ノート:土芥寇讎記および諫懲後正/削除
初版は、以下の外部ページ[1]と事実の取捨選択、配列、表現などに類似が見られます。また、表現されている思想、下されている判断や着目点なども非常によく似ている点があるようです。長いのでざっとしか見ていないのですが。Tomos 2004年7月21日 (水) 10:33 (UTC)
Tomosさん、どうもです。まず[2]の「これが真実だ」というコンテンツ(30.名君だった)と「秘密部屋」をごらんいただけますでしょうか。このサイトは一般向けに、2001年12月9日にスタートしたものですが、1998年~2000年1998年~1999年に、24回にわたって月刊TOWN-NET誌上に私が連載執筆した「忠臣蔵で江戸を探る脳を探る」のなかから、引いています。雑誌の連載はかなりつっこんで書いたところが多く、一般読者よりも研究者が注目してくださったようで、千葉県の市川市立歴史博物館では、私が書いたものを参考に古文書講座が開かれました(講師は別の人ですが)。
「土芥寇讎記」および「諫懲後正」の写本は東京大学史料編纂所にあり、新人物往来社から金井氏の翻刻による『土芥寇讎記』が刊行されています(絶版)。この二書については、おそらく元禄期の研究者でもかなりつっこんで研究している人以外にはほとんど知られていなかったと思います。今ここに中央義士会で赤穂事件の研究をしている女性がいますが、彼女も私から聞くまでは知らなかったといいます。世に赤穂義士ファンが多いこともあって、金井氏の『土芥寇讎記』がでたのちでさえ、一般には知られていませんでした。NHKの大河ドラマ「元禄繚乱」にも私からの資料が使われていますが、さすが「土芥寇讎記」および「諫懲後正」については、とりあげませんでした(笑)。百楽天 2004年7月21日 (水) 12:25 (UTC)
こんにちは。ご指摘の外部サイト、拝見させて頂きました。両史料を参考に忠臣蔵を考えるという発想自体が百楽天さんに由来する、という理解でよいでしょうか?
この記事に関しては、例えば百楽天さんの著書にそもそもの考察があり、外部サイトはそれを無断で利用してできたものである、というようなことであれば問題がない可能性もあるかと思いますが、いかがでしょうか? (ただ、以前お伝えした通り、出版社との契約内容によっては、既に出版されたものと余り似た内容のものを百楽天さんが投稿されると、百楽天さんと出版社の間で問題が生じる可能性もあるのではないかとも思いましたが。)
そうではなく、もしもこれらの史料を使うという着想自体は百楽天さんに負いつつも、実際の考察、意見などは外部サイトの制作者の方が自分で行った部分がいろいろあり、この記事の初版はその考察を構成している事実の取捨選択や配列、論の構成や運び、表現などを利用している部分がある、ということだと、著作権上は問題があるのではないかと心配します。
なお、これまでの議論の経緯などからいろいろ心配や疑問が出てきたので著作権関連であれこれ調査をさせていただきました。こんなきっかけではありますが、百楽天さんの記事をまとめて読む機会を得ました。忠臣蔵の世界というのは僕は恥ずかしながら非常に不案内ですが、(今も知らないことだらけですが)生類憐れみの令、勅使など政治にまつわる部分も、タレのような暮らしや風俗にまつわる部分も、火事も、建築も、史料も、本当にいろいろな記事が事件とのつながりで書かれていることに気がつき、驚き、楽しませて頂きました。(時代考証をなされているからそれだけいろいろな物事を関連付けて考えられているということなのでしょうか。)
ただ、同時に、外部サイトと表現や記載する事実の取捨選択や配列などの類似点がある投稿が見受けられることも非常に気になりました。。百楽天さんが独自の考察や調査をされているかどうか、また、きちんとした専門知識をお持ちであるかどうかという点に関しては、これまでの投稿のペースや細かな表現上の選択、論の構成などいろいろな点から、余り疑問の余地はないように思います。ただ、他人の著作物を無断で利用すると、それはそれで著作権違反になってしまうのでそれを心配しています。
