ノート:声聞
ここは記事「声聞」の改善を目的とした議論用ノートページです。 |
出典検索?: "声聞" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · ジャパンサーチ · dlib.jp · ウィキペディア図書館 |
「菩提樹の下での一箪から七年」の記述削除について
[編集]出典不十分で上記の記述が削除されました。岩波文庫の「サンユッタニカーヤ(Ⅰ.神々との対話、Ⅱ.悪魔との対話)」ではなかったかもしれませんが、岩波文庫(おそらくパーリ語仏典の中村元訳、そうでなければ法華経)で確かに見掛けたのですが、付箋紙を貼ることも折り目をつけることもなかったため、再度探してもなかなか見つかりません。どなたかご存知ないですか?--118.86.247.131 2017年5月21日 (日) 15:53 (UTC)
編集理由の説明を求めます
[編集]きのう、IP利用者によって行われたこの編集の編集要約欄には「WP:VAN(分かりにくい荒らし)。事実上の浄土真宗大谷派の用語辞典である「総合佛教大辞典」や、コトバンクの運営者である朝日新聞社の捏造を嗤う類と思われる編集を差し戻した。」と記入されており、総合佛教大辞典・広説仏教語大辞典・ダライ・ラマの著書・「コトバンク」を出典とする記述が削除されましたが、①総合佛教大辞典が「事実上の浄土真宗大谷派の用語辞典である」ことの根拠は示されておらず、また、② 上述の2つの辞典およびダライ・ラマの著書とコトバンクが「Wikipedia:信頼できる情報源」に書かれているWikipediaの方針の何に反しているかは明示されていません。また、③「コトバンクの運営者である朝日新聞社の捏造を嗤う類と思われる編集」とは何を指しているか不明であります。また、④WP:VANに書いてある事柄とどのように関係があるのか不明です。上述の編集の正当性を主張する人は、上記①②③④を具体的に説明してください。なお、声聞はすでに半保護依頼を提出中ですので、上述の編集を行った理由や①②③④についてなされた説明の内容は半保護依頼のページに追加報告します。--Leonidjp(会話) 2017年5月26日 (金) 23:58 (UTC)
④の記号を加筆。--Leonidjp(会話) 2017年5月27日 (土) 05:18 (UTC)
- Leonidjpは、日本の仏教界を見下しているらしいことが、ノート:縁覚に於いて自分でなかば是認してしまっており、確信犯的かつ愉快犯的な荒らしではありませんか? その自覚はないのですか? 他のページでは、リンクがあるので著者を敢えて明示しなかった出典でも、赤い未リンクでわざと目立つように追記したり、法蔵館の『①総合佛教大辞典が「事実上の浄土真宗大谷派の用語辞典である」ことの根拠は示されていない』と反論してみたり等々、そう思わざるを得ません。--118.83.136.55 2017年5月27日 (土) 12:42 (UTC)
- 上記①②③④に関する説明が全くなされなかったことが確認できました。--Leonidjp(会話) 2017年5月29日 (月) 04:55 (UTC)
- >>Leonidjpは、日本の仏教界を見下しているらしいことが、ノート:縁覚に於いて自分でなかば是認してしまっており、確信犯的かつ愉快犯的な荒らしではありませんか?
- コメント 「Leonidjpが日本の仏教界を見下している」。仮にそれが事実であったとして、それがWikipediaの編集行為と何の関係があると主張したいのか不明。「日本の仏教界を見下している」ならば「確信犯的かつ愉快犯的な荒らし」に該当するとのロジックは理解できない。なぜならば、見下しつつ「荒らし」に該当しない編集をすることは可能なので。従って、Leonidjpの行為が「荒らし」に該当すると主張したいなら、「仏教界への見下し」の有無ではなくLeonidjpの行為そのものが如何に「荒らし」に該当するか(しないか)を具体的に示さなければならないし、それをできずに他の利用者を「荒らし」と呼ぶことがあれば、それは単なる侮辱や中傷である。なお、「荒らし」という名詞をWikipedia用語として用いたうえでLeonidjpを「荒らし」と呼ぶならば、もしWikipediaの方針やガイドラインに規定されている「荒らし」の定義にLeonidjpが当てはまらなければ、Wikipedia的にはLeonidjpは「荒らし」ではないことになる。Leonidjpに「荒らし性」があることを証明したい人は、利用者‐会話:Leonidjpへ記入のこと。--Leonidjp(会話) 2017年5月29日 (月) 05:13 (UTC)
- >>確信犯的かつ愉快犯的な荒らしではありませんか?
