ノート:哲学する
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見直し案
[編集]「哲学する」だと「科学する」のような軽い印象があるのですが。「哲学の実践」と読み替えるとよいように思えます。 ここで論じている内容は、哲学を客体として(単なる学問として)お勉強する立場と、哲学を主体として実践する立場の違いについて書かれてあるわけですが、哲学は実践する者にとってのみ本当の価値があるので、重要なことだと思います。哲学のページに直接、しかも上のほうに書くのもよいかと思うのですが、みなさんどうお考えでしょう?--HarpyHumming 2004年6月29日 (火) 04:10 (UTC)
良いと思います
[編集]最初に記事を書いた者です。実はこれが自分がwikiに投稿した最初の記事なのでいろいろと至らぬところがあるとも思いますが、よろしくお願いします。
>哲学は実践する者にとってのみ本当の価値があるので、重要なことだと思います。
>哲学のページに直接、しかも上のほうに書くのもよいかと思うのですが
哲学のページでは特に「哲学への批判」の項目での弁明に適当と思います。このページでも何らかのかたちで追記したり、哲学のページにリンクを貼ったりするのも良いかと思われますがいかがでしょう。「哲学する」という語の用法に ついては、それを学ぶ人間の間では割と一般的なタームだと思うのですが、一般の人に分かり易いように、やはり「哲学の実践」といった追記があるのも良いかも知れません。--まよ 2004年6月29日 (火) 05:59 (UTC)
- いいと思います。Philosophierenに対応してこういう術語があるとことを付け足してもいいように思います。もっともこの分量ではあるいは哲学に統合でもいいかもしれません。哲学の実践というとまだ既存のものを需要したりあるいは人生訓のようなものを行為化することと誤解する人もいるように思います。哲学的思惟の遂行ということではいかがでしょうか。(哲学する、と端的にいうほうが私にもなじむのですが)。--Aphaia 2005年5月26日 (木) 04:06 (UTC)
- 「哲学する」という動詞は正しい日本語ではありません。百科辞典の項目としての必要最低限の要件すら満たしていないと思います。このタイトルが許されるなら「宇宙科学する」や「倫理する」や「音楽する」や「数学する」も項目に入れるべきですね。また、(改題による)存続か統合かについては本文を読む限り「哲学する」という表現でしかどうしても表せない何かがそこにあるとは思えませんので存続の必要はなく、HarpyHummingさんが書かれている哲学の一部として上手く埋め込むことに同意します。恐らくはもう少し要約して序文に加えるのが妥当だと思います。--Rumhi 2005年8月4日 (木) 16:05 (UTC)
- 「正しい日本語ではありません」というのは言い過ぎです。ことばについて、正しい、正しくないという次元で議論するのはナンセンスです。また、サ行変格活用の項を参照していただければ、詳述されているので参考にして下さい。--manjushage 2008年3月17日 (月) 09:26 (UTC)
- >ことばについて、正しい、正しくないという次元で議論するのはナンセンス
- 流石に暴論だと思います。私的な文書ならともかく、百科事典なんですよ?
- >「正しい日本語ではありません」というのは言い過ぎです。
- 言い過ぎである根拠を示して戴きたいと思います。正しい日本語ではない根拠としては、「哲」が徳が高い/賢い状態や同属性を示す語であること。それに関する「学」問、つまり「徳の高さや賢さとは何かを学び研究する学問」を示しています。なのでこの中に動詞は無く、これに「する」を付与することが誤りとなります。例えるなら「赤色する」が誤りであるようにです。
- もしも「学ぶ」が動詞であるなら、学哲となるはずです。ちなみに語源である「希哲」がまさにそれですので「希哲する」なら「哲を追究する」の意となり、外来語(漢語)を借用し日本語化したものとして問題はありません。つまり「キャッチする」と同じ類になります。
- どんなにそれが「しっくり」来ようとも、正しくないものは正しくないわけです。ただそれは、会話として用いるにあたっては「正しくないから使ってはならない」ことを意味するわけではありません。日常語として用いることを制限しようという意図で言っているわけではないわけです。所謂ら抜き言葉やレタス言葉(れ足す言葉)は正しい日本語ではありませんが、それを使う方が「しっくり」来るからこそ使われ、同時にそれが正しくないと指摘する人が居るわけです。
