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ノート:増川弘明

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エピソード欄の記事について

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個人の酒癖に関するエピソードを削除しましたが、復活されてしまいましたので、合意を得るべく議論いたします。

リバートの理由として「トリビア記述としては十分で、出典もあり」とされていますが、出典があれば何を書いても良いのではありません。百科事典の中の音楽家の記事に、酒癖を記述する必要性は全くありません。

Wikipediaは、あくまでも百科事典であり、ファンサイトではありません。雑多なトリビアを充実させたければ、それは百科事典で行うべきことではなく、個人のサイトで行うべきです。--Dr.Jimmy 2007年8月2日 (木) 04:31 (UTC)[返信]

  • 時には雑多なトリビアも必要です。いたずらにコアなファン向けの情報のみを書き連ねるのは間違ってはいますが、より多面的に、複数の視点からその人物像を記載するためには、直接的に略歴に関係ないエピソードも記事を豊かなものにするでしょう。もしも音楽家の記事に、略歴、作風、プロフィールのみを記載するだけしか認められていないならば、モーツァルトの項目に「彼が賭博好きだった」というエピソードを書き込むことは間違っていることになります。どのラインまでが「許されるトリビア記述か」という基準は難しいですが、全ての雑項目を排除しようとすることはWikipedia全体にとっても良いことではないと思います。--Artwater 2007年8月4日 (土) 15:07 (UTC)[返信]
「雑多なトリビアも必要」「(雑項目の排除は)Wikipedia全体にとっても良いことではない」と言われましても、何の根拠もなく主観で主張されても説得力がありません。
雑多なプロフィールを列挙しておいて、読み手に人物像を自分で考えろ、というのは百科事典のすることではありません。また、音楽的な功績のみならず、その人物像にまで深く研究が進んでいる人物の逸話と、単なる私的・内輪のネタのエピソードとを同列に語る意味がありません。酒癖や家族構成・ペットなど、コアなファン向け情報以外の何物でもないではないですか。
Wikipediaに百科事典としての価値以外のものを付加したいのであれば、基本方針の変更の提案でもすべきでしょう。--Dr.Jimmy 2007年8月6日 (月) 06:50 (UTC)[返信]
あまり個人への指摘はしたくないのですが・・・、Dr jimmyさんの言う『百科事典的なもの』こそが、極めて主観的で説得力の乏しいものとしか捉えられません。『単なる私的・内輪のネタのエピソードとを同列に語る意味がありません』と仰っていますが、現在、Wikipediaにそのラインを指摘したガイドラインは一切存在しません(規約は読みこなしておられるようですから、ご存知ですよね?)。どれだけマニアックな記述であろうと、編集方針の「削除するとき」の該当項目に当てはまらない限り、Wikipediaからそれを取り除くことは不可能なのです。Wikipedia:ウィキペディアは何でないかが示しているのは方針かつ努力目標であり、削除の基準ではありません(しかもここにですら、「一部の者(コアなファン)にしか通じない情報は不要である」という方針は示されていません)。Dr jimmyさんが、ファンにしか通用しないようなコアな情報をWikipediaから排斥したいとお望みならば、それこそ基本方針の変更の提案をお勧め致します。--Artwater 2007年8月6日 (月) 09:47 (UTC)[返信]
Wikipedia:ウィキペディアは何でないかの、「[編集] ウィキペディアは単なる知識ベースではありません」には、「単なる情報やデータを無差別に収集する場所ではありません。百科事典として適切となるよう体系的に整理し、文章による解説をしてください。」と、ちゃんと書いてありますよ。それとも「一部の者(コアなファン)にしか通じない情報は不要である」とそこまで個別な事例で挙げられていなければ、守らなくてもよいのでしょうか? そもそも、百科事典に、「コアなファンにしか通じない情報」を載せようという発想自体、根本的におかしいでしょう。コアなファン向けの情報は、ファンサイトに載せればいいではないですか。それをなぜ必死になって百科事典に載せようとするのでしょうか。
それから、百科事典的でないものは、正常な内容に編集するように書いてあります。Wikipedia努力目標であるから、守らなくても良いなどということにはなりませんし、目標を達成すべく努力している人を制止し、百科事典的でない記事を保護するためのものでもありません。最後になりますが、Wikipedia:ウィキペディアは何でないかに書かれている「削除の基準」とは、読めば分かるとおり、「ページ削除」の基準のことです。--Dr.Jimmy 2007年8月6日 (月) 13:20 (UTC)[返信]
「単なる情報やデータを無差別に収集する場所ではありません。百科事典として適切となるよう体系的に整理し、文章による解説をしてください。」。言い換えれば、「体系的に整理し、解説や検証が可能ならば掲載できる」ということなのです。現状、この項目をはじめ、散文的であまり宜しくない文章(私の責任でもあります)が数多くありますので未だ従えていない部分がありますが、編集方針通り、「除去よりも修正」で乗り切っていくのが基本中の基本です。『百科事典的』という表現には、『情報そのものの餞別』とは別に、『読むに耐える文章形態』であるか、ということも含まれているわけです。ただ消すだけならば誰でも出来ます。「コアな情報を除去して無難な記事にする」のではなく、「コアな情報をも百科事典的体系に違和感無く取り込む」努力が重要なのです。
『百科事典に、「コアなファンにしか通じない情報」を載せようという発想自体、根本的におかしいでしょう。云々~』というのは、あなたの個人的な意見であり、主観ですね。--Artwater 2007年8月6日 (月) 15:13 (UTC)[返信]
