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ノート:吾妻軌道

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軌間について

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軌間を762mmに訂正したのは 『日本の市内電車-1895-1945-』によるものですが、疑問に思ったのが、もし1920年に1067mmに改軌したら利根軌道の渋川 - 鯉沢間(軌間762mm)に乗り入れられなくなるからです。 他の文献では「昭和3年(1928)東京電灯と合併後、軌間1067mmに改軌した-全国軽便鉄道 岡本憲之 JTB 1999年-」という記述もあります。--Tamrono157 2009年11月23日 (月) 14:02 (UTC)[返信]

馬鉄時代の渋川付近の駅名について

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出典とされている宮田憲誠 『遠い日の鉄道風景 - 明治のある日 人車や馬車鉄道が走り始めた』という書籍について気づいた事を少々。

  • 巻頭カラーページに右から横書きで「橋新 京東」と記してある写真絵葉書に「東京馬車鉄道 土橋付近(明治中期)」のキャプションが付いているが、これは明らかに新橋。
黄色に手彩色されている博品館の立地は新橋北詰の西側だが東側に写っていて、馬車鉄道も左側通行のはずが右側通行になっている。銀座方面から新橋を渡ってきた軌道が西側にまがっているが、実際は東側の土橋方面に曲がっていた。つまり画像が左右逆転状態である。絵葉書作成当時、ポジを裏焼きしてしまったもの。
  • 58頁の「(日光名所)日光橋」という写真絵葉書の説明で、59頁に牛車軌道が日光橋を通行していた旨の記述がされているが、1893年(明治26年)開通の牛車軌道は日光橋東側の専用の木造トラス橋を通って日光停車場の裏手まで旧道上を通じており、開通当時木造橋であった日光橋や、1904年(明治37年)に架橋された鋼製の日光橋を通行していた事実はない。
  • 「あとがき」252頁で、東京馬車鉄道は凹型レールにフランジレスの車輪を使用していた旨の記述があるがそうした事実はなく、いわゆる溝付きレールにフランジ付き車輪であった事は現存する多数の写真を見れば明らかである。

当方が気づいた分だけで明確な事実誤認が3件あります。

著者は緻密かつ詳細な調査を実施する一方で、失礼ながらこれらの案件に関しては「調べ漏らした上に裏も取らなかった」事になります。こうした事実認定に関するエラーは資料としての信頼性に影を落とすもので、利根軌道・吾妻温泉馬車軌道の駅名「渋川中塚町」に関しても参考文献中に出典が提示されておらず、当方の触れた公文書や公文書・鉄道統計を根拠とする出版物等の資料では利根軌道の営業区間は「渋川 - 沼田」・吾妻温泉馬車軌道の営業区間は「渋川 - 中之条」としてあって「渋川中塚町」の駅名は一切見当たらず、この駅名については今の所全く「裏が取れない」状態です。いずれにしても、同書は「内容によっては」参考文献とするには少々の検証というか何らかの補強が必要かと推察します。

延長された起点の駅名が明記されている確実な資料が見当たらない以上は渋川側の正しい駅名は「渋川」・「渋川中塚町」いずれとも断定できないので、参考文献を大幅追加して駅名を断定できない理由も記した上で本文から注釈節に移動させていただきました。

なお余計な事ではありますが、はるか昔のこととて当時を知る人も少ないかすでにいない、少ない資料、取材時間は莫大で経費もかさみ、コストは販売価格に跳ね返ってくる上にマニアックな内容で出版物としても売りにくい……形をなすには困難極まる題材に挑んだ著者に敬意を表するものであります。--DY28D35会話2016年10月2日 (日) 03:29 (UTC)[返信]

当方の調査漏れと誤認箇所(東京馬車鉄道のレール、公文書中の『中塚町』の存在)について、Tamrono157氏からご指摘を頂きました。詳細はノート:利根軌道をご覧ください。--DY28D35会話2016年10月4日 (火) 13:58 (UTC)[返信]