ノート:同志社大学/200607過去ログ
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同志社大学について
[編集]同志社大学の首都圏での知名度が高くないとするのはどうか?格付投資情報センターの格付理由では同志社大学が高い知名度を有するとしている。また単に開学の古さから同志社が三私学なのではない。たとえば立教は同志社よりも前に創立されている。早稲田が創立されたのは明治より後である。この三校の創立者が学の国家からの独立という建学理念を打ち出したところに、他の私学と区別される理由があるように思われる(新島襄が文部省入りを頑なに拒んだのも、このような意識が根底にあったからだと考えれらる)。三木内閣文部大臣であった永井道雄は慶應義塾、同志社、早稲田の三校を自由主義派と名付けている。:同志社はキリスト教の伝道を目的とするミッションスクールではない。これは学校法人同志社総長である大谷實氏が2003(平成15)年の同志社大学入学式祝辞で明言している。同志社設立の当初にアメリカンボードというキリスト教伝道団体が大きく関わっていたのは事実であるが、1888(明治21)年の正月にアメリカンボードの経営から完全に独立し、その年の11月に発表された『同志社大学設立の旨意』において新島は「私はキリスト教を拡張するために学校を設立するのではない」と宣言している。同志社がミッションスクールでないという記述が削除されているのは理解に苦しむ。:一体何において同志社大学の“首都圏での知名度は乏しい”とされているのですか?学歴版などの書き込みに毒されているような気がするのは私だけでしょうか?少なくとも西日本の私立大学ではもっとも知名度の高い一校に挙げられると思います。
:同志社はミッションスクールではありません。このことは同志社大学キリスト教文化センター、水曜チャペル・アワー4月14日『良心とは』(奨励者・大谷實)で確認できます(同志社大学キリスト教文化センターのHPを閲覧してください)。削除されないようにお願いします。
時の総長である法科教授が何をいおうと同志社は歴史的経緯からミッションスクールである。 日本基督教団に問い合わせるなり、同教団所属の同志社教会(君たちが 飾りだと思っているチャペル。れっきとした礼拝堂)に問い合わせみればわかる。そもそもミッションとは何か、伝道とは何かから掘り下げるべき問題であろう。「基督信徒数の増大=教勢」にのみ腐心するのがミッションだと考えているならば狭量以外の何者でもない。もし同志社出身者なら4年間(もっとか?)何をみてきたのかと問いたい。そもそも基督教的との記述は残してミッションを削除するのか。なにゆえ母校をことさらミッション系から遠ざけたいのか。 思想的思惑すら感じる。
:同志社がミッションスクールかどうかを議論するには、そもそもミッションスクールが何を意味するかを明らかにしなければなりません。私はふたつの要件が必要だと思います。ひとつはキリスト教の伝道を目的としていること(ミッションとはキリスト教の伝道を意味するのではないですか?)、もうひとつはキリスト教伝道団体が経営母体であることです。まず、同志社大学がキリスト教の伝道を目的としていないことは“同志社大学設立の旨意”から明らかだと思います。新島はキリスト教を広めるために大学を設立するのではないと宣言しています。また1888(明治21)年にアメリカンボードの経営から完全に独立するまでも、法的には同志社英学校は結社同志社の所有でした(名目上に過ぎなかったのかもしれませんが)。いずれにせよ同志社がミッションスクールかどうかは日本基督教団でも同志社教会でもなく学校法人同志社の公式見解に従うべきだと思います。学校法人同志社のトップである総長が入学式、および大学の公式ホームページで明言している以上、それが同志社側の見解であると考えるのが自然ではないでしょうか?あなたはそれは総長の個人的見解に過ぎないという立場を採られるようですが。あと私は同志社がミッションスクールかどうかに特にこだわりはありません。ただ大学のホームページに掲載されている内容を書き込んだだけなのになんで何度も何の断りもなく削除されるのか訝しく思っただけです。
:大谷総長は“同志社はキリスト教の伝道を目的とするミッションスクールではない”とおっしゃっておられます。これは必ずしもキリスト教の伝道を目的としないミッションスクール、たとえばキリストの教えに従い教育を行なう使命を負った学校などを想定されているものと思われます。そのような定義に従えば同志社はミッションスクールということになると思います。私はミッションスクールとはキリスト教の伝道を目的とする学校を指すと考えていたのですが、調べてみた所必ずしもそれに限られないようなのでこの点については明らかに私の間違いだったと思います。お詫びいたします。
