ノート:坂本真琴
勇吉との死別と婦選同盟後
[編集]コメント たいへん興味を持ちましたので質問をさせてください。というのはたまたま見かけたし資料を読まずに質問するのですが、「その後は一家を支えて残された4人の娘を育て上げた。」の下線部、少しひっかかりました。直前の文で小学生の子供を亡くしたことを受けての表現です。この版で勇吉が死去したのは1936年とのこと。1889年生まれの坂本真琴はその年に46歳になります。
そうは言え、第1子(1912年から1913年の生まれとして23–24歳前後)をかしらにおそらく疎開の学齢期を含む4人あり、寡婦ではなおのこと日中戦争と第二次世界大戦中にご苦労されたと想像されます。
婦選同盟を脱会(1932年・42歳頃)したのは坂本との死別の前とあり、政界入りは避けられたこと、以降、ずっと無職だったのでしょうか。 「育て上げる」の意味が「一人前にする」(コトバンク・三省堂『大辞林』)なので、この言葉を残すなら仮に次のような加筆などいかがでしょうか。
- 夫と死別時の末の子の年齢。
- 1932年、わけても1936年以降の仕事。
専門ではないですが国会図書館目録他でざっと資料を検索したものの、あいにく見つからず、この話題自体が無理かもしれません。感想文に終始しましたが、よい記事を読めてありがたいです。 --Omotecho(会話) 2019年1月24日 (木) 10:02 (UTC)
近年研究成果が文献化されているので(ドメス出版など)ご参照ください。御主人が染色関係の事業をされていた関係で、ご自身も婦人参政権運動の傍ら染色家としても活躍され、ご主人との死別後はおひとりでお子さんたちを育てられていたのは事実です。--Kogane(会話) 2022年1月28日 (金) 15:04 (UTC)
染色家としての坂本真琴の活動の一端として、東邦大学理学部の前身である家庭科学研究所高等部で、染色担当として、国文学の佐佐木信綱、児童文学担当の村岡花子らとともに教育に携わっていたことが知られています。その辺の内容は、2022年の以下の企画展で紹介されています。--Kogane(会話) 2022年1月28日 (金) 15:14 (UTC) 企画展示「家庭科学研究所高等部と科学教育―東邦大学理学部の源流」 【期間】2022年1月18日(火)~3月18日(金) 【場所】額田記念東邦大学資料室(大森キャンパス 本館1階) 【開室スケジュール】平日10~16時 https://www.toho-u.ac.jp/archives/action/2021kikaku.html