ノート:吉良義央
この記事は過去に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、ノート議論となりました。詳細はノート:吉良義央/削除をご覧ください。 |
他の大名家・藩での評判
[編集]文意が不明な「信憑性」の話になって、項目の主題が不明瞭になってたので一旦削除し戻しました。 この項目は、当時にあった他の大名家・藩での評判です。主眼は「当時、こうした評判があった」という事実に注目されるべきで、その評判の信憑性については議論を別にするべきです。 記述が必要だと考えられる場合は、項目を改めて別にされてはどうでしょうか?(「悪評の由来」等々)
評伝の信憑性とは直接の関係性がないと思われる部分を削除しました。
削除したのは以下の部分です。
『冷光君御伝記』や『義人録』の記述に関して、史実では、戸沢正庸が藩主になるのは宝永7年(1710年)で、家督前の世子が日光社参や饗応役を務める例は皆無である。当時の藩主・戸沢正誠は赤穂藩上屋敷の受け取りと破却を担当したが、日光社参や饗応役をした記録はない。 また、寛文3年(1663年)の日光法会で加藤泰恒はわずか3歳であり、享保13年(1728年)の法会には既に死去している。また、泰恒は、同国の伊予吉田藩主・伊達村豊と交際の記録が残る。
しかし、『鸚鵡籠中記』は英邁と言われた徳川吉通を「愚行を繰り返す暗君」と評するなど、いわば主君を侮辱する「不忠臣」のような記述が多く(他藩についても悪口がある)、尾張藩では禁書扱いで尾張徳川家では公式資料とはされていない。
・一般的に、一部に事実と異なる記載があったとしても、必ずしも他所の信憑性に影響するとはかぎりません。
・他藩についても悪口を書き留めていたという事は、義央に対しての悪評を書き留めた事が特異なものでなかった傍証になりますので、記述の信憑性の向上になります。『鸚鵡籠中記』の評伝が信頼に足るものであるという文意を明確にしてみてはどうでしょうか。
朝廷に関する部分について
[編集]関係性が不明と考えられる部分を削除しました。 問題とされる箇所は以下の部分です。
- その後、政治の実権を天皇に取り戻すことを誓う霊元上皇は、下御霊神社に呪詛の願文を自ら認め、その中で近衛基煕を「私曲邪佞の悪臣」と悪し様に罵っている[41]。この為、基煕が吉良に良い感情を持ちにくい要因もある。
- 加えて、義央の孫・大炊御門経秀は、中御門天皇(114代)、桜町天皇(115代)、桃園天皇(116代)の三朝に亘って仕え、正二位・内大臣に進んでおり、東山天皇が義央を嫌っていたとされるならば、その者の孫を天皇自身の子や孫の側近として重用している説明もつかない。
- このエピソードには義央が出てこず関係性が不明です。このセンテンスでは反幕府派からも親幕府派であったはずの基熙側からも義央に対しては冷たい態度であったと指摘されています。霊元上皇と基煕との対立が「要因」となる関係性が不明です。
- 大炊御門経秀の母方にあたる菊姫は上杉綱憲の養女と考えられています。義央の血縁にはありません。また仮に、当人が嫌われていたとしても、その子孫が重用されるのは一般的に考えてありえる話です。
役者一覧について
[編集]演じた役者についてはWP:NOTの観点と忠臣蔵にフィクション作品及び演じた役者の一覧があることから、当該項目からは除去しました。--彩華1226 2010年5月13日 (木) 18:00 (UTC)
評価の分け方について
[編集]評価について、(肯定的なもの)と(否定的なもの)と分類するのは不適だと考え修正しました。 不適だと考えられる理由は以下のとおりです。
- 特定の価値観による振り分けとなる可能性がある。
- 評価という項目で、歴史的資料と結びつきがない現在の作家の意見等を、歴史資料等に基づいたものと対比させるのは不適切と考えられる。
- 吉良についての評価というよりは、赤穂事件についての見解があった。
- そもそも内容的に二つに分類できる形になっていない。
- (肯定的なもの)に部類されている内容の大部分が、肯定的な評価というよりはその誕生の検証であった。
- 以前あった枠組みを壊してまで、(肯定的なもの)と(否定的なもの)に分類する意味が見いだせない。
これらの点を踏まえて修正を行いました。
吉良家の所領近隣の評価に追加された疑問点について
[編集]追加された疑問点に対してもいくつか疑問点が見受けられます。
- 工事が難航・頓挫した1666年から1668年には、吉良義央は25歳から28歳前後であったこと。(※寛文8年(1668年)5月、父・義冬の死去により家督を相続する。時に28歳という記述がページ内にもある)
- 寛文2年(1662年)の21歳頃にはすでに、吉良義央は京都へ赴き、後西天皇に謁見するなど、幕府の使者としての役目を行っており、そうしたことを任される立場にあった。
- 父の義冬が寛文8年(1668年)に死去していることから考えると、父が死去する数年ほど前の時期には、すでに実質的に吉良家の当主的立場にあったと考えられること。
- 吉良義央が上野の領地に入った記録はないが、上野の領地には白石陣屋などの吉良氏の陣屋があり、家臣の長船氏に治めさせていたという話がある。その陣屋を通じて、上野の領内に指示を出すことは可能であった。そして、江戸に住み、江戸城に登城することがよくあったと考えられる立場と役目などから、将軍の親衛隊である書院番番頭などを務めていた仙石久邦と接触し、交渉をすることも容易であったと見られること。
- 『寛政重脩諸家譜』を見る限りでは、指摘の通り、仙石久邦が領地を返上し、領地が減らされたようには思われない。しかしながら、仙石久邦は寛文9年(1669年)7月3日に伏見奉行となった際に、上野国・甲斐国の領地を摂津国島下郡・西成郡・河内国大県郡・渋川郡に移されており、『安中市史』や安中市の石祠・頌徳碑などにも、「幕府に領地を返し、寛文9年(1669年)に摂津・河内などに移った」と書かれていることから、仙石久邦の領地の返上は、領地が減らされる・削減されるといったものではなく、領地を返し、他領に移されたというもののようであったこと。
以上の点から、今回、追加された記述については、疑問点が残るというほどのことではなく、「幕府に領地を返し、寛文9年(1669年)に上野国・甲斐国の領地を摂津国島下郡・西成郡・河内国大県郡・渋川郡に移された」などといった内容を追加・修正するくらいに留めるのが無難だと思いましたので、修正させて頂きました。