ノート:大塚駅 (東京都)
大塚駅の表記について
[編集]駅名版やきっぷ、都電荒川線の字駅表示LEDには「大塚駅」と表示、印字されています。その件を表記をする必要はあると思いますか?--リバイバル1998 2007年10月28日 (日) 14:11 (UTC)
一部の投稿者による勝手なフォームの変更について
[編集]大塚駅の表記に関しては数ヶ月かけて8月更新分のスタイル(冒頭に総論有り)に落ち着きました。 が、TOTOBIGと名乗る人物によりノートでの何の議論もなされないまま従来のスタイル(JRと都営を別に表記)に一方的に戻されてしまいました。 かような行為は、Wikiの規約に明らかにもとる自分勝手な行為と判断します。 そこで、当該人物による編集前の状態に一時的に戻すことを提案します。 (ノートで議論がなされれば、スタイルを変更することに何ら異議はありません) --Diekatzei 2010年10月13日 (水) 08:55 (UTC)
- まず、呼び捨てにするのはいかがなものか?何の接点もない貴方に呼び捨てにされるのは不愉快ですな。あと私は要約欄にちゃんと理由を明記しているのに、何も明記していない貴方のほうがよっぽど一方的ですよ。「数ヶ月かけて8月更新分のスタイル(冒頭に総論有り)に落ち着きました。」とありますがどこにそんなものがあるのですか?「編集前の状態に一時的に戻すことを提案します。」と言いながら既に戻してるし…。言ってることとやってることが矛盾しすぎ。貴方の行為こそ自分勝手ですので再度差し戻します。--TOTOBIG 2010年10月13日 (水) 10:07 (UTC)
あなたは最近他駅(魚津駅等)に関しても同様の行為をしていますね? いわゆる「あら探し」をするのがお得意なようですが、先人たちが編集してきた過去を無視して自己満足の辞典を作り出しているに過ぎません。 「数ヶ月かけて」の意味に関しては履歴で差分を表示してみればわかるでしょう。 先人の方たちが現在のフォームを何回も改正して現在の形(総論形式)ができあがっています。
大塚駅の件に関しては、駅構内に案内板が出ていることから示しているように形式的にも実質的にも乗換駅として扱われています。当該駅を利用したことはあるのでしょうか?紙上の勝手な類推から判断していませんか? 近隣の巣鴨駅・駒込駅なども総論形式で表示されていることから大塚駅のみ区別して扱う必要性が全く見当たりません。
ここまで指摘してなお自分の形式が正しいと思うならどうぞご勝手に。 これ以上は閲覧者に迷惑になりますので。
もう一度差し戻しますが、これで最後とさせていただきます。 --Diekatzei 2010年10月13日 (水) 11:30 (UTC)
- 呼び捨てのことに関しては謝罪はなしですか。あとWikiと略すのはダメなこともしらない新参者(かどうか知らんが)が偉そうに説教しないでください。あなたの一方的な行動こそ迷惑千万ですよ。あとあなたの文章に私が聞いたことは一つも答えてませんがどうなんですか?一方的にも程がある。「先人の方たちが現在のフォームを何回も改正して現在の形(総論形式)ができあがっています。」いつそんなのができあがったんですか?あなたが勝手に決めたことでしょうが。
- 私がなぜ直すのか…それは現在のフォームが間違ってるからです。なぜを直しているのかを説明すると、都電の駅は「大塚駅前停留場」つまりこの記事名とは違う訳です。本来なら新たに記事を作るべきですが、それだけの情報が無く、あくまでJR大塚駅のこの記事に内包しているだけなのです。ですからこの記事はJRをメインに扱う必要があるわけです(魚津駅も同様)。巣鴨駅・駒込駅は両社とも正式名だから同列に扱える訳です。あら探しだとか勝手なことを言ってますが、私はちゃんとした目的をもって編集しています。あなたとは違ってね。
- まぁ他の方の意見も聞いてみましょう。テンプレを貼っときます。