Tomos 2004年7月21日 (水) 20:06 (UTC)
『土芥寇讎記』は、知る人ぞ知る、というものでした。浅野内匠頭のことは翻刻者の金井氏も同書に書いていることですが、一般には表には出なかったようです。
「This is 元禄赤穂事件」サイトは2001年12月9日スタートですが、「これが真実だ」は3日後の12月12日より書き始めたものです。「名君だった?」の 初版は、目次にあるとおり、12月16日に書きました。記事の終わりに「2002年5月13日」と記されていますが、おそらく文字の間違いを訂正したくらいだと思います。なおこの更新日は、自動的に書き込まれるもので修正などはできません。
田中光男さんの「ろんがいび」は前からよく知っていますがTomosさんがここに書かれるまで「『土芥寇讎記』の浅野長矩評について」という記事が追加されていたのに気づきませんでした。2003年8月4日に作成したことは[3] で確認できます。
この他、公に出来ないこともあるのでそれについては、Tomosさん宛にあとでメールします。百楽天 2004年7月22日 (木) 08:44 (UTC)
三度連続で申し訳ありません。
Tomosさんの下記の質問は、とても重要です。
- 両史料を参考に忠臣蔵を考えるという発想自体が百楽天さんに由来する、という理解でよいでしょうか?
- この記事に関しては、例えば百楽天さんの著書にそもそもの考察があり、外部サイトはそれを無断で利用してできたものである、というようなことであれば
初版と外部ページ[4]をよく比べて読んでください。まったく同じ史料を使いながらも、解釈が異なります。「異なる」というよりも、後者では原文を挙げながらも、そのすべてを解説していない。重要な部分にまったくふれていない。これに限ったことではありませんが原文をどのように解釈し、自論として述べるか、というところから創作性について検討すべきと思います。
また、これまで雑誌などに私が執筆、掲載されたものはほとんど署名入りです。依頼があって寄稿するときには、署名入りを条件にしています。署名入りで掲載されたものは、個人の著作物ということになります。百楽天 2004年7月22日 (木) 16:17 (UTC)
- お返事ありがとうございます。また、頂いたメールも拝読しました。
- 考えてみたのですが、百楽天さんの重視する点は、要するに表現している思想が異なっているし、その点においては、外部ページをコピーすることなどでは到達し得ないような独創性がある、ということだという理解でよいでしょうか?
- 考察が微妙に異なるという点については僕も最初に読んだ時点で気がつきました。ただ、これは既にWikipedia:井戸端のこの書き込み[5]でも書いたこととも重なりますが、著作権侵害はそのような場合であっても起こるのが問題だと思います。いわゆるマッド・アマノ事件とか、パロディ事件などと呼ばれる事件に関して下された判決(たくさんありますが^^;)に出てくる話ですが、ある作品を改変して、別の作品を作成した場合には、結果として出来た作品が原作品と全くことなる思想を表現しているものであっても、著作権侵害が発生しえます。その際の判断基準は、元になった作品の表現上の本質的な特徴が感じ取れるかどうかにある、と理解しています。[6]、[7]
- そこで、百楽天さんの投稿された初版が外部ページとは異なる独創性を備えているかどうかの問題とは別に、初版と外部ページを比べてみて、外部ページの創作的な部分が初版から感じ取れるかどうか、あるいは、似ている部分は全て創作性のない部分のみだと言えるかどうか、と考えてみる必要があると思うのですがどうでしょうか。Tomos 2004年7月22日 (木) 23:30 (UTC)