『百科事典に「コアなファンにしか通じない情報」を載せてはいけない』なんて、もはや常識の部類にも入ることだと思いますがね。百科事典というものについて、一体何であると心得ていらっしゃるのか、甚だ疑問に感じます。他の方の意見も聞いてみてはいかがかと。(ちなみに、参考として、Wikipedia‐ノート:ウィキペディアは何でないか#ファンサイトではない追加提案を挙げておきます。)--Dr.Jimmy 2007年8月7日 (火) 02:33 (UTC)[返信]
『もはや常識の部類にも入ることだと思いますがね』・・・。ですから、あなたの常識だけでWikipediaを解釈しないで下さいあなたの常識はWikipediaの常識ではありません。ご丁寧にもこちらこちらを探して下さっているので早速活用させていただきますが、二項目を見てのとおり、この問題に反対意見を出しているのは私だけではないのです。実際、『ファンサイト~』の提案が未だ通過していないのは勿論のこと、『「ある思想組が己の価値観、趣向に合わない記事を容易に排除したい」というウィキペディアの私物化を目指す物であれば大反対です』というご意見がついていたのをあなたはご覧になりましたか?私自身も、いつかはBUMP OF CHICKEN関連の全項目を秀逸な記事にしたいと思っています。あなたが「検証可能性」の点からこの記事を批判するならばいくらでもタグを貼っていただいて構いませんし、それはWikipedia内においても全くもって正しい行為ですが、ろくに書き直しもせずに己の「常識」だけで判断した「無駄なファンサイト記述」を選び出し、さもそれが絶対的な正解であるかのように排除していくようであればWikipediaを根底から誤解しているとしか申し上げられませんあなたの判断で勝手に結論させないで下さい。もう一度、しっかりと編集方針を読み直しましょう。善意の書き込みを妨げてはいけないのです。
・・・というか、あなたがあなたの主張の根源を「私の常識」としている限りは、議論が一向に前へ進みません。あなたの常識をWikipediaの常識にしたいならば、Wikipedia‐ノート:ウィキペディアは何でないか#ファンサイトではないであなたの意見を展開し、よりあなた好みのルールやラインを実際に通過させた上で、もう一度こちらへ戻ってきてください。--Artwater 2007年8月7日 (火) 05:29 (UTC)[返信]
『百科事典に「コアなファンにしか通じない情報」を載せてはいけない』などということは、世間一般の常識である、というつもりで書いたのですけど、意味が通じなかったようで、大変残念です。「コアなファンにしか通じない情報」を掲載しいている百科事典がこの世の中に存在しているのであれば、お目にかかりたいものです。
他の方の意見も参考にしてみては、とのアドバイスも聞き入れられず、結局、多数の意見の中からご自身と同じ意見だけをわざわざ抜き出して御披露されるとは思いもよりませんでした(ちなみに、Artwaterさんと同意見の方は、他の方からはこんなふうに見られているということも、ご参考までに)。
編集方針のどこをどう読もうとも、善意であろうが悪意であろうが百科事典的でない記述を、Wikipediaが容認しているという事実はありません。百科事典に「コアなファンにしか通じない情報」も必要などという主張こそ、百科事典というものを、そしてWikipediaを、根本的に理解されていないとしか、私には思えません。Artwaterさんからは、他の方の意見を参考になされるつもりがないようですので、コメント依頼に提出して、他の方の意見を聞いて見たいと思います。
最後になりますが、秀逸な記事を目指すというのは、大変良い事だと思います。私もできる限りのことはしていきたいと思っています。--Dr.Jimmy 2007年8月9日 (木) 08:28 (UTC)[返信]
ですから、「世間一般の常識」であるというのはあなたの認識であって・・・。お互いのWikipediaの認識が平行線上のようですので、私の意見を整理させて頂きますと(あまりにも見辛いので行を詰めますが)、
  • 現在のこの記事の状況は決して良くない。トリビア記述があまりに目立ってしまっているし、文体も整っていない。
  • 情報量的にも偏った内容である。
  • だがこの記事は発展途上、書きかけ状態であり、これからの加筆修正で読むに耐える記事になる可能性がある。
  • 現在のこの記述も、修正していくことで百科事典然とすることは出来る。時間はかかるかもしれないが、そうしてより充実した記事に少しづつ書き換えていく努力をすることは編集方針でも示されている。
  • 各人によって『無駄』の価値観は異なるが、除去ではなく書き換えを重ねることでより完璧に近い形へ持っていくべきである。「この記事は絶対に要らない、書き換えようとも無駄知識の域を超えることは絶対に有り得ない」ということは誰にも断言できないはずだ。
  • にもかかわらずに、ひとり(あるいは複数)の執筆者が独断した「無駄記述」を消してしまうことは、より多様で充実した内容の記事へと成長する可能性を摘んでしまうものではないのか。このままで良いなどと思っている者が全てではない。他の優秀な音楽家の記事と肩を並べるような、しっかりとした記事へ作り変える努力を重ねれば、現在の整理されていないトリビアも「逸話」として違和感無く取り入れることが出来るようになる可能性も残されている。何もかもが無駄であるとは決めつけずに、少しでも、より時間をかけて改訂を重ね、秀逸な記事へと目指していくことこそが、重要なのではないか。
  • 言うまでもないが、検証可能性や中立性については十分に確保されるべきである。特に検証可能性に関しては、この記事をはじめとして十分だとはとても思えない。こちらもひとつひとつ解決していくことは必須だ。
ただ、Dr jimmyさんも仰っていたとおり、私とあなただけで話をしていても議論はまったく進みません。未だに、この場では効力を持たない「常識」という言葉をお使いのようですし・・・。ぜひ他の方のご意見を聞かせていただきたく思います(私が直ぐに行動しなかったからということで、私が聴く耳を持ってないようにご解釈されたようですが、それは少しショックでした・・・)。個人的にはお互いの意見を整理したうえでWikipedia:井戸端へ再提案を考えていました。コメント依頼に提案して下さったようですので、とりあえずは待ちたいと思います。--Artwater 2007年8月9日 (木) 10:45 (UTC)[返信]

