ノート:吉田磯吉
「この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。」 一部の人間のためのwikipedeliaならこんなことを書くな。 理由もかかないで 加筆差し戻す蔵横暴は納得できん。 地元名士のことだけに余計腹が立つ CPUもどきにやられましたけど --河童工房(会話) 2019年1月27日 (日) 10:03 (UTC)
いま、遠賀川を媒体とした石炭輸送の件に関しては、産業遺産として、世界遺産に登録中である。その一番の功績者を何故削除するのか説明されたい/del>をして頂きたく御願い申し上げます。
ここは2チャンネルではないと思って、産業遺産研究者として書き込もうとしてるが、何故、削除するのか説明をしていただきたい。その説明がなされないと、これ以上書き込みはしないが、この辞典は、その程度の低次元のミッションしかないのですか?--以上の署名のないコメントは、でくのぼう(会話・投稿記録)さんが 2008年10月25日 (土) 16:29 (UTC) に投稿したものです(森藍亭による付記)。
何故、突然、消去して、小生の質問に返答しないのか弁明されたい。を御願い申し上げます。小生には、あまりにも突然で、心的外傷で、パニックになり、用意した文書が記載できない状況になりました。おそらく当方の逸脱行為だと思いますが、十分なるご説明を賜りたく御願い申し上げます。 もし、弁明しなければ、相応の学術上の措置をとりますよ。この辞典そのものが信頼性のないものとして社会的評価を受けますが、よろしいのですか。可及的すみやかに返答してください。--以上の署名のないコメントは、でくのぼう(会話・投稿記録)さんが 2008年10月25日 (土) 16:34 (UTC) に投稿したものです(森藍亭による付記)。
それでは、問うが、どこまで書けば、削除しないのか、その範囲を客観的、普遍的に証明されたい。また、妨害者が誰であるのか明らかにされたい。(激怒)--以上の署名のないコメントは、でくのぼう(会話・投稿記録)さんが 2008年10月25日 (土) 16:38 (UTC) に投稿したものです(森藍亭による付記)。
小生が聞いているのは、何故、2チャンネル的な言葉で、記述妨害するのかという質問です。この辞典は、そのような人物が管理しているのですか、答えてください。--以上の署名のないコメントは、でくのぼう(会話・投稿記録)さんが 2008年10月25日 (土) 16:43 (UTC) に投稿したものです(森藍亭による付記)。
はやくこたえなさい。01:45--以上の署名のないコメントは、でくのぼう(会話・投稿記録)さんが 2008年10月25日 (土) 16:45 (UTC) に投稿したものです(森藍亭による付記)。
答えないのですか?(01:47)--以上の署名のないコメントは、でくのぼう(会話・投稿記録)さんが 2008年10月25日 (土) 16:47 (UTC) に投稿したものです(森藍亭による付記)。
あなたは、何故、小生を攻撃して記述をぼうがいするのですかでくのぼう 2008年10月25日 (土) 17:17
(UTC)
- どっちもどっちです。今後は苦情を書く労力を記事の改善に費やすようにして下さい。--N yotarou 2008年10月25日 (土) 17:28 (UTC)
- ご迷惑をおかけしました。小生の問いが紳士的ではなくこの百科事典の「ルール」から逸脱しておりました事を真実として認めます。誠に、お恥ずかしい限りです。伏してお詫びを申し上げます。せっかく、時間を費やして書いた「素稿」が記述できず、心臓発作が起きましたので、常軌を逸した逸脱行為を為したことを伏してお詫びを申し上げます。(文責;利用者「でくのぼう」 2009年1月23日 (金) 14:29 (UTC))
- 回答については当該人物の会話ページで行いました。--森藍亭 2008年10月25日 (土) 18:28 (UTC)
以上については、この百科事典の「合意形成」された「ルール」から逸脱する行為であったことを認め、悔い改めます。これに対しての自己批判書については、小生の「利用者ノート欄」に「自己批判書」として添付、貼り付けております。ネット上で「情報公開」致しておりますので、是非とも、山口・九州地域の方々はごらん頂き、小生の努力をご理解頂きたく御願い申し上げます。なお、そのため、「無期限のブロック」を頂いて居りました。いまのところ心的外傷で記述が不可能になっております。遠賀平野、北九州の地元の皆様方には、心からお詫びを申し上げます。特に「吉田家」の皆様方にはご迷惑をおかけしております。是非とも、現代社会にあった再評価をいたしたく努力しておりますので、本百科事典の管理人様方のお考え次第で地元の評価としてアップロードさせて頂きたく上申中で御座います。その間、現在の「素稿」を再度手直ししつつ、再評価させて頂く時を「自然の摂理」に委ねたいと思います。一つご容赦を頂きたく御願い申し上げます。(文責;利用者「でくのぼう」 2009年1月23日 (金) 14:29 (UTC))
