ノート:合気/過去ログ1
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朝青龍
「合気が使えた、指導していた人でも、それをそのまま実戦に使えた例は、公式試合などには認められない。」という主張は偏りがあるので削除しました。例えば近いところでは2010年1月13日に、大相撲という公式試合の場で朝青龍が琴欧洲に対し用いた「腕捻り」を合気だと言っている人もいます。尤も、あれはただの関節技であり合気とは異なるという意見もあります。何を合気と呼ぶかは意見が分かれますが「公式試合で使われたことがない」と断言はできないでしょう。--Murayamashi 2010年4月9日 (金) 23:36 (UTC)
とはいえ、朝青龍が合気の指導者、ではないでしょう。ここでの議論は木村達雄先生は別として、合気の指導者(合気指導で月謝を取っている方)の実戦性を話している訳で、ウィキペディアは公共性・正確性を示さなければいけないでしょう。大相撲の技が、合気の技というのなら、そのことの対して大相撲の方にも意見を聞いてみる必要が有るのではないでしょうか?--133.31.213.145 2010年5月18日 (火) 06:59 (UTC)
岡本氏がご高齢のため、はずしたというのは、私には「岡本氏は合気技法は使えるが、ご高齢のため実戦論争ではお気の毒」と解釈できます。岡本氏のお体を考慮したご親切なご対応と存じますが、岡本氏も月謝までとって合気の技のご継承とご普及に尊いお命を尽くしているものと理解しています。私は岡本氏を、日本武術史上残る達人・名人とみなすならば、ここは避けるほうが岡本氏に対して、信用が薄いととらえられても仕方がないのでは?この観点から岡本氏の名誉のため、はずすべきではない、と信じております。--133.31.213.145 2010年5月19日 (水) 07:35 (UTC)
人選論
朝青龍が合気の指導者ではないという意見には同意します。
木村達雄「先生」は別として、という意見は、偏りがあるかと思われます。
岡本氏を実戦論に於いて扱わないのは、社会常識だと思います。ご高齢ですからね。岡本氏が日本武術史に残る名人、達人であるとする根拠も、不明です。
もちろん木村氏、高橋氏も六十代なので、ムリがあるとも言えますが。
高齢すぎずに著名な合気指導者、これがこの項に記載して良い、条件だと思います。となれば木村氏、高橋氏、あえて加えれば有満氏あたりになるのが、適切でしょう。--顔の無い人 2010年5月19日 (水) 08:54 (UTC)
- 岡本正剛氏が高齢であるから名前を外すというご意見には首を傾げます。本文にもあるように「『体格の良い男が小柄な老人に触れた瞬間投げ飛ばされる』…などの現象が代表的なイメージになっている」というのが「合気」の一般的な解釈です。塩田剛三は「翁先生(植芝盛平)は死の寸前が一番強かった」と著書やインタビューで述べております(無論真偽はともかくですが)。「年齢・体格・性別に関係なく発揮できる」とも言われ、そういう「社会常識」を超えた現象として認識されているというのが合気の実情です。「高齢であるから実戦で合気は使えない」という判断は、合気をめぐる言説として、合意を形成しているとは言いがたいのではないでしょうか。--Musounoken 2010年5月19日 (水) 18:06 (UTC)
イメージと常識の、バランスをとった記述が、百科事典には求められるのではないでしょうか。事実、市販の百科事典には、荒唐無稽な内容は書かれないものです。
老人とは言いますが、岡本氏は既に八十代なかばで、お歳を召されすぎています。老人を実戦論に巻き込むのは、ギリギリ六十代が許容範囲かと思われます。年齢、体格、性別に関係なく発揮出来るのは、合気「指導」であって、「実戦で」と定義されているわけでは、ないんじゃありませんか・・?
編集している項目は実戦性なのですから、そこをゴチャ混ぜにしてはいけないと思います。
それと木村氏のみを外したがる理由を、明記して下さい。--顔の無い人 2010年5月20日 (木) 08:09 (UTC)
- 木村氏“のみ”を外すべきだとは私は考えていませんが、「老人を実戦論に巻き込むのは、ギリギリ六十代が許容範囲かと思われます」というご意見は納得しかねます。八十代で駄目なら六十代でも駄目でしょう。八十代の岡本氏を「実戦論に巻き込」んではいけないのであれば、六十代の木村氏はどうして巻き込んで良いのか分かりません。「社会の常識」では60歳でも十分「老人」でしょう。年齢を理由に岡本氏を外すなら木村氏も外すべきなのではありませんか?また、「合気」の発揮に年齢は無関係と言われる時に「指導」と「実戦」を分けるような「定義」というようなものは、私は聞いたことがありません。--Musounoken 2010年5月20日 (木) 08:32 (UTC)
「木村氏“のみ”を外すべきだとは私は考えていない」との事で、では何方の名前を残すべきでしょうかね・・
具体名は記さないというのを落とし所にしてはいかがでしょう? ご意見をお願いします。
「六十代の木村氏はどうして巻き込んで良いのか」は、「ギリギリ六十代が許容範囲」と説明しています。
「60歳でも十分老人でしょう」との旨も、既に「老人を実戦論に巻き込むのは、ギリギリ六十代が」という表現で示しています。編集会議なので、きちんとお読み下さい。
「八十代でダメなら六十代でもダメ」という論理が、よくわかりません。八十代と六十代は同じようなものと仰りたいのなら、それはおかしいと思います。特に男性に於いて八十代は、平均寿命を過ぎていますので、六十代とは全く違う、深刻なお歳だからです。ただ、どうせによ具体名を記すのは、私も気が進みません。
「合気の発揮に年齢は無関係と言われる時に指導と実戦を分ける定義というようなものは」なされてきませんでした。言い換えれば曖昧にされてきました。そこを曖昧にせず、きちんと分けた記載を試みているのが、この項の編集になります。「分けられていなかったのだからどこまでも拡大解釈して良い」という編集姿勢は、百科事典にはそぐわないと思います。--顔の無い人 2010年5月20日 (木) 08:51 (UTC)
- 「何方の名前を残すべき」かについて、私は年齢で区切りを付ける必然性を感じませんので、木村氏も岡本氏も残せば良いと思いますし、「具体名を記さない」でも別に構いません。もっとも今ここで私と「顔の無い人」さんが決めるようなことでもないでしょう。それと「実戦論に巻き込」んで良いのが「ギリギリ六十代が許容範囲」というのは、あくまで「顔の無い人」さん個人の価値基準に過ぎません。「実戦論に巻き込んで良いのは六十代までで、それ以上は駄目」などという「社会常識」は存在していないでしょう。八十代が「深刻なお歳」なら六十代でも「実戦には耐えられぬような深刻なお歳」だといえるのではありませんか?更に「合気の発揮に『指導』と『実戦』の違いが曖昧にされてきたからこの項ではっきりさせるべき」という内容のご意見ですが、それは「顔の無い人」さんお一人のみの問題意識であり、社会に共有されているわけではありません。それをこの場で無理に行おうとするなら「独自研究は載せない」というウィキペディアの公式方針に反します。それこそ百科事典の編集にはそぐわない態度ではないでしょうか。--Musounoken 2010年5月20日 (木) 09:32 (UTC)
私は「残さない」という考えなので、では具体名は削る事と致します。残したい方がいればその旨述べた上で、書き直して頂いてかまいません。
「個人の価値基準に過ぎ――」なくないと思います。あくまで残す場合に於いてはですが。六十代と八十代がまるで違うものなのは、化学、生物学的なものだからです。高齢になればなるほど意見としてどんどん極端になっていくのは、明白なのではないでしょうか。
それと六十代を「巻き込んで良い」とは考えていません。その旨は最初にも述べた通りです。残す場合に於いては極端すぎないお歳の方を、という事です。基本的に残さないほうが良いと考えますが・・
「この項ではっきりさせるべき――」などと、私が書きましたか? 編集会議なので、きちんとお読み下さい。
「分けて語られているのがこの(合気という)項目なのですから」というのが、私の述べた旨になります。私が分けて編集してきたわけではありません。分けて(何方かが)語られているので、それに沿った編集をするか、それ自体に反対であればその旨きちんと示せば良いのではないでしょうか。--顔の無い人 2010年5月20日 (木) 09:51 (UTC)
- 「顔の無い人」さんのご意見は、合気の「実戦」性に年齢で区切りをつけるべきだとか、合気の「指導」可能年齢と「実戦」可能年齢の差異を明確にすべしという風にも読めましたが、「顔の無い人」さんがそのような偏った主張をなさりたいのではない、と仰るなら、これ以上は異論は述べません。この項に客観的で常識的な判断に基づく編集がなされることを希望いたします。--Musounoken 2010年5月20日 (木) 10:53 (UTC)
まるで違いますね。以後は思い込みで話されず、きちんと会議参加者、お一人お一人の書いている事に、耳を傾けるようなさって下さい。「履歴」にも目を通されれば、どなたがどの箇所を編集したのかも、間違えないと思います。--顔の無い人 2010年5月21日 (金) 11:07 (UTC)
- そうですか。それでは今後は、「60代はギリギリ許容範囲だが80代は高齢であるから実戦論では扱わない」などという奇妙な「社会常識」はあまり振りかざさないようにお願いいたしますね。--Musounoken 2010年5月21日 (金) 12:46 (UTC)
まだ思い込まれています。実戦論で扱いたがる編集者が出た、ならば残すなら高齢すぎないほうが常識を逸脱しない、というのが、私の書いた内容です。Muso氏の論理は、言い換えれば「具体名を列挙してしまうのを認める以上、どんな高齢でもかまわず並べてしまおう」になってしまうので、それに偏りを感じないのはいかがなものかと思います。
具体名を挙げたいとする編集者の意見も汲む、しかしその中にあっても(たとえば今回は高齢を基準にしましたが)人選を考える、これが編集に求められる(バランスのとれた)姿勢なのではないでしょうか。
・・これでもお解かりにならないとしたら、Muso氏はひょっとしたら、私が「具体名を列挙した編集者」だと、勘違いされているかも知れません。Muso氏の論理には、私と他の編集者とを合体させて扱っているフシも見られます。私が列挙した、その上で人選も勝手に年齢基準を設けた、そういう論理になっていなくもないですね。
繰り返しますが、「私は具体名の列挙には反対で」「しかし挙げたいとする編集者の意見も汲み」「高齢すぎる方を挙げるのはさすがに反対ですが」「知られた合気指導者が皆お歳なので仕方なく」「ギリギリ六十代なら賛成します」というのが、これまで示した私の立場と、意見になります。
本当は有満氏の四十代も、競技格闘技の常識を見ても、不適切かと思われます。しかし知られた合気指導者の方たちが皆そういう、またはそれ以上のお歳をされている以上、また合気のイメージが「高齢でも」になっている事も汲み、(ある意味)仕方なく認める次第です。岡本氏については、既に立てなくなられている事等を考え併せても、「はたしてこの人が実戦で合気を使えるのか」などという話に巻き込むのは、正直失礼ですし、社会常識に欠くと思います。ファンタジー性の高い分野とは言え、読者に「なんだ、合気に関わる連中は社会常識もないのか」と思われかねないので、基準を無法にしてはいけないと思うのですが、いかがでしょう。
解かりにくい箇所があれば、遠慮なくご質問下さい。--顔の無い人 2010年5月21日 (金) 16:47 (UTC)
- どうもかみ合いませんね。かみ合わない原因は、「顔の無い人」さんが適切ではない場面で見当違いの「社会常識」を振りかざしているからだと私は思っています。私自身はこの手の「合気が実戦で使えるのかどうか」といった議論の突きつけ方は余り共感しませんが、この論に幾ばくかの意義があるとすれば、それは他ならぬ「合気」の「ファンタジー性」をこそ鋭く批判している点でしょう。つまり足腰も立たぬような老人が実戦でなお最強だと信じる幻想がある、そう言うなら実際に「実戦」で見せてみたらどうだ?そんなことはできないだろう?「常識」で考えるなら。…と、そういう「常識」的価値観が含意されているわけです。それに対して「老人に実戦をさせよとは、非常識だ!」と激怒するのは感覚がズレていますよね。要するに話の筋が全く見えていないわけです。「老人に実戦はムリだろ」という批判は常識があるからできているわけで、それに対して「老人を実戦論に巻き込むな!常識で考えろ!」と仰る「顔の無い」さんは全くズレていると言わざるを得ません。見当違いの倫理や常識は一旦停止して、冷静に物事を見つめることをお勧めいたします。--Musounoken 2010年5月21日 (金) 17:52 (UTC)
「老人」と「足腰の立たないような老人」とでは、まるで違いますよ。合気のイメージとしても、後者は極端であり、一般的ではないと思います。
この項の実戦論も、「実戦で見せてみたらどうだ? そんなことは出来ないだろう?」などといった批判的な、挑発的なものではないと思いますよ? 私も編集に書きましたよう、「意見の分かれるところ」というのが主旨であり、批判、挑発などといった、極端なものではないと思います。
「老人に実戦をさせよとは非常識だ!」などとは言っていませんし、「激怒」もしていません。
Muso氏は物事をオーバーに、漫画チックに、拡大解釈する向きがお有りなので、ご注意下さい。
「老人に実戦はムリだろという批判」など、誰もこの項に書いていないと思います。あくまで「合気の実戦性」が、この項の主旨であり、「合気は実戦じゃムリだろ」や「老人が合気を身につければ、実戦ではどうか」でもありません。要するに、老人はどこにも出てきていないのです。これは項目をきちんとお読み頂ければ、明らかです。合気批判でもありませんので、偏った思い込みはなさらないよう、お願い申し上げます。--顔の無い人 2010年5月21日 (金) 18:34 (UTC)
- 分かりやすくするためになしたデフォルメですが、それが御気に召さないと仰るなら構いません。言い直しましょう。つまり「老人」と明記されているわけではないが、本文では岡本正剛・木村達雄といった高齢者に「実戦で合気が使えるか?」という「疑義」が示されていたわけです。当然これは「合気」の「ファンタジー性」に対する常識的観点からの疑義です。それにたいして「老人を実戦論に巻き込むのは非常識」という倫理的規制は見当違いですよということです。なぜならそこで浮き彫りになっているのは正に、「『合気』の世界では当然のように高齢な武術家が実戦に通用するとされている」という非・常識的な幻想性そのものだからです。「老人を実戦論に巻き込むのは非常識」という倫理観自体がこの場では適切ではありません。不適切なものをムリに当てはめようとするから「八十代はダメだが六十代はギリギリ実戦論に巻き込んでオッケー」などというそれこそ非常識な倫理基準を設けなければならなくなってしまうのです。これらの行為は全く不要な交通整理であると考えます。--Musounoken 2010年5月21日 (金) 22:09 (UTC)
木村達雄氏は高齢者ではありませんよ。--無事本 2010年5月22日 (土) 06:02 (UTC)