エピソード欄の記事について(コメント依頼以降の議論)

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コメント依頼を見てとりあえず見に来ました。ミュージシャンの記事になっていません。使用楽器に関する情報の少なさから始まって影響を受けたミュージシャン、演奏スタイルetc そういったミュージシャンの理解に必要な記載が少ないのにトリビアだけ増えていくのはミュージシャンに対する冒涜です。アラン・ホールズワースの項を見てください。ミュージシャンに対する理解を深める記事とはこういうものをいうのです。--Lcs 2007年8月9日 (木) 08:54 (UTC)[返信]

はい、現状ではその通りだと思います。大幅な加筆が必要です。ただ、これまであまり楽器や演奏などに知識のある執筆者の方がいらっしゃらなかったので、長い間悩んでいます。ぜひ詳しい方、より詳細な資料をお持ちの方に充実させて頂きたいと思っております。歯がゆいですが・・・(加筆依頼に出されるような内容とも少々性質が異なっているようですし)。--Artwater 2007年8月9日 (木) 10:55 (UTC)[返信]
バンドのファン層でこの辺は影響を受けてしまう部分があって、いわゆる「楽器少年」がファンとしてついていないとミュージシャンとしての記事に育たないかもしれませんね。その場合は単独項目をあきらめてバンドの記事に統合してしまったほうが軋轢はすくないと思います。これが個人名義でソロアルバムであるとか別なバンドに参加していればそっちのディスコグラフィーや活動歴などを記載することで体裁を保てるのですが。それにしても相応に著名なバンドのメンバーなのですから、リットーミュージック関係の雑誌に機材を中心とした取材記事とか掲載された実績はないもんなのでしょうか?ギターマガジンとか。いずれにせよそういった加筆があってこそのトリビアや余談の入る隙ができるわけで、今の状況のままだと記事の存続意義を問われるかと思います。使っている弦のメーカーとかゲージとか、使っているピックの形状や堅さなんていう演奏に直結する情報にはファンは興味がないんでしょうか?--Lcs 2007年8月9日 (木) 11:35 (UTC)[返信]
ギターマガジンには複数回掲載されたことがあります。表紙だったこともあったような。(手元にはありませんが)公式バンドスコアの中にも機材紹介がある筈ですので、書き加えることは可能だと思います。楽器以外にもこの記事を膨らませる余地はあるとは思いますが・・・。--Artwater 2007年8月9日 (木) 15:35 (UTC)[返信]
ちょっと冗長なコメントになりますけど、ミュージシャン記事の一つの例を考えてみることにします。
  • 定義文(現在の文でたぶん問題なし)
  • 概略 バンド内での役割 作詞、作曲、編曲、プロデュースの技能の有無。所属しているバンド以外のソロ活動、参加している別ユニットの例。所属事務所、マネージメント関係etc 加えて本人が好きな他のミュージシャンや本人の影響を受けたとされる若手のミュージシャンなどもここに記載していいでしょう。
  • 来歴(現在の文を補足するとして)アマチュア時代に師事した人はいるか?音楽関係のサークルあるいは学校などへの所属歴、アマチュア時代にコピーしていた楽曲、ミュージシャンの例(これは演奏スタイルに影響を与えるので重要です)
  • 音楽活動歴(上記と若干かぶりますが)音楽家としての年表、参加しているバンドなどの変遷、外部のプロデュース活動歴など。ディスコグラフィーもソロアルバムなどあればここに記載。事故、事件などでの活動休止歴など
  • 演奏家としての特徴 演奏スタイル、使用楽器の特徴ならびに変遷。演奏以外に作詞、作曲、編曲などができる場合はその特徴。最近だと作曲、編曲は自宅録音でベーシックなトラック製作を兼ねることが多いので録音技術、機器に関する知識などが豊富であればそういった記述も。
  • 評論家などの評価 音楽性であるとか技術面での専門誌の評価 要出典 これは時代による評価の変遷などとして記事を補完します。
・・はい、余談、トリビア無しの記事の成立です。ここまでかかれた記事は流石に多くはないと思いますが、これらが書かれずに音楽以外の面が先に記述されてしまうのは単独項目としては問題があると考えます。余談、トリビアを除去する編集は、上記のような項目の記述を促していると考えてみるのがよろしいでしょう。現状ではバンドの記事に統合依頼が出されてもおかしくない内容と思いますので、今後の記事の充実を期待します。--Lcs 2007年8月9日 (木) 22:24 (UTC)[返信]
ご丁寧にも分かりやすく例示していただき、ありがとうございます!早速活用させて頂きます。先ずは現存している「エピソード」の項目を来歴、または人物像へ統合し、それでも入らないものはコメントアウトで脇へ寄せ、音楽的なニュアンスの記述を出来る限り、少なくとも私が書き込める分だけでも足します。ただひとまずは、執筆までのご猶予を頂戴したします。--Artwater 2007年8月10日 (金) 09:43 (UTC)[返信]