:お詫びをこころよく受け入れましょう。ただ、2つ前の人の記述は納得がいかない、というより「伝道=受洗者の数の拡大」と考えているなら、あまりにも狭量だと嘆息する次第です。もし同志社関係者ならすぐにチャペルに行きなさい。大学やキリスト教的なものを単にファッション的なものとして考える思慮浅き人ならどうしようもないが。
:2つ前の記述も、1つ前の記述も私が書き込んでものです。1つ前の記述は2つ前の記述を訂正したものだと考えていただければ幸いです。
:再び書き込まさせていただきます。河野仁昭著『新島襄への旅』(京都新聞社)の181頁に“同志社がミッション・スクールでない”との記述があります。その理由としてアメリカン・ボードはあくまで後援者であり寄付者であって、経営主体は結社人である新島襄と山本覚馬である(つまりミッションの経営ではない)ことが挙げられています。また194頁でも“断る必要もないこととは思いますが、同志社はいわゆるミッション・スクールではなくて、新島襄と山本覚馬が設立し経営する学校です”とされています。河野仁昭氏は同志社社史資料室長を務められた方です。この問題はミッション・スクールの概念の捉え方次第で結論が変わってしまう部分がありますが、同志社がミッション・スクールでないという見解そのものに間違いはなかったようです。
:「誰がどこでこう言った(あるいは書いた)」はどうでもいいから、あなたのいう「いわゆるミッション・スクール」が何なのか定義しないと話にならないよ。まあ、権威者の記述に依拠するだけの人に定義づけなんて無理かもしれないけど。
:私がいうところのミッション・スクールを同志社に当てはめてもあまり意味はないですよ。ウィキぺディアは百科事典であって個人的な主義主張を述べる場ではないですから。ミッション・スクールとは通常キリスト教の伝道を目的としてキリスト教伝道団体によって設立された学校を指すが、これらの要件を兼ね備えていなくてもミッション・スクールとされる場合もあるとしか言い様がありません。
:「ミッション・スクールとは通常キリスト教の伝道を目的としてキリスト教伝道団体によって設立された学校」だったら同志社そのものじゃないか。君は伝道が「街でアナタハカミをシンジマスカと語り掛けてくるグループ」のイメージしかないから抵抗があるのですか。伝道って何? せっかく神学部があるんだから聞いてみたら、信者数拡大運動とイコールじゃないよ。これ以上、無知と不見識を書き連ねるのは見苦しいのでやめてください。
:河野仁昭氏は同志社は新島襄と山本覚馬が設立したのであって、キリスト教伝道団体が設立したものではないと言っておられるのです。大谷総長は1888(明治21)年に発表された「同志社大学設立の旨意」の“吾人の目的斯くの如し、若し夫れ此事を目して基督教拡張の手段なり、伝道師養成の目的と云ふ者は、未た吾人が心事を知らざる者なり、吾人が志す所の者、尚ほ其上に在るなり、吾人は基督教を拡張せんが為めに大学校を設立するに非す、唯た基督教主義は、実に我か青年の精神と品行とを陶冶する活力あることを信し、此の主義を以て教育に適用し、此の主義を以て品行を陶冶する人物を養成せんと欲するのみ、”との記述から同志社はキリスト教の伝道を目的としないとされているのです。同志社の寄付行為第2条は「キリスト教を徳育の基本とする」と定めています。このキリスト教主義に基づく徳育が“伝道”であるとされるならば、一般的な語義からは離れることになると思います。
:辞書だと伝道は「キリスト教で教義を教え広めること」(講談社国語辞典)とある。かなり広い意味であり、上の人が引用した「基督教拡張=クリスチャンの数拡大」「伝道師養成=教会牧師などの養成」のような狭い意味とは思えない。そもそも、「キリスト教を徳育」を基本にした活動って「キリスト教で教義を教え広めること」とどう違うの? じゃあキリスト教的な教育って何? キリスト教の教義を抜きにファッションや道徳としてキリスト教を楽しんじゃおう、なんかカッコいいから。ということですかいな。
:岩波書店『キリスト教辞典』によれば“未信者に対してキリストの福音を宣べ伝え、彼らを信仰の道に招く教会活動”とあり(詳しくは『キリスト教辞典』を参照してください)、『広辞苑』によれば“主にキリスト教で、その教旨を伝え宣べて未信仰者に入信を促すこと”とあります。『キリスト教辞典』は広義では“この社会を福音にかなう神の国に変革しようとするあらゆる活動”としており、伝道という概念も多義的なようです。“キリスト教による徳育”が何であるかは大谷総長による「奨励」が参考になるかと思います。新島がなぜキリスト教ではなく、キリスト教主義を徳育の基本とするとしたのかを考えてみる必要があるのかもしれません。非常に難しい問題ですね。