- >無事本さん、コメントありがとうございます。たしかに、言葉の厳密な定義ではそうでしょう。木村氏を「高齢者」と言ったのは「競技者(ここでの「実戦」には競技試合も含まれているので)としては高齢」という程度の比喩的な表現です。その点はお汲み取りください。--Musounoken 2010年5月22日 (土) 09:57 (UTC)
疑義が示されていたのは、仰る通りです。なんせ示した(編集した)のは私ですから。(笑)
・・ただ、ここは「合気」の項であり、「老齢の実戦名人」という項ではないわけです。「合気」の項に「老齢の実戦名人」の成分も含まれるのは確かですが、それそのものではありません。「合気」は「合気」です。
「老齢の実戦名人」という項の中に「実在性」または「ここで言う実戦とは?」といった段落があった場合、Muso氏の仰る事もわからなくはなく、高齢者を扱ってもかまわない、むしろ高齢者をこそ扱うべきになります。
しかしここは「合気」なわけです。その成分(老齢の実戦名人という成分)も含まれますが、あくまで含まれるに留まり、それが主役ではない、わかりやすくはイコールではないわけです。
イコールではないからこそ、老齢成分はあくまで成分扱いであり、それを主役にしてはいけないと思います。
各種成分にも割り振りながら、項目自体を部分拡大しないのが、まともな編集姿勢でしょう。ここでは老齢成分も汲み、ある程度のお歳の方をも載せながら、しかし老齢性が主役ではない以上、「幾らお歳を召されていてもかまわない」という人選は、場違い(項違い)になります。割り振り、中立、健全さ、それら様々な成分をバランス良く汲んだ記事作りをと、述べてまいりました。
お解かり頂けたでしょうか。
・・岡本氏個人に目を向けると、高齢のため膝を悪くされ、立って動く事が出来なくなられています。相撲や柔道などでは初めから座っていたら負け、あるいは反則負けになり、つまり試合に出る前から試合に通じないのが判っているわけです。具体的にはそういう意味でも、岡本氏を挙げるのは適切ではありません。
無事本さん、そうですね。木村氏は高齢者ではありません。--顔の無い人 2010年5月22日 (土) 08:28 (UTC)
- >疑義が示されていたのは、仰る通りです。なんせ示した(編集した)のは私ですから。(笑)
ではそこに岡本正剛氏の名前を書き込んだのもあなたですか?いずれにせよ、岡本氏の実名を「老齢だから非常識」という不適切な理由で削ったのなら同じことだと私は申し上げています。 また前提として間違っていると感じるのは、「顔の無い人」さんが、ことさら対象者の現在の年齢・健康状態のみを想定として扱っている点です。この「誰それは実戦に通用するのか」という話題では、武田惣角・植芝盛平・塩田剛三・佐川幸義といった故人もしばしば俎上に上ります。そこでは当然「膝を悪くされ、立って動く事が出来なくなられて」いるような健康を害している時点の姿で想定されるわけがありません。対象者が人々の最も強い印象に残っている最良の状態でイメージされるのが当たり前です。わざわざ最悪の状態で「佐川氏は晩年足腰が弱っていたから、たとえば今ヒョードルと対戦したら負けるだろう」などとは普通誰も言いません。現存者の岡本氏についても同様のことが言えます。岡本氏の実戦性が云々される場合想定されるのは、当然現在の衰えた状態ではなく、人々の記憶に最も印象に残っている時代の姿です。
その意味でも「顔の無い人」さんの唱える問題意識はまったく見当外れと言わざるを得ません。--Musounoken 2010年5月22日 (土) 10:23 (UTC)
「岡本正剛氏の名前を書き込んだのもあなたですか?」
既に5月20日に、私ではないと書きました。編集会議なのできちんと読まれるか、あるいは記憶を確かにお持ち下さい。
「岡本氏の実名を「老齢だから非常識」という不適切な理由で削った」
のではありません。本当に読んでますか? 木村氏の名を削り、率先して岡本氏の名のみ残そうとする異様な編集に、疑義を述べているわけですが。なのでMuso氏の表現を借りれば、「岡本氏の実名を「木村氏よりもより老齢な岡本氏のみをあえて挙げようとするのはおかしい」という理由で削った」になります。
「対象者が人々の最も強い印象に残っている最良の状態でイメージされるのが当たり前」
記事に「往年の」「全盛期の」というような説明書きがあれば別ですが、単に名前のみ挙げられて、しかも老齢成分を持った現象が扱われる場合、「当たり前」とは行かないでしょう。(※こうよく考えず、断定、デフォルメ、拡大解釈、それら編集にそぐわない迂闊なご発言が多いので、ご注意頂きたいと思います)
故人と現存の人物は、決定的に違います。なぜなら現存の人物は、百科事典を見た方が試しに会いに行く事も可能であり、また批判がご本人の耳に届いたりもします。その他様々、生きている以上、総て現在の対象者へふりかかります。そしてそれは、高齢でない方々についても同じです。だからこそ私は、具体名の列挙には反対なのです。
しかし載せたいとする方がひいてくれなければ、それならばせめて高齢すぎないほうが、となるわけです。ごくごく自然な、あたりまえの判断だと思いますよ。
まとめますと、「合気」と「老齢の実戦名人」はイコールではなく、「故人」と「現存の人」もイコールではありません。それぞれ互いに成分は混入しますが、全体と成分は違うので、成分を拡大解釈されないよう、ご注意下さい。
解かりにくい、または納得出来ない箇所があれば、重ねてご質問頂ければと思います。--顔の無い人 2010年5月22日 (土) 11:14 (UTC)
- >なのでMuso氏の表現を借りれば、「岡本氏の実名を「木村氏よりもより老齢な岡本氏のみをあえて挙げようとするのはおかしい」という理由で削った」になります。
いずれにせよ「老齢」を理由に削ったことに変わりはないわけですね。年齢を理由に記載の基準を設けることに必然性を感じないと私は申し上げております。
>故人と現存の人物は、決定的に違います。なぜなら現存の人物は、百科事典を見た方が試しに会いに行く事も可能であり、また批判がご本人の耳に届いたりもします。その他様々、生きている以上、総て現在の対象者へふりかかります。そしてそれは、高齢でない方々についても同じです。だからこそ私は、具体名の列挙には反対なのです。
高名な武術家・武道家であるなら、何らかの論評の対象になるのはごく当然のことでしょう。武術武道の看板を掲げ人々の耳目を集めそれを生業にしているのです。批判を耳にすることもあれば道場破りも来るでしょう。それは当然のリスクではありませんか。そのようなお節介な心配を「顔の無い人」さんがどうしてなさる必要があるのか疑問です。またそれがウィキペディアにおいて記述を控える理由にすべきであるとも思いません。奇妙な年齢基準を当てはめたりせず、岡本氏も木村氏も名前を記載すれば良いと思います。--Musounoken 2010年5月22日 (土) 14:22 (UTC)
「年齢を理由に記載の基準を設けることに必然性を感じない」理由は? Muso氏のこれまでの主張は、ちゃんとした説明がなく、会議になっていないと思うのですが。理由らしき理由は以下の2点で宜しいでしょうか。
(1)合気は老齢でも使えるというイメージがあるのだから、どんな高齢者をも実戦論に載せて良い
(2)誰かの名前が挙がった時、多く普通の人は(挙がった名前の)高齢時はイメージせず、若い全盛時をイメージするもの。だからどんな高齢者も(今の姿はイメージされないのだから)実戦論に載せて良い。
こう並べてみれば判る通り、(1)と(2)とでは、矛盾があります。(1)では高齢でも可能とイメージされると仰り、(2)では高齢時はイメージされないと仰る。どちらなのでしょう? 成分の互換性も、この場合成立しにくいと思います。いずれにせよ説明になっていません。
「お節介な心配」ではありません。社会常識です。たとえば著名人物の悪口を公の場に書いたら、名誉毀損罪になりますね。「悪口を書いたからと言って何なんだ? 著名人物である限りリスクは背負うだろう? 悪口を書いたからと言って書かれた人物に何が起きるのかを、お節介にも心配してどうすんだ?」などと言うのは、成り立ちません。ここでは悪口を例にとりましたが、荒唐無稽な論評なども、同様です。だからこそたとえば市販の百科事典などの、公な、正式な文書には、特定個人に関して荒唐無稽な論評が載らないのです。
Muso氏は市販の百科事典を手にとられ、パラパラ眺めてご覧になってはいかがでしょう。書き方の社会常識というのが、お解かり頂けると思います。
百科事典まで行かずとも、武術の専門誌などでもかまいません。A氏B氏C氏は実戦に通用するだろうかなどといった文章記事は、まず見当たるものではありません。
「岡本氏も木村氏も名前を記載すれば良いと思います」
そうお考えであればそれについては私に止める権限はありません。またそれ自体に強硬に反対するものでもありません。ぜひMuso氏の文章で、巧く具体名を組み込まれて下さい。皮肉でもプレッシャー掛けでもなく、見事な編集を期待します。--顔の無い人 2010年5月23日 (日) 16:34 (UTC)
- >(2)誰かの名前が挙がった時、多く普通の人は(挙がった名前の)高齢時はイメージせず、若い全盛時をイメージするもの。だからどんな高齢者も(今の姿はイメージされないのだから)実戦論に載せて良い。
ここは少し違います。合気系武術家の場合、「若い」時が全盛期とされているとは限りません。たとえば植芝盛平の場合「脂の乗り切った七十代頃」と菅沼守人師範は仰っています。合気系武術武道周辺では一般社会の高齢者が全盛期であるという見解も成立しているのです。つまり「全盛期」は年齢によって決まるとは誰も断言できません。若くして全盛期の人もいるかも知れないし、老境で全盛期と言われる人もいるわけです。従って
>(1)合気は老齢でも使えるというイメージがあるのだから、どんな高齢者をも実戦論に載せて良い
と矛盾はありません。よって「六十代は記載してギリギリオッケーだが七十代はアウト」などという馬鹿げた年齢制限も意味を失います。これが「年齢を理由に記載の基準を設けることに必然性を感じない」理由であります。
>「お節介な心配」ではありません。社会常識です。たとえば著名人物の悪口を公の場に書いたら、名誉毀損罪になりますね。
「合気」の本文に岡本正剛氏の悪口が書かれていたのなら削除すべきですね。しかしここで書かれていたのはあくまで「実戦で通用するかどうか」の「疑義」でしょう。「悪口」ではありません。
>荒唐無稽な論評なども、同様です。だからこそたとえば市販の百科事典などの、公な、正式な文書には、特定個人に関して荒唐無稽な論評が載らないのです。
>Muso氏は市販の百科事典を手にとられ、パラパラ眺めてご覧になってはいかがでしょう。書き方の社会常識というのが、お解かり頂けると思います。
>百科事典まで行かずとも、武術の専門誌などでもかまいません。A氏B氏C氏は実戦に通用するだろうかなどといった文章記事は、まず見当たるものではありません。
良く分かりませんね。つまりあなたは「岡本正剛が、指導ではない柔道や総合格闘技の試合(または乱取、スパーリング)に身を置かれた時、合気が本当に効くのかという、極めてシンプルな疑義が持ち上がる」という本文の文章が「荒唐無稽な論評」だと仰っているのですか?それはいかなる意味で「荒唐無稽」なのですか?
- 岡本正剛が実戦に通用するわけがないのだから論評するな
- 岡本正剛は実戦で通用するに決まっているのだから論評するな
以上のどれでしょうか? --Musounoken 2010年5月23日 (日) 18:18 (UTC)
Muso氏へ。
まず「悪口ではありません」といったまたも読んでいない発言や、「馬鹿げた年齢制限」などといった常識を欠く言葉遣いは、されませんようご注意下さい。
「若い」と言ったのは、全く体の動かなくなられた時点に較べればという意味です。そしてMuso氏は当初、まさに「全く体の動かなくなられた時点の岡本氏」を、合気のイメージでは「有り」と、仰っていたのではなかったですか?(※「足腰が立たないような老人が――」を参照)
「六十代は記載してギリギリオッケーだが七十代はアウト」
本当に読んでますか? わざとお間違えなら、それは会議にふさわしくない態度ですが・・
私は上記引用箇所のような発言はしていません。 ・・ただ、どうにせよ七十代のほうが、化学、生物学的にも、記載するには常識の欠け度合が増すでしょうけれど。あまり健康を害されすぎていない、七十代の合気指導者がおられれば、記載はギリギリ認められるかも知れません。年齢先にありきではなく個人先にありきなのは、きちんとご理解頂きたいと思います。
「良く分かりません」
書いてある内容そのものです。伺いますが、そのような内容が百科事典、あるいはやや条件を緩和して、武術雑誌に見られるでしょうか? お答え下さい。
「いかなる意味で荒唐無稽なのですか?」
専門外の分野で実力論に使われる事、専門内でさえまず見られない条件(この場合お歳)、この2点によりそう判断致しました。逆に言えばこの2点があるのに記載された例は、まっとうな文書類、たとえば百科事典とか専門雑誌に、あるものでしょうか・・?
「論評するな」
細かい事ですが、「するな」などという表現はやや品、常識を欠くものです。私も使っていませんし、またそのようにデフォルメして会議するのは不適切なので、くれぐれもご注意下さい。--顔の無い人 2010年5月23日 (日) 19:03 (UTC)
- 顔の無い人さん、あなたはずいぶん他人の言葉遣いに厳しい道徳観をお持ちですね。所で少し気になっていたのですが、私のハンドルを「Muso氏」と妙な略し方をするのは何か意味があるのですか?私は「Muso」が苗字ではありませんが。それはあなたの常識では失礼ではないのでしょうね。
>そしてMuso氏は当初、まさに「全く体の動かなくなられた時点の岡本氏」を、合気のイメージでは「有り」と、仰っていたのではなかったですか?(※「足腰が立たないような老人が――」を参照)
「有り」と考える人もいるかも知れませんよ、ということです。極端な例ですが、最初にも挙げたように塩田剛三は著書やインタビューで「植芝先生は亡くなる直前便所に立とうとして止める弟子を投げ飛ばした。開祖は死の直前が一番強かった」と語っており、私の周りにもそれを信じている人がいます。(私は信じていません。)そういう見方もあるということです。岡本氏の現在をすら「有り」と考える人もいるかも知れませんし、そうでない人は岡本氏のもっと若い頃を自然に「全盛期」としてイメージするでしょう。従って今の健康状態がどうであろうと、それを理由に岡本氏の名前を削る理由はありません。
>伺いますが、そのような内容が百科事典、あるいはやや条件を緩和して、武術雑誌に見られるでしょうか? お答え下さい。
実例は挙げられませんが、過去に無かったとも言えないでしょう。それとウィキペディアは紙製の百科事典ではありません。従来の刊行物が扱わなかったような新事象やマイナーな概念も扱います。従来の刊行物に無かったから書いてはいけない、というのは根拠にはなりませんよ。
>専門外の分野で実力論に使われる事、専門内でさえまず見られない条件(この場合お歳)、この2点によりそう判断致しました。逆に言えばこの2点があるのに記載された例は、まっとうな文書類、たとえば百科事典とか専門雑誌に、あるものでしょうか・・?