コメント依頼を提出してからは、しばらく静観させていただいておりました。適切なアドバイスをいただいたLcsさんには、本当に感謝いたします。ありがとうございました。これで、音楽家の百科事典の記事には、余談・トリビアの類は必要ないことを納得していただけたのではないかと思います。各メンバーの記事について、現状ではトリビアを人物像の欄に移動させただけのような感がありますが、まだ執筆途中とのことですので、Artwaterさんが追々修正していただけることでしょう。記事の修正については、しばらくはArtwaterさんにお任せして、私からは極力編集には加わらないようにするつもりです。ある程度(1か月位?)経ってみて、何かありましたら、修正なりコメントなりを行わせていただこうと考えています。--Dr.Jimmy 2007年8月14日 (火) 07:54 (UTC)[返信]

加筆依頼

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編集は断続的に行なってきましたが、私の手持ちの資料も限界ですので(藤原基央だけは辛うじて見えてきたかな・・・)、悩みましたが先ほど加筆依頼して参りました。最近はメンバー周りの加筆・修正をしているのが私ぐらいですので、少々心細いです。是非とも多くの方に執筆のご協力を仰ぎたいと思っております。--Artwater 2007年8月27日 (月) 05:53 (UTC)[返信]


「評価」について

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非中立的記述、主観に依拠した記述を削除。また、節の内容的に「評価」というタイトルはウィキペディアには相応しくないため「その他」と改変致しました。(※不特定多数の人間が下す「評価」に関する記述は必然的に非中立的、あるいは記述者の主観に依拠したものとなるため)--Blackbelt Jones 2007年10月21日 (日) 13:12 (UTC)[返信]

Blackbelt Jonesさんが削除された箇所については出典もありませんし、ご判断は賢明だったとは思いますが、「評価」を「その他」とした点については強く抗議致します。そもそもにしてミュージシャンは数多くの専門家やライターから、その演奏技術や後世へ与えた影響について常に評価される立場にあり、「評価というもの自体が非中立で主観的なのだから除去すべきだ」という考え方は根本的にWikipediaを誤解していらっしゃるとしか言えません。Wikipedia:中立的な観点の『芸術作品などの特徴に関する意見』をお読み下さい。これから執筆される可能性のある重要な項目をご自身の主観的な判断で消してはなりません(そもそもこの項目は加筆依頼中です!)。--Artwater 2007年10月21日 (日) 13:39 (UTC)[返信]
「評価」を「その他」とした点、また「不特定多数の人間が下す「評価」に関する記述は必然的に非中立的、あるいは記述者の主観に依拠したものとなるため」という部分ですが、ウィキペディアの基本方針に反しているとは考えておりません。ご指摘いただいたWikipedia:中立的な観点の『芸術作品などの特徴に関する意見』の文言をよくご覧ください。同文言中では三度にわたり、主観に依拠した記述に言及されています(「執筆者が感じたことを表現する傾向にあります。これは、百科事典にそぐわない記述だと言えるでしょう。」「~といったことについてはわれわれは意見の一致を見ることができないでしょう。」「ウィキペディアの執筆者の独自の見解は重要ではありません。」)。それに比して、同文言中には『解釈』という言葉こそ見受けられますが、『評価』という言葉は全く用いられておりません。これは言葉遊びなどではなく、この文言がいかに慎重に作成されたものかということの証左ではないかと思いますがいかがでしょうか。--Blackbelt Jones 2007年10月22日 (月) 01:34 (UTC)[返信]
なるほど、「評価」という言葉のニュアンスに対するご返答だったのですね。誤解しておりました。改めてガイドラインも読み返しましたが、たしかにBlackbelt Jonesさんの仰るとおり、「評価」という言葉は使用が難しいと考えます。私の不勉強をお許し下さい。ただ、引き続き「その他」という項目名の使用には反対です。ひとつは「専門家からの意見はミュージシャンの記事にとっては重要で、エトセトラ・またはおまけ程度に扱われるものではなく、この項目に含むのは相応しくない」という点、もうひとつは「その他という表現が曖昧で、トリビア的記述が膨れ上がる温床となる可能性がある」ことです。後者は削除、移動で対応すれば大きな問題とは成り得ませんが、・・・「その他」という言葉も「評価」という言葉も使用しない、より的を得た新たな項目名が必要ではと考えます。--Artwater 2007年10月25日 (木) 13:07 (UTC)[返信]

(インデント戻します)まず最初にご理解いただきたい点があります。私は最初の書き込みで「不特定多数の人間が下す「評価」に関する記述は必然的に非中立的、あるいは記述者の主観に依拠したものとなるため」と述べています。これは即ち現在ウィキペディアの編集に携わっている人、もしくはこれから編集に携わろうとされている人達の、『個々の評価』を指した言葉であり、それらの評価は必然的に『主観に依拠したもの(非中立的記述)、あるいは独自研究と呼ばれるもの』になるわけです。そしてこれらの評価のみならず編集に携わらない閲覧者の評価も交えて総体的にな視点で見たとき、その内容は賛否両論であると考えるのが中立的と言えるでしょう。私が『評価』という節を『その他』と改題したのは、編集後の内容を鑑みたのは無論のことですが、それに加えて節が前述の「非中立的記述で膨れ上がる温床となる可能性がある」と判断したためです。 さて、「専門家からの意見はミュージシャンの記事にとっては重要で、エトセトラ・またはおまけ程度に扱われるものではなく、この項目に含むのは相応しくない」とのご意見ですが、私は『「専門家の解釈」を「その他」に含むべき』 とは申し上げておりません。Artwaterさんは「編集者(記述者)の評価」と「専門家の解釈」を混同しておられるのではありませんか? また、「その他という表現が曖昧で、トリビア的記述が膨れ上がる温床となる可能性がある」とのご指摘についてですが、私は殊更に「その他」という節を残したいと考えてはおりません。(実のところ、現在「その他」にある記述を読み返してみた結果、これらは当該曲、当該グループの記事にそれぞれ移動すべき内容だと感じています。)前述した専門家の解釈を記述するのであれば、「専門家の解釈」あるいは「専門家による解釈例」といった節を新たに設け、出典を明示しつつ記事の充実を図ればよいでしょう。(当然のことながら、この「解釈」に対する記述者の「意見」「主観」は無用のものです。)しかしながら私がここで疑問に感じるのは、Artwaterさんが「トリビア的記述」が膨れ上がることを懸念されつつ一方ではこうした編集[1]を行われている点です。節の場所・題名を問わず、あなたの仰る「トリビア的記述」を盛り込んでいけば結局のところは(出典の有無に関わらず)そうした記述が膨れ上がる温床になるのではないでしょうか。--Blackbelt Jones 2007年10月27日 (土) 07:10 (UTC)[返信]