- >>他のページでは、リンクがあるので著者を敢えて明示しなかった出典でも、赤い未リンクでわざと目立つように追記したり、法蔵館の『①総合佛教大辞典が「事実上の浄土真宗大谷派の用語辞典である」ことの根拠は示されていない』と反論してみたり等々、そう思わざるを得ません。
- コメント 赤リンクを作ることがWikipediaで「荒らし」に該当すると言いたいようだが、荒らしに該当することの根拠は不明。赤リンク作成というのはLeonidjpのどの編集を指しているのかも不明。
- コメント 「総合佛教大辞典が『事実上の浄土真宗大谷派の用語辞典である』」旨を編集要約欄に書いたのは利用者:219.117.188.53であった(証拠)。しかしこの辞典が「事実上の浄土真宗大谷派の用語辞典である」というその主張には根拠が全く示されていないので、当ノートページおよび利用者‐会話:219.117.188.53でLeonidjpはその根拠を訊ねているわけである(上記①の論点)。ところが、それを読んだ利用者:118.83.136.55は、「この辞典がなぜ『事実上の浄土真宗大谷派の用語辞典』であるのか説明を求める」という上記①が、「Leonidjpが確信犯的かつ愉快犯的な荒らし」であることの理由になると考えているらしい(この人は『そう思わざるを得ません』と上述のように言っている)。特定の辞典の性格や性質を「事実上の浄土真宗大谷派の用語辞典である」と決めてしまうことの根拠をノートページで訊ねることが「荒らし」に該当するというロジックは全く理解できない。また、利用者:219.117.188.53と利用者:118.83.136.55が同一人物であるのかどうかも定かでない。IPアドレスが違うので。この二人がもし別人物なら、他人に対する質問に勝手に回答してはいけない。--Leonidjp(会話) 2017年5月29日 (月) 10:12 (UTC)
- あー、それから、IP利用者の利用者:219.117.188.53に質問ですが、あなたは「分かりにくい荒らし」と要約欄に書いたうえで、すでに出典の備わっていた記述を削除しましたね(参照)。この「分かりにくい荒らし」というのは具体的に何を指しているんでしょうか。Wikipedia:荒らし#分かりにくい荒らしというところに書いてある意味での「分かりにくい荒らし」を指しているなら、この声聞という記事のどの版に、どういう「分かりにくい荒らし」があったので、あなたはこの編集をしたわけですか? Wikipedia:荒らし#分かりにくい荒らしの内容に即して説明してください。
- なお、「分かりにくい荒らし」と言える根拠が無いにもかかわらず、「分かりにくい荒らし」と要約欄に書いて、すでに出典の備わっていた記述を削除したにすぎないということなのでしたら、IP利用者によってそのような編集が行われたという事実は、今後また新たに声聞の記事の半保護依頼などを行う際には、依頼の理由の一つとして保護依頼ページに記入しますし、その際は管理者の目にも入りますので。--Leonidjp(会話) 2017年5月30日 (火) 09:43 (UTC)
- あー、それから、IP利用者の利用者:219.117.188.53に質問ですが、あなたは「分かりにくい荒らし」と要約欄に書いたうえで、すでに出典の備わっていた記述を削除しましたね(参照)。この「分かりにくい荒らし」というのは具体的に何を指しているんでしょうか。Wikipedia:荒らし#分かりにくい荒らしというところに書いてある意味での「分かりにくい荒らし」を指しているなら、この声聞という記事のどの版に、どういう「分かりにくい荒らし」があったので、あなたはこの編集をしたわけですか? Wikipedia:荒らし#分かりにくい荒らしの内容に即して説明してください。
問題点の指摘
[編集]- 無期限ブロックされた利用者:Ese na heihati(会話 / 投稿記録 / 記録)によって加えられた「(声聞という用語は)仏教成立以前からインドで広く用いられていたものであることはほぼ間違いない」という記述(差分)が、「仏教成立以前からインドで広く用いられていたとみられる」と文末の表現を変えただけで今も残っています。これは一般的な説なのでしょうか。『岩波 仏教辞典 第二版』の「声聞」の項にはそのようなことは書かれていません(ジャイナ教に関する記述はありますが)。中村元・三枝充悳著『バウッダ』(小学館ライブラリー版)では250頁に、平岡聡著『大乗経典の誕生』では127頁に声聞の説明がありますが、いずれにも該当する記述はみられません。もし仮にこのような考察をしている研究者がいるのであれば、出典を示したうえで、誰の説かを明確にする必要があるでしょう。そうではなく、信頼できる情報源によって裏づけられない未発表の説ならば、これは独自研究であり、Wikipediaに掲載し続けるべきではないでしょう。
- サンスクリットのラテン文字表記が Sraavaka に改変されていますが(差分)、『岩波 仏教辞典 第二版』で確認したIAST表記で śrāvaka ですので、京都・ハーバード方式では zraavaka か zrAvaka と表記されるはずです。
以上。--Doomreaper(会話) 2017年5月27日 (土) 15:58 (UTC)
現在、この記事は保護されていますが、保護が明けたら利用者:Ese na heihati(会話 / 投稿記録 / 記録)による編集前のID:46600753の版にいったん巻き戻したほうがましなのではないかと思います。この版にも出典はありませんが、四向四果についての一文以外はすべて『岩波 仏教辞典 第二版』の記事と一致しますので、出典を付けるのは容易です。「声聞には(略)四向四果という」の一文も大過ないと思われます。水野弘元『仏教要語の基礎知識』(新版)の25-26頁に、四向四果は声聞の悟りとしての聖位であるとする記述がありますし、ダライ・ラマ14世の講義録の邦訳である『ダライ・ラマの仏教哲学講義』の9頁では、四向四果は声聞・独覚の教義であると述べられています。--Doomreaper(会話) 2017年5月27日 (土) 22:36 (UTC)
- その版への巻き戻しに賛同します。--Leonidjp(会話) 2017年5月29日 (月) 04:56 (UTC)
- 出典が全くない版への巻き戻しはLeonidjpの主張と矛盾する。それより、DoomreaperとLeonidjpはソックパペットではありませんか?