「ろんがいび」サイトのページと私がWikipediaに書いたものをプリントアウトして比べてみました。原本に書かれたことを墨で塗りつぶしたら、両者はまったくちがうんですね(笑)。あえて私は訳を書きましたが、「昼夜閨門ニ有テ戯レ」なんて、ふつうは見過ごしてしまうでしょう。それと浅野内匠頭は「短慮」であったということは、ずいぶん前から言われていたことで、その出所は主に弟の大学長広による発言からでした。そこから、松之大廊下の刃傷事件は、浅野内匠頭の「短慮」が原因ではなかったのか、という説がでたのです。そこで「短慮ナレバ、後々所行ノ程覚束ナシトナリ」と書かれた部分を抽出したのです。同じ材料を使いながらも、こんなに違う料理ができてしまった、ということです。百楽天 2004年7月23日 (金) 12:18 (UTC)
- お返事どうもありがとうございます。僕も改めて読み比べてみました。確かに結論や解釈については異なる部分も多いようですね。ただ、いろいろ類似点も目につくので、どこが似ているかについて、いくつか例を挙げてみます。
- 例えば、全体の話の流れとして、史料の解説、土芥寇讎記の人物評とそれに続く謳歌評の検討、続いて諫懲後正の人物評の解説、その一節に注目を促し、冷公君御伝記にある放火事件を解説、という構成をとっていますが、これは偶然の一致でしょうか? 初見でまず気がついたのはその共通性なのですが。また、例えば、百楽天さんが先に紹介して下さった、百楽天さんご自身のサイトのページでは、全く違う構成をとられていますよね。
- また、この放火事件についてですが、外部ページでは、非道の沙汰=放火事件、としています。百楽天さんは、わざわざ非道の沙汰は放火のことであるとは限らない、とし、むしろ放火の始末として行われた下女2人の処分は、隠ぺい工作のようなものではないか、という可能性を示唆しています。ここで、百楽天さんが非道の沙汰が放火であるとは限らない、という意見を最初に述べているので、この外部ページの議論に応答する形で、まず外部ページの説を否定、後に別の解釈案を提示、という形で叙述されているという風にも見えます。外部ページを意識せずに書けば、「以上の御伝記の記述から、この放火事件をめぐって何かがあったことが推測される。放火事件そのものであるかも知れないが、ことによると下女の処分によって隠された何かもっと深い事情があるのかも知れない。」というような書き方にでもなるかと思うのですが。
- あとは、土芥寇讎記がどのような史料であるかについて解説した部分も、事実の取捨選択や語の選択などが似ているように思いました。順序は、こちらで123456と述べているのを外部ページでは456123という順序で述べている、というような違いはありますけれども。Tomos 2004年7月23日 (金) 17:00 (UTC)
私のサイトにある「これが真実だ」の34番目、「刃傷の記憶」をごらんください。これは2002年1月7日に書いたもので、同年6月8日が最終更新日となっています。
- 先年奥方ノ下女ニ付テ、少々非道ノ沙汰有之…
これについては『忠臣蔵で江戸を探る脳を探る』で初めて私が指摘したことです。
出典についても、私ははじめから「『諌懲後正』の巻之十三(全三十巻)」と書いています。「ろんがいび」の記事は私が雑誌に書いた4年後、「これが真実だ」に書いてからでも1年以上も後になって(2003年8月4日)書いたものですが、出典紹介でもここまでは詳しく書いていません。「『諌懲後正』の巻之十三(全三十巻)」とわざわざ私が書いたのは、それほどの量があるなかの20文字足らずの文章に過ぎないけれど「とても重要である」ということをいいたいがためです。
「付火之者ハ御手仕置ニ不被成」について、私は「天和の大火(お七火事)の直後」ということを書いていますが、「これが真実だ」の48番目、「屋根版制度」とおなじ月にでたものです。江戸の火事では、やはり同じ月の火付改(中山勘解由)のことを書いています。このほか、火事に関連して車付の長持を使うな、など、こまごました触れがたくさんでていました。ノートには「常憲院殿御實紀」について書きましたが、「付火之者ハ御手仕置ニ不被成」についても書いてあります。いずれも天和の大火の直後、浅野内匠頭の婚儀から何日も経っていません。