:相変わらず基本認識が低いですね。キリスト教主義って何? そもそも宗教であるかぎり伝道は一体不可分のものでしょ。要はキリスト教に入信するのは「シュウキョウってこわーい」からいやだけど、キリスト教主義ならいいか薄いしって感じですか。十字架をファッションでつけてるのと同じね。
:浅学非才にもほどがある。もう恥ずかしいので書き込まないでください。「キリスト教を信仰しない人達に対してもキリスト教の良心による影響を与えることができないか」なんて、あなたは小学生ですか? いくら日本人が宗教に無頓着といってもそれはないんじゃないですか。
- 同感。だらだらとノートを占拠するのはもうやめて。新島が泣くよ。嫌がらせなら他でやって。
- 途中からの参加で失礼します。同志社大学神学部はれっきとした「伝道師養成」機関ですよ。プロテスタント最大の日本基督教団の牧師、伝道師は同志社大学か東京神学大学出身の人が主流を占めています。伝道師試験の一部が免除となるわけです(司法試験とロースクールの関係のようなもの)。以前は青山学院大学も同様の伝道師養成の神学部だったようですが、今は養成課程はないということです。こんなこと神学部に聞けばすぐ分かることじゃないですか。
- そうですね。全くの私見に過ぎないので削除しておきます。すいませんでした。ところでここに書き込まれている方々は「同志社大学設立の旨意」を原文で読まれたことはあるのですか?
- ↑いい加減にしなさい。
- 確かに伝道師を養成してはいるので、その意味では伝道師の養成校ではありますが、神学部は純粋なる牧師養成機関とまでは言えません。特に学部生の中にはかなりの数でキリスト教信者でない人がいます。ただし、大学院へ進む場合は信徒であることが基本のようです。
ミッションスクールであるか否かという事ですが、ミッションスクールを「キリスト教の普及を第一義とする学校」と考えるのであるならば、これは当てはまりにくいでしょう。新島はもちろんキリスト教徒ですが、彼が目指したのは、欧米文化を支える精神としてのキリスト教が内在しているものを人々に伝えるためであり、それは必ずしも単純な伝道とは異なる志であったと思われます。これは新島という人物の思想を如何に理解するか、という処でまず話が分かれてしまいそうですので、あまり深く突っ込み出すと話がややこしくなるかもしれませんが。
- 「欧米文化を支える精神としてのキリスト教が内在しているもの」だったら、単なる似非宗教でしょう? この項を読むと、関係者の間でもいかに日本人がキリスト教というか宗教一般に無頓着な証左をあらわしていると思います。上記の人の話を要約すると「キリスト教に入信するのは怖いが、世界の文明国はキリスト教国なので、そのスタイルやファッション、道徳面だけ頂いてしまおう」ということとしか読めません。あたかも、何かの「お試し期間」「賛助会員」とでしかないですね。きわめて低俗で、もし同志社関係者なら、4年間何をしていたのかと。
:「同志社大学設立の旨意」に示されている通り、同志社大学設立の目的つまり建学の理念は「政府の手に拠らない人民の手に拠る大学を設立することによって自治自立の人民を養成する」「キリスト教主義を基本とする徳育によって科学文学の智識を運用する品行と精神を養成する」この二点に集約されます。同志社大学はキリスト教の教義を広めることを目的として設立されたわけではなく、ミッションスクールとは異なる独自の建学理念をもっているのです。新島は全国民に対して大学設立の協力を訴えたのであり、全国民にキリスト教普及のための大学設立の協力を求めたのだとすればおかしな話です。国民のほとんどはキリスト教を信仰していないのですから。また新島自身が「此ノ大学ノ挙ハ・・・決テ耶蘇教拡張ノ手段ニモアラズ」と明言していることについてはどう説明されるのですかね?少なくとも「キリスト教のより良い浸透と実現」を建学の精神として掲げている上智のような大学とは明らかに性質が異なるでしょう。大谷総長にはおそらく同志社大学がミッションスクールであるとすると、海外のキリスト教伝道団体によって設立された大学という印象を与えかねず、同志社の建学の理念である「自治自立主義」が見失われる怖れがあるという問題意識があるのだと思います。新島がモデルとしたのはアメリカ国民が自らの子女を教育するために設立したリベラルアーツカレッジであって、だからこそ国民が主体的な意思(自治自立の精神)に基づいて設立する私立大学を指向したのであり、必ずしもミッションのみに依存した大学を設立しようとしたわけではないですから。
