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ノート:堀江山城

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居城の問題

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堀江山城が塩谷氏居城であることを解説する部分において、御前原城との関係を一方的に確定する出典なき編集が行われたため、これを取り消し、諸説併記にしました。まず御前原城が堀江氏時代に存在しないという説は定説ではなく、御前原城築城説の一説でしかありません。単なる一見解に基づいて御前原城が居城として使われたとする諸説を全て否定するのは不可能です。また堀江山から川崎へ塩谷氏(堀江氏)が移ったとする説(御前原城を一時的にも居城とみなさない説)は、どこの誰が主張した説か全く出典がありません。もしも有力な説であれば、市史などの見解は間違いで御前原城が堀江氏時代に存在しないとする出典・そしてその見解が現在有力だと評価している出典が明示されるべきです。出典の無い現状では独自研究を記載する行為になってしまいます。--KurmUmy 2009年9月10日 (木) 10:52 (UTC)[返信]

>御前原築城は、最も古い説でも、治承寿永年間(1177年~1183年)であり、塩谷氏の支配は、その半世紀も前から続いている事から、少なくとも、御前原城は、塩谷氏の最初の居城とはなりえないため、堀江山という名前からしても、堀江山城が、塩谷氏の最初の居城として有力とされている(記事本文より引用)。
上記のことですが、『日本城郭大系 第4巻』(平井聖〔ほか〕編集、1979年)では、治承寿永年間(1177年1183年)に塩谷頼純(堀江頼純)により築城されたとする地元伝承と、正和4年(1315年)に塩谷頼安により築かれたとする『塩谷記録』の説があるとしています(両説とも伝説の域を出ないとしますが)。しかし『歌人 塩谷朝業』(矢板市教育委員会、1998年)の6ページで、流され塩谷荘に入った堀江頼純は1120年ごろ御前原に館を築いたとし、堀江山の館が出てくるのは7ページで朝業のときに御前原か堀江山の館に住んだとあるだけです。伝承の築城年に限らない見解が存在します。一方で、堀江山城が塩谷氏の最初の居城として現在有力とされている出典がありません。「御前原城が塩谷氏の最初の居城とはなりえない」とみなしたのは一体どこの誰ですか? 少なくとも、1980年代以降の発行である『矢板市史』『塩谷朝業』『ふるさと矢板のあゆみ』『歌人 塩谷朝業』は御前原城こそ最初の居館扱い(市史は堀江城を居館とすら書かない)です。堀江山城説は『下野風土記』(佐藤行哉校訂、1958年)、1次史料たる軍記物の『堀江軍記』・『堀江物語絵巻』のみです。近年に「御前原城は最初の居城ではない」とする見解が有力となっているのなら、『歌人 塩谷朝業』よりも最近の書籍などを提示しなくてはなりません。諸書籍の情報を加筆した私が見落としただけで、出典は提示済みでというなら、どの書籍で「御前原城は塩谷氏最初の居城ではないとするのが有力」と述べているのか指摘してください。--KurmUmy 2009年9月14日 (月) 11:54 (UTC)[返信]

誤認での編集はおやめ下さい

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堀江山城を根小屋城とする見解について「山本上総ほか6名を「根小屋城代」と記載し、山田城代とみなしている。」との記述がありましたが、山本上総を始めとした6名が城代を務めたのは、宇都野城(鳩ヶ森城)であって根小屋城ではありません。相変わらず、KurmUmyさんは、提示された資料をよく読まずに、見落としや事実誤認をされ、要出典の乱発や、独自研究や憶測的記述などの誹謗中傷などの荒らし行為を続けられておりますが、一人で勘違いするなら別にして、Wikipediaの編集に当たっては、誤認したままの記述を掲載するのは絶対におやめ下さい。それこそ、独自研究・独自見解の押し付けであり、それ以前の問題です。 他人の粗を探し、誹謗中傷をする前に、自らを省みて、資料をきちんと読み、また正確に理解されてから書き込みをされるようお願いします。--Y_mon 2009年9月13日 (木) 5:41 (UTC)