お答えは同上。そしてこれがあなたが「岡本正剛が、総合格闘技の試合に身を置かれた時、合気が本当に効くのかという、極めてシンプルな疑義が持ち上がる」という本文の文章が「荒唐無稽な論評」だとする理由なら、合理性を認められません。(「専門外の分野で実力論に使われる事」という部分も意味が良く分かりません。)もっと合理的で明確な理由を示して頂けますか。--Musounoken 2010年5月23日 (日) 22:15 (UTC)
Musounoken氏へ。
「あなたはずいぶん他人の言葉遣いに厳しい」
私が厳しいのではなく、社会常識だと思います。何かきちんとした会議の場で、「馬鹿げた」などという言葉遣いは、普通聞かれるものではありません。省略は寧ろ今の世の中では普通であり、フルネームで呼ぶほうが少ないと思います。Musounoken氏のお名前が長く、また頻繁に呼びかけが入るので、打ち間違えのないよう、そうしていました。私の事も「顔氏」「顔さん」と呼んで頂いてかまわないですよ。 ・・しかしご不快であれば、逐一フルネームでお呼びするようにします。
「有りと考える人もいるかも知れませんよ、ということです」
いるとは思います。しかし一般的ではないでしょう。それは既に5月21日に、「合気のイメージとしても、後者は極端であり、一般的ではないと思います」と書いています。
植芝氏に関しては、私の周囲にそれを真に受けている方は、いないです。また著名な格闘技の選手の何人かが、自身のご師匠あるいは父親を、「自分が今もまるで歯が立たない」と話しています(話していました)。四、五十代、中には八十代の例もあります。しかしそれを真に受ける読者の数は、一般的とは言いがたいでしょう。「師匠や父親の扱いとはそういうものなのだ」と、多く一般の人は理解しているからです。公式データ的な場に「Aという格闘家よりもその(お歳を召された)師匠のほうが強い」と記される事はありませんし、そしてWikipediaはどちらかと言えば、その「公式データ的な」場なのではないでしょうか。
一般的でない事が記されてしまったら、ほとんどの世間、読者は、抵抗を覚えると思います。「あるかも知れない」、または若い頃を的確に思い浮かべてくれる、それらの反応はごくごく稀少にとどまるもので、一般的(に出る反応)と考えるのはムリがあるでしょう。
「従来の刊行物に無かった」
のは、一般的でなくムリがあったからに他ならないと思います。「新事象やマイナーな概念」が必ず一般性に反するという事はないのでは? 「一般的でなくムリがある」と「新事象やマイナーな概念」は、イコールではありません。
「専門外の分野で実力論に使われる」とは、たとえば「数覚」というのをご存知でしょうか? 数学センスの事であり、それが無いと数学で大成は出来ないと言われています。数学者に数覚(があるかないか)は、専門内と言えるでしょう。しかし偉大な物理学者や発明家を、いくら著名で、天才だからと言って、数覚(があるかないか)論に使うのは、専門外と言えるのです。
事典に「数覚」という項があったとして、「著名な発明家や物理学者にそれが備わっていたかは、意見の分かれるところと言えよう」などと記述される事は、まずないわけです。ましてや「エジソンやアインシュタインに数覚があったかは――(略)――」と書かれる事など、絶対に。
専門外だからです。専門外をムリに俎上に挙げるのは、分野のいかんに関わらず、「荒唐無稽」なのではないでしょうか。
合気の記事の編集も、このよう他の分野を見渡しながらされてはいかがでしょう。合気指導者は実戦は専門外になられます。ひょっとしたら(実戦に)通じる実力、あるいは素質はあるかも知れませんけれど、格闘家や柔道選手、それら試合の専門家に較べれば、専門外なのは事実です。解かりにくい箇所あれば、重ねて遠慮なくご質問下さい。--顔の無い人 2010年5月24日 (月) 09:47 (UTC)
- >顔の無い人さん、
迂闊にもある重要な一点について確認するのを忘れておりました。 あなたはここで度々岡本正剛氏の健康状態について触れておられますが、それは何をソースとする情報ですか? 個人の健康状態というのは普通プライバシーとして扱われます。社会的・商売上の信用や名誉に関わるからです。 この情報は正確かつ岡本正剛氏側からきちんと了解の上公表されている情報なのですか? もしそうでないなら重大な問題に発展する可能性も考えられます。 私もここでの会話に関わってきましたので、他のことはさておき、この点については第一に明らかにしてください。--Musounoken 2010年5月24日 (月) 11:45 (UTC)
秘伝誌。--顔の無い人 2010年5月24日 (月) 14:04 (UTC)
- 引用は可能ですか?またどの号か分かりますか?--Musounoken 2010年5月24日 (月) 16:15 (UTC)
購入しなかったので、引用、号の特定、それぞれ難しいです。--顔の無い人 2010年5月24日 (月) 16:20 (UTC)
- 大切なことですので大体いつ頃かでも教えて頂けませんか?バックナンバーを検索します。またどのような扱いの記事・文章だったかもお願いいたします。「岡本氏については、既に立てなくなられている事」「岡本氏個人に目を向けると、高齢のため膝を悪くされ、立って動く事が出来なくなられています。」というあなたの記述は本当に正確なものですか?--Musounoken 2010年5月24日 (月) 16:43 (UTC)
長く見積もってもここ2、3年の間のだと思います。記事は合気の特集か何かで、岡本氏の実演写真と注意書き「岡本氏は膝を悪くされ現在は立っての指導はされていない」がありました。記述は(無論一言一句ではないものの)正確だと思います。それはここの会話でも、たとえば一度出た話を忘れてしまったりという、記憶の不確かさを見せていない事からも、お解かり頂けるのではないでしょうか。--顔の無い人 2010年5月25日 (火) 08:56 (UTC)
- 「立っての指導はされていない」と
「立てなくなられている事」「立って動く事が出来なくなられています」では、
大きな開きがありますが。岡本正剛氏は「立てなくなられている」と「秘伝」の記事に書かれていたのではなかったのですか?そこは重要なポイントですよ。繰り返しますが「立っての指導はしていない」と「立てない」では意味が全く異なります。--Musounoken 2010年5月25日 (火) 11:17 (UTC)
同じじゃないでしょうか。 武術的には。--無事本 2010年5月25日 (火) 17:20 (UTC)
- >無事本さん
個人の健康情報についての取り扱いは、武術的な話だけで済む問題でしょうか?“常識”で考えるなら、個人の名誉と尊厳にも関わる重要な問題かと思いますが。--Musounoken 2010年5月25日 (火) 19:53 (UTC)
全くその通りで、ここまでのトークも貴殿の方が正しいと存じております。合気の真実を公平性を保ち、かつ非難しないことが、辞典に掲載される最低の常識でしょう。「岡本正剛氏が立てなくなられている」「武術的には同じ」などという記述は、場合によっては法律問題になります。ウィキペディアの公共性をよく認識するべきでしょう。頑張って下さい。--133.31.213.145 2010年5月26日 (水) 08:24 (UTC)
お言葉、深く痛み入ります。ありがとうございます。m(_ _)m
ところで133.31.213.145さんに是非お伺いしたいことがあるのですが、133.31.213.145さんは、顔の無い人氏が言うような、岡本正剛氏が「既に立てなくなられている」という話をご存知ですか?私は顔の無い人氏のこの文章を読む以前には一度も聞いたことがないのですが…。ここで初めて聞きました。以下に顔の無い人氏の文章を引用しますが、
- 岡本氏については、既に立てなくなられている事等を考え併せても、「はたしてこの人が実戦で合気を使えるのか」などという話に巻き込むのは、正直失礼ですし、社会常識に欠くと思います。ファンタジー性の高い分野とは言え、読者に「なんだ、合気に関わる連中は社会常識もないのか」と思われかねないので、
…と、なんだか“合気に関わらない「読者」”(?)までが、岡本正剛氏が「既に立てなくなられている事」を良く承知しているかのような文章です(一体“彼ら”はどこでその情報を入手できたんでしょう?)。顔の無い人氏が想定するような読者がいるとは、私には俄かには信じがたいのですが…。
もしよろしければ133.31.213.145さんのご意見も頂けると幸いです。--Musounoken 2010年5月26日 (水) 13:04 (UTC)
Musounoken氏へ。
「立てなくなられている」と「立っての指導者はされていない」は同じだと思います。お考えの「開き」を、解かりやすくご説明願えるでしょうか。
私からも簡単に説明しておきます。岡本氏の主宰する会の「指導」は、型稽古であり、立っている人へ向かい「受け」(の人物)が手をとりに行き、少し触れた時点で受けが自ら飛びます。「取り」すなわち立っている人は、その場から動きません。取りへかかる体の負担は、ほぼ「立っている」それのみになります。強いて言えば、立っているプラス「僅かな動き」となるでしょうか。岡本氏は現在それがお出来にならない、つまり「立って(僅かにも)動く事が出来ない」わけです。
膝が悪いからごムリをされないだけで、本当は立てる、だから「立てない」というのは間違いだ。あえて言えばそういう論理で(私の情報に)批判は可能ですが、たとえば膝も腰もお悪くて、体中筋肉の萎えた寝たきりのご老人でも、全く立てないという事はありません。普段車椅子を使われていても、よほどの症状じゃない限り、「全く一瞬たりとも立てない、歩けない」という事は、まずないです。しかしそれを以って「立てる」「立って動ける」とは、特に運動場面の話題では、言いがたいでしょう。
またそもそも、たとえば「日常全場面で一切全く立てなくなられている」、たとえば「日常生活では立てるが車椅子を使用しなければならず、運動の場面では基本的には立てない」、そのように表現し分けなければ情報として誤りになる、という事もありません。「立てなくなられている」がその両者(両症状)に多大に含まれるのは、事実なのですから。「この局面では立てる」を添えないといけない事もありますが、今の会議はとりたてて「この局面(つまり日常生活ですね)」を添えなければならない場でもないですし、それ(この局面)を話題にもしていないと思うのですが、いかがでしょう。
133.31.213.145|133.31.213.145氏へ。
「合気の真実を公平性を保ち、かつ非難しないこと」とは、この場合何でしょう? 私は何か「非難」をした憶えがないので、解かりやすくお願いします。
また133氏の編集、木村氏を削り岡本氏を積極的に入れたがるのが問題とされているわけですから、その件きちんとお答え下さい。それでは説明になっていませんので、宜しくお願い致します。
Musounoken氏へ。
「良く承知」は、公刊書に示されたので、そう扱って良い部分はあると思います。辞書で岡本氏の名前を見て、もしも知らない人でも、「誰だこの人?」と聞き込んだら、武術に詳しい人からは「ああ、その人なら今」と返ってくる可能性は、低くないと思います。秘伝誌先月号にも、(以前の説明書きはありませんが)岡本氏の座って指導されているお写真があるほどです。--顔の無い人 2010年5月27日 (木) 00:56 (UTC)
>顔の無い人さん
- 「立てなくなられている」と「立っての指導者はされていない」は同じだと思います。お考えの「開き」を、解かりやすくご説明願えるでしょうか。
「立てない」は立つ能力がない(あるいは妨げられている)、ということ
「立っての指導はしていない」は、「指導」という場面においてのみ「立って」いない、という状態を述べているに過ぎません。全く同じではありませんね。
色々と仰っていますが、「立っての指導はしていない」のだから「立てない」のだ、と断定するのなら、それは憶測による軽率な記述です。ここは「運動場面」の話だけで「日常生活」の話はしていない、というのもあなたの勝手な思い込みです。私が取り上げた塩田剛三による“植芝盛平が死の直前便所に立とうとして止める弟子を投げた”逸話も日常生活を含んでいます。ましてやあなたがその視線を危惧する「なんだ、合気に関わる連中は社会常識もないのか」と思うような外野の一般読者がそんなに都合よく「運動場面」と「日常生活」を峻別して考えてくれるでしょうか?少し甘い期待をし過ぎでは。
顔の無い人さんが個人的にそう思ったというだけで確たる証拠も無く、このような現存個人のプライバシー侵害に繋がるようなことを安易に書くべきではありませんし、たとえ仮に「岡本氏が立てなくなっている」が事実であったとしても、岡本正剛氏ご本人の許可を得て正式に公表された情報で無い限り、ウィキペディア上でそれを書くことは許されるべきではありません。ウィキペディアの公式方針「Wikipedia:存命人物の伝記」をお読みになるべきです。
また顔の無い人さんは岡本氏が「立てなくなられている」ことを示すソースを提示できていません。これは現存人物の記述にあたっては「検証可能性」を満たす、というウィキペディアの公式方針にも反します。そのような情報源も不確かで確認もできぬ状態でいくら「岡本氏は立てなくなられている」と主張しても説得力を持たないと思います。
- 秘伝誌先月号にも、(以前の説明書きはありませんが)岡本氏の座って指導されているお写真があるほどです。
「月刊秘伝」2010年5月号(ASIN: B003ETYNRA)は私も持っています。「合気上げ最終定理」の特集があり、p14には座って指導する岡本氏の写真と共に「膝を悪くされている岡本氏は正座ではなく胡坐で稽古を行っている」の文章がありますが「立てない」とはどこにも書いていませんね。顔の無い人さんは「座って指導されているお写真があるほどです」と仰るけれど、「合気上げ」なのですから座っていても当然であり、論拠足り得ません。ちなみにその前のページには、手前に投げられた弟子の体で一部隠れているためはっきり確認できませんが、岡本氏の腿の角度が垂直に近く立っているところから見て、畳に膝立ちをしているとおぼしき写真もあります。--Musounoken 2010年5月27日 (木) 03:44 (UTC)
つまり立てないということだと思います。--無事本 2010年5月27日 (木) 05:56 (UTC)
- 短絡的な決め付けは慎みましょう。個人のプライバシーに属する健康状態について、これ以上いい加減な憶測を書き続けると、「誹謗中傷」「名誉毀損」と判断されかねませんよ。--Musounoken 2010年5月27日 (木) 07:37 (UTC)
Musounoken氏へ。
「立てない」は、「一切全く日常でも立てない」とイコール視されるものだと、仰りたいのですね。それは拡大解釈なのではないでしょうか。また拡大解釈されるとしても、それは本記事、つまり辞書部にそれのみ書かれた場合で、ここは会議所なのですから、「それはどこまでの意味ですか?」という風に、互いに聞き合えば良いものと思います。
植芝氏の逸話は、「試合」「乱取」「スパーリング」という枠づけ(断り)がありませんよね? 実戦という段落(枠づけ)で語られる場合とは、まるで以って違うと思うのですが。また植芝氏には運動場面と日常生活を分けて考えなければならない、たとえば立てないという種の仕障は、なかったと思います。
「確たる証拠もなく」
「ソースが提示出来ていません」
一応秘伝誌で見たとお伝えしました。証拠あるいはソースについては、たとえばMusounoken氏の「植芝氏の逸話を信じている」という知人は何と言うお名前で、それを本当に言ったという証明は、とも言えてしまいます。しかしここは辞書部ではなく会議所なのですから、それを求めるのは場違いなのでは・・?(無論イイカゲンな話を書いてよいという意味ではなく)
記事の編集のために話しているのを、見失われている感じがします。
お挙げの秘伝誌は既に私が書いたよう、「立てなく」の旨は書かれていません。私の記憶では(これも既に書いたよう)もっと以前のになります。
但しひょっとしたら、「膝をお悪く」と「正座はされず」の情報により、また過去には立って指導をされていた事も併せ、「ああもう立てないのだな」と「解釈」し、そう書かれていたものと思い込んでしまった可能性はあります。もしも間違いであれば、その時は謝ります。(読んだ秘伝誌がもっと以前なのは確かです)
しかし伝えたかった旨は「健康に障りが出ている」という事だったので、それはご理解頂きたいと思います。
ところで本記事に具体名は書かれないのでしょうか? それ自体には以前も申し上げた通り、特に反対致しませんので、遠慮なさっているのなら、かまわず書いて頂いて良いですよ。--顔の無い人 2010年5月27日 (木) 08:41 (UTC)
>膝を悪くされている岡本氏は >正座ではなく胡坐で >稽古を行っている
書いてある通り、つまりこれを立てないと言います。--無事本 2010年5月27日 (木) 09:03 (UTC)
>顔の無い人さん
- 「立てない」は、「一切全く日常でも立てない」とイコール視されるものだと、仰りたいのですね。それは拡大解釈なのではないでしょうか。
「イコール」とは一言も言っていませんよ。あなたが仰るような「運動場面」においても「生活面」においても、そもそもどこにも「岡本氏が立てなくなっている」旨公式に記述されているソースが示されていないにも関わらず(いくらあなたが「過去に見たのは確かだ」と仰ったとしても、その確認は他者と共有できなければなりません。「植芝氏の逸話を信じている」私の知人とはソースを示すべき重要性が異なります)、「岡本氏が立てなくなられている」を公然の事実であるかのように語り、それを拠り所の一つとして記事の編集をなさることには賛成できかねると言っているのです。それを認めてしまえば、「岡本氏は立てない」が事実であると半ば認めたのに等しいと私は思います。「運動場面」において「立てない」と言っただけで、「生活面」を言ったのではないから構わない、というような、そういう問題ではありません。
また先にも書いたように「なんだ、合気に関わる連中は社会常識もないのか」と思うような外野の一般読者は「立てない」と言われれば普通は「日常生活」も含めて、と理解すると私は思います。事情も良く知らない人が「運動面では立てないけど日常では立てる」などと、どうしてそこまで配慮の行き届いた解釈をするでしょうか。
そして何よりもまず、岡本正剛氏は現存個人です。岡本氏ご本人が許可した情報であると確認されない限り、個人のプライバシーである健康状態について他人がああだこうだと軽率に語るべきではありません。それは「合気」の項本文でもこの会話ページでも同じことです(繰り返しになりますが、ソースを示すべき必要性として「植芝氏の逸話を信じている」私の知人とは重要性が異なります)。それこそ「社会常識」なのではないでしょうか。
顔の無い人さんは以前、
- 故人と現存の人物は、決定的に違います。なぜなら現存の人物は、百科事典を見た方が試しに会いに行く事も可能であり、また批判がご本人の耳に届いたりもします。
と現存人物に配慮すべき旨仰っていたはずです。岡本氏が「立てなくなられている」というご自分についての記述をお知りになったらどう思うでしょうか?顔の無い人さんは現存個人に配慮すべきと他人には言っておきながら、ご自分は岡本氏のプライバシーに言及することについて、岡本氏個人に対する配慮がほとんど見られなかったことが、私にはひどく残念に感じられます。
- もしも間違いであれば、それは謝ります。(読んだ秘伝誌がもっと以前なのは確かです)しかし伝えたかった旨は「健康に障りが出ている」という事だったので、それはご理解頂きたいと思います。
了解します。
ただし私の意見としては、武術武道家の現在の健康状態だけを基準に実力を語る必要はないし(語ろうとすれば今回のようにプライバシー侵害の恐れも出てくる)、「合気」は生理学や医学など科学や常識で解明されているとは言い難いのだから、それらや年齢を基準に実力を考える場面から排除すべきでないという考えは変わりません。 記事の編集は、異論が無ければ時期を見て行います。しかし大幅な改編は考えていません。--Musounoken 2010年5月27日 (木) 10:39 (UTC)
私は某大学の合気道部に所属しているものですが、Musounokenさんお一人でがんばっている手記、感動いたしております!!部員全員かつ、うちの大学には大東流合気柔術のサークルもあり、全てあわせると総勢200名近くになります。みんなMusounokenさんを応援しています。お一人でがんばってください!!
