.179様によって年齢の記述していただきました。ありがとうございました。Izayohi 2005年3月2日 (水) 23:25 (UTC)
太政官と大弁官が並列していたとの記載は、おそらく早川庄八氏の見解だと思いますが、吉川真司氏はこれを否定しています。吉川氏は「天皇-太政官-大弁官-六官・外官」という単純ルートを提起していますし、『日本史講座』(歴史学研究会・日本史研究会編、2004年)では吉川氏の論考が載せられています。早川氏の論考は1980年代のものですし、どちらかといえば吉川氏に依拠したほうがよさそうだと思うのですがいかがでしょうか?
少なくとも両論併記か言及しないかの処置は必要ではないかと思います。gazedaze2007年3月22日(水)22:30(UTC)
>学説の変遷を示すことにも意義があると思うので、両論併記に賛成です。「早川氏は並列説を取るが吉川氏は何々を根 拠に早川説を否定し単純ルート説を提起している」との形が最良かと思います。--古月床木 2007年6月27日 (水) 16:47 (UTC)
天皇号の創始の年号は不明でしょうか。諸説ありそうですが、ならば諸説を列記していただけるとありがたいのですが。--Kafuka1964 2007年5月10日 (木) 15:33 (UTC)
冒頭部での「初めて天皇と称された人物」
[編集]天武天皇の冒頭部分が、「初めて天皇と称された人物」と変更されていたのを、「天皇」に戻させていただきます。天皇号をはじめて用いたのが天武であるというのは、確かに現在の最有力説でありますが、まだ推古説をとる人もいますし、段階的進展という人もおります。決定的証拠を持たない推定説ですので、説であることの断りなしに断定するのはどうかは思います。また、天武天皇の事績の中で称号の変更は一部にすぎません。最初の一文は端的にそれが何かを示すべき箇所ですから、事績の一部である推定説はふさわしくありません。よって、初めて天皇と称された、という説明は後の解説に譲り、ここでは7世紀後半の天皇という語をもって天武天皇とは何かの説明にしたいと思います。--Kinori 2011年11月13日 (日) 03:56 (UTC)
重複
[編集]現在、大幅な改稿をしていますが、重複が目立ちます。今後、加筆される場合は、重複を極力避けるよう願います。--西方(会話) 2012年4月11日 (水) 16:11 (UTC)
- 年表を除けば、だいたい私が書いたところになります。重複の一つの理由は、人物の経歴に関する箇所と、天皇の時代の政策とを分けて書いたことです。天武天皇のような親政ではそれほど目立ちませんが、治世の間にとられた政治のすべてに本人が関わったとは限りませんので、分けることには意味があります。私は「生涯」の在位中のことについては天皇と親族の個人的関わりに限って記し、政策面はすべて「天武朝の政策」に記すことにしました。それが結果的に重複をまねくことになったとしても、長大な記事では「必要な部分だけを探して読む」という調べ方に対応しなければなりませんから、このほうがよいと思います。
- 自分のひいき目はあるでしょうが、私には改稿されたもののほうがわかりにくく思えます。見出しを「生涯」と「治世」と「政策」に大きく三分しましたが、人の生涯は死ぬまでであって、「生涯」と「治世」を分けるのはおかしくないでしょうか。
- 新たに「生涯」の中に「太政大臣」という節を立てましたが、太政大臣になったのは大友皇子です。このような見出しでは、ざっと見たときに大海人皇子が太政大臣になったかのような誤解が生じかねません。
- 私が「粛清と威嚇」としてまとめたおいたものを二分し、全然別のところに置いたのはどうしてでしょうか。二分した一方である「抵抗勢力の処罰」節に、長江神社での騎射や、卑母の礼拝禁止のような処罰と関係ないことが入っています。「抵抗勢力の処罰」という見出しも問題です。このことにつき確実なのはある時期に威嚇的な詔と高官の処罰が相次いだということです。その対象を「抵抗勢力」とまとめるのは一個の推定説です。見出しにもってくるべきではありません。
- 騎射についての部分などは、もともと「軍事」の見出しのもとにまとめておいたものですのに、西方さんはもとの説明を「官人武装政策」と見出しを変え、中身の一部をそのままにし、一部を「抵抗勢力の処罰」に移しました。その結果、見出しは「官人武装政策」なのにその官人武装政策について書かれているのは「抵抗勢力の処罰」の節で、「官人武装政策」節に書かれているのは全国的な兵制の話という事になってしまいました。説明の場所が分かれているのも、人の記憶力や理解力を試すようで、いただけません。
- それと、単に「神道」であった節を、「伊勢神道との関係」にしましたが、伊勢神道はもっと後の時代の所産ですから、誤りです。
- 結局、西方さんがしたことは、「生涯」と「政策」に二分する私の方針を中途半端に受け継ぎながら、事項別に分けることもせず、年代別に配列することもせず、かき混ぜて見出しを付け替えただけと見えます。その結果、「官人武装政策」の節に官人武装政策がなく、「伊勢神道との関係」節に石上神宮のことが書かれ、「和歌」の節に無端事が置かれるというとりとめのない記述に陥りました。
