ノート:大賀賢励
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半学舎
[編集]「年譜」に「悌(テイ)英半学舎」という記載がありますが、『四日市の礎』を読む限り、大賀賢励は寺の土地に「掇英園」と名前を付け、そこに「半学舎」という名前の塾舎を建てたのだと思いますので、修正しました。この件については明治仏教思想資料集成編集委員会 編『明治仏教思想資料集成』第3巻 (明治7年(1874)~明治8年(1875))、同朋舎出版、1980年に何か記述があるようですが、見ていませんのでわかりません。いずれにせよ「悌英」ではなさそうですので修正しました。
それはさておき、この「年譜」に半学舎の件が2度出てくるのはいかがなものでしょうか。おそらく『大樹育つ百年』にも大賀賢励を取り上げたページがあって、それを単に並べただけなのだと思います。こういうのは時系列で並べないと「年譜」にならないと思いますが、『大樹育つ百年』も近くにはなく対処できません。お近くの方に対応をお願いいたします。--西村崇(会話) 2024年12月8日 (日) 12:00 (UTC)