Musounoken氏へ。
「一般読者は「立てない」と言われれば普通は「日常生活」も含めて、と理解すると私は思います」
それは拡大解釈だと思います(枠づけは何処へ行っちゃったのでしょう?)。またここは一般読者向けの本記事(辞書部)ではないので、もしも辞書部に書くとしたら、より細かい記述になると思います。そもそも辞書部にそのような情報は書かないものでしょう。
Muso氏が辞書部と会議所をごちゃ混ぜにしている旨、既にご指摘差し上げたのですから、お忘れにならないようお願いします。
岡本氏の健康状態については、「許可無く」でも「プライバシー」でもなく、公刊情報だった(と記憶していた)から書いただけですよ。そしてまだ公刊性が否定されたわけではないのですが。
「武術武道家の現在の健康状態だけを基準に実力を語る必要はない」
「だけ」で語ったわけではないですが、健康状態に障りがある場合、それは重要なファクターになりますよ。基準度「ゼロ」と扱いたがるMuso氏のご姿勢は、著しく偏りがあると思います。勿論これは既に述べさせて頂いたよう、「比較」に於いてですけれど。比較とは、「同じ合気指導者の、より若い方を削り、優先して極端な高齢者を挙げようとする、偏った編集姿勢が見られた時」という意味です。どうも著名な合気指導者を全員は挙げたがらない、人選も理由が示されない、ならば基準を設けさせて頂く、そのような流れでしたよね。
私としては「全員挙げて良いというご意見なら賛成」「しかし具体名を示さないよりも示すべきだとする意見には反対」「なぜなら説明がなされていないから」「勿論示してはいけないとは言わず」「でも(他を挙げず)極度な高齢者を率先して挙げるのはおかしい」と考える次第です。
「科学や常識で解明されているとは言い難い」
そうですね。仰る通りです。しかし科学や常識を丸無視するのは、良くないと思います。また「高齢でも実戦で使える」という予想は、「公に証明されていないという結果で(使えないと)解明されている」とも言えてしまいます。当初から述べていますよう、編集にはバランスが求められるのではないでしょうか。Muso氏はこう考えたら「これだけ」という、やや偏った編集姿勢でいらっしゃるので、「全方向性を汲む」という概念、ご姿勢を、お持ちになったほうが良いのではないかと思います。
「記事の編集は、異論が無ければ時期を見て行います」
133氏も説明して頂けないようなので、編集をして頂いてかまいません。まるで私のせいで(Muso氏が遠慮され)したい編集が出来ない形になるのは心外なので、どうぞ速やかに。クドイようですが、私に遠慮はなさらないで下さい。細かい表現等、相談があれば乗りますので。--顔の無い人 2010年5月27日 (木) 13:54 (UTC)
>顔の無い人さん
- それは拡大解釈だと思います。またここは一般読者向けの本記事(辞書部)ではないので、もしも辞書部に書くとしたら、より細かい記述になると思います。そもそも辞書部にそのような情報は書かないものでしょう。Muso氏が辞書部と会議所をごちゃ混ぜにしている旨、既にご指摘差し上げたのですから、お忘れにならないようお願いします。
どちら向け、という問題でしょうか?一般読者向けで無ければ不確定な情報・プライバシー侵害の恐れのある情報を載せても良いということにはなりません。この会話ページは特定の人間だけが見る場所ではありません。無制限に公開されていることは本文も会話ページも条件は同じですよ。どこであろうとそこが公開の場所である限り、言動には厳しい理性が求められる筈です。
- 岡本氏の健康状態については、「許可無く」でも「プライバシー」でもなく、公刊情報だった(と記憶していた)から書いただけですよ。そしてまだ公刊性が否定されたわけではないのですが。
公刊性は否定されてはいませんが、確認されてもいません。確認されるまでは事実の正当性は留保されて然るべきでしょう。それまではプライバシーとして扱われるのが当然では?まず尊重されるべきは岡本氏個人の名誉と尊厳でしょう?顔の無い人さんの意見の正しさはその次でも痛みは無いはずです。それともあなたの意見の正当性は、他人のプライバシー(=人権)を侵害する危険性を侵してまでも第一に尊重すべきものなのですか?そうではないはずです。御自分の正しさにこだわるより、まず他者の尊厳への配慮ということを思い起こして頂きたいです。
- しかし科学や常識を丸無視するのは、良くないと思います。また「体に障りがあっても実戦で使える」という予想は、「公に証明されていないという結果で解明されている」とも言えてしまいます。
「解明」は言い過ぎでは。「体に障りがあっても実戦で使える」かどうか以前に、そもそもどういう条件で「合気」が可能なのかすら、科学的には十分解明されていないのが現状なのです。そうでありながら特定の「年齢」とか「足腰の状態」などといった条件制限を課すのはおかしいのでは?と言っているのです。第一それは科学的に考えても正しくありません。どういう条件があるかはこれから解明されるべき課題なのですから、そこを見誤ってはいけないと思います。その意味で「科学や常識を丸無視する」と言われるのは大変心外ですし、科学や常識を尊重するからこそ、思い込みを排した冷徹な観点が必要なのだと考えます。科学的な発見や発明は、それまでの常識を一旦留保して冷静に検証しなおすことから産まれています。「合気」を解明するにしても同様の態度が必要ではないでしょうか。
編集は顔の無い人さんに遠慮しているわけではなく、まだ他の方のご意見が出る可能性もあるので、それを見てからと思っています。どうぞ御了承ください。--Musounoken 2010年5月27日 (木) 15:13 (UTC)
>「運動場面」において >そもそもどこにも「岡本氏が立てなくなっている」旨公式に記述されているソースが示されていない
ご自分の引用した記事にソースが示されているんじゃないですか。--無事本 2010年5月27日 (木) 15:22 (UTC)
Musounoken氏へ。
「不確定な情報」は事実ですが、それは「信じている知人」等にも言える事ですよ。会議のための参考情報は、全てにソースが求められるわけではないんじゃないでしょうか、と申し上げました。なお「イイカゲンな情報」は良くないと思いますし、プライバシーの侵害も無論良くはありません。岡本氏に関して「立てない」というのがプライバシー情報かと言えば、公に示されているので、そうではありません。文章にそのものその表現があれば無論の事、膝がお悪いのは公開されていますし、お若いの頃のよう立って指導されている場面が、一ショットも見られないです。これはプライバシーではなく、ショットも含め、全て公開されている情報ですよ。
日常生活を語ればプライバシーという事になりますが、それは何度も申し上げた通り私は書いていないので、Musounoken氏の拡大解釈です。
それと植芝氏の逸話は、何処で読まれましたか。私は近代柔道という雑誌で読みました。亡くなる数日前に、畳に敷かれた布団から立ちお手洗いへ行こうとされたのを、止めた4人のお弟子さんを振り払ったら、廊下を飛び越え、庭まで飛んで行ったという逸話でした。植芝氏は秘伝誌情報によれば、亡くなる一ヶ月前に病院へ運び込まれ、以後退院する事なく病院で息を引きとられました。なので「亡くなる数日前に」「いかにも日本風の造りをしたお屋敷(ご自宅?)で」そのような逸話の発生する事は、ありえないとなるわけです。
「解明は言い過ぎでは」
解明されていないと言うのなら、という意味です。見方は公平にしなければなりません。
「年齢とか足腰の状態などといった条件制限を課すのはおかしいのでは?」
歳や病気、ケガなどが、人の能力を著しく制限してしまうのは、人の何百、何千年の歴史で証明されている事です。同じ合気を身につけた同士なら、歳の行ったほうが優る、あるいは最低互角、それが証明されない限り、証明されている事を丸無視してはいけないでしょう。
Musounoken氏の言葉、ご姿勢を言い換えれば、「歳や病気、ケガなどは、丸無視するべきでは?」となります。私の考え、編集姿勢は、「歳や病気、ケガなどは、汲んだ上でしかし同時に合気のファンタジー性、たとえば年齢超克性なども、盛り込んで行きましょう」になっています。どちらの姿勢に偏りがないかは、見ても明らかだと思うのですが、いかがでしょう。
最後に、編集するおつもりは無いのでしょうか・・? 議論、ひいてはご論闘がお望みで、編集はなさらないというご姿勢なら、編集会議という主旨で参加する、私や他の方たちに、迷惑がかかります。お返事(異論)のないのが明らかでありながら「返事待ち」(異論待ち)という物言いは、以後はご注意頂きたいと思います。--顔の無い人 2010年5月28日 (金) 15:56 (UTC)
>--顔の無い人さん
- 「不確定な情報」は事実ですが、それは「信じている知人」等にも言える事ですよ。
岡本氏の健康状態と「植芝盛平の逸話を信じている知人がいる」という情報では、ソースを示すべき重要度が違うということは既に言いました。岡本氏の健康状態についてはプライバシー侵害の危険性が拭えず、ゆえに緊急にソースを示すべき理由がありますが、「逸話を信じている知人がいる」という情報があるからといって、別段誰も傷つきません。
- 岡本氏に関して「立てない」というのがプライバシー情報かと言えば、公に示されているので、そうではありません。
あなたの確信の中ではそうであっても、「公に示されていた」証拠は未だ衆前に示されていません。証拠が示されるまでは岡本氏のプライバシーとして保護されるべきです。ということも既に言いました。
- それと植芝氏の逸話は、何処で読まれましたか。
『決定版 植芝盛平と合気道1 開祖を語る直弟子たち』(ISBN 4900586811)のp186-187にあります。
- なので「亡くなる数日前に」「いかにも日本風の造りをしたお屋敷(ご自宅?)で」そのような逸話の発生する事は、ありえないとなるわけです。
当時を良く知る方から「そのようなことは有りませんでした」と私も聞いています。しかしその逸話を信じている人は少なからずいると思われます。真偽が問題ではありません。
- 私の考え、編集姿勢は、「歳や病気、ケガなどは、汲んだ上でしかし同時に合気のファンタジー性、たとえば年齢超克性なども、盛り込んで行きましょう」になっています。
しかし実際には高齢と「立てない」旨を理由に実名を削除しており、言行不一致と見えます。
- 歳や病気、ケガなどが、人の能力を著しく制限してしまうのは、人の何百、何千年の歴史で証明されている事です。同じ合気を身につけた同士なら、歳の行ったほうが優る、あるいは最低互角、それが証明されない限り、証明されている事を丸無視してはいけないでしょう。
私もあなたが仰りたいことはもちろん良く分かっていますよ。分かった上でなお申し上げております。言ってること自体は正しいけれど、あなたが問題なのは、その言うべきポイントがずれている点ではないかと思われます。
議論が錯綜して分かりにくくなってしまいましたが、そもそも元の「合気」項目本文では
- ストレートな言い方をすれば、合気技法の指導者である岡本正剛や有満庄司、木村達雄が、指導ではない柔道や総合格闘技の試合(または乱取、スパーリング)に身を置かれた時、合気が本当に効くのかという、極めてシンプルな疑義が持ち上がる。
と、極めて常識的な観点から「合気」の実力に疑義が呈されていた。(取り合えず誰が書いたかは問題ではないので「書いたのは私です」とか仰るのはひとまずご遠慮下さい。)
この疑義に対して「通用するはずだ」とする立場の人は、「合気は体格・体力・年齢などの常識的な不利や制限を超えて発揮される能力だ」と思っている。「開祖は死の直前が一番強かった」という植芝神話もある。そういうファンタジーを常識の荒波で洗い直し検証すべき、ということに「疑義」のポイントがある。
その洗い直すべきファンタジーの象徴が他ならぬ「岡本正剛」氏である。氏は高齢であり最近では膝も悪いと公式アナウンスされている(「立てない」ではない)。そのような武術家にも果たして「合気」が「実戦」で使えるのか?と問うことで、「合気」のファンタジーを冷静に検証し考察する観点の必要性を示している。(なお留意すべきは、ここでの「検証」は決して「実際に戦うべき」という要請ではなく、あくまで考察の必要であること。)
しかるにそこでせっかくの論議の好対象である岡本氏を「でももうご高齢ですから」と外すというのは、私としてはズッコケ以外の何ものでもない。「…なんでやねん!」と(笑)。
岡本氏をその検証対象から外すのがなぜ問題かと言うと、これでは「老齢に達すればこそ合気も高まる」というファンタジーをそのまま生かすことになるからです。これはむしろ常識や科学を重んじる顔の無い人さんの立場からは好まざる状態なのではないでしょうかね?「市販の百科事典には荒唐無稽なファンタジーなど載せないものです」…だから検証しない?それは違うんじゃないでしょうか?
その辺の本末転倒というかズレっ振りを少しは考えて頂かないと、今後も禍根を残すように思えてならないので、こうやって敢えて苦言を呈させて頂いている次第なんですが、中々御理解頂けない様で難しいですね。
- お返事(異論)のないのが明らかでありながら「返事待ち」(異論待ち)という物言いは、以後はご注意頂きたいと思います。
何が「明らか」なのか分からないので何を「ご注意」すれば良いのかも分かりません。あなたのそういう意味不明な他人への指図も理解に苦しむ点です。編集するかしないか、タイミングをどうするかは私自身が決めることです。あなたに指図される謂れはありません。--Musounoken 2010年5月28日 (金) 18:14 (UTC)
Musounoken氏へ。
「信じている知人がいる」という事を会議の論拠とされているのですから、同じですよ? ・・とは言え私は、疑いを持ちませんけれど。
「プライバシー」ではありません。全て示されている情報ですから。書いたよう、「立っている」お写真のほうが無いのですから、寧ろ公示情報をしか見ていないという偏りがあるほどです。
「当時を良く知る方から「そのようなことは有りませんでした」と私も聞いています」
私は直接聞いてはいませんが、公示情報を組み合わせるだけでも矛盾が生じ、ゆえに自動的に「信じている」「信じていない」の問題ではなくなります。
「しかし実際には高齢と「立てない」旨を理由に実名を削除しており、言行不一致」
スポーツや格闘技の世界ではありえない、60代の方を残しているので、高齢というファンタジー性をも多大に汲んだ人選と言えるでしょう。まさか60代をファンタジーではないとお思いになっているのですか?? そこが私とのみならず、世間一般と(Muso氏が)ズレているところだと思いますよ。
「岡本正剛や有満庄司、木村達雄」
こう意図的に人選を変えるのは、会議に不適切な姿勢だと思います。ご注意下さい。
「老齢に達すればこそ合気も高まる」
これは何処で何方が唱えられているのでしょう? また証明はされているのでしょうか。植芝氏のはなかったのが証明されましたが。そして合気を占めるパーセンテージの高いファクターなのでしょうか? 合気(の説明や特性)を占めるパーセンテージが高くない、一般的ではないようなので、それのみ拡大抽出した記事作りは、不適切なのではないでしょうか。
岡本氏を挙げるのが不適切な理由は、大別して2点になります。
・お歳と健康状態から、ファンタジー「過ぎる」という事
・より若い方を率先して削り、優先して挙げたがる異様さ
お伝え出来たでしょうか。
Muso氏は以上2点からズレた返答しかなさらないので、よく読まれるか、あるいはご論闘がお望みで意図的にズラされているのであれば、ここへの参加はご遠慮下さい。
「何が明らかなのか」
事実133氏からは(私の5月19日の提案に)お返事がありませんでした(まるで別の話が返ってくるに終わりました)。MUSO氏と人選に関する意見の違うのは、133氏お一人です。以上により「明らか」なのですが、それでなお編集なさらないのは、なぜでしょう。お読み頂ければ解かりますが、他の箇所も編集としてまだまだ完全とは言いがたいものになっているので、ここはあくまで会議としてお使い頂きたいです。別の意図は極力我慢して下さるよう、お願い申し上げます。--顔の無い人 2010年5月29日 (土) 06:56 (UTC)
編集会議を致しましょう。「合気技法の指導者である岡本正剛や有満庄司、木村達雄が」の部分、この人選と表現で宜しいでしょうか。133氏は木村氏の名をどうしても挙げたがらず、「岡本、有満、高橋」とされたいようですが、Musounoken氏は「岡本、有満、木村」という事ですね。私は具体名を挙げないという意見ですが、挙げるなら「木村、有満、高橋」か、「木村、有満」、あるいは「岡本、有満、木村」というMUSO氏と同意見になります。
細かく並びを重要視するなら、お歳の順に「岡本、木村、有満」が良いかも知れません。
あるいは以下のようなのはいかがでしょう。
「ストレートな言い方をすれば、木村達雄や有満庄司、ひいては岡本正剛といった高齢者も含む、知られた合気技法の指導者が、指導ではない柔道や総合格闘技の試合(または乱取、スパーリング)に身を置かれた時、合気が本当に効くのかという、極めてシンプルな疑義が持ち上がる。」
こうすれば一般読者からもまっとうな、バランスのとれた記事に思って頂けるかも知れません。--顔の無い人 2010年5月29日 (土) 07:18 (UTC)
>顔の無い人さん
- 「信じている知人がいる」という事を会議の論拠とされているのですから、同じですよ?