:横から失礼します。どうもこのノートは2、3人の人の意見が平行線のまま長々と続いているのがみてられませんから。ひとつ上の書き込みの方は、ここ一連の「ミッションスクールではない」と固執されている人(以下、上記氏と称す)のようで「同志社大学設立の旨意」を読んだことを錦の御旗のようにがんばっておいでですが、ややピントがぼけているようです。問題は日本におけるミッションスクールにあてはまるか否かの問題だと思います。旨意の個々の文言をキリスト教知識の乏しいあなたが勝手に解釈されても不毛なだけでしょう。上記氏の考えではミッションスクールとは「基督教の布教=学生を信者にし、さらにその学生が信者獲得に走る」(まるでナントカ真理教みたいな貧しいイメージであうが)と理解して、激しく抵抗されているのでしょう。しかし、上記氏が例示したような上智大学においても学生をカトリック信徒に限定したり、または在学中にカトリック教徒になるよう教育したり、社会に信者獲得運動をしているわけではありません。東南アジアやアフリカ地方でのミッションスクールとは異なり、日本でのミッション・スクールとは、ここでも一部議論が集約されたように1・基督教神学を教養課程の科目に加える 2・学内に礼拝堂(チャペル)を持つ 3・伝道師、牧師養成過程を持つ、ような学校ではないでしょうか。そうすると、同志社大学はすべてあてはまるわけです。神学部学生に基督教信者以外のものもいるという反論は、「信者以外にも門戸を開放した神学部」といえましょう。また、すべてが伝道師を目指さないというのは、特に教育大学以外の国立大学教育学部が教員養成と教育学研究の2つの側面をもつことと同義でしょう。上記氏に対抗してクリスチャンの学内関係者と思われる人の書き込みが多数見受けられ、その中に馬鹿にしたような発言が若い上記氏の心を痛くきずつけたのは想像に難くありませんが、上記氏も少し意固地にならず歩みよりいただけないでしょうか。また、大谷総長の発言は上記氏のご慧眼の通り、「ミッションスクール=信者獲得の義務付け」と若い学生に曲解されるのを恐れての発言ではないでしょうか。
:「政府の手に拠らない人民の手に拠る大学を設立することによって自治自立の人民を養成する」「キリスト教主義を基本とする徳育によって科学文学の智識を運用する品行と精神を養成する」とは「同志社大学設立の旨意」に書いてあることそのままだと思いますがね。「同志社大学はキリスト教の教義を広めることを目的として設立されたわけではない」としたのは、『現代語で読む新島襄』(丸善)が「吾人は基督教を拡張せんが為めに大学校を設立するに非す」との箇所を「私たちはキリスト教を広めるために大学を設立するのではない」と訳していることにしたがっています(個人的には「拡張」とは一般的な語義からすれば‘キリスト教信徒を増やすこと’を意味するような気がしますが)。私の勝手な解釈だとするならばそのことをわかるように論証していただきたいものですね。また私は大谷総長の「新島は、念願の学校設立を目指して、自治自立の精神に立って、ボードからの独立を果たしました(2004年度チャペル・アワー、奨励『良心とは』)。」との発言に着目したのですが、この点についても十分意図を理解されていないように思います。最後に私は「この問題はミッション・スクールの概念の捉え方次第で結論が変わってしまう部分がある」と認めています。いろいろ調べてみましたが、ミッションスクールという概念は必ずしも一定してないですから。
:たまたまここをのぞいてみましたが、ずいぶんどうどうめぐりの議論ですね。特にすぐ上の方はログインされていないのでよく分からないんですが、「同志社大学設立の旨意」の記載の語句を金科玉条のごとくされている特徴から、ほぼすべての「ミッション系容認反対派」の記述をされている方と見受けられます。なぜこんなにガンバッテいるのでしょうか。私は同志社がミッションであろうがどうかどっちでもいいのですが、これまでの議論で、やはり神学部と牧師養成課程を備えていれば世間一般でいうミッションと見なしていいのではないのかと考えます。それにしても、上の記述の方は「基督教拡張の手段なり、伝道師養成の目的と云ふ者は、未た吾人が心事を知らざる者なり」の語句をもって同志社はミッション系ではないと言い張り、神学部に伝道師養成課程があると指摘されるやいなや、「でも学部にはクリスチャンではないものもいる」と強弁。何がどうあっても同志社はミッション系ではないとこだわっているので説得などはなから無理でしょう。この人の言い分を聞くとなぜか「自衛隊は軍隊ではない」と強弁してきた勢力を思い出します。中には「空母を持っていないかから」(つまり攻撃型ではないといいたい)といっていた人もいたなあ。笑止。