「ろんがいび」には、「付火之者ハ御手仕置ニ不被成」について、「『御触書寛保集成』1462号に見える」と書いています。これは昭和初期のものが復刊されて岩波書店からでていますが、よくこのなかから見つけたものだと感心しています。 元禄赤穂事件の真相を探るためのキーワードを「江戸の大火」、としたのは私が初めてです。 忠臣蔵もので、「勅額火事」と「お七火事」(天和の大火)の周辺を詳細に述べたものは他にはない、私も「天和の大火」について調べていなかったら、『諌懲後正』に書かれていた20文字足らずの文を追求することもなかったでしょう。 「外部ページでは、非道の沙汰=放火事件、としています」とTomosさんは書かれ、私がわざわざそのことをあげているように見ています。私の書いたことをよくお読みください。「外部ページの説を否定」から入ったのではないのです。
- 『冷公君御伝記』によれば、貞享四年(1687)六月五日に江戸屋敷御広敷女中部屋で放火事件があった。
これが導入部です。この史料がどんなものかは赤穂分家済美録を参照ください。また、私がなぜ次のようなことを書いたか。
- 放火の動機を隠そうとするための斬罪であったとも考えられるからだ
「天和の大火」でも、「お七が付火をした動機」が重要です。江戸の大火のほとんどは、犯人わからず。おそらく食うに困っての火事場泥棒ということで、初代火付改の中山勘解由(父は盗賊改だった)は、容疑者を片っ端から捕まえて「海老責」の拷問によって「自白させた」ようです。これも私の発見ですが、吉良屋敷夜討事件の当時、中山勘解由の屋敷は吉良屋敷の100mほど東にありました。火付改の加役をとかれて10年経っていましたが、それでも「鬼の勘解由」は恐ろしい存在でした。じつはこれも、元禄赤穂事件の真相解明で重要なところです。
- あとは、土芥寇讎記がどのような史料であるかについて解説した部分も、事実の取捨選択や語の選択などが似ているように思いました。順序は、こちらで123456と述べているのを外部ページでは456123という順序で述べている、というような違いはあります
そのように見えますか? 私が記事の冒頭に書いたものと「ろんがいび」の「はじめに」を何度も読み比べてみましたが・・・・
Tomosさんをはじめ、私の書いたことに対する意見は、たいへんありがたく思います。反省すべき点も多々あります。しかし、論議中であるにもかかわらずKIZUさんはここにも「削除依頼」をペーストしました。私は意見ひとつださずに、こうしたことが安易に行われることを問題にしているのです。
この記事については、相手方がもし「著作権侵害」といって告発したなら、私は個人でも受けてたつ。そのくらいの気持ちをもっています。
この記事のことではありませんが、「自分のオリジナル」と信じていたものに、見たこともない他のサイトと表現がにているとか、あるいは何行かの同じ文章があった。論議を進めていくうちに、ほかに「一次著作物があるかも知れない」となったときには、私は自分から削除依頼を出すことにしました。しかし、自分の意見も出さずに面白半分で「削除依頼」を貼りまくるような行為には、徹底抗戦したいと思います。百楽天 2004年7月29日 (木) 12:24 (UTC)
- 論議中だからこそ削除依頼の定型文を貼るわけで、(削除依頼、という言葉がお好きでないようですが、これは削除する必要があるか議論を依頼する、という意味だと考えて下さい)それを問題視するのはおかしいですし、相手方が著作権侵害と言って告発した場合、リスクを背負うのは百楽天さんではなくウィキペディアですので、何らかのリスクを持った記事がウィキペディア上にあるのは百楽天さんではなくウィキペディア全体の利益に関わる問題です。--Gleam 2004年8月18日 (水) 18:33 (UTC)