どうしても「岡本氏のプライバシーの尊厳を最優先すべき」そしてご自分がそれを侵している、ということを認めたくないのですね。あなたの他者への配慮はその程度なのだろうと理解します。
- 「プライバシー」ではありません。全て示されている情報ですから。書いたよう、「立っている」お写真のほうが無いのですから
「立っている」写真がない・座っている写真だけから(座り合気上げの稽古なんだから当たり前であるにも関わらず)「立てない」と決め付けていいのなら、世の中「立てない」人だらけですね。しかし岡本氏には膝立ちしているらしい写真もあるのですが。「立てない」ことはどこにも示されていないので、プライバシーであることに揺るぎはありません。あなたもこの前の発言で一度は謝ったはずですが、言い逃れる方に気が変わったのですか?やはり我が身が一番可愛いようですね。
- 私は直接聞いてはいませんが、公示情報を組み合わせるだけでも矛盾が生じ、ゆえに自動的に「信じている」「信じていない」の問題ではなくなります。
- 植芝氏は秘伝誌情報によれば、亡くなる一ヶ月前に病院へ運び込まれ、以後退院する事なく病院で息を引きとられました。なので「亡くなる数日前に」「いかにも日本風の造りをしたお屋敷(ご自宅?)で」そのような逸話の発生する事は、ありえないとなるわけです。
その情報は誤りでしょう。『合気道開祖 植芝盛平伝』(植芝吉祥丸 著・植芝守央 監修 ISBN 4882931680)によると、植芝盛平は昭和44年3月26日に「道場で死にたい」との希望で病院から自宅に戻り、そのまま4月26日に死去しています(p295-297)。従って「公示情報を組み合わせるだけでも矛盾が生じ」というのは正しくありません。 また、それとは別に塩田剛三による「開祖は死の直前が最も強かった」神話を信じる人は、塩田剛三の影響力を考えれば少なくないと考えるのが自然です。一般の読者は情報の細部まで正確に確認できるとは限りませんから、影響力を持つ人物から「あった」と言われれば自然にそう信じても無理はありません。
- スポーツや格闘技の世界ではありえない、60代の方を残しているので、高齢というファンタジー性をも多大に汲んだ人選と言えるでしょう。まさか60代をファンタジーではないとお思いになっているのですか?? そこが私とのみならず、世間一般と(Muso氏が)ズレているところだと思いますよ。
「60代をファンタジーではない」と思っていないからこそ、「『老人を実戦論に巻き込むのは、ギリギリ六十代が許容範囲かと思われます』というご意見は納得しかねます。八十代で駄目なら六十代でも駄目でしょう」と最初にお聞きしています。「高齢というファンタジー性をも多大に汲」みたいなら八十代のほうが効果的ですし、「ご高齢だから」切るのは矛盾です。それに対するあなたの答えは
- 「六十代の木村氏はどうして巻き込んで良いのか」は、「ギリギリ六十代が許容範囲」と説明しています。「60歳でも十分老人でしょう」との旨も、既に「老人を実戦論に巻き込むのは、ギリギリ六十代が」という表現で示しています。編集会議なので、きちんとお読み下さい。
でした。要するに自分が「ギリギリ六十代が許容範囲と言ったら許容範囲だ!」ということなのだな、と解釈しました。(笑)
- 「岡本正剛や有満庄司、木村達雄」こう意図的に人選を変えるのは、会議に不適切な姿勢だと思います。ご注意下さい。
私は何も変えていませんよ。単に岡本氏の名前が載っているから「2010年5月20日 (木) 08:01時点における版」を引用しただけです。妙な言いがかりはやめて下さい。
- 「老齢に達すればこそ合気も高まる」これは何処で何方が唱えられているのでしょう?
数多ありますが、たとえば保江邦夫著『合気開眼』(ISBN 4875252471)p160では、佐川幸義が死の直前「これが本当の合気だ」と示しながら木村達雄を投げ飛ばしたとあります。
- 植芝氏のはなかったのが証明されましたが。
先に挙げたように、あなたの根拠とする元情報が誤りなので証明されていません。思い込みです。
- そして合気を占めるパーセンテージの高いファクターなのでしょうか?
古今合気の達人・使い手とされる人物は概して老人です。老いても衰えないということが修行者の大きなモチベーションとなっています。その意味で重要度は高いと言えます。
- Muso氏は以上2点からズレた返答しかなさらないので、よく読まれるか、あるいはご論闘がお望みで意図的にズラされているのであれば、ここへの参加はご遠慮下さい。
私にはあなたの発言の方が不適切だと感じます。「ご論闘がお望み」なのではなく、独善的かつ奇妙な「社会常識」を振りかざすアンバランスな編集方針を提示されることに対して、疑念と違和感を覚えずにはいられません。またたびたび他者の発言を制限するような言動もお控え下さるようお願いいたします。--Musounoken 2010年5月29日 (土) 13:35 (UTC)
膝立ちは大腿四頭筋(膝関節)が解放されるので、立てることとは全然違いますよ。--無事本 2010年5月29日 (土) 17:53 (UTC)
- 「立てない」こととも違います。参考までに「膝立ちとおぼしき写真がある」という事実を付記したまでです。--Musounoken 2010年5月30日 (日) 00:51 (UTC)
立つことは膝関節の負荷運動なので、正反対の膝立ちまでしか武術的局面で出来ないのでしたら、それは立てないということです。--無事本 2010年5月30日 (日) 15:06 (UTC)
- 「膝立ちまでしか武術的局面で出来ない」という証拠はどこにもありません。事実は単に膝立ちとおぼしき写真があるだけです。また仮に「膝立ちまでしか武術的局面で出来ない」が事実であったとしても「立てない」ことにはなりません。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 11:30 (UTC)
Musounoken氏へ。
以前の(私の)表現がお気に召さないのであれば、言い直しましょう。
「お若い頃のよう、立って指導されているお写真も見られません」
より詳しく書くならば、「膝を悪くされていて、お若い頃のよう立って指導されているお写真も見られません」となるでしょうか。
「一度は謝ったはずですが」
その時は謝ります、と言っています。誤解がないよう書き直したのが、Muso氏のお返事が早すぎて、目に留まらなかったのでしょう。
「植芝吉祥丸」
氏の証言と、秘伝誌の情報は、違いますね。確か西尾氏か藤田氏というお弟子さんで、病院へ運ばれる直前、亡くなる一ヶ月前開祖最後のお写真も添えた記事でした。
「高齢というファンタジー性を多大に汲む」事は、「加齢グラフと能力グラフが比例すると考える」事ではないと思います。グラフが反比例する、そのあたりまえの事実は認めつつ、しかし両グラフの示す点が(一般的には離れすぎなものの)あまりに離れすぎない場所を、あえて異例にも取り扱う。これがバランスなのではないでしょうか。
「私は何も変えていませんよ」
133氏は「岡本、有満、高橋」としたがっていました。そしてその人選を、問題としています。
「保江邦夫」
氏は、お挙げの方のお弟子さんです。また見た者が少なく、一般的とは言いがたく、その上「老齢」が「高める」説明に、それではなっていないと思います。
「古今合気の達人・使い手とされる人物は概して老人です」
お若い頃に達人と知られ始めた方ばかりだと思います。「維持」も不明な現状、加齢が「高める」と「知られている」とする根拠は、やや曖昧なように思えます。
「独善的かつ奇妙な社会常識」
いえ、「馬鹿げた」という表現などは、独善ではなく、矢張り社会常識に欠くと思います。編集して頂きたいとする理由は、私の異議、すなわち「お若い方を削り高齢者を率先して挙げる編集へ対して」というのが、Muso氏がその一点を避けたがる、あるいは誤解なさるため、延々ズレたご意見になっているからです。編集に参加して頂ければ、その一点に自動的に関らざるを得なくなり、ズレた話にならないからです。
前回の編集会議には、お答え頂けないのでしょうか。解かりにくければ聞いて下さってかまいませんので、少なくともこの編集会議にはお返事頂きたいと思います。--顔の無い人 2010年5月30日 (日) 16:11 (UTC)
- とりあえず編集のみに関して。余計な文章の付加は不要です。単に「岡本正剛・木村達雄・有満庄司」でいいでしょう。
合気系修行者たちは、この問題について概ね二通り、すなわち「合気が出来れば無敵なのだからそんな事は考えなくて良い」「合気は実戦を想定していない」の、どちらか両極端の考えに定まる傾向があり、(実戦性という)そのものズバリに向き合われていないのが、現状と言えよう。
この下りも余計です。そんな単純な話でもありません。削除が妥当でしょう。--Musounoken 2010年5月31日 (月) 20:40 (UTC)
多忙のため遅れました。何卒ご容赦下さいませ。知らないうちに話が進んでいるようですね。 まず私は、岡本正剛氏が立てない、ということは全然存じておりません。 次に、私は一般論を記述しただけで特定の方を非難した覚えもございません(特定の人は応援致しましたが、私見によるものです)。 また133氏という方が、私のことであれば申し上げておきますが、木村達雄先生につきまして、ウィキペディアでのこの話に先生のお名前がご掲載されることによって、先生ご自身にデメリットが生じることを懸念しております。それは他の合気指導者とは異なり、木村達雄先生は本職が数学の大学教授という極めて公共性・教育性のある職に就かれているからです。私個人的には木村達雄先生も日本武術史上に残る名人・達人と存じております。したがって木村達雄先生ご本人のご許可をとってお名前を掲載いただくことには大賛成です。しかるにご本人のご許可をとった形跡も無く、勝手にお名前を掲載している様子なので削除したまでです。 しかし、ここまでの議論を拝見するに、編集のみにつきましてはMusounoken様のご意見に賛同し、余計な文章の付加は不要で単に「岡本正剛・木村達雄・有満庄司」各先生でよいと存じます。また、合気系修行者たちは、この問題について概ね二通り、すなわち「合気が出来れば無敵なのだからそんな事は考えなくて良い」「合気は実戦を想定していない」の、どちらか両極端の考えに定まる傾向があり、(実戦性という)そのものズバリに向き合われていないのが、現状と言えよう。 という下りも余計で削除した方が妥当だと存じます。 なお、論争を蒸し返すつもりは微塵もございませんが、以下の3点は強調させて下さい。 ①木村達雄先生のお名前をご掲載するには、やはりご本人のご許可が絶対必要であること。 ②岡本氏のプライバシー問題は、まだ解決している様に思えません。 ③植芝先生のご系統の方(例えば、植芝守央現道主や塩田現養神館長)のご記載につきましては、皆様どのようにお考え なのか? 私は、既に老齢でかつ現在仕事が多忙でございます。よって今後誠に勝手とは存じますが、考え方が同じですので、Musounoken様のご意見を、私の意見とさせて頂きとう存じます。何卒宜しくお願い申し上げます。皆様方の益々のご健勝と合気の発展を祈念させていただきます。拝。--133.31.213.145 2010年6月1日 (火) 08:18 (UTC)
Musounokne氏、133氏へ。
会議へのご参加ありがとうございます。
元は122氏の「わかりやすく述べると、合気の達人と言われる佐川幸義宗範の弟子の木村達雄先生や岡本正剛先生が、指導するのではなく最小ルール無しの実戦試合(例えばK-1やプライドなどの試合)に参加したとき合気の技が本当に効くのか?という極めてシンプルな事を想像してみるとよいが、これは論点のすりかえと合気系武道の修行者たちは考えていて、やはり見解の相違というジレンマに陥る」という記事でした。
会議で問題になったのが具体名、それと「これは論点のすりかえと――」から始まる箇所の訂正箇所が不要、この2点という事ですね。
では後者1点は削りましょう。
具体名ですが、許可は木村氏のみならず何方からもとっていないので、許可が確認されるか許可が不要との意見が出るまでは、とりあえず今のまま、具体名のない記事にしておきましょう。それで解かりにくくなってはいないので、宜しいですね?
細かい表現等、意見があればここで議題に挙げて頂くか、各自編集して頂ければと思います。--顔の無い人 2010年6月1日 (火) 11:05 (UTC)
編集しましたが、各段落の最後が「る。」「る。」「る。」と連なりすぎていて、表現として綺麗ではない事に、眺めて初めて気がつきました。削除した一文を「そんな単純ではない」とする意見にも、説明が添えられていないため、様子を見て差し戻すか、新たな表現で書き直すかも知れないので、意見があればお願いします。--顔の無い人 2010年6月1日 (火) 11:15 (UTC)
①wikipediaは本人の許可によって成立する場所ではありません。
②立てないというのは岡本氏のプライバシーではなく、引用された通り公示された情報です。
③植芝守央合気道主や塩田泰久養神館長は合気道の人であり、余り合気という論旨で扱われる人ではないので、実戦性の項目に列挙するのは不適切です。--無事本 2010年6月1日 (火) 18:03 (UTC)
- どこにも岡本氏が「立てない」という公示も引用もありません。事実無根な虚偽を書き込むのはおやめ下さい。--Musounoken 2010年6月1日 (火) 20:59 (UTC)
あなたが引用した項目ですよ。
実戦性の項目ですからね。--無事本 2010年6月2日 (水) 08:35 (UTC)
- 意味不明です。私は如何なる刊行物からも「岡本氏が立てない」という引用はしておりません。いったい何を根拠に事実無根の虚偽ばかり仰るのですか?こうなるともはや愉快犯の領域と判断されても仕方ありませんよ。--Musounoken 2010年6月2日 (水) 11:53 (UTC)
あなた自身が雑誌の何月号だかの記事を引用していましたよね。
そこに岡本氏が立っている写真はありましたか?--無事本 2010年6月2日 (水) 17:17 (UTC)
- 無いですが。それがどうだと言うんですか?立っている写真が無ければ「立てない」と勝手に他人を決め付けて良いのだったら、仮にある雑誌に私の座り合気上げの写真だけが有れば、「この人は立てないのだ」と決め付けて良いのですか?--Musounoken 2010年6月2日 (水) 17:27 (UTC)
>133.31.213.145様 コメントありがとうございます。 (1) 木村氏の許可ですが、氏が大学教授であり武術家であることは氏自身が著作で自ら公開している情報ですので、ウィキペディア上で扱うことに問題はないと思います。(2) これについては私もあきれております。何らかの行動が必要なのかもしれません。(3) 合気道では「合気」を、技法から理念まで含む広い意味合いで考えます。片手で若者を翻弄する老人もいますが、あまり「合気」という技法を前面に押し出す傾向はないようです。
その他御同意頂いた点諸々、ありがとうございます。--Musounoken 2010年6月2日 (水) 18:14 (UTC)
あなたに「立てない」という事前情報があり、更には膝が悪いという表示込みで、それ以前にはメインだった立ち捕りではなく座捕り合気上げの写真のみが有れば、それは立てないということだと思われます。--無事本 2010年6月2日 (水) 22:46 (UTC)
- 事前情報その他、全く理由になりません。論理の飛躍と短絡・拡大解釈であり、状況証拠で推定有罪と断ずるのと同じです。個人の健康状態についていい加減な憶測を書き込むのは個人に対する誹謗中傷・名誉毀損・人権侵害です。発言の撤回を求めます。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 01:28 (UTC)
>顔の無い人さん
133氏は「岡本、有満、高橋」としたがっていました。そしてその人選を、問題としています。
私の異議、すなわち「お若い方を削り高齢者を率先して挙げる編集へ対して」というのが、Muso氏がその一点を避けたがる、あるいは誤解なさるため、延々ズレたご意見になっているからです。
それは133.31.213.145氏の御意見であって私の意見ではありません。「お若い方を削り高齢者を率先して挙げる」と殊更年齢を問題視しているのもあなただけです。人選の件を私にとやかく言われても私は知りません。あなたは他人には「以後は思い込みで話されず、きちんと会議参加者、お一人お一人の書いている事に、耳を傾けるようなさって下さい。」などと言う割りに、なぜ他人の主張の区別がつかずにお門違いなクレームをお付けになるのでしょうか。
「保江邦夫」氏は、お挙げの方のお弟子さんです。また見た者が少なく、一般的とは言いがたく、その上「老齢」が「高める」説明に、それではなっていないと思います。
弟子かどうか・見た者が少ないかどうかは関係ありません。こういったエピソードが刊行物にあるということを言っています。佐川氏のエピソードは「死の間際に最高の合気を示した」という趣旨の描写です。
なお誤解なきように言っておきますが、私はこれらの逸話や「老齢が合気能力を高める」説の真偽については知りません。ただそのような見方が合気系武道武術で広く持たれていることは知っています。私は現在合気道を学び、大東流もほんの少しですがかじったことがあります。そこでは多くの人が「歳をとっても上達していける・能力を高めていける」と信じ、それをモチベーションとして稽古を行っています。このようなことは合気系武道を学ぶものなら当たり前の常識だと思っておりましたので、わざわざ説明の必要があるとは思いませんでした。失礼ですが顔の無い人さんは実際に合気系武道・武術を実践されている方ではないのですか?--Musounoken 2010年6月3日 (木) 02:29 (UTC)
>顔の無い人さん
- お返事(異論)のないのが明らかでありながら「返事待ち」(異論待ち)という物言いは、以後はご注意頂きたいと思います。
- 「何が明らかなのか」
- 事実133氏からは(私の5月19日の提案に)お返事がありませんでした(まるで別の話が返ってくるに終わりました)。MUSO氏と人選に関する意見の違うのは、133氏お一人です。以上により「明らか」なのですが、それでなお編集なさらないのは、なぜでしょう。
その後133.31.213.145さんからはきちんとお返事がありましたね。「お返事(異論)のないのが明らか」ではありませんでした。何でもそうですが、軽率な決め付けはよくありません。