:一応説明しておきますが、新島が私立大学創設を目指した理由として「学問の国家からの独立」「教育の官からの解放」を実現しようとしたことが挙げられます。これは慶應義塾、早稲田にも共通する理念であり、永井道雄が慶應義塾、同志社、早稲田を「自由主義派」と呼んだのもそのような理由によるものです。現実にも同志社大学は自由主義を標榜しています。しかし、仮に私立大学を創設して国家権力からの影響を排除したとしても、仮にそれが特定の宗教団体に依存したものであるならばリベラリズムを貫徹できません。たとえばその宗教団体の立場と異なる学説を唱えた教員が攻撃されるような事態が生じうるからです(浮田和民がその例であり、結局彼は同志社を去りました)。同志社大学がミッションスクールでないとすることの意義は同志社大学がキリスト教伝道団体(ミッション)によって創立された大学ではなく、国民の手によって設立することを目指して設立された大学(同志社大学ホームページの言葉を借りるならば「自発的結社としての大学」)であり、学内においても「学問の自由」「信仰の自由」が最大限保障される自由主義の大学であるということを示すことにあるのではないかと思います。
:4つ前の書き込みのものです。ようやくあなたの本意が分かりました。要は「特定の宗教団体に依存したものであるならばリベラリズムを貫徹できません」がいいたかったんですな。では、逆に、アメリカン・ボードが設立主体だったことや、あなた自身が記述した「浮田和民がその例であり、結局彼は同志社を去りました」とは矛盾するではないですか。あなたの理想を百科事典の記述に押し付けるのはどうかと思います。世間一般の常識として「牧師養成の神学科を持っているが、ミッションスクールではない」など、だれが納得しますか。「他宗教信者や無宗教者にも門戸を開いたミッション・スクール」でいいのではないですか。あなたがミッション・スクールの代表例として挙げた上智大学の学生にカトリック以外のものがいるのと同義です。
:同志社英学校の設立主体がアメリカン・ボードだったと言い切れるのかどうかは私にはよくわからないのですが。少なくとも同志社は新島襄と山本覚馬によって結社されたものであり、それが母体となって同志社大学は設立されたのですから、同志社大学はミッションが経営母体でないと言い得るのではないですかね。また1896(明治29)年小崎社長がアメリカン・ボードからの寄付を謝絶し、ボードからの独立を決議したのは同志社における思想の自由を守るという意図もあったと私は思うのですが(同志社大学が設立されるのは1912(明治45)年です)。百科事典の記述が世間一般の常識に沿うものでなければならないというのは私には理解できませんね。あと前にも言っているように同志社がミッション・スクールであるとされたいなら別に私はそれで構いませんから。
:新島が熊本バンドの中心人物であり、アメリカンボードの宣教師であった歴史的事実は、何を言おうとも揺らぎません。新島がこだわった信仰上の独立とは、日本基督一致教会と日本組合教会のプロテスタント教会の合同の動きに対する抵抗であり、自主、自立の精神を重要視する会衆派教会の独立性保持でした。同志社のアメリカン・ボードからの支援拒絶もその延長線上です。ちょうど、札幌では、新渡戸、宮部、内村の独立派教会、その後東京で矢内原による無教会派が勃興してきたのと相通じるものでしょう。すなわち、あなたが浅薄にも、すべての宗教や権力からの独立、自由と思い込んでいる一節は、個々の教会の自主独立性保持と個々の信仰の解放にほかならなかったのです。ほとんど基礎知識がないうえに「百科事典の記述が世間一般の常識に沿うものでなければならないというのは私には理解できませんね」と平気で暴論を吐くような方にはどだい説得するのは難しいでしょうが。
:新島が熊本バンドの中心人物とは明らかな間違いでしょう(新島があたかも熊本バンドの一員であるかのような誤解を与える表現ではないですかね)。小崎は、日本人教師とアメリカンボード派遣宣教師の「衝突の真相は、両者の思想の自由に関する態度の違いに根差すものだと言明」しており、「たとえば、同志社学内における反キリスト教的演説を禁ずべしとするのに対して、かれは多数の日本人教師がそれに反対して、思想の独立を重んずるのが本来の同志社の方針であ」るとし、「同志社本来の独立の精神、思想の自由を尊重する気風」を「新島の「同志社は決して米国人の同志社に非ずして、即ち日本帝国内の同志社なる事、固より弁明を待たずして明らかなり」の信条に求めて」います(伊藤彌彦編『新島襄全集を読む』晃洋書房100頁)。また新島が「同志社は仮令、悉皆米人の寄付金に成立したるにもせよ、既に社有に帰したる以上は、決して米人の左右する所にあらす(中略)況や、永く米人の寄付を仰ぐの趣意に非るに於てをや」と述べていることについても同著では言及されています。つまり同志社の独立の精神は「個々の教会の自主独立性保持と個々の信仰の解放」というような狭いものではないです。そして新島が福沢諭吉と同様に「官吏の手から教育を解放しようと努めた」ことは山路愛山の指摘するところです(本井康博著『新島襄と徳富蘇峰』晃洋書房205頁)。同志社大学ホームページにおいても、新島が「教育権は政府にではなく両親に属していると自覚していた」ことが紹介されています。
