コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ノート:和宮親子内親王

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

和宮には女院号は宣下されていないと思います。より詳しい方の意見を求めます。--FFivory 2008年8月26日 (火) 13:33 (UTC)[返信]

薨去の時刻について

[編集]

薨去の時刻について現状の記事本文では「明治十年九月二日早朝」とありますが、国立公文書館サイトの「二品親子内親王薨去ノ件」の資料画像では早朝でなく「午後六時十分」とあります。時刻まで書く必要性があるかどうかとは別に、少なくとも公的には「夕刻」に亡くなったものと発表されているわけで、一方で記事本文の当該部分を執筆された方が参照された歴史関係の書籍では「早朝」となっているのでしょうから、両論併記といいますか、このあたりのことも付記するとかしたほうがいいのではないかと思いますが。--無言雀師 2008年7月6日 (日) 07:37 (UTC)[返信]

和宮降嫁について

[編集]

日本史上、皇女が武家に降嫁し、関東下向した唯一の例である 文久元年(1861年)~12月11日、和宮は江戸城本丸大奥に入る。

とあるが、 徳川斉昭のページに 天保2年(1832年)、有栖川宮織仁親王の皇女・登美宮吉子と結婚する。

とある。 矛盾していると思うのだが、どうでしょうか。