それに「お返事(異論)のないのが明らか」などとあなたが仰れば、もし他に発言したい方が居られたとしても、言い出し辛くなってしまいますよ。今後は他者の発言を抑制するような発言はお慎み下さるようお願いします。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 12:28 (UTC)
Musounokne氏へ。
133氏のご意見でありMuso氏のではないのは、解かっています(何か解かっていない事を示す発言があったでしょうか・・?)。あと分け隔てが生じているのが問題なのですから、「自分は分け隔てていない」とご主張されても、会話になっていないのですが・・
「人選に初めから分け隔てをしていないのならかまわない」「しかし分け隔てをする編集者がいる」「分け隔てる理由が不明」「ならば他にも様々な理由で分け隔てなければいけなくなりますよ?」というのが、当初からの流れになります。
>多くの人が「歳をとっても上達していける・能力を高めていける」と信じ
細かいですが、それは違います。正しくは、
歳をとっても上達していける、能力を高めていける「可能性がある」と信じ
です。
またパーセンテージ的には、けして「多く」ないようです。私の合気系武道の経験を聞いて下さるのは、失礼ではありません。私も多種関わってきましたが、力強く信じている方のいない、あるいはきわめて少ない事に、もどかしさと憤りを覚えてきたものでした。高めていける・・「かも」ね。高めていける・・「可能性はある」かな。そのよう、弱々しい見方をしかしてくれない方ばかりで、現実を見たくない時期もありました。しかしこれが現実である事を知りました。だからこそ多くほとんどの公刊書にも、堂々「高めていける」と、断言される事がないのでしょう。
佐川幸義氏の系統は少数派であり、特殊な主張かと思われます。あまり一般的とは言いがたいのではないでしょうか。
133氏のは私の指摘(お返事がなかった)の後なので、それは意味のないご主張だと思います。--顔の無い人 2010年6月3日 (木) 17:16 (UTC)
>顔の無い人さん
- 133氏のご意見でありMuso氏のではないのは、解かっています(何か解かっていない事を示す発言があったでしょうか・・?)。
分かっているのであれば、木村氏を外して岡本氏を記載した133.31.213.145氏の件に関し「Muso氏がその一点を避けたがる、あるいは誤解なさるため、延々ズレたご意見になっている」と私にクドクド言うのはやめて下さい。人の意見に対して私がなぜ説明を求められねばならないのか、意味が分かりません、ということを繰り返し申し上げております。
- 私も多種関わってきましたが、力強く信じている方のいない、あるいはきわめて少ない事に、もどかしさと憤りを覚えてきたものでした。高めていける・・「かも」ね。高めていける・・「可能性はある」かな。そのよう、弱々しい見方をしかしてくれない方ばかりで、現実を見たくない時期もありました。しかしこれが現実である事を知りました。
顔の無い人さんが修行された流派ではあまり老齢で活躍なさっている師範が居られなかったということでしょうか。私は直に「これは凄い」と感嘆するしかない老師範を複数見てきましたので、「高めていける」説には一定のリアリティを感じていますし、そういう方の姿に勇気付けられて多くの修行者がモチベーションを高めて行くさまも見ています。そもそもそういう「修行年齢と共に高めていける」という共通認識が合気道修行者に一般的でないなら、今のように合気道が世界中に広まり一つの文化を形成することは無かったし、今もこれからも維持することは出来ないだろうと思っております。
- 佐川幸義氏の系統は少数派であり、特殊な主張かと思われます。あまり一般的とは言いがたいのではないでしょうか。
佐川幸義氏の門人・系列道場は少なくとも、同門からは木村達雄・保江邦夫・高橋賢・吉丸慶雪各氏の著作が出、津本陽氏の著作と含め、合気道修行者間においても無視できない影響力をもっております。少数派と片付けることはできません。
- 133氏のは私の指摘(お返事がなかった)の後なので、それは意味のないご主張だと思います。
意味がなくは無いでしょう。133.31.213.145さんはお仕事が多忙なため返事が遅れたと断っています。各人義務で書き込みに参加しているわけではありません。人それぞれ事情はあります。「私の指摘の後なので」とはどういう意味ですか?指摘があったから慌てて書き込んだろうという意味なら、133.31.213.145さんに対して失礼ですよ。
また。133.31.213.145さん以外にも発言したいと思っている人はいるかも知れないのですから、「発言がないのは明らか」などと他者の発言を望まぬかのような決め付けはお控え下さるよう、重ねてお願いいたします。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 18:18 (UTC)
Musounoken氏へ。
>人の意見に対して私がなぜ説明を求められ
ていないと思います。繰り返し説明していますが、「ある要素を以って分け隔てが生じたから」「他の要素も考えなくちゃいけないのでは? となった」、これが流れ(の全て)になります。いきなり「他の要素」から始まった、そう言わんばかりの論調のみMuso氏がとられるので、初めに分け隔てがあったからなのですよ、流れを理解していますか、とお聞きしてきたわけですが。
解かりにくいでしょうか?
他意はないので、書いてあるそのままをお受け取り下さい。
合気系に関しては広く様々な流派に関わりましたが、「可能性がある」を外して極端な考えに陥っているパーセンテージは、一般的とは言いがたかったです。
合気道が世界中に広まった理由は、意見の分かれるところではないでしょうか。
佐川幸義氏の系統が合気認識に影響力を持つのは事実ですが、「影響力を持つ」と「一般的である」は、違うと思います。なぜ違うかは話がやや厳しいものになっていくので、あえてご賢察頂くようお願いします。
133氏の件は、事実時間があいたのちに、まるで違う回答に終わりました。なので仕方なく、「回答がなかった」と明記した次第です。私の指摘後お書きになった説明は、最初の時に書けた長さ、内容でした。「木村氏に許可をとっていないから」のみが、説明だったわけですから。
>他者の発言を望まぬ
いえ、寧ろ触発されて書く人が出ると思います。とは言え挑発したわけではなく、事実を見てもそれ以上でも以下でもない、他意のない発言でした。--顔の無い人 2010年6月3日 (木) 19:06 (UTC)
>顔の無い人さん
- 細かいですが、それは違います。正しくは、
- 歳をとっても上達していける、能力を高めていける「可能性がある」と信じ
- です。
- またパーセンテージ的には、けして「多く」ないようです。
「可能性がある」でも結構です。またそう信じる人は、私の印象では「パーセンテージ的に」も多いです。 「可能性がある」ことを示す刊行物の記述も探せば結構ありますよ。
- それとよく(植芝盛平が)話されていたのが「気力が本当に充実するのは六十歳を超えてからだ」ということです。大先生がご自分を発憤させるためのお言葉かなと当時は受け止めていましたが、実際に私がその年齢に達し、大先生の言わんとされたことが理解できるようになりました。(季刊合気ニュース NO.142 2004年秋号 清水健二氏会見 ISBN 4900586277 p39)
- 内弟子になって間もなく、仙台の演武会にお供した時のことですが、受けを取っていて気をものすごく感じましたね。大先生は年とともに気力が充実する、「肉体は有限で気は無限だ」とよくいわれてましたでしょ。また、「六十を過ぎなきゃ気力の充実はない」ともよくいわれましたが、大先生のお年から気休めだろうくらいに思っていました。しかし間違いでした。大先生に限っては、それは言葉だけではなく本当のことでした。それはすごかった。稽古にかぎらず、普段接していても、こう行くとこう来られるなというのを感じさせられるんですね、ここでこうやると危ないなとか。だから大先生の場合は、「こちらから先にいいなりになってしまう」という感じでした。攻めがたいというほうが適切かな。(『決定版 植芝盛平と合気道2 開祖を語る直弟子たち』清水健二「広がりよりも深さを求めた合気道を」ISBN 4900586838 p227)
- 荒川 ああ、そうだ。先生は木刀をボールだと思って打て、と突いてくる。僕は先生が飛んじゃうんじゃないかと心配しながら、木刀でバーンとバッティングの要領でひっぱたいたら、僕のほうが植芝翁の右前方へ前のめりになった。「こらいけねえ」と思って思い切ってもう一度バーンとひっぱたいたら、今度は僕が吹っ飛んじゃったよ。僕がバットを振ったとたんに、なんか木刀がくっついたかなと思っているうちにどーんと向こうに持って行かれちゃった。もう信じられないよ(笑)。ちょうど鉄棒をひっぱたいてんのと一緒だろうな。だから振った分、僕の力の分だけ飛んでっちゃったわけだよね。(中略)それが先生が76~77歳の時だよな。そういう話がいくらでもあるわけよ。たとえば、「荒川君、おいで」っていうから行ったら、頭をひゅっと触られてぐじゃって潰れちゃったこともある。(季刊合気ニュース NO.142 2004年秋号 ISBN 4900586277 荒川博氏会見「野球に生かす合気道」 p32より)
- (佐川幸義の)一番の教えは、「人間はいくらでも変われる。いくらでも進化できるし一生修行なんだ」ということに尽きると思います。(中略)佐川先生は90歳をすぎてもまったく老人という感じがありませんでした。(中略)亡くなる前に一週間ぶりにお会いした時に、先生の片手を持って、「えっ」と思いました。今までとぜんぜん感じが違う。あまりの精妙さに思わず心のなかで、「これは人間のできる技ではない!神様の技だ」と叫んでしまいました。それまでも先生の次元が変わったなと思ったことが3回か4回あったのですが、その最後の時は本当にはっきりと違った。その日の夜、稽古から帰宅して妻に、「佐川先生はまたものすごいことになってしまった!これから一体どうなってしまうのだろう!」と興奮して話したのを覚えています。しかし先生はその翌日に亡くなられたのです。一生修行だと口で言う人は多いけど、先生はほんとに亡くなる前の日にジャンプするほどの段階に進んで、翌日95歳で亡くなったのです。(「季刊合気ニュース No.141」2004年夏号 ISBN 4900586803 木村達雄氏会見)
こういう話はまだまだ出てくる筈です。--Musounoken 2010年6月4日 (金) 17:20 (UTC)
残し、表現、書き直し
ご意見(代案や説明)がなかったので、不要との事だった箇所をとりあえず差し戻しました。
「合気が出来れば無敵」というのは、武術関係のライターの方が著作で批判的にその風潮を書いていたり、また大東流の佐川幸義氏が、問われて「そんな簡単なものではない」と仰った話が、本にあったりした事から、取りました。
「合気は実戦を想定していない」は、主に合気道の総意、考え方として、取りました。
ウェブとは言え一応辞書なので、表現にも気を配り、編集していきましょう。--顔の無い人 2010年6月3日 (木) 00:19 (UTC)
「合気が出来れば無敵」というのは、武術関係のライターの方が著作で批判的にその風潮を書いていたり、また大東流の佐川幸義氏が、問われて「そんな簡単なものではない」と仰った話が、本にあったりした事から、取りました。
具体的に出典情報を示されるべきでしょう。とりあえず「要出典」のタグを貼ることにします。
「合気は実戦を想定していない」は、主に合気道の総意、考え方として、取りました。
合気道修行者としては同意しかねます。「合気道は競技試合を想定していない」ならまだ話は分かりますが。その二派に極分化するというのもほんとなのかなと疑問を持ちます。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 04:01 (UTC)
>拡大解釈
拡大解釈ではなく、単にご両者の情報をそのまま足し算しているだけです。
あなたが、昔通り立っている写真もあった、とソースを提示してくれるならそれはそれで構いません。
それと最高の合気と実戦性は別物ですよ。
ここは実戦性の項目ですからね。--無事本 2010年6月3日 (木) 08:43 (UTC)
- 座っている写真をいくらかき集めて足し算したところで「立てない」ことにはなりません。個人を確たる証拠も無く「立てない」などと決め付るべきではありません。このような詭弁を弄する書き手の良心を疑います。「最高の合気と実戦性」に関する主張もしていませんので混乱なさらぬよう。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 09:10 (UTC)
座っている写真をかき集めて足し算しているのではなく、ご両者の情報を足し算しているだけです。
最高の合気を、修行者の思潮を挙げ、検証すべき対象として実戦性の項目に組み込むよう主張しているのはあなたですが、そうしたファンタジーは合気そのものに関してであり、実戦性とは別物なのでご注意を促している次第です。--無事本 2010年6月3日 (木) 16:28 (UTC)
- いくら「足し算」を繰り返したところで無から有は生まれません。虚しい主張です。「合気と実戦性は別」というのはあなたの意見であって、修行者全員の共通了解ではありません。勝手に決め付けるのはやめましょう。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 18:18 (UTC)
武術関係のライターは、長野氏という方です。「武術の考え」「武術のシクミ」などといった書名だった憶えがあります。P.130あたりからだったと思いました。合気を身につけたとされる方の具体名を挙げ、長野氏にかからなかった、どうも合気が出来れば即実戦で無敵だと勘違いしている、それはその個人だけではなく複数の著名指導者がそうなっている、そんな事はありえない、とそういう旨が書かれていました。佐川氏ご自身の戒めは吉丸慶雪氏の著作にあります。長野氏吉丸氏、ともに著作数は限られるため、オーケーでしょうか。
合気道ですが、Wikipediaにも「技の稽古を通して心身の練成と社会に有為の人材を育成し、同時に自然との調和、世界平和への貢献等を主な理念とする」とあります。ここは試合、乱取、スパーリングが実戦と扱われている項目なので、まさに「想定していない」で良いのではないでしょうか。
あるいは次のような表現はいかがでしょう。
「合気は実戦を理念とはしていない」
表現に関しては、細かく楽しく話し合って行きたいと思います。--顔の無い人 2010年6月3日 (木) 17:16 (UTC)
>実戦
古流でいう乱組みですね。
合気系とはイメージ上の親和性が高いため、この表現も盛り込むべきかも知れません。--無事本 2010年6月3日 (木) 17:43 (UTC)
>顔の無い人さん
- 長野氏吉丸氏、ともに著作数は限られるため、オーケーでしょうか。
「Wikipedia:出典を明記する」を良く読んで、正しい手続きを理解してください。あなたは「要出典」のタグを外してお仕舞いになっていますが、差し戻させて頂きますよ。編集合戦にしないようお願いしますね。
- 両極端の考えに定まる傾向があり
これも誰がそう言っているのか、出典を明記して下さいね。
- 合気道ですが、Wikipediaにも「技の稽古を通して心身の練成と社会に有為の人材を育成し、同時に自然との調和、世界平和への貢献等を主な理念とする」とあります。ここは試合、乱取、スパーリングが実戦と扱われている項目なので、まさに「想定していない」で良いのではないでしょうか。
合気道の理念が、どうすれば「想定していない」に結びつくのか理由不明です。御説明願えますか?--Musounoken 2010年6月3日 (木) 21:21 (UTC)
- おっと失礼。「参考文献」欄に加筆があるのを見落としておりました。「『Wikipedia:出典を明記する』を良く読んで」の下りは謹んで取り消します。ごめんなさい。
ただし
- 両極端の考えに定まる傾向があり
の部分はソースが不明なので出典をお願いします。この部分に「要出典」タグを貼らせて頂きます。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 21:32 (UTC)
「合気が出来たからと言ってそのままで敵無しであれるものではない」という旨の、ちょうど中間に位置する概念提示、ご発言が、佐川氏以外に見られないところから、そのように書きました。
勿論佐川氏以外にゼロと言いたいわけでもなく、たとえばMuso氏、その流派も、見事中間立場をとられているかも知れず、そういった方たちを尊重しない意図ではありません。寧ろ稀少さ、先見性を、浮き彫りにしたい意図が大きいくらいです。残念ながら(本来あるべき)中間立場は、パーセンテージとしてひどく僅少にとどまるのが実情ではないでしょうか。長野氏も「それでこそ武道家です」と、佐川氏へ賛辞を送っていて、誰でもと言えるくらいその立場をとっているのが実情なら、殊更賞賛も生まれないわけですから、矢張り稀少と判断されうる次第です。--顔の無い人 2010年6月4日 (金) 09:14 (UTC)
- 上の文章が
- 合気系修行者たちは、この問題について概ね二通り、すなわち「合気が出来れば無敵なのだからそんな事は考えなくて良い」「合気は実戦を想定していない」の、どちらか両極端の考えに定まる傾向があり
ということの根拠ですか?佐川さんがある風潮を批判し、長野さんがそれを賞賛したということは事実でしょうが、だからある風潮が支配的かどうか?ということはまた別問題だと思いますよ。それだけでは二極化の根拠として弱いですよ。
また合気道の理念が、どうすれば「実戦を想定していない」に結びつくのかの理由も知りたいです。--Musounoken 2010年6月4日 (金) 10:52 (UTC)
>いくら「足し算」を繰り返したところで無から有は生まれません。
確かに岡本氏の立っている写真は無ですね。
>「合気と実戦性は別」というのはあなたの意見であって、修行者全員の共通了解ではありません。
そうではなく項目の話です。--無事本 2010年6月4日 (金) 16:48 (UTC)
- あなたはまだ現存個人への誹謗中傷行為をやめないのですか?どうしてこのような行為を意地になって続けるのでしょうか?何が目的ですか?--Musounoken 2010年6月4日 (金) 17:24 (UTC)
誹謗中傷?