:連日の図書館、史料庫通いご苦労様です。当初のまったくの無知からずいぶん進歩されましたね。その調子で、今度は神学部の教官のドアをノックすればどうでしょうか。我流だったこれまでの研究に厚みが出ますよ。結果はまたノート議論に生かしてください。
:まあ、「同志社がミッション・スクールであるとされたいなら別に私はそれで構いませんから」とおっしゃってるので議論は収斂されたのでは(ご本人が蒸し返すかも知れないが)。そのスタミナと怖いもの知らずの蛮勇には感服します。
:残念ながら私は今京都にいないのでそれはできませんね。引用した書籍はすべて自宅にあるものです。評価していただいたことは感謝します。
:同志社がミッションスクールであるか否かで論争が起きていたようですが、ミッション系大学の項を引いていただければおのずと分かると思います。世間一般に「キリスト教系」の大学の総称としてミッションスクールとお呼びになるのは構わないと思います。もし、厳密になさるならミッション系大学の項にあるように、1)ミッション(伝道団体)によって設立された、2)ミッションや特定の教会の支援を受けている、3)ミッションや特定の教会を中心に運営されている、これらの条件を全て満たしうるものがミッション系大学と言えましょう。ただ、現在ではミッションから自立した大学も多く、また、キリスト者の個人有志が設立して自立的に運営する大学もありますので、キリスト教系の大学や学校自身は「キリスト教主義学校」「カトリック学校」と称するのが一般的となっています。サヴォイ 2005年3月13日 (日) 11:11 (UTC)
著作権侵害?
[編集]同志社大学の公式HPの中の[1]にそっくりな記述があります。どうすればいいのでしょうか?初心者なのでよく分かりません。
ミッション?
[編集]同志社はミッション系大学と定義される一方ミッションスクールではないと。だがしかし後者は前者へのリダイレクトで前者には同義語と書いてある。意図がわかりません。 Tietew [Talk] 2004年11月17日 (水) 06:04 (UTC)
:同志社はより広い観点からのミッション系大学の定義に当てはまる大学でしょう。しかし、1)当の同志社自身がそれを否定していること、2)同志社教会やそれに連なる組合派の諸教会や教職・信徒も同様の認識であること、3)歴史的に見ても、学園の自立的な運営に意を用いてミッション(伝道団体)からの運営介入を受けいれていないこと、これらを考え合わせると「独立・自治のキリスト教主義大学」というのが最も適当な定義かと思います。サヴォイ 2005年3月13日 (日) 10:02 (UTC)
せっかく今まで皆さんが編集を重ねてきたのに
[編集]以前の版に戻すなんてあんまりです。 戻すならばOB.OGの部分は直前のものにきちんと直してください。
この掲示板には、意味不明の削除、変更等が横行しているため、ウィキペディア (Wikipedia)の画面上の4つのタブの”履歴”を開き、著作権で問題がない部分の過去のログ(日付をクリック)のソースを”すべて”コピーして、同様にウィキペディア (Wikipedia)の画面上の4つのタブの”編集”を開き、そのソースを最新版に”すべて”、ペーストしてはいかがでしょうか?ひとつづつ修正していると多大な手間が掛かり、面倒です。
差し戻中止のお願い
[編集]先月末からノートでの論争とそれに伴う書き換えが繰り返され、ここ数日もかなり不毛な差し戻し合戦になっています。何を書くか、書かないかノートで議論をしてから行動に移すようにお願いします。以後Revertが継続するようであれば最終版がどうであれ保護したいと思います。sphl 2004年12月8日 (水) 10:42 (UTC)
- 状況が改善しなかったため保護しました。sphl 2004年12月13日 (月) 15:27 (UTC)
トップ面
[編集]トップ面においては、簡潔な内容とすべきであって、個別具体的内容を書くことは避けるべきと思います。 したがいまして、最近頻繁に編集される野球部の件、そして事件等の書き込みはトップ面で避けるべきです。
RE:トップ面
[編集]トップ面に載せる載せないというより、そうした事件自体がWikiの記事として適正なのかが疑問です。
そうですね
[編集]今見たらまた書かれていました。こうなると愉快犯ですね。何とかならないでしょうか。見つけ次第削除するようにはしていますが。。
>差し戻中止のお願い
[編集]激しく同意。同志社出身の著名人が無い!!荒らしだろ!!やった奴にアク禁希望!