返信が滞り気味で、申し訳ありませんm(_ _)m
(私からこう主張するのも妙ではありますが)私は「編集者(記述者)の評価」と「専門家の解釈」を混同してはおりません。雑誌その他のあらゆる評論あるいは定説(増川弘明に関して定説が生まれるのはまだ数十年のちの事でしょうが)のみで「専門家からの解釈」は構成されるべきです。結果的に賛否両論の方向へ持っていくという方針も至極当然と考えます。Blackbelt Jonesさんが提唱して下さったとおり、「専門家の解釈」という項目を「音楽家として」の節に追加する方向で異議はありません。曲折はありましたが、これにて合意が得られたと解釈させていただきます。
私の過去の編集をここで持ち出されるとは意表を突かれた気持ちですが、「人物」あるいは「逸話」と呼ばれる項目にその人物のエピソードを加えること自体を私は否定していません(升秀夫にある『会計』をしていた頃のエピソードを削除しようという発案が出れば、私は存続に一票を入れます)。もちろん選別は必要ですし、「この記述は不要だ」と主張する者が出れば、それは十分にここで議論を行なう価値があるでしょう。ただ、「その他」というような項目がある場合、あまりにも即時的でささい極まりない(と判断するのもまた個々の主観ですが)記述が投げ込まれやすいことは間違いないですし、書き込むなら書き込むだけの覚悟を執筆者に背負って欲しいというだけの話です。--Artwater 2007年10月31日 (水) 02:00 (UTC)[返信]
  • 「専門家の解釈」あるいは「専門家による解釈例」といった節を新たに設ける点については、私は仮題を提示した立場でもありますので特段の異論はありません。しかし、この合意はあくまでも現時点でのものであり、今後改善の余地が見出されれば新たな提案の可能性もあることを付け加えておきます。
  • 「「人物」あるいは「逸話」と呼ばれる項目にその人物のエピソードを加えること自体を私は否定していません」という文言について。「逸話」の節に当該人物のエピソードを加える行為は、その内容がウィキペディアのガイドラインに抵触していない限り(特殊な例外等を除けば)問題はないでしょう。では「人物」の節に対してはどうでしょうか。下記に「人物」と「逸話」の意味合いを引用してみました。
じん‐ぶつ【人物】
1 ひと。人間。「偉大な―」「登場―」 2 人柄。ひととなり。「面接試験では主として―を見る」「―は確かだ」 3 人格・才能などのすぐれた人。人材。「肚のすわった、なかなかの―だ」 4 描画の対象である人間の姿・形。「―のデッサン」(大辞泉より引用)
(1)人間。ひと。 「登場―」「危険な―」 (2)性格。人柄。  「―試験」「好―」 (3)人柄・能力などのすぐれた人。 「なかなかの―だ」 (大辞林 第二版より引用)
いつ‐わ【逸話】
その人についての、あまり知られていない興味深い話。エピソード。「―の多い人物」 (大辞泉より引用)
その人の隠れた一面を知らせる、世間にあまり知られていない面白い話。 「―に富む生涯」 (大辞林 第二版より引用)
これらを引き比べればお解かりいただけると思いますが、両者は明確に異なる意味合いを持った言葉です。「人物」という言葉の普遍的な意味合いに対し、「逸話(エピソード)」の意味を内包させることを可能とし、これを否定しないのはあなたの主観に依拠した主張ないしは意見としか受け取れません。加えてその主張に基づく記述は『トリビア的記述』なるものの温床となる可能性が高い―というよりも本記事の履歴を見れば「立証済み」と申し上げても過言ではありません。
  • 「ただ、「その他」というような項目がある場合、あまりにも即時的でささい極まりない(と判断するのもまた個々の主観ですが)記述が投げ込まれやすいことは間違いないですし、書き込むなら書き込むだけの覚悟を執筆者に背負って欲しいというだけの話です。」という文言について。私は前回も申し上げた通り、殊更に「その他」という節を残したいとは考えておりません。節の名称の普遍的意味合いを理解しない非中立的編集者がいれば、そうした節の有無など最早問題ではないからです。それは「人物」節の体をなしておらず、削除すべき不要な記述が蔓延した記事が存在することでも立証されております。覚悟云々につきましてはまったく同意いたします。自分にとっての常識を普遍的知識と混同したうえでの記述など言語道断、というよりも噴飯ものです。殊に「中立」という言葉の意味を理解できていない方に関しては、ウィキペディアの編集には一切携って頂きたくありません。--Blackbelt Jones 2007年11月1日 (木) 14:44 (UTC)[返信]

