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ノート:坂本裕次郎

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この漫画家の評価を巡って編集合戦になっている模様です。そのため、閲覧した人がどの記事が正しいのか正確性や客観性に疑義を生じさせる可能性があるため、中立性、出典のテンプリートを貼らせていただきました。--Tamachan21 2007年1月2日 (火) 03:40 (UTC)[返信]

作者の評価に関して、書くにしてももう少しやわらかい表現は用いられないものでしょうか。しかも「全体として評価が低い」と断罪できるほど評判が悪いのはタカヤ連載版のみであり、それまでの読み切りはそれほど評価が低くなかったはずです。プッシュ云々に関しては、タカヤの項にやんわりと書いておけばこと足りると思います。--211.128.18.146 2007年1月4日 (木) 00:39 (UTC)[返信]

評価について

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「手塚賞準入選、金未来杯グランプリという輝かしい実績を持っていたため、少年ジャンプ編集部からの期待はかなり高かったと思われるが(新人としては考えられないほどのカラーページをもらっていた)、初の連載作品『タカヤ』で問題点を数多く指摘されているため、現在のところ全体としての読者評価は低い。特に『タカヤ』にて「学園バトル→異世界ファンタジー」という大幅な路線変更により自分の作品の世界観を根底から覆してしまったことに対してはファンからも非難を浴びることとなり、マンガ史まれに見る迷走として有名になってしまった。」

この文章がされなくてはいけない理由が一切わからない。彼の評価が低いことは明白である。アマゾンのレビューでも見ていただければよい。「学園バトル⇒異世界ファンタジー」の路線変更が迷走として有名なのも同様である。同じジャンプの「もて王サーガ」でも「予想の範囲超えている」とネタにされたほどだ。
評価が「極めて」低いというのも事実だが、「極めて」は消した(もともとわたしが書いたのではないが)。画力の低さやオリジナリティーの問題も数多く指摘されてきたが、これも「中立的でない」とするものがいるようなのでかかれていない(それならば桂正和小畑健を「絵が上手い」というのも「中立的でない」となるし、OVER TIMEなどの文も、漫画関係の記事は大幅な削除が求められることになるが。このことについてはノート:OVER TIMEでも議論されているので参考にしてほしい)。
どうもこれを削除したがっている人物は、否定的な文章=百科事典として不適切、または中立的でないと考えているようだが、そうであれば同じく肯定的な文章も不適切なはずである。また松井優征杉田尚#読者の声も大幅に書き直す必要があるだろう。Wikipedia:中立的な観点#芸術作品などの特徴に関する意見にも「あるアーティストや作品が一般大衆や、批評家や、有名な専門家などにどのように受け止められたか、という情報は実際のところとても重要なものです。」とあり、意見を書くことは否定されているが、こういう意見があるという「事実」を記述することを禁止はしていない。
繰り返して言えば、「画力が低い」や「オリジナリティが無い」は証明不可能であるため削除意見がでるのもやむをえないだろう(だがそれならば「画力が高い」「オリジナリティがある」という文も同時に削除されるべきである)。しかし、「現在のところ評価は低い」というのは紛れもない事実であり、ウィキペディアへの記述が削除されなければならない理由は見当たらない。--Michael Friedrich 2007年1月9日 (火) 11:25 (UTC)[返信]

文章を削除するにしても評価が低いと言うところまでは消すべきでないでしょう。実際Amazonなどで見られる酷評はある程度この漫画家への評価の指数として参考に出来るはずです。世の中に評価する人間が多ければ必然的にあのような場所でも高評価を得ているだろうし、評価する人が少なければ当然結果はその逆になります。心理的な問題からプラス評価よりもマイナス評価のほうがためらわずに書かれると思いますが、それでも酷評が多いと言うのはやはり評価が低いと言えないでしょうか。それに通常ここまで極端な路線変更は例を見ないし、それまでの路線に種を植え付けて新しいものを構築していくようなものではなく2話程度での急転回という形ですのでやはり迷走していると言われても仕方がないだろうと思います。
ただ主役がどんどん負けていくよりもどんどん勝っていくほうが理屈としてはやはり見ていて心地よいものですし、おわりよければ全てよしというかラストをある程度上手く収めれば評価対象とされる可能性もあります。一度評価するとなかなかそれを覆しにくい部分も出てきてプラスの評価もある程度持続的に得られます。・・・まぁ理由はどうでもいいのですが、評価する人間がいたからある程度人気を維持できた部分があるのではないかと思います。
中立性だの要出典だのWikipediaのガイドラインを盾に積極的な文章の削除を行うのはやはり納得がいきませんね。ガイドラインになくても慣例化していてある程度認められている記述法であれば幾らかは書いても構わないのではないかと思います。どれが該当するかは状況を見て判断しなければいけませんが。 --利用者:IRUMA 2007年1月9日 (火) 16:21 (UTC)[返信]

はじめにMichael Friedrich氏に失礼かつ不適切な発言をしたことをお詫びします。ただ私が言いたかったのは「中立性がないから書くな」と言うことではなく「以前のように編集合戦になる可能性があったのでノートを取ってからにして欲しい」と言いたかったのです。現に「評価が低いのはタカヤの連載のみなのでタカヤの項にやんわりと書いておけばいい」と言って編集された方もいるようですし。以前の編集合戦や現在のタカヤの項を考えるとこういったものは多少は神経質にならざるを得ないと感じたのです。言葉足らずで申し訳ない。--JSSSS 2007年1月10日 (水) 01:23 (UTC)[返信]

どうも、ご理解に感謝します。一応この項目は、上に提示したとおりの文章でいいと判断してよいでしょうか。--Michael Friedrich 2007年1月10日 (水) 13:44 (UTC)[返信]

この問題ですが、もう少し第三者を交えた議論が必要かと思われます。誤解のないよう荷申し上げますが、私は坂本裕次郎の作品については特にコメントしたいとは存じません。ただ、

どうもこれを削除したがっている人物は、否定的な文章=百科事典として不適切、または中立的でないと考えているようだが、そうであれば同じく肯定的な文章も不適切なはずである。また松井優征杉田尚#読者の声も大幅に書き直す必要があるだろう。Wikipedia:中立的な観点#芸術作品などの特徴に関する意見にも「あるアーティストや作品が一般大衆や、批評家や、有名な専門家などにどのように受け止められたか、という情報は実際のところとても重要なものです。」とあり、意見を書くことは否定されているが、こういう意見があるという「事実」を記述することを禁止はしていない。

とありますが、ここで言う「事実」を記述するという場合にも一例を挙げれば、「○○は○月○日に万引きをした生徒と一緒だった」という文章があったとします。その際皆さんが思う印象は○○は万引きに関与しているかのような印象を与えますよね。でも、よく調べてみると○○は生徒が万引きをしたときはお店でお勘定をしていてそのことに関与していないというケースだったとしたらどうでしょうか。
客観的な事実を書いたからとしても、一部情報が漏れていたために誤解を与えてしまい中立性を損ねてしまう可能性もあるのです。それと同様にWikipediaでも「○○は評論家の××が評価している。」という類の意見も多数派や通説が評価が低くても異なっていてもそれだけを取り上げると印象がかなり異なってしまいます。編集合戦が行われているようですので、もう少し時間をかけてほしいというのが私の率直な印象です。--Tamachan21 2007年1月21日 (日) 01:28 (UTC)[返信]