- 他の方の意見をお待ちしています。--TOTOBIG 2010年10月13日 (水) 12:24 (UTC)
コメントTOTOBIG氏の提案した"スタイル1"の方が良いと思います。
(本項を例として)JRのテンプレートを先頭に出すと、この項はJRだけなのかという誤解を招くことも考えられますので、総合テンプレートは複数路線のことを述べていることを示すために必要であると思います。冒頭の「大塚駅は(中略)山手線の駅。なお付近に(中略)についても解説する。」という文体でだけでも、都電はおまけであるということを示すのには十分でしょう。
一方で、"スタイル2"の方は都電の部分が駅構造部分から独立しているにも関わらず、何故か歴史の年表部分や隣の駅部分は独立していない(巣鴨駅・駒込駅などのスタイルと一緒)という中途半端な箇所があります。なので、関西の駅でよく用いられている、歴史の部分や隣の駅部分なども含めて全て別々にする方法も良いと思います。--E231-Tobucchi 2010年10月20日 (水) 12:14 (UTC)
大塚駅ビルについて
[編集]確か、もう完成されていたと思います。日付についてはあいまいです。申し訳ないです。--Furikaeyusou(会話) 2013年8月24日 (土) 13:37 (UTC)
駅名の経緯
[編集]当初計画では現在の新大塚駅付近を通りそこに駅が置かれるはずが、経路変更後も計画時の駅名のまま現在地で開業した、という記述があります。成書にも似たような記述を見ることができます(例えば、小林祐一『山手線 駅と町の歴史探訪』交通新聞社p.146)が、以下の通り客観的に見て無理があると思いますので{{要検証}}を付けました。
- 鉄道敷設の仮免状(明治30年5月19日)の時点では田端駅から高田村大字雑司ヶ谷(現在の南池袋1丁目)まで敷設する計画で(日本鉄道株式会社鉄道延長敷設ノ件 - 国立公文書館デジタルアーカイブ)、この時の図面は私は参照できていませんが、中村建治『山手線誕生』(イカロス出版)の図示によるとこの2点を直線的に結ぶ経路で、現在の文京区大塚はかすりもしない。
- 続いて本免許にあたり東京市の市区改正委員会で審議された際の図面が議事録(明治32年1月31日、NDLJP:784710/212)にあり、それは田端から巣鴨までは現在同様で、そこから巣鴨監獄署(現・サンシャインシティ)と雑司ヶ谷墓地の間を抜け、現在の南池袋2丁目19付近に雑司ヶ谷停留所を設けて目白で合流する経路となっている。この経路自体は現在の東池袋5丁目と大塚6丁目の入り組んだあたりを通っているが、大塚に駅を設ける計画にはなっていない。
- 免許下付のあと土地収用法事業認定(明治34年5月30日)を受けた時には、すでに現在の経路となっている(収用土地細目、NDLJP:2948678/10)。
- 建設中の明治35年に日本鉄道株式会社の社員が編集出版した『日本鉄道線路案内記』(博文館)には、田端-目白間について「巣鴨、宮中、池袋を経て、山の手線に連絡」(NDLJP:762800/131)と記されており、現在の大塚駅(当時、巣鴨村大字巣鴨字宮仲)の設置計画が伺えるが、少なくとも「大塚」という駅名は確定していなかった。
以上からは、そもそも新大塚付近に駅の設置計画はなく、駅開業時に東京市内の最寄りの地名を付けた、という経緯が素直な推定だろうと思われます。もちろん、ここに挙げた時点の狭間に設置計画などが合った可能性はありますが、それには十分信頼できる資料に基づいた出典が必要だと考えます。--Mzaki(会話) 2019年10月6日 (日) 13:04 (UTC)
- ほぼ上記の推定通りであることを一次資料の調査によって示した文献を見つけましたので、それに沿って改訂しました。--Mzaki(会話) 2019年10月15日 (火) 13:18 (UTC)