改めて確認をさせて頂きましたが、それでは「専門家の解釈」という題への置換を致します。また、同様の修正を(少なくとも)BUMP OF CHICKENの他のメンバーの項目へも行います。

では、ご指摘の通り「人物」ではなく「逸話」という言葉を使用しましょう。こちらも各記事内にて修正させていただきます。

不要な記述の蔓延への危機感は、私も同じです。「覚悟」という言葉が伝わるかどうかは少々不安でしたが、安心しています。Blackbelt Jonesさんのwikipediaへの熱い想い、読ませて頂きましたよ。

Blackbelt Jonesさんの前回の投稿から間隔を空けてしまいましたが、ひとまず返信させていただきました。貴重なご意見、本当に有り難うございます。--Artwater 2007年11月14日 (水) 06:16 (UTC)[返信]

「評価」を「その他」とした変更については、止むを得ないでしょう。現に、評価らしい記述が全くありませんので、それに対して「評価」というタイトルをつけるというのは全く不適当です。また、「これから執筆される可能性がある」とのことですが、加筆を依頼してから2か月近く全く加筆される気配もないのに、いつ加筆されるかもわからない可能性だけを根拠として、不適当な項目名のまま残しておくのは好ましくありません。「評価」の項目に記述するにふさわしい記事が(もちろん出典つきで)記述された時に、あらためて「評価」という項目をたてれば良いことでしょう。いずれにせよ、現状の評価についての記述がないのに、項目名を「評価」とすることには反対いたします。--Dr.Jimmy 2007年10月22日 (月) 06:30 (UTC)[返信]
「専門家からの意見」らしい記述がまだ書かれていないことが、この項目への可能性を捨て去る理由とは成り得ないと考えます。「加筆される気配もないからとっとと諦めるべきだ」という発想は非常に短絡的です。長い時間をかけて少しづつ記事を完成させていけばよいのですから。そして「専門家から~」の項目が存在することは、今後新規執筆者にその項目の加筆を促すアクションにもなり得ます。ウィキペディアに時間制限があるわけではないですし(実際、何年もかけて全項目が埋まった記事も多くあります)、それほど記事作りを急がれる理由も無いと思いますが・・・。--Artwater 2007年10月25日 (木) 13:07 (UTC)[返信]
別に、項目名を変更したからといって、今後評価が書かれる可能性を捨て去る訳ではないと思いますよ。長い時間をかけて完成させればよいというのはその通りですが、現時点で明らかに内容と異なる項目名を修正することをやめさせる理由になりえません。後々きちんとした評価の記事が書かれた時に「評価」という項目を作ればよいのです。加筆を促すという目的は良いとしても、そのために、記載内容とは異なる項目名をつけることは、方法として間違っていると思います。--Dr.Jimmy 2007年10月26日 (金) 08:19 (UTC)[返信]
返信が滞り気味で、申し訳ありませんm(_ _)m
すみませんが、『内容と異なる項目名』『記載内容とは異なる項目名をつけることは』というニュアンスが掴めませんでした。現状で「その他(旧:評価)」の項目には何も書き込まれていません。『記載内容』が「評価」のインデントに入る内容、『項目名』を「評価」というタイトル自体と解釈させて頂くなら、ちょっと意を解し難いのですが・・・。何も書いていない=内容と異なる、という解釈は妙ですし(ただのstub節です)、私は初めから加筆を促す目的での項目存続を主張していますが、問題は出てくるのでしょうか?--Artwater 2007年10月31日 (水) 02:00 (UTC)[返信]

(インデント戻します)項目名というのは「===その他===」(旧:===評価===)という部分のタイトルに入る語句を指しています。現状は、「その他」の項目の内容には、「「涙のふるさと」内の演奏~多くなっている。」という記述がありますよね。以前はそこが、項目名が「評価」になっていて、主観に依拠した評価が記述されていましたが、その部分が削除されたために、人物に対する評価の記述が全くなくなってしまいました。そうなってしまうと、評価の記述が全く書かれていないのに「評価」という項目ではおかしい、記述されている無いように合わせて項目名も変更すべき、というのが私の主張です。加筆を促す目的は既に加筆依頼のテンプレートが貼られていることで十分であり、評価が書かれていない、いつ書かれるかもわからない項目名を、記述されている内容とは異なるまま放置されているのは良くない、評価の記述があった時点で、あらためて「評価」という項目を作れば良いのです。--Dr.Jimmy 2007年10月31日 (水) 08:03 (UTC)[返信]

『人物』について

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現状では雑然としており、記事の体裁をなしておりません。したがって、節の題名 を『人物』から 『来歴』とし、記事のスタイルそのものを改正したいと考えます。

来歴

  • 1979年、千葉県に長男として生まれる。
  • 小学校では合唱部に所属(ソプラノパートを担当)。
  • 中学生時代に、非常に仲が良かった藤原基央たちが文化祭でバンドを結成。その際に裏方として協力。藤原が自分のギターを増川宅に隠していたため増川もギターに触り始める。
  • 高校一年生の頃より藤原たちのバンドに正式加入。
  • 千葉県立佐倉高等学校を経て、一浪後中央大学理工学部へ進学(その後中退)。一方、アルバイトの講師として勤務していた塾では英語を教えていた。