- ↑この署名のない書き込みは、利用者:118.83.140.65によるものです(参照)。--Leonidjp(会話) 2017年6月1日 (木) 02:19 (UTC)
- 出典が全くない版への巻き戻しはLeonidjpの主張と矛盾する。それより、DoomreaperとLeonidjpはソックパペットではありませんか?
- 私とDoomreaperさんがソックパペットではないことはハッキリと断言しておきます。--Leonidjp(会話) 2017年5月31日 (水) 23:12 (UTC)
- 日本は共謀共同正犯の適用が世界で最も甘い国だそうで、手下3人が実刑判決を受けても、目配せしていた使役者は起訴も見送られるほど、ということを言っているようだ。--118.83.132.63 2017年6月1日 (木) 08:49 (UTC)
- 報告 全保護は解除されました。
- >>出典が全くない版への巻き戻しはLeonidjpの主張と矛盾する。
- コメント Doomreaperさんが既にご提示のように、出典は付けることができるそうですから問題ありません。その版に私が加筆したいことがあれば後日加筆すればよいだけなので、それも問題ありません。--Leonidjp(会話) 2017年7月7日 (金) 06:12 (UTC)
- 報告 上記の提案のとおりに差し戻ししたあとで出典を付け、さらに後で加筆しました。--Leonidjp(会話) 2017年7月18日 (火) 11:20 (UTC)
- 追記。上記の議論にて取り上げられている下記の一文は、出典を自分で確認してないので、現在の最新版には含めていません。
声聞には、上から[[阿羅漢]]果([[応供]])・阿那含果([[不還]])・斯陀含果([[一来]])・須陀洹果([[預流]])の4つの目標(「向」)と、それに応じた4つの結果(「果」)があるとされ、これを[[四向四果]]という。
- --Leonidjp(会話) 2017年7月18日 (火) 11:26 (UTC)
コメント 「なお、チベット仏教では〔中略〕と解説されている」という記述は、実質的にはこの編集で加わった部分の再掲でしょうか。その出典である『智慧の眼をひらく』を取り寄せてみたところ、この出典箇所は同書の英語版に由来する註記であることがわかりました。同書の「英訳者まえがき」よると、一部の註記はヒンディー語版の翻訳者によるもので、それ以外の註記はすべて英訳者の一人であるカンティパーラというイングランド出身の比丘に文責があるとのことです(日本語版には日本語訳者による註記もあり)。出典箇所の73頁・註(10)も含めて、各註記には筆者名が記されておらず、誰の見解であるかわかりません。筆者がカンティパーラであるとしても、この人物がチベット仏教の僧なのかテーラワーダの僧なのかも不明です。したがってこの出典だけでは、小乗という語を避けて声聞乗と呼ぶべきだということをチベット仏教の一般的見解として記述することはできないと思われます。なお、『ダライ・ラマの仏教哲学講義』の13頁でダライ・ラマ14世が同じようなことを述べていますので、少なくともダライ・ラマ14世が同様の意見をもっていることは確実だと思います。--Doomreaper(会話) 2017年7月18日 (火) 18:11 (UTC)
- 報告 上に述べたように、『ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく』では、小乗という語を避けて声聞乗と呼ぶべきだということがチベット仏教の見解だと明記されていないので、そのように編集しました。--Doomreaper(会話) 2017年7月19日 (水) 15:38 (UTC)