http://hanahibi.blog99.fc2.com/blog-entry-842.html無事本 2010年6月4日 (金) 17:57 (UTC)
- 正剛先生は膝を痛めていらっしゃるので袴姿(羽織はもちろん脱がれて)のままステージにあぐらの片足を伸ばして状態で座っていらっしゃいます。
「立てない」とはどこにも書いてませんね。これまでと同じじゃないですか。私だって前に膝の手術をした時は座って稽古しましたけど、「立てない」わけではありませんでした。無意味なリンクはやめましょうよ。--Musounoken 2010年6月4日 (金) 21:28 (UTC)
>「立てない」とはどこにも書いてません
ちょっと苦しいですね。--無事本 2010年6月5日 (土) 07:25 (UTC)
- 苦しいのは自分でしょう。書いてもないことを勝手に決め付けてはいけませんよ。それが個人の健康状態なら尚更です。--Musounoken 2010年6月5日 (土) 08:39 (UTC)
合気と実戦性
レイアウトのために項目を作ってみました。
色々と意見が取り交わされていますが、ここは実戦性の項目なのですから、要するにご一方が「合気の巧さ」とか「合気と年齢」とでもいった項目を作り、住み分ければ善いのではないでしょうか。--無事本 2010年6月6日 (日) 17:16 (UTC)
無事本さん、レイアウト作りをありがとうございます。
合気出来れば無敵論は、ちょうど中間の立ち位置のご見解が多く見られれば否定されますが、佐川氏しか見られない現状、また多数の会派を見歩いたライターが「(無敵論者が)複数いた」という旨を書かれている事から、やや支配的と言わざるをえないようです。
合気道の理念については、「主な理念とする」の「主な」の重きをご理解下さい。「理念的には力による争いや勝ち負けを否定し」ともWikipediaに書かれています。試合、乱取り、スパーリングは、争いであり勝ち負けだと思います。それらをおこなっていない、理念としてもいない、また現実通用した公式記録もない、これを「想定している」とは普通言えないでしょう。
「力による」にある程度重きが置かれていると解釈しても、実情からも、殆ど変わりません。
繰り返しますが、「実は想定している個人や流派も存在する」というのも、否定はしません。しかし表立っての傾向で記事作りをするのがWikipediaなのですから、「実は情報」を主役にするのは、難しいかも知れないです・・--顔の無い人 2010年6月6日 (日) 18:03 (UTC)
>顔の無い人さん
- 合気出来れば無敵論は、ちょうど中間の立ち位置のご見解が多く見られれば否定されますが、佐川氏しか見られない現状、また多数の会派を見歩いたライターが「(無敵論者が)複数いた」という旨を書かれている事から、やや支配的と言わざるをえないようです。
「合気出来れば無敵論(批判)は佐川氏しか見られない」と長野さんが「(無敵論者が)複数いた」旨書いている、という事実があるだけなのでは。長野さんは「支配的」とか「二極化」とは仰ってないのですか?それはあなたのご意見ですよね?
- 合気道の理念については、「主な理念とする」の「主な」の重きをご理解下さい。
「主な理念」と「実戦を想定していない」がどう結びつくのか理解できません。 「主な」という言葉の意味は「ここに書いていないことは想定しない」という意味では無いと思うんですが。
「理念的には力による争いや勝ち負けを否定し」ともWikipediaに書かれています。試合、乱取り、スパーリングは、争いであり勝ち負けだと思います。それらをおこなっていない、理念としてもいない、また現実通用した公式記録もない、これを「想定している」とは普通言えないでしょう。
合気道の最大会派・合気会は試合を行いませんが、「実戦」という言葉が含む全てを想定しないわけではありません。「実戦」という言葉の定義にもよりますが、「合気道は実戦を想定していない」と言われるなら誤解を招く表現になります。前にも言いましたが、「合気道は試合を想定していない」「合気道は試合を想定しない会派の人口が大半である」ならまだ分かります。
それとウィキペディアの編集の論拠をウィキペディアの他の記事に求めるのは自己参照になりますので、余り推奨されない行為とされていることをお知らせしておきます。--Musounoken 2010年6月7日 (月) 13:27 (UTC)
こちらこそ、朝青龍と人選論に分けて頂きまして有りがとうございます。--無事本 2010年6月6日 (日) 18:47 (UTC)
ここの「実戦」の段には、「試合(または乱取、スパーリング)」と書いてありますよ。--顔の無い人 2010年6月8日 (火) 09:17 (UTC)
>顔の無い人さん
ならば提案です。ここでの「実戦」が「試合(または乱取、スパーリング)」のみしか意味しないなら、わざわざサブセクション名を
「実戦性」の論点
などと大まかな括りにせずに、
「試合・競技性」の論点
と明確にすれば良いのではないでしょうか?この方が論点がすっきりするはずです。--Musounoken 2010年6月8日 (火) 10:35 (UTC)
乱組みの論点も含まれますので、「実戦性の論点」でいいのではないでしょうか。--無事本 2010年6月8日 (火) 19:57 (UTC)
- 「乱組み」の文字も説明も本文中のどこにもありません。どこにどう含まれているのですか?またそれが含まれていたらなぜ「実戦性」でなければならないのでしょうか?ご説明下さい。--Musounoken 2010年6月8日 (火) 21:51 (UTC)
再提案します。当該サブセクション名を“「実戦性」の論点”から“「試合・スパーリング」の論点”に変更しましょう。--Musounoken 2010年6月9日 (水) 14:40 (UTC)
乱組みの文字や説明は私が少し上のほうで書いていますので、よければ参照してみて下さい。
なぜそれが含まれていれば「実戦性」と表記すべきかといえば、その目的(理念)や結果が実戦性と直結しているからです。--無事本 2010年6月9日 (水) 19:35 (UTC)
- >実戦
- 古流でいう乱組みですね。
- 合気系とはイメージ上の親和性が高いため、この表現も盛り込むべきかも知れません。--
上の文章がその「説明」ですか?何も分からないですね。そもそも実在する言葉なのかどうか?--Musounoken 2010年6月9日 (水) 19:49 (UTC)
>何も分からないですね。
本文からの流れを再確認してみて下さい。
言葉のことは例えばこの二行目をご参照を。 http://www.budoshop.co.jp/Yoshimine%20/bh2005/1216Randorigeiko.htm無事本 2010年6月10日 (木) 16:44 (UTC)
- 乱捕は流派によっては乱組、意地稽古ともいい、限定された範囲で随意に技を掛け合う稽古方法です。これも流派によってやり方は様々で、江戸時代にも既に行なわれていたようですが、その形式は柔道の乱捕よりもレスリングのスパーリングに近いものだったようです。
要するに乱取り・スパーリングの一種ということですね。ならば別に「実戦性」でなく「試合・スパーリング」と改名して問題なさそうですね。--Musounoken 2010年6月10日 (木) 19:55 (UTC)
サブセクション名“「実戦性」の論点”を、内容に沿って“「試合・スパーリングにおける実戦性」の論点”と改名しました。--Musounoken 2010年6月10日 (木) 20:13 (UTC)
合意なき性急な編集でしたので、差し戻しておきました。
伝統武術の乱組みはボクシングやキックボクシング、レスリングのイメージが色濃い限定的攻防や、またチャンピオンスポーツに特化された性能を目指すものではなく、あくまで実戦性を目的とし、実戦性と直結する内容なので、「実戦」の一語で統括しておきます。--無事本 2010年6月11日 (金) 07:51 (UTC)
- 横から失礼します。「伝統武術の乱組みはボクシングやキックボクシング、レスリングのイメージが色濃い限定的攻防や、またチャンピオンスポーツに特化された性能を目指すものではなく、あくまで実戦性を目的とし、実戦性と直結する内容」という考え方はどんな文献に出てくるのでしょうか?私の知識では使用例を存じないので、出展の記載をお願いします。それから実戦と言うとあまりにも範囲が広いです。極端な話、素人の暴漢を不意打ちで撃退するのも実戦ですし、なめてかかってきた暴漢に合気柔術の技を掛けるのも立派な実戦です。ですのでMusounokenさんの“「試合・スパーリングにおける実戦性」の論点”という改名に私は賛成です。--Hakusai 2010年6月11日 (金) 12:09 (UTC)
>Hakusaiさん、御賛同いただきありがとうございます。
無事本氏が引用したサイトにも、
- 「乱捕をやるから実戦的」という短絡的な説もこれに起因します。
とあり、「あくまで実戦性を目的とし、実戦性と直結する内容」とする無事本氏のような意見に否定的ですね。私も無事本氏に出典の明示を求めます。--Musounoken 2010年6月11日 (金) 12:56 (UTC)
Musounoken氏へ。
記事はお話し合いの上、書き直されて下さい。
実戦性のサブセクションに「K-1」「プライド」といった試合概念による定義を持ち込んだのは122.135.135.241氏なので、少なくとも編集者のお一人に、実戦イコールほぼ試合と考える、そうイメージなさる人がいたというのは事実でしょう。(但しプライドは今は無いので、より概念の広い、一般的な競技名に私が書き換えさせて頂きました)
実戦をどうお考えになるか、詳しくは「実戦と現代人が聞けば、何をイメージする人が多いか」は、慎重に決めなければならないので、とりあえず122氏その他のご意見を待ってからにしませんか。
122氏が実戦の(一部)定義を試合に求めたのは、あながち間違いではないと思います。なぜなら、相手が(ほとんどの場合)格闘技をやっているからです。素人を相手にすれば何をやっても決まるものですし、戦闘技術(かも知れない概念)の項目である以上、対格闘技を実戦とするのは、ある意味自然な事とも言えるでしょう。
また格闘技人口が空前の数となっている、今という時代性も、無視出来ません。もしも実戦を街中の突発的なそれと定義したくても、格闘技の練習者という言わばハズレクジを引く可能性が、一昔前とは比べ物にならず、そういった意味でも仕方のない定義かも知れないです・・--顔の無い人 2010年6月11日 (金) 09:18 (UTC)
>顔の無い人さん
- 素人を相手にすれば何をやっても決まるものですし、
そんなことはありません。格闘家が素人にやられたなどという話はザラにあります。素人に技が掛からない有段者の話も良く聞きます。「素人だから」と軽く見る、というのは武道武術をたしなむ者として慎むべき慢心かと思います。また同様に思索者としても安易な物事の決め付けは慎むべき慢心と存じます。
- 実戦をどうお考えになるか、詳しくは「実戦と現代人が聞けば、何をイメージする人が多いか」は、慎重に決めなければならないので、とりあえず122氏その他のご意見を待ってからにしませんか。
それは構いませんが具体的にいつまで待つのですか?3日ですか?一週間ですか?1ヶ月ですか?仮に122.135.135.241氏のお答えがない場合は記事の編集はできないのでしょうか?
物事を論じるのに言葉の定義を明確にするということは基本中の基本ではないかと考えますが、その点については御異論ありませんか?
一合気道に携わる者としては、「実戦」が何であるかを曖昧にされたまま、
- 「合気は実戦を想定していない」は、主に合気道の総意、考え方として、取りました。
などと勝手に総意を創造されては困りますし、そのような曖昧な前提で論議を進められることにも同意できません。
そのような「総意」は、いつどこの何という合気道家が表明され、一体どのような手続きで合気道界の「総意」とされたのか、ソースを明らかにする必要があるでしょう。
もし顔の無い人さんが、「実戦」が「試合・スパーリング」のことであると仰るなら、誤解のないように
「合気は試合・スパーリングを想定していない」は、主に合気道の総意
と明確に仰るべきだと思います。本文の記述も同様に訂正を求めます。
そしてこのようなことは別に122.135.135.241氏のお答えを待つまでもありません。「『合気は実戦を想定していない』は、主に合気道の総意」云々は顔の無い人さんの御意見であって、122.135.135.241氏の御意見ではないからです。--Musounoken 2010年6月11日 (金) 12:35 (UTC)
>顔の無い人さん
とりあえず「合気は実戦を想定していない」の部分に「要出典」のタグを貼らせて頂きましたので、先にお貼りしました「どちらか両極端の考えに定まる傾向があり」の分と合わせて、何卒御対応のほど宜しくお願い申し上げます。--Musounoken 2010年6月11日 (金) 13:21 (UTC)
先に引用した合気道の理念は、間違いなのでしょうか? 間違いでなければ、ハッキリ言葉にされているよう、合気道の主な理念は実戦ではありません。
>格闘家が素人にやられたなどという話はザラにあります
それは比率として、全くと言ってよいほど「ありません」。ほぼゼロに近いと言ってよいでしょう。試合に素人が出てきて勝った例など、少なくとも見た事がなかったです。Muso氏の仰る実戦とは、何でしょう? パーセンテージとして試合よりも多いのが、存在するのですか。
>具体的にいつまで待つのですか?
お返事がなさそうだなと判断されるまでです。前の133氏の時のよう、それはそれほど先にはならないと思います。--顔の無い人 2010年6月11日 (金) 13:53 (UTC)
>顔の無い人さん
- 先に引用した合気道の理念は、間違いなのでしょうか? 間違いでなければ、ハッキリ言葉にされているよう、合気道の主な理念は実戦ではありません。
何か根本的に勘違いをなさって居られるのではないでしょうか?「主な理念」で「実戦」を謳っていなくとも、合気道が「実戦」を全て放棄したわけではありませんよ。植芝吉祥丸二代目道主も、合気道は武道としての実質的な強さを追及すべきであるという旨著書で述べています。
柔道にしても、基本理念として「精力善用 自他共栄」と謳っているのは有名ですが、柔道は試合を行っていますよね。柔道の「主な理念」は「試合」だったのですか? 「主な理念」も「主な」という単語も、それが実戦や試合を想定するか否かという問題とは全く無関係な問題です。物事を混同して考えてはいけません。
- 試合に素人が出てきて勝った例など、少なくとも見た事がなかったです。Muso氏の仰る実戦とは、何でしょう?
私が想定した「実戦」とは正に街中の喧嘩を含むようなものから合気道の稽古で素人の見学者に技が掛からなかった場面までを広く含みます。「実戦」という広い範囲を示す言葉なのだから、私が色々な場面を想定するのは私の自由ですよ。顔の無い人さんは「実戦」と言いながら、それはあくまで「試合」に限定された意味だと仰るのですか?ならば最初から「試合」と仰って頂かなければ困ります。価値観の違う相手と会話をするのに、言葉の定義を曖昧にしようとなさるからこのような混乱が起こるのです。だから「言わんこっちゃない」のです。
- >具体的にいつまで待つのですか?
- お返事がなさそうだなと判断されるまでです。
「六十代が実戦論のギリギリ許容範囲」の時もそうでしたが、それは誰がどのような権利で判断なさるのですか?あなたですか?私ですか?「なさそうだな」とは、何を根拠にするのですか?あなたの主観的な予想ではなく、客観的な基準を示して頂けますか?
また重ねて申し上げますが、「合気は実戦を想定していない」「どちらか両極端の考えに定まる傾向があり」の出典は122.135.135.241氏のお返事を待つ待たないとは無関係の問題ですので、こちらはこちらで宜しくお願いいたしますね。--Musounoken 2010年6月11日 (金) 15:09 (UTC)
実戦とは対素人なのか?
レイアウトのため、項目を作成しました。
>伝統武術の乱組みは
>チャンピオンスポーツに特化された性能を目指すものではなく、
>という考え方はどんな文献に出てくるのでしょうか?
伝統武術でチャンピオンスポーツを志向する体系が存在して、それが主流なのでしょうか?