- また、細部の改変にも問題があります。私が「書紀は壬申の乱の挙兵前から大海人皇子を「天皇」と記し、天武の地位について信頼を置けないところがある」と書いたところを、西方さんは「天武天皇(大海人皇子)の命で編纂された書紀は壬申の乱の挙兵前から大海人皇子を「天皇」と記しており、改竄の可能性も指摘される」と書き直しました。誰が、いつ、改竄したのですか。そういう説を誰が唱えたのか、それを記さずに改竄と書いてはいけません。そもそも改竄という言葉の意味は、既にある文章を別の人が違うものに書き換えてしまうことです。ここで改竄という言葉を使うと、今通用している書紀は本来のものと異なり、その後誰かが書き換えた箇所を含んでいるという意味になります。とても古い学説にそういうものもありましたが、今の学者で従う人はいないはずです。単に嘘やごまかしと言いたいだけなら、改竄という言葉は使わないでください。そして嘘やごまかしかどうかについてですが、この箇所はちょっと違うのです。たとえば今、我々が何かの文章の中で皇子時代の天武天皇について、「天武は云々」と書いても嘘にはなりませんよね。即位の前後でいちいち書き分けていなければ誤りだなどとは、よほど変な人でなければ言いません。書紀も同じことです。各時点での地位を正確に反映して肩書きを変更するか、それとも代表的な・最終的な肩書きにするかは、まず第一に編集上の問題であり、一部は資料上の問題でもあります。だから私は「天武の地位について信頼を置けないところがある」と書きました。それは、ある年月条に書かれた肩書きがその年月のものと信じ込んではいけないという意味で、「信頼を置けない」のです。ここまでが諸学者が一致するところであり、そこから実際にはどういう地位だったかを推測するところで学説が分かれるのです。一足飛びに「改竄の可能性が指摘される」ことにはなりません。西方さんの変更は、学説の内容をわからないで書き変えたのでも、わかっていて書き換えたのでも、良いことではありませんでした。
- 以上、厳しい言い方になりましたが、私には元のほうがよほどましと思えます。--Kinori(会話) 2012年6月11日 (月) 15:00 (UTC)
- 元に戻させてもらいました。西方さんの編集が巧くないことになったのは、元となる私の文章に誤解を招くようなわかりにくさがあったせいだろうと思います。そういう意味で読みやすく改めることは必要かもしれませんが、改めた結果さらに誤解が広がるのはやはりまずいと思うのです。ご了承くださればと思います。--Kinori(会話) 2012年7月3日 (火) 16:23 (UTC)
天河大弁財天社と五節の舞
[編集]天河大弁財天社と五節の舞の関係について、注の加筆がありました。信頼性が高い史料に書かれたことではないと思うのですが、どうでしょうか。伝説の紹介を一概に否定するつもりはないのですが、歴史学の成果を記したところに伝説を混入すると、読者に対して誤まった知識を与えることになります。また、今回の加筆部は基本的に天河大弁財天社の社伝であり、天武天皇の伝説とは言えないように思われます。天河大弁財天社に書いてあればよいのではないでしょうか。--Kinori(会話) 2013年12月19日 (木) 12:16 (UTC)
- 反対がありませんでしたので、該当箇所を除きました。--Kinori(会話) 2014年1月3日 (金) 12:59 (UTC)
扶桑略記の異説
[編集]天智天皇が行方不明になったという『扶桑略記』の説を詳しく紹介していますが、これは除去したほうがよいと思います。歴史学者の間では『扶桑略記』はこの手の変わった説を好む信頼できない本だとみなされており、学者が書いた本にこの説をとりあげたものは見かけません。天武天皇と壬申の乱には、「吉野の鮎」のような、後世文学・芸能でとりあげられた伝説があり、中には書きようによって独立記事たり得るものもあります。が、この話はそうした派生を生んでおりません。そもそも天武天皇についての話でもないので、ここで取り上げる意味はないと考えます。--Kinori(会話) 2019年5月15日 (水) 21:21 (UTC)
- 反対がありませんでしたので、除去しました。--Kinori(会話) 2019年5月21日 (火) 22:03 (UTC)
出生年の説の概要への記載
[編集]「天武天皇の出生年が日本書紀から脱落しているなど・・・」といった加筆が6月2日にありまりしたが、差し戻しました。天武天皇#出征の節で解説があることですが、学界では否定されていることですので、概要の中に入れる必要はないと思います。--Kinori(会話) 2020年6月4日 (木) 22:02 (UTC)
- 上記編集を除去したところ、また書き戻されました。ウィキペディアは、学界で受け入れられていない「真実」を広める場所ではないので、そのような利用はやめてください。--Kinori(会話) 2020年6月27日 (土) 19:42 (UTC)
- 今度は天武天皇は異民族、という部分だけが再度書かれました。IPは違いますが、同じ人ですよね。半保護を依頼しました。ウィキペディアにはWikipedia:独自研究は載せないという方針があります。それに従ってください。--Kinori(会話) 2020年7月2日 (木) 20:54 (UTC)
- 1か月間の半保護がおわってから、また再発しました。ふたたび半保護依頼をしました。無駄なことはやめましょう。--Kinori(会話) 2020年8月15日 (土) 03:54 (UTC)
出典がない加筆
[編集]1月27日から、Capellanorさんが精力的に加筆していますが、一つも出典を付けないままです。どの本・論文にある説なのでしょうか。もし、Capellanorさん自身が考えたことでしたら、Wikipedia:独自研究は載せないに反しているので、やめてください。もし、典拠がある説でしたら、載せてください。誰がどこに書いたものか示してもらえると、その重みにしたがって、そのまま書く、「という説もある」と併記する、書かない、といった選択ができます。--Kinori(会話) 2024年2月9日 (金) 04:58 (UTC)
- はい、申し訳ありませんでした。出典はありませんので直ちに停止致します。 --Capellanor(会話) 2024年2月9日 (金) 08:25 (UTC)
- コメント ノート:珍で私がした指摘と同様のケースですが、これ以上繰り返さないようお願いいたします。--Saigen Jiro(会話) 2024年2月9日 (金) 08:55 (UTC)