同やん?
[編集]完全な2ch用語です。現実で使われることは有り得ません。
(語感としても非常に不自然です) もし京都人が同志社に接尾語をつけて呼ぶことがあるとすれば、 「同志社さん」「同志社はん」となるでしょう。 (同やんはいかにも下品です)
私は現在38歳で、学生当時京都にいましたが「同やん、立ちゃん」と呼んで
いましたよ日常的に。2ちゃんねるでどんな話になってるかは知りませんが
周りの年配の方に聞いてみたらどうですか。多分上記の内容を書かれた
方は在学生などの若い方なので、よく経緯を知らないのかと思います。
すぐ上の方と同意見です。私ももう20年も京都を離れたので今もそう呼んでいるのかどうか
わかりませんが。すくなくとも「同やん」と親しみを込めて読んでいました。2chの存在は
知っていますが、中に入ったことがないので、もしかしたら悪意を込めた呼び名に変容しているのでしょうか。
上の方がいうように、同志社出身の同大教官に聞けば、一発で分かるんじゃないかなあ。
今のままでは「現実で使われることは有り得ません」と言い張ってる君があまりにもピエロなので。
- 日常会話では使いませんが、少なくとも私は「同やん」が同志社の愛称であると認識しています。最近ではことさら使われるわけではないという但し書きはあって良いかもしれませんが。tanuki_Z 2004年12月20日 (月) 08:55 (UTC)
:「伝統的に」と書かれているので「最近ではことさら使われるわけではない」をあえて付け足すのは、重複表現です。
昔の学生が使っていた言葉だとしても、“京都市民に”そう親しまれていたとは限らないのではないでしょうか?私は少し前のOBで京都市民ですが、最初の方と同じく「同やん」は一度も耳にしたことがありませんでした。少なくとも、辞書に載せるのに適切な記述ではないと思います。
:私は現在東京在住ですが、高校を卒業する約20年前まで「同やん」「立ちゃん」とのニックネームはよく耳にしました。学生からではなく、主に私や同級生の親たちからです。皆京都生まれの京都育ちの人たちだったので、市民に定着しているといわれても違和感はありません(OB、OGの人はいなかったようです)。ただ、現在の若い世代の人が使うとなると、何人かの方がいうようにもうないのかもしれませんね。ただ、辞書に載せる意味はあると思います。まず、この記述で、特に年配の方が使う「同やん」という言葉の意味が理解できるという点、さらに愛称で呼ばれるほど市民に愛着を持たれた大学であるということを示す点です。何人かの方が既に書かれているのですが、「同やん」は悪意を持った呼び名ではありませんし、京都出身者以外の人が持つような下品な言い方ではないと感じます。(そもそも京都人の言葉づかいが巷間いわれるように綺麗かどうかは意見の分かれるところであると思いますが)
:記事の一方的削除が簡単に行われるのは、非常に残念に思う。もし誤りを見つけたのならその部分を修正すればよい。誤りを一ヵ所を見つけて関係の無いところまで削除している。これは明らかな嫌がらせだと思う。悪く言うと、わざと捏造記事を書き、それを捏造だと騒ぐ不貞の輩がいるのではないかと想像する。
- 八橋一郎『評伝 筒井康隆』(新潮社、1985)に、学生運動全盛期における京大生の間での評判として「リッちゃんはええが、ドウやんはあかん」という表現が登場します(著者は京大OB)。立命館は学生運動に熱心だが、同志社は不熱心だという意味です。--Arpeggio 2006年1月3日 (火) 03:17 (UTC)
- 「同やん」は2ch用語ではありません。京都では昔から使われています。但し、悪口に近いニュアンスで使われることがあります。私見ではあまり品のいい言葉ではありませんし、決して使わない人もいます。
保護しました
[編集]編集合戦が行われているため、本文を保護しました。合意の形成をお願いします。しるふぃ(おはなし|おもいで) 2005年11月23日 (水) 10:22 (UTC)
- 栗本慎一郎の『間違いだらけの大学選び』、同志社についてアメリカ研究や筒井康隆についてなど他の記述もあったように私は記憶しているのですが。早稲田については学生一流、施設二流、教授三流と述べていたように思います。Jazzy 2005年11月23日 (水) 10:29 (UTC)