更にこの他の記述については、

  • 血液型はA型で→基本情報で既に記述済みであり、来歴の“1979年、千葉県に”のように(文脈の構成上)あえて重複させる必要は無い。
  • メンバーの中では一番の長身である。→あくまでも増川弘明個人の記事であり、“メンバーの中で”云々は(必要であれば) 『BUMP OF CHICKEN』の記事中で記述すべきである。但し身長が何cmという信頼できる情報があるのならばそれは基本情報に盛り込めばよい。
  • 愛称は「ヒロ」。→記事の冒頭に移動。
  • 左利きだが、箸、ペン、ギターは右。球技(ボウリング、キャッチボール、雪合戦)は左。→記事冒頭に左利きの旨、既に記述済み。 『左利きだが、箸、ペン、ギターは右。球技は左。』として移動。
  • 視力はあまり良くなく、通常はコンタクト、プライベートでは眼鏡も使用している。→『人物(像)』ではなく、身体的特徴またはそれに付随した雑知識である。また、この内容を見る限り音楽家としての活動に特段の制限を加えるものでもない。『その他』に 『通常はコンタクトレンズを使用。プライベートでは眼鏡も使用している。』として移動。
  • お酒好きで、酔った増川をメンバーは「ヒロさん」と呼ぶ。→“酒好き”は、出典を明示して『その他』に移動。あるいは新たに『人物』の節を設け、そこに移動。(但し、節を新たに設けるに値するだけの情報量が現在の記事内には存在しない。)また、“酔った増川をメンバーは「ヒロさん」と呼ぶ。”という記述は増川弘明個人の記事中ではなく、BUMP OF CHICKEN』の記事中で行われるのが妥当である。 但し記述の必要性については別に議論の場を設けるべきである。(ファン以外の閲覧者が記述内容の必要性を感じるか否かが疑問であるため。こうした知識はファンが個人的に運営する“ファンサイト”で記述する分には議論の必要性を問うまでも無いが、中立的視点を旨とするウィキペディアにおいては常に問題の発生源となる。)
  • 妹が1人おり、→例)来歴の “長男として生まれる”に絡めて記述、あるいは 『その他』に移動等。いずれにせよ、犬の記述と妹のそれは統合性に欠ける。
  • 『ハルジオン』の裏ジャケットで写されている犬は増川家の飼い犬おおじろう。→『BUMP OF CHICKEN』の記事、あるいは当該アルバムの記事中で記述すべき内容。

以上の理由をもって(記事中での)移動、あるいは削除・修正等を行うべきと判断します。--Blackbelt Jones 2007年10月22日 (月) 12:58 (UTC)[返信]