- 現在、遠賀川一帯の石炭文化、とくに産業遺産については、産業考古学的に再評価が進んでいる。とくにアジアの後進国であった日本が、明治以来、急速に西欧近代文明に追いついたのは、八幡製鉄所の産業技術的な功績もあるが、筑豊炭田から遠賀川、堀川を経由して、石炭を運搬した石炭産業遺産によるものが大であるとの再評価を始めています。これは世界遺産として、現在、申し出を行っています。当然、薩摩から、長州までの一体の産業遺産が取り上げられているようです。産業考古学、民俗学などの点からの視点からとらえることも、現実の社会では必要になってきたと痛感するところですがいかがでしょうか?・・・お伺いを申し上げます。
- 当然、産業技術遺産が中心となりますが、「港湾労働者」を統括した、吉田磯吉も再評価されるべきだという意見も、地元まちづくり協議会では意見が出ております。「任侠」「ヤクザ」という言葉は、この遠賀川では、使用されませんし、「川筋モン」という言葉も一切、遠賀川流域河川の人間は使用しておりません。地元では民俗学的にも使用されません。差別的な言辞とも誤解されかねず、ネガティブな表現と誤解されないように再評価させて頂きたい。この百科事典の信憑性についても地元から疑念が生じないように、本百科事典の社会的評価の保全をも図りたいと思います。
- 息子であった若松キリスト教会の牧師、旧若松市長、北九州市の初代市長であった故吉田敬太郎牧師の資料は、地元の折尾愛真短期大学の2階に生前に寄贈され、「吉田家記念図書館」として利用されており、沢山の資料が現存しており、私は、それらの諸文献を参考文献として再評価したいと思いますがご了解頂きただければ幸甚で御座います。
以上、再評価を記事として作成したく御願い申し上げます。北九州、遠賀平野の地元住民の気持ちを配意して頂きたく御願い申し上げます。
(文責;利用者「でくのぼう」 2009年1月23日 (金) 15:05 (UTC))
補足について
[編集]※1※・・・実家は、現在の芦屋ボートからの三叉路から、芦屋町に入ったあたりに住んでいたという。貧乏で、母は、毎日、海に貝を掘って、それを露天商で売って、生活をしていたそうだ。磯吉は貧しい故に、福岡へ丁稚奉公に出るが、母親恋しさのために実家に戻ったという弱い面もあった。生活の糧を売るために「かわひらた」に乗って、石炭運搬をなして生活することとなった。当時は、一日中「かわひらた」で生活することが多く、船の中で寝起きしていたそうだ。特に、冬場は寒く手頃なシートをかぶって寝たが寒くてしょうがなかったそうだ。(出所;吉田磯吉翁伝「再編版」) --M3kz36r 2008年11月28日 (金) 19:01 (UTC)
※2※・・・吉田磯吉邸は、若松の船着き場の近くにあった。転売して一族が芦屋町へ転居するころは、約600坪程度であったが、最盛時は、もっと広く、1000坪以上はあったのではないかと言われている。現在の、五平太商店街の入り口にあり、跡地は、「スーパー」になっていた。「スーパー」がなくなって以来は、駐車場になっているが、道路際には、「旧吉田磯吉邸跡」の石碑が建っている。(出所;同上) --M3kz36r 2008年11月29日 (土) 04:15 (UTC)
蛇足ながら 初代の北九州市長 は 吉田磯吉 の養子 吉田敬太朗
吉田 敬太郎(よしだ けいたろう) 1899年5月~~1988年7月28日 (明治32年~昭和63年) 北九州市若松区出身 政治家 侠客から政治家に転じた吉田磯吉の養子。中略 昭和11年九州石油を設立。福岡県議を経て、昭和17年衆議院議員。 昭和26年若松市長に当選、若戸大橋建設に尽力する。北九州市五市合併時は市長職務執行者=実質的な初代市長 第1回の市長選挙後 同じ苗字の法晴に敗れた後政界を引退。 ひろば北九州」2002年1月号に掲載
吉田法晴 ではない。選挙されたというなら法晴だが実質的な初代は吉田敬太郎 若松市長が暫定的に 北九州市長を務めた。 https://ja-two.iwiki.icu/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%B3%95%E6%99%B4 なのだが・・・--河童工房(会話) 2018年12月23日 (日) 04:51 (UTC)