- 早稲田についてはどうでもいいと思うが(少なくとも早稲田から見て)、栗本氏は「学生一流、施設二流、教授三流」については、東大法学部を凌ぐ早稲田の「一流偏差値」はお粗末過ぎると述べている。栗本氏の真意は、全体として早稲田は「頭のレベルで」一流だが、そうとは言えないものもある、ということに尽きる。同志社は、早稲田にも及ばない上智以下の低偏差値で校であることは、論をまたない。
:一人の醜いコンプレックスをお持ちの方が、主観的要素の非常に強い書籍を用い、それをここに載せるというのが何よりもおかしいではありませんか。その方の書き込みについては今後禁止すべきです。そもそもこの上の御方もそうだが、早稲田など他大学を引き合いに出してどうのこうの記述する必要があるのか?低偏差値だの、非常にくだらない。コンプレックスは無用。そこまでして優越感を味わいたいのですか。違う場所で味わったらどうかしら。
:同志社と早稲田の関係についてどうのこうの中傷合戦が続いていますが,同志社と早稲田は歴史的にも思想的にも深いつながりがあります。参考に下記のアドレスの記事を見て下さい。早稲田大学名誉教授栄田卓弘氏の記事ですが,それによると,「浮田和民、大西祝、安倍磯雄、岸本 武太、内ケ崎作三郎というような同志社出身者が早稲田大学に来り投じまして、早稲田に新風を吹き込みました。私の恩師で西洋史の大家煙山専太郎は、『早稲田に魂を吹き込んだのは同志社である』と評したことがありますが、この評価はほぼ一般に受け入れられているようであります。」と書かれています。(記事書込み人:国立研のOB)http://homepage2.nifty.com/35292/eida.html/
- 主観的要素の強い書籍?ヲマエはばかか?書籍はすべて主観的要素を含んでるんだよ。そんな
こと言ったら何にも書けなくなるぞ。データーだけ載せるとかを客観的と思っているなら、まず形容詞は使えないわな。とにかく栗本が書いているのは事実で、その本も大学問題を扱った本だから、問題はない。何も料理の本を持ち出しているわけではない。早稲田に劣等感のある同志社の姿がよくわかるものだ。
☆すべて主観的要素を含んでいる?ぷぷっ。認めるんですね。じゃあ、百科事典に載せるべきではないでしょう。劣等感を持ち出すのは持ち出す方が持ってるもの。可哀想。ちなみにこの書籍について、立命は、あまりにも低評価を下されたので抗議を申し立ててた事実をご存知ですか。何も知らないのに「問題ない」とまで豪語するあなたが一番危険。
★ティミは相当逝かれてるな。立命が栗本に意義申立てしたところで何の意味がある?で、そんなことがあったことをここで述べることに何の意義がある?この本は第一級の大学論関係の著書であり、立命が抗議をしたかどうかは知らぬが、もしそれが本当なら、このこと自体、栗本の著書が日本中で大反響を及ぼしたことの証左である。とすれば、この本の内容の性格がどうであれ、「栗本という人物はこう記述している」ということを紹介することは「一向に問題ない」。あとはこの記述を読んだ読者がどう解釈するかまで、ティミが読者を拘束することはできないであろう。ヲバカ君へ。
☆この日本語版の「フリー百科事典」の編集管理者とはどのような人に与えられる称号なのでしょう?全員そうではないが,管理者としての資質にまったく欠けた人が多く含まれている。管理者は記事が百科事典として相応しいかどうかも判断しなければなりません。
★事実だけを淡々と書けば良い。それに意義申立てをすることほどバカげたことはない。
何だか汚い言葉しか吐けない人が偉そうなことを口にしてますね163.51.101.10 2005年12月12日 (月) 08:17 (UTC)
- 学習塾小6女児殺害事件の被疑者が2年前に窃盗事件を起こし逮捕されましたが、結局退学処分は行われずに停学措置だけで済まされ、学習塾の面接の際にはそのことが語られなかったということでして、もし同志社大学が退学という措置を取っていれば起きなかった可能性がある事件なので、ノートに記述させていただきました。222.158.167.79 2005年12月12日 (月) 14:38 (UTC)
人物一覧に関する討議を分割
[編集]人物一覧は同志社大学の人物一覧へ分割されているため、人物一覧に関する討議は同志社大学の人物一覧のノートへ分割しました。--秋の虹 2006年5月2日 (火) 09:41 (UTC)
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