- 此処で言う「哲学する」が示す内容は結局「希哲する」であり、「希哲」が一般に使われている言葉ではないことから「希哲の学」である「哲学」を(強引に)借用しているだけです。「希哲の学」→「哲学」→「哲学」の「学」ではないもの(=希哲)を表現したい→「哲学」から「学」を取ったら(本来なら希哲だがそれを知らないので)「哲」となって意味がわからない→「学」を取らずに「哲学」のまま使用(知らないが故に此処で間違いを犯している)→「哲学する」
- 今更「希哲」などと言われても「しっくり」くるわけがないので、結局は「哲学する」という表現になってしまうと思います。正しくはないけれどもニュアンスを表現し易く、それは「希哲」という言葉を知らない多くの人に通じる表現だと思います。ですが、だからと言ってそれが「正しい」ことにはなりません。無論、もしかしたら今から数百年後には「~~学」と呼ばれる学問に関してそれを実践することを「~~学する」と表現するように一般化されるかも知れません。つまり「論理学する」や「文学する」や「地質学する」や「数学する」や「精神分析学する」や「行動経済学する」が一般的に用いられるようになる、ということです。そうなったらそれは「正しい日本語の用法」に分類されることでしょう。ですが今はまだそうではありませんし、そうなりそうな気配も感じられません。
- ちなみに、希哲とは個人の行動であり、哲学(希哲学)とは、過去の「誰か」の希哲結果を学び研究する「学問」です。どの「誰か」を選ぶかは、相応の実績を遺した人に限られてしまうのは仕方が無いことですし、それを学ぶことが希哲する上で有意なことであっても、それを学ぶことが希哲することそのものではないのは当然のことです。
- この頁は残念ながら、哲学(と呼ばれている学問)を学ぶことと希哲する(この頁で言うところの「哲学する」)ことが異なるという当然以前の当たり前の現実を(「希哲」という言葉を知らないが故に)独自研究として「主張」しているだけの頁と成り下がってしまっています。
- 世界最狂の魔法使いCray-G 2009年12月19日 (土) 06:23 (UTC)
何か偏ってるような
[編集]確かに哲学には人生の意味だとか善さについて云々とかいうような領域もありますが、いうなれば人間よりむしろ世界に目を向けるというような、例えば認識論や科学哲学なんかのような領域もあることを鑑みるに記述が偏ってるような気がしないでもないです。--Tantalos 2009年6月24日 (水) 09:29 (UTC)
現状は不可。この記事の加筆のしかたについて
[編集]この記事、現状としては、Wikipediaの水準に達していない。(Wikipediaは2chではないのだから、うろおぼえの記憶で書いたり、記事のタイトルから自分個人が連想することをエッセーのようにいい加減に書いていてはだめです)。限りなく「Wikipedia:独自の研究」といえる状態。 おまけに現状では、個人の感想だけでなく、間違った情報もかなり混入している。例えば、「ソクラテスは哲学は死の練習とした」などと書いてありますが、間違いで、そう位置づけたのはプラトンです。他にも、哲学をある程度以上学んだ人ならすぐに間違いだと気づくようなニセ情報が現状ではいくつも混入している。
テキトーにうろ覚えの記憶で間違いを書いている、だから各文章ごとに出典が明示できていない、ということです。
今後は、次のような手順で、しっかりとまじめに記事を書いてから投稿すべきです。
- (たとえ面倒に思えても)まず最初に、投稿者は自分の目の前に、哲学者(過去の大哲学者や、現代の哲学科教授など)が書いた書籍(例えば、大哲学者の著書で、まさに「哲学すること」についてメインテーマとして語っている章や節、あるいは現代の哲学科教授の著書で「哲学の歴史」「哲学入門」「哲学案内」「哲学へのいざない」等々の、あきらかに哲学をメインテーマとしている本で、かつそこに「哲学することとは」「哲学することの意味」などの章や節を含んでいるもの)を自分の目の前に置く。
↓
- その文章を、一言一句、自分の眼で見、熟読し、意味を確かめながら、その著者が言おうとしていることをできるだけ忠実に文章にする。ある程度まで要約することはかまわないが、核心部分はできることなら引用の形にし、一言一句変えないほうがいい。自分のうろ覚えの記憶などが混入しないように気をつける。
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- 作成した各説明文には、当然Wikipediaの公式ルールどおりに(他の人から指摘される前に)自発的に出典を明記する。その際、文献名だけでなく、ページ数もはっきりと明示する。
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- 本文の出典として掲載ページ番号まできっちりと明示できたものに限り、途中の「参考文献」のリストに加える。他の文献は、ただの「関連文献」にすぎないので、そこに表示しておく。