上記記述でY_mon様の問題がみえます。まず、私の非難をしますが、自身の方が正しい編集をしたと証明する出典を提示しません。ご指摘の「誤り」ですが、私は『塩谷朝業』(塩谷朝業顕彰会編、1975年)の154頁から155頁辺りに書いてあることを記述したまでです。『塩谷朝業』では山本上総は鳩ヶ森城としてみえるので根小屋城代とはおかしいとも書いてありますが、6名が根小屋城代と記載され、山田城代とここで認識しているのは間違いありません。「宇都野城(鳩ヶ森城)であって根小屋城ではありません」とのことですが、ではそう論じた出典を明記して初めて非難できるものでしょう。『塩谷朝業』は疑問の提示のみで鳩ヶ森城の城代6名と判断しておらず、貴殿の見解はいったい何の資料に拠ったのですか? 「提示された資料」にあるという主張は客観的に見て非常にわかりにくいですよ。さも御自身の見解が定説であるかのように書かないで下さい。その定説の出典が明示されないのが問題なのです。別の資料で異なるなら「一方~」と別の出典を書いて異なる意見を書けばよいでは?--KurmUmy 2009年9月13日 (日) 01:13 (UTC)頁範囲の修正--KurmUmy 2009年9月13日 (日) 01:20 (UTC)[返信]
『私は『塩谷朝業』(塩谷朝業顕彰会編、1975年)の154頁から155頁辺りに書いてあることを記述したまでです。』とは転載という意味でしょうか。ならば、著作権上の問題が発生しますね。あと、KurmUmyさんは「検証」という作業をしないのでしょうか? Wikipediaに書き込む以上、編集する側には、事実を記載する義務があります。あなたのしている話を聞くと、「書いてあったからそのまま載せた」と言っているようなものです。もちろん、あなたの意見を間に挟めと言っているわけではありません。ただ、『書いてあったから載せただけ』では、あまりにも編集者として無責任ですね。書いてあったなら、その資料と他の資料を照らし合わせ、Wikipediaに記載に値する事実かどうかを検証してから、編集するべきではないでしょうか? 人を正す前に、まずはあなた自身が自分を律せられた方が良いのでは? また、『「一方~」と別の出典を書いて異なる意見を書けばよいでは?』などと言っていますが、自分の知っている事実と違うからと言って、書かれた記事を消してしまったりしているのは、あなたが今まで散々やってきた事なのに、他人に対して、そのような事が言えるのでしょうか? あなたが、提示された資料から該当部分が見つけられない事を「出典がない」とイコールにされては、こちらとしてはどうしようもありません。何度も言いますが、提示された資料をじっくりとお読み下さい。私から申し上げられる事はそれだけです。なお、宇都野城は、川崎城よりも歴史の古い山本氏の居城であり、川崎塩谷伯耆守実録にも、大沢家記にも、宇都野城主として山本上総(山本上総介)は登場します(それくらい矢板の戦国期の郷土史では有名な話)ので、矢板市史にも掲載されているそれを読まれると良いでしょう。また、直接の資料については『郷土読本 第二集』にも掲載されていますので、読まれてはいかがでしょうか? 今後は『書いてあったから載せるだけ』という手法ではなく、書いてあったら、それがWikipediaに記載出来る事実足りうるか検証してから編集するようにお勧めします。仮に、検証の結果、値しないものでも、それを前提とした書き方で書くならば、それは良いでしょう。それは、独自研究ではないと思います。著作権上、単純に転載する事は出来ないのですから。ただ、KurmUmyさんは、まだ矢板の郷土史の全体像を把握出来ていない状態で、点で調べて点で編集していて誤記や誤解による編集が多いと思われるので、ここは慌ててWikipediaの編集に参加せず、矢板の郷土史の全体像を把握してから、編集される方が良いのではないでしょうか? そうすれば、誤記や誤解は減っていくと思いますよ。--Y_mon 2009年9月13日 (木) 14:40 (UTC)[返信]
まず転載ではありません。私がそこに記載された文章を私の言葉で表したものです。さて、「その資料と他の資料を照らし合わせ、Wikipediaに記載に値する事実かどうかを検証してから、編集するべきではないでしょうか?」とのことですが、出来ないのです。Y_mon様が「検証」と呼ぶ作業こそが独自研究ですから。執筆者が別の資料を利用して記述できるか判断する(説の取捨選択をする)のは、既存の書籍に評価を行うことです。Y_mon様による「検証」と同じ作業が信頼できる情報源を満たす書籍・論文などで行っており、その本が出典にあれば記述可能ですが。それが無いなら、Y_mon様のご意見・評価そのものです。
なお私が貴殿の編集を消したのは、「出典が発見できなかった」からです。両論併記も何も説の出所が無いので要出典をつけるかコメントアウトか消すかですから。ただ最近になって全く書き換えてしまう作業は行き過ぎであったし、ノートで質問してからだったかと後悔しております。その点は配慮が無かったことをお詫びいたします。そのためリバートせず告知添付のみにしました。個人的にY_mon様の編集内容自体は興味深く気に入っています。ただ書誌情報など出典情報不足が目立つと考え出典明記を行ったもので、決して貴殿の内容を削除したいのではありませんよ。--KurmUmy 2009年9月13日 (日) 08:06 (UTC)[返信]
(追記)『塩谷朝業』の根小屋城代に関しては異説の可能性指摘ありがとうございます。また言い忘れたので「検証」について一言。ある説が有力な説か異説かを判断する作業自体は実行できますが、それは他の資料との整合性から導くのではなく、ある説が通説だ・有力だという意味が書かれた論文・書籍の提示によります。出典を多く出して多数の書籍で採用されると示すのもありかなとと思いますが、学会で有力な説か単に巷間に流布した通説か、その説を支持した出典のみ集めたのか分かりにくいですね。そして記載する前に異説かどうか判断すべしという方針はWikipediaにはありません。知っている方が「出典つき」で有力とされる説を明示するよう修正するスタンスだと思いますよ。--KurmUmy 2009年9月13日 (日) 10:31 (UTC)[返信]
コメントウィキプロジェクト日本史において、議論の参加の呼びかけがありましたので、お伺いいたしました。ムカイと申します。
ただ、私の手元に栃木県矢板市の城郭群に関する資料がありませんので、議論そのものの参加は控えさせていただきますが、議論内容についてコメントをさせたいただきます。
出典にあることが事実かどうか確認する作業、これは、単純に同様のことが書かれているかを検証することであると思います。また、その事実に対する意見がある場合は、その対する見解がある事実が記述された出典を明記して「その一方で」で始まる記述をされることが好ましいと思います。よく誤解されがちなことですが、「A[出典1]がありBもある[出典2]。よってCである。」というのは独自研究に当たります。AとBについてCが両説を参考に見解を発表している場合は「A[出典1]がありBもある[出典2]。よってCであるとダレダレはいう[出典3]。」AとBに関わらずCという独立した見解が発表されている場合は「A[出典1]がありBもある[出典2]。またCともいわれる[出典3]。」のような記述とするのがよいと思われます。(Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成より)--ムカイ 2009年9月13日 (日) 14:10 (UTC)[返信]