ノート:哲学の貧困
出典の明記
[編集]単一の資料に依拠しすぎています、出典も複数加えてください--219.35.22.28 2015年10月30日 (金) 04:32 (UTC)
- 『哲学の貧困』という著作についての記事が『哲学の貧困』そのものを単一の出典としていても何ら問題はありません。批判対象である『貧困の哲学』も出典として挙げられており、必要十分な出典が挙げられていると言えます。--Kazhik(会話) 2018年6月1日 (金) 09:55 (UTC)
Kazhikさん、こんにちは。恐らくルールを誤解されているみたいですので指摘しておきます。まず、ウィキペディアでやってはいけないことのなかには 独断でメンテナンス用テンプレートを剥がそうとすることというのがあります。次に、一次資料と二次資料を読んでみてください。「ウィキペディアの記事は、公表ずみの信頼できる二次資料(一部では三次資料)に基づいて書かれていなければなりません。」とあります。独立記事作成の目安にあるように、「特筆性」とは、立項される対象がその対象と無関係な信頼できる情報源において有意に言及されている状態であることを意味します。「書籍についての記事がその書籍そのものを単一の出典としていても問題はない」というKazhikさんの主張は、少なくともウィキペディアでは有効ではありません。もしも二次資料で扱われていないようなら、「特筆性」が無いということになって削除依頼の対象となってしまいます。特筆性 (書籍)には、まだ草案の段階ですが、「筆性を示すのに十分な情報源がいまだ存在しないのであれば、その書籍は百科事典の記事となるべきではありません。」とあります。『貧困の哲学』の場合は、その心配はありません。ただし、現状ですと、{{一次資料}}のテンプレートも併せて添付しなくてはなりません。Kazhikさんが立項した記事では、プロレタリア革命と背教者カウツキー、一歩前進、二歩後退、なにをなすべきか?なども同様の問題をはらんでいます。
何か二次資料はないかなぁと、ネットで検索して出てきた論文ですが、
- 内田弘『資本論』形成史における『哲学の貧困』 専修大学社会科学年報第47号 (すでに外部リンクについているようです)
- 梅沢直樹マルクスの労働価値説 - 『哲学の貧困』と本質論的視角 -『經濟論叢』(1974年)、第114巻3-4号
なんてどうでしょう。それと、
- 大石高久「価値概念とブルジョア的諸関係の歴史性および統一性把握──『哲学の貧困』におけるプル-ドン「総合価値」論批判を中心として──」というページが参考になりそうな気がします。また、同氏の博士論文「マルクス全体像の解明」には、第10章『哲学の貧困』におけるリカードウ価値論批判、 第11章『哲学の貧困』におけるプルードン価値論批判 というのがあるようです (まだ読んでませんが、近日中に読んでみます)。
- 佐藤茂行「プルードンにおける分業と機械:マルクスのプルードン批判について」『北海道大學 經濟學研究』12(1):
- 石塚良次「日本におけるリカードウ研究の特質* ――吉澤芳樹の経済学史研究を事例として――」 『専修経済学論集』51巻3号、2017年
あたりもいいかもしれません。ということで、とりあえず、テンプレートを復元しておいてください。それでは、また。Takabeg(会話) 2018年6月9日 (土) 15:33 (UTC)
- (1) テンプレートが貼られたのは数年前で、IPユーザなので現在も活動しているかどうか分かりません。ノートで協議してから削除、という手順は無理だと思えたので、削除してノートでコメントする形にしました。「独断」と非難されるほどのことではないと思います。(2) 一次資料に関するルールは、歴史的な出来事について記述する場合を主に想定したものだと思います。例えばフランス革命の場合、多様な人々が関わっていて、一次資料も多様なので、個々の一次資料をどのように位置づけるかは専門家による整理を経た二次資料に依拠するのが適切と言えます。しかし特定の思想家の特定の著作について記述する場合には、その著作にのみ依拠することに問題があるとは考えられません。Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料にも「ある小説についてあらすじを記述する場合、その小説の文章を出典とすることは可能ですが、それについての解釈には二次資料が必要です」と書かれています。この「哲学の貧困」という記事は、現時点では著作の要約しかありませんから、そのかぎりでは『哲学の貧困』だけを出典としていてもルールに反していません。(3) 調べていただいた研究論文などをもとに記事を充実させていくことはもちろん望ましいことです。期待しています。--Kazhik(会話) 2018年6月9日 (土) 21:27 (UTC)
- ウィキペディアの記事は、公表ずみの信頼できる二次資料(一部では三次資料)に基づいて書かれていなければなりません。とあり、「あらすじなどには一次資料の使用が許されます」という扱いであって、一次資料だけで記事が構成されてよいというわけではありませんし、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかのフィクション作品におけるあらすじのみの解説にあるように、あらすじの概要だけであってはなりません。時間とエネルギーがあれば加筆したいところですが、現時点では難しいので、{{一次資料}}と{{単一の出典}}を添付しておきます。こうしておけば、第三者が気付いてくれて、加筆していただけるチャンスも増えます。Takabeg(会話) 2018年7月14日 (土) 14:15 (UTC)
- (1) なにも合意が成立していないのに本文の編集を強行しないでください。ルール違反です。(2) 記事の内容が著作の要約だけでは不足だという点は認めるとしても、それは{{一次資料}}や{{単一の出典}}を記事全体に貼り付ける理由にはなりません。既に述べたとおり、特定の著作の概要を書く場合の出典をその著作自体とするのは当然のことです。(3) どうしてもタグを貼り付けたいなら、例えば「思想史的意義」という節を作って{{節スタブ}}を貼り付けるという方法があります。そうすれば何を加筆すればよいか明示できます。記事全体にタグを貼るだけでは将来の加筆者に対して改善すべき箇所が具体的に伝わりません。--Kazhik(会話) 2018年7月15日 (日) 11:39 (UTC)
- 二週間以上待ちましたが反論がありませんので、{{一次資料}}と{{単一の出典}}を削除しました。--Kazhik(会話) 2018年7月30日 (月) 14:15 (UTC)
- 気付きませんでした。反論がないからといって「独自ルール」を押し通すのはいけません。--Takabeg(会話) 2019年7月23日 (火) 14:26 (UTC)
- ウィキペディアの記事は、公表ずみの信頼できる二次資料(一部では三次資料)に基づいて書かれていなければなりません。とあり、「あらすじなどには一次資料の使用が許されます」という扱いであって、一次資料だけで記事が構成されてよいというわけではありませんし、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかのフィクション作品におけるあらすじのみの解説にあるように、あらすじの概要だけであってはなりません。時間とエネルギーがあれば加筆したいところですが、現時点では難しいので、{{一次資料}}と{{単一の出典}}を添付しておきます。こうしておけば、第三者が気付いてくれて、加筆していただけるチャンスも増えます。Takabeg(会話) 2018年7月14日 (土) 14:15 (UTC)