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ノート:大手拓次

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「偏見や誤解」とするならば

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記事本文中の“詩集『藍色の蟇』に寄せられた、北原白秋や萩原朔太郎の文章に見られる「亜麻色の捲毛に眼は碧い洋種の詩人」「仏蘭西語の書物以外に、日本語の本を殆ど読んで居ない」「永遠の童貞」など”という記述についてです。2008/07/14 0:00現在の版では、大手拓次が友人や詩壇とのつきあいに乏しかったために強かった「偏見や誤解の典型例」であるとされていますが、これを書いた執筆者は、これらの記述が<偏見>或いは<誤解>であるという根拠・典拠をハッキリと分かるように出してください。 --BerryGood10 2008年7月13日 (日) 15:02 (UTC)[返信]

典拠を書きました。岩波文庫版『大手拓次詩集』の423ページ以下にも書かれてあることを付け加えます。--Sasuore 2008年7月18日 (金) 02:24 (UTC)[返信]

ありがとうございます。ご紹介の箇所を読み、原子朗が大手拓次の交際関係・蔵書などについて背景の「実像」を語っていることを確認しました。しかしながら残念なことにそれらの資料は、「原子朗による評伝が正しくて北原や萩原の論評は誤りである」と学界の通説が認めているとか、社会の一般的な見方であるといったことを示してはいませんでした。そのため私のような門外漢からすると、依然として次のような記述は「Wikipedia利用者Sasuoreの見方」としてのみ受け取らざるをえません。

彼に関する偏見や誤解は、生前も死後も強かった。死後(1936年)に刊行された詩集『藍色の蟇』に寄せられた、北原白秋や萩原朔太郎の文章に見られる「亜麻色の捲毛に眼は碧い洋種の詩人」「仏蘭西語の書物以外に、日本語の本を殆ど読んで居ない」「永遠の童貞」などはその典型である。

私が求めた典拠というものは、「ある権威が北原や萩原の批評を誤解の典型であると書いていた」ということの典拠ではなくて、あなたやあなたの依拠される原子朗などの意見が学的・社会的に正しいと見なされている、ということの証拠なのです。その根拠の提示がなかなか難しいということであれば、「中立的な観点の維持」「独自研究の排除」の要請を満たすために、偏見や誤解と断定することは避けたほうがよいと思います。--BerryGood10 2008年12月17日 (水) 15:17 (UTC)[返信]

大手拓次についてはそれほど世間に知られているとはいえず、ましてや一研究家の論文が「社会の一般的な見方」であるとはいえないでしょう。また、大手拓次についての論文・著書もあまり多くありませんから、現状ではいかなる他者の記述を出したとしても「学界の通説が認めている」だとか「学的・社会的に正しい」状況にはなりそうにありません。仮に誰かが、あるいは何人かが原について「正しい」と書いたとしても、彼らをして「学界の通説」であるといえる保証がありませんから。これでは「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」になってしまいます。なお、拓次の女性体験について書いたのは原だけではなく、生方たつゑ『娶らざる詩人――大手拓次の生涯』にもあります。
「大手拓次研究」をお読みになっていたら、第三章「自然主義の彼方へ」の中の2「拓次の読書遍歴」も読まれたことと思います。そして全集の第5巻と対照されたと思います。拓次自身が文章に幾度も日本語の書籍を挙げ、また「徒然草を読む」という題材の文章も書いているのですが、これらは「証拠」になりそうにないのでしょうか?--Sasuore 2009年1月26日 (月) 22:56 (UTC)[返信]