現在の記事の体裁を整えた者です。Blackbelt Jonesさんもご指摘されていますが、本来はこの項目も『略歴』と『人物』で分けるべきなのですが(藤原基央では達成されています)、『人物』の分量が少ないため、止む終えず両方を統合しています。ただ、私自身は現状の項目名でも問題ないと考え、引き続き『人物』という呼称の使用を提案します。『略歴』もまた『人物』であり、『略歴』に『人物』を入れる、あるいは『人物』という項目を消し去ってしまうことは、この記事からある種類の情報の欠落を招いてしまうのではないでしょうか。
ただ、特に指摘が出ている「血液型」、「身長」、「愛称」、「利き手」、「妹と犬」の記述は、確かにただのかさ増しになっていますから(多分、私が書きました。すみません・・・)、仰るとおり移動、統合、除去等で対処すべきと考えます。「視力」に関してのみ現状維持を提案します(「身体的特徴」を「人物」の内容として捉えることは可能では?)。「お酒好き」の記述は以前も紛糾したのですが、私はこれも人物像を表す記述としては問題無いものとし、引き続き残すべきだと考えますが・・・、このまま整理が進むとココだけがぽつんと残ってしまうので、コメントアウト等も止む終えないかもしれませんね・・・。
私の主張を整理します。1.引き続き『人物』という呼称を使う 2.内容は『来歴分』+『視力』のみ。残りは指摘どおり移動または削除での対応 3.『お酒好き』のコメントアウト--Artwater 2007年10月25日 (木) 13:33 (UTC)[返信]
「『人物』の分量が少ないため、止む終えず両方を統合しています」とのことですが、それは統合の理由にはならないのではないでしょうか。『人物』 の記述が少ないのであれば節を分けて加筆する、または加筆依頼を行うなどすべきでしょう。仮に『人物』の節が消去されたとしても、「長い時間をかけて少しづつ記事を完成させて」いくうちに(必要であれば)再度設置されるはずです。いずれにせよ、「記事が少ないから」という理由で混然とした状態を保持するのは非合理という他ありません。最後に、「『人物』という項目を消し去ってしまうことは、この記事からある種類の情報の欠落を招いてしまうのではないでしょうか。 」という文言ですが、『ある種類』とは何を指しておられるのでしょうか?こうした曖昧模糊とした表現をされましても、当方としては困惑するのみです。--Blackbelt Jones 2007年10月27日 (土) 07:10 (UTC)[返信]
考え方の違いでしょうか、私は統合可能な内容に関しては同じ節へまとめ、量的に分割が可能になればその時に行なえばよいと考えます。繰り返しますが「人物」というニュアンスには「これまでその人間が辿ってきた内容」も内包することが可能です。『非合理』とお考えのようですが、果たして今回の焦点においてはどのような合理性が求められているというのでしょうか?『ある種類の情報』とは「音楽以外の、その人間の特徴や性格を表わす情報」というニュアンスです。曖昧な表現を使用してしまい、申し訳ありません。
最後になりますが、私が書いた前回のコメントの第二段落、第三段落部分にもご返答頂けますと、話が円滑に先へ進むのですが・・・。--Artwater 2007年10月31日 (水) 06:13 (UTC)[返信]
  • 「人物」というニュアンスには「これまでその人間が辿ってきた内容」も内包することが可能です。」という文言について。
じん‐ぶつ【人物】
1 ひと。人間。「偉大な―」「登場―」 2 人柄。ひととなり。「面接試験では主として―を見る」「―は確かだ」 3 人格・才能などのすぐれた人。人材。「肚のすわった、なかなかの―だ」 4 描画の対象である人間の姿・形。「―のデッサン」(大辞泉より引用)
(1)人間。ひと。 「登場―」「危険な―」 (2)性格。人柄。  「―試験」「好―」 (3)人柄・能力などのすぐれた人。 「なかなかの―だ」 (大辞林 第二版より引用)
けい‐れき【経歴】
1 今まで経験してきた仕事・身分・地位・学業などの事柄。履歴。「―を偽る」 2 実際に見聞きしたり体験したりすること。経験。 ・ 「凡(およ)そ前日来―した事を問われる儘(まま)に、はっきり答えた」〈鴎外・最後の一句〉  3 年月を経ること。年月の過ぎ去ること。「百余歳の星霜を―す」 4 ある地域内をめぐり歩くこと。 ・ 「山河を―し又南費府に至る」〈東海散士・佳人之奇遇〉 (大辞泉より引用)
(1)その時までにしてきた事柄。特に、学業・職業・地位などに関する事柄。履歴。 「―を偽る」 (2)実際に見聞すること。体験すること。 「己が―せし阿善(アテネ)国難の有様と回復の顛末とを物語りなどして/経国美談(竜渓)」 (3)歳月が過ぎて行くこと。 「自己(おのれ)が終身に―したる日数を/月世界旅行(勤)」 (4)めぐり歩くこと。 「世界の文明国を―すべし/新聞雑誌 30」 「大辞林 第二版より引用」
らい‐れき【来歴】
1 物事のそれまで経てきた次第。由緒。由来。「名画の―を調べる」「故事―」 2 人の経歴。履歴。「半生の―を語る」(大辞泉より引用)
(1)事物がこれまで経て来た筋道。由来。由緒。 「故事―」  (2)経歴。人の履歴。  (大辞林 第二版より引用)
「人物」 「経歴(および「来歴」)」という言葉の普遍的な意味合いをご理解いただきたいと思います。これらが人物の記事を構成する上で重要な要素となりうることを私は否定しません。また、当該人物に密接に関わるデータであることは共通の事項といえるでしょう。しかし記述という観点から見たとき、これらの要素はまったくの別物です。内包することが可能というあなたの見解は、あなたの主観に依拠したものと言わざるを得ません。加えて議論の際は、「ニュアンス」などという、「互いのコンセンサスを取りにくい表現」を用いず、「もっと具体的な言葉を使用したほうが円滑に進む」と思いますがいかがでしょうか?
  • 「果たして今回の焦点においてはどのような合理性が求められているというのでしょうか?」という文言について。前回申し上げた通り、『「記事が少ないから」という理由で混然とした状態を保持するのは非合理』である、つまり節を分離するのが合理的(道理や論理にかなっている)であるということです。節を分離すべき理由につきましては前述致しましたので省略いたします。
  • 「私が書いた前回のコメントの第二段落、第三段落部分にもご返答頂けますと、話が円滑に先へ進むのですが」という文言について。私は記事を総体的に捉えておりますので現段階ではお答えすべきではないと考えております。拙速な回答を行うことにより、更なる議論を生む結果につながる事態は避けたいのです。例えば(記事内での)移動等の対処は、記述を格納する節の題名を決定するのが先決でしょう。そうしたことも含め、全体のバランスを順序だてて整備していくべきかと思いますがいかがでしょう。--Blackbelt Jones 2007年11月1日 (木) 14:44 (UTC)[返信]

(インデント戻します)議論の余地は無いようですね。では、現在の「人物」の項目を「来歴」と「人物・逸話」に分割する方向で全面的に合意致します。分割後の具体的な記事内容に関しましては、私が最初に提示させて頂いたものと変わっておりません。

「合理的」の意味合いに関しては把握致しましたが、「私は記事を総体的に〜云々」の箇所について。そのようなお返事をされるとは驚きました。この節の冒頭でBlackbelt Jonesさん自身が非常に具体的な記事内容を提案して下さっていたために、私はそれにお返事をしたまでだったのですが・・・。

・・・と、こうして互いで揚げ足を取り合っていても仕方がありませんので、とにかくも私は「人物」項目の整理案が以上の通りまとまったと考えますが、いかがでしょう?--Artwater 2007年11月14日 (水) 06:35 (UTC)[返信]

  • 人物の項目の分割ですが、「来歴」と「人物・逸話」ではなく「来歴」、「人物」、「逸話」です。これらはそれぞれ独立した項目(節)にすべきだと論拠を提示したうえで重ねて申し上げているはずです。
  • 最初に提示した具体案に対して「節の名称およびその意味合いに関する反論」があったことを鑑み、「記述を格納する節の題名を決定するのが先決でしょう」と申し上げました。
  • 改定案につきましては問題は無いと思います。もし改定後に問題点が見つかったとしてもその都度修正をしていけばよいでしょう。
さて、最後になりましたが、あなたの見解に対する私の指摘に何ら言及することなく(あなたの側に)「反論の余地が無い」ではなく「議論の余地が無い」と述べられた点、また、「互いで揚げ足を取り合っていても」と仰られた点、以上の2点は非常に不愉快です。私がどのような揚げ足取りをしたのか、具体的な説明を求めます。--Blackbelt Jones 2007年11月14日 (水) 15:25 (UTC)[返信]