そもそも江戸時代や明治時代に全国的な試合制度自体が存在しなかったと思われますが、よければ出典を明記して下さい。
>素人
>街中
>素人の見学者
よほど厳しい状況でしたら別として、仮想敵の水準を素人まで下げると、子供や老人、怪我人まで仮想され、この場合武術の必要性からして疑問視されかねませんので、実戦の基本的定義としては「心得」を最低ラインの仮想敵とすべきように思われます。
街中の素人を特別な存在として、どうしても組み込みたければ、「護身術」として住み分ければいいだけです。
また、素人の見学者でしたら「稽古」にカテゴライズすべきでしょう。--無事本 2010年6月11日 (金) 17:43 (UTC)
>無事本さん
- ==実戦とは対素人なのか?==
いたずらに議論を混乱させるだけの無意味な区切りであると思うので、申し訳ありませんが取り外していただけますか。
誰も「実戦の対象が対素人であるか」どうかを問うているのではありません。また一概に「素人」と言ってもその内実はさまざまで、安易に「仮想敵の水準が下がる」とするのは誤りです。「合気道は素人でも空手は玄人」「武道は素人でもウェイトトレーニングはプロ」「スポーツは素人でも力仕事の腕自慢」など強い人間は幾らでもいます。「子供や老人、怪我人」にしてもその内実はさまざまで、問題にする方がおかしいです。対象によりカテゴライズすべきなどというのは議論の拡散にしかなりませんので、以後無用に願います。
- そもそも江戸時代や明治時代に全国的な試合制度自体が存在しなかったと思われますが、よければ出典を明記して下さい。
そのような主張は誰もしておりませんので出典を出す義務はありません。出典が求められているのは、
- 乱組みは(中略)あくまで実戦性を目的とし、実戦性と直結する内容
というあなたの主張に対してです。--Musounoken 2010年6月11日 (金) 20:11 (UTC)
素人のフレーズはあなた方からその意を込めて使用したのですから、それはそれで採用してます。
ただし護身術や稽古へのカテゴライズは、別に議論の拡散ではなく現実ですので、いたしかたありません。
乱組みの目的が実戦性以外だという出典も、よければお願いいたします。--無事本 2010年6月12日 (土) 07:23 (UTC)
- 乱組みの目的が実戦性以外だという出典も、よければお願いいたします。
それはそう主張されている方にお聞きになればいかがですか。
- 実戦とは対素人なのか?
対素人のこともあればそうでないこともある。この答えに尽きますね。 これでこの節は終了です。--Musounoken 2010年6月12日 (土) 12:18 (UTC)
主張者のあなたにお聞きしている形ですが、出典が無いのならいたしかたありませんね。
さて乱組みの目的とする実戦ですが、あなたの論脈では明らかに「稽古」か、よくて「護身術」にカテゴライズされますので、そこは対「心得」とご理解ください。--無事本 2010年6月12日 (土) 17:14 (UTC)
- 主張者のあなたにお聞きしている形ですが、出典が無いのならいたしかたありませんね。
私は「乱組み」に関して何の主張も書き込んでいませんよ。言葉自体知らないのに何を主張するのやら。
「乱組みは(中略)あくまで実戦性を目的とし、実戦性と直結する内容」というあなたの主張に典拠が無いのは良く分かりました。
- あなたの論脈では明らかに「稽古」か、よくて「護身術」にカテゴライズされますので、そこは対「心得」とご理解ください。
もはや会話が成り立たない。理解不能です。--Musounoken 2010年6月12日 (土) 17:31 (UTC)
あなたが言葉を知った後の、ご主張ですよ。
>稽古
あなた自身が、対素人の稽古は実戦である、と喝破したではないですか。
それは「稽古」です、と指摘している次第です。--無事本 2010年6月12日 (土) 18:04 (UTC)
一概には言えませんよ。「対素人の稽古」には道場破り・腕試しも含まれます。素人には稽古の約束事が通用しないので「実戦」と表しています。このように「実戦」の定義は曖昧であると申し上げています。--Musounoken 2010年6月12日 (土) 21:11 (UTC)
>道場破り
後付けしてますよ。--無事本 2010年6月13日 (日) 03:21 (UTC)
サブセクション“「実戦性」の論点”を“「試合・スパーリングにおける実戦性」の論点”と改名の提案
議論のため節を分けました。
そもそも「実戦」とは何か、「素人」とは何か、その定義が曖昧なので議論が成立しません。そのような議論の混線を防ぐためにも、本文のサブセクションhttp://ja-two.iwiki.icu/wiki/%E5%90%88%E6%B0%97#.E3.80.8C.E5.AE.9F.E6.88.A6.E6.80.A7.E3.80.8D.E3.81.AE.E8.AB.96.E7.82.B9
“「実戦性」の論点”を
“「試合・スパーリングにおける実戦性」の論点”と改名するよう、改めて提案します。
対象をある程度限定することで無限に議論を拡散する弊害を防ぎ、論点を明確にすることを企図しています。
もし異議を唱える場合は、理由とその根拠になる出典を明記し意思表示下さい。--Musounoken 2010年6月12日 (土) 12:18 (UTC)
曖昧ではないでしょう。
素人は武術の未経験者、実戦は心得のある相手を相手取った自由攻防ですね。--無事本 2010年6月12日 (土) 17:20 (UTC)
>合気道が「実戦」を全て放棄したわけでは
ないでしょうね。武術を元に作られているのですから、護身の部分も含まれてはいるでしょう。但しその護身部分が極度に狭くなっていないかや、実戦が極度に狭い(意味の)護身を指すのかが、問われているところなのです。
>植芝吉祥丸
氏の唱えているのが実戦という意味なのか、それによるでしょうね。吉祥丸氏は演技性志向の高い人なのが、保江氏のご著作にもありましたし、ここで言う「そのものズバリ」ではないようです。
>柔道
は型が文法で乱取が作文と、明確に嘉納氏が位置づけています。また実際にもそうなっています。言葉として唱えられていて実際にもそうなっている、ここが合気道とは異なるところではないでしょうか。
合気道は理念として否定した上で、唱えているパートも無い、実際にもそうなっていない、これを「想定している」とは言いがたいでしょう。
>私が想定した「実戦」とは正に街中の喧嘩を含むようなものから
それは間違いではないと思います。
>実戦」と言いながら、それはあくまで「試合」に限定された意味だと仰るのですか?
いえ、街中の喧嘩も含めて良いと思いますし、必ずしも試合に限定されたものだとは思いません。勿論(何でもそうですが)実戦の意味を拡げすぎると、話が違うものになってしまいますけれど。
街中の喧嘩は信頼に足るデータが乏しいのですが、いずれにせよ素人と(競技格闘技)経験者の勝敗が、パーセンテージとしてそうひっくり返るものではないと思います。武器あり銃器ありまで拡げると、パーセンテージは大幅に変わるでしょう。長生きを(実戦の)勝利とするならば、多く殆どの男性が、女性には勝てなくなります。
意味を拡げず、限定しすぎず、今の時代に於いて人が実戦と聞いて何を思い浮かべる(パーセンテージが多い)かを、考えてみれば良いと思います。
122氏のお返事待ちは、議題に関係のない内容が返ってくればその時点で現編集参加者に判断が委ねられると思います。いずれにせよ無視は良くありませんので、何らかのご発言がある事、これが明確な基準になると思います。--顔の無い人 2010年6月12日 (土) 13:14 (UTC)
>顔の無い人さん
- 但しその護身部分が極度に狭くなっていないかや、実戦が極度に狭い(意味の)護身を指すのかが、問われているところなのです。
それは初耳です。これはどなたが、どのような形で問われていることなのでしょうか?出典をお願いいたします。
- >植芝吉祥丸
- 氏の唱えているのが実戦という意味なのか、それによるでしょうね。吉祥丸氏は演技性志向の高い人なのが、保江氏のご著作にもありましたし、ここで言う「そのものズバリ」ではないようです。
“ここで言う「そのものズバリ」”とは何ですか?ここで何度も言っているのは「実戦」という言葉の曖昧さです。「実戦という意味」「そのものズバリ」とは何なのかをまず明らかにして下さい。あなたが思っている「実戦」が他者にとっても同じものをさすかどうかは別問題ですので。
言葉として唱えられていて実際にもそうなっている、ここが合気道とは異なるところではないでしょうか。合気道は理念として否定した上で、唱えているパートも無い、実際にもそうなっていない、これを「想定している」とは言いがたいでしょう。
なるほど。
「言葉として唱えられて」いる、それが重要なのですね。では合気道が「言葉として」「実戦」を否定している、たとえば「合気道に実戦は存在しない」と謳っているような、具体的に「実戦」の二文字が入った出典をお願いできますか。植芝盛平なり植芝吉祥丸なりがそう述べているという文言がありますか?
また他に理念として「実戦」の二文字を謳っている・または具体的に否定している武道があるなら、参考までに御教示頂けますか?
- いえ、街中の喧嘩も含めて良いと思いますし、必ずしも試合に限定されたものだとは思いません。勿論(何でもそうですが)実戦の意味を拡げすぎると、話が違うものになってしまいますけれど。
あなたと私の間では充分「話が違うものになってしま」ってますけれど。違う話になってなかったら、
- 試合に素人が出てきて勝った例など、少なくとも見た事がなかったです。Muso氏の仰る実戦とは、何でしょう?
などと、すれ違った質問をだれがするでしょうか?後から「いえ、実は知ってましたよ」みたいなことを言われてもですね。
意味を拡げず、限定しすぎず、今の時代に於いて人が実戦と聞いて何を思い浮かべる(パーセンテージが多い)かを、考えてみれば良いと思います。
では「“実戦”と聞いて現代人は何を思い浮かべるか」の具体的かつ信頼に足る統計データを示して下さい。あなた個人の想像ではなく。
122氏のお返事待ちは、議題に関係のない内容が返ってくればその時点で現編集参加者に判断が委ねられると思います。いずれにせよ無視は良くありませんので、何らかのご発言がある事、これが明確な基準になると思います。
私は「具体的にいつまで待つのですか?」とお聞きしております。122.135.135.241氏のお返事を時間的にいつまで待つのか、それはどのような合理的客観的判断に基づくものなのかということです。「122氏の発言があったら判断する」かどうかはお聞きしていません。
それと、本文の「要出典」の件はまだお答え頂けないのでしょうか?--Musounoken 2010年6月12日 (土) 14:50 (UTC)
>問われている
のは今この流れに於いてですよ。
>ここで言う「そのものズバリ」とは何ですか?
本文には(実戦という)とカッコで説明されています。 ・・これだけじゃお解かりにならないでしょうから、吉祥丸氏と対比的に言えば、演技ではない自由攻防となるでしょうか。
自由攻防も、限定されすぎていないのが、そう扱われるのではないでしょうか。腕相撲なども自由攻防ですが、限定されすぎているので、実戦と扱うのは難しいと思いますので。
>合気道に実戦は存在しないと謳っているような
「実戦は存在しない」ではなく「実戦を主な理念としていない」です。「合気道 理念」でヤフー検索してみても、Wikipediaの次に出てくる二件目に既に、Wikipediaのと同様の言葉が示されています。
>実戦と聞いて現代人は何を思い浮かべるかの具体的かつ信頼に足る統計データを示して下さい
編集者では私、122氏、無事本さんが、似たようなのを想起しました。
また「思い浮かべる」とは言いましたが、それは数学的な確率論でもあります。世にある実戦のパーセンテージは、喧嘩よりも試合(乱取、スパーリング)のほうが遥かに多いですよね? 腕相撲よりも多いと思います。また合気上げの練習回数よりも、多いと思います。多いもののほうが、必然的に「思い浮かべる」対象にも、なりやすいと思います。
122氏のお返事とは、全く何もご発言がない場合でしょうか? それでしたら現編集者たち、私やMuso氏、無事本さんが、「ちょっと待つ事になりそうだな」と合意出来たら、になりますかね・・
本文の要出展に関しては、合気道の理念、中立概念の提示が公に存在しない事、以上の2点を以って、幾度も説明していますよ。--顔の無い人 2010年6月12日 (土) 15:42 (UTC)
>顔の無い人さん
- >問われている
- のは今この流れに於いてですよ。
私は存じませんね。それはあなたが今唐突に言い出したことでしょう。それを「後付けの論理」と言います。
- 本文には(実戦という)とカッコで説明されています。 ・・これだけじゃお解かりにならないでしょうから、吉祥丸氏と対比的に言えば、演技ではない自由攻防となるでしょうか。
「自由攻防」の四文字が含まれなければ「実戦そのものズバリ」ではない、というのはあなたの考えに過ぎません。
仮に、「植芝吉祥丸の文言に『自由攻防』の4文字が含まれないから『実戦そのものズバリ』ではない」とあなたが仰るなら、随分妙なケチを付ける人だなという感想しか沸きません。
- 「実戦は存在しない」ではなく「実戦を主な理念としていない」です。
で、その「実戦を主な理念としていない」ことが
- 「合気は実戦を想定していない」は、主に合気道の総意、考え方として、取りました。
というあなたの自説の根拠ですか?前にも言いましたが「理念」と「実戦を想定するか否か」は直接関係がありませんよね。また顔の無い人さんは前々の発言で、
- >合気道が「実戦」を全て放棄したわけでは
- ないでしょうね。武術を元に作られているのですから、護身の部分も含まれてはいるでしょう。
とも仰ったので“「合気は実戦を想定していない」は、主に合気道の総意”と明らかに矛盾します。「但しその護身部分が極度に狭くなっていないか」どうかなどと言うのは唐突に言い出した後付けの理論であり、またそれが仮に狭かろうが広かろうが、「護身の部分も含まれて」いる以上「実戦を想定していない」ことにはなりません。顔の無い人さんは「合気道は実戦を想定しない」旨撤回なさったんでしょうか?
- >実戦と聞いて現代人は何を思い浮かべるかの具体的かつ信頼に足る統計データを示して下さい
- 編集者では私、122氏、無事本さんが、似たようなのを想起しました。
意味が分かりません。それのどこが「信頼に足る統計データ」なのでしょうか?
- 世にある実戦のパーセンテージは、喧嘩よりも試合(乱取、スパーリング)のほうが遥かに多いですよね? 腕相撲よりも多いと思います。また合気上げの練習回数よりも、多いと思います。
それはあなたの想像に過ぎません。全く客観性を欠いています。
122氏のお返事とは、全く何もご発言がない場合でしょうか? それでしたら現編集者たち、私やMuso氏、無事本さんが、「ちょっと待つ事になりそうだな」と合意出来たら、になりますかね・・
私は待つ必要は無いと考えています。記事の編集に元執筆者の合意が必要であるというウィキペディアのガイドラインは無いからです。したがって合意は無いですね。
- 本文の要出展に関しては、合気道の理念、中立概念の提示が公に存在しない事、以上の2点を以って、幾度も説明していますよ。
それは「出典の明示」とは言いません。「合気は実戦を想定していない」と、「どちらか両極端の考えに定まる傾向があり」を客観的に示す公式資料の提示が「出典の明示」です。あなたはこの件に関し、何らの公式資料の提示も実行していません。「ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません」を確認されたし。このままでは削除対象となります。--Musounoken 2010年6月12日 (土) 16:59 (UTC)
>それはあなたが今唐突に言い出したこと
ではなく、無事本さんにも「実戦とは対素人なのか?」と言われたり、その限定性が既に指摘されていますよ。
>文言に
ではなく、保江本に描かれる(吉祥丸氏の)指導の実像です。
>「理念」と「実戦を想定するか否か」は直接関係が
あると思います。より解かりやすく述べれば、理念だけではなく、それにプラス実状――この場合「実戦練習をしていない」ですね――が加わる事により、「想定していない」になると思います。
逆に言えば、(実戦に関して)理念で否定している、練習もしていない、通じた公式記録も見られない、これだけ揃っていてナゼ「想定している」になるのでしょう?
>明らかに矛盾します
「合気は実戦を想定していない」と「合気はごくごく一部に、護身にも使える要素が含まれる(かも知れない)」との間に、矛盾はありません。「合気のどこを探しても、全く一切、塵ほども、護身に使える要素など見当たらない」とは書いていないのですから。腕相撲だって、鍛えればその体力により、護身となりうるでしょう。しかしそれを以って「腕相撲は実戦を想定している」とは、言いがたいのではないでしょうか。
>信頼に足る統計データ
だと思います。事実目の前に示されている、ごまかしようのないデータなのですから。
>それはあなたの想像に過ぎません。全く客観性を欠いています。
いえ、喧嘩や腕相撲、合気系の稽古よりも、試合(または乱取、スパーリング)のほうが遥か比べものにならなく、数が多いです。たとえば部活で柔道をやっている中学生は、一学年につき多い年度で7万人もいます。その人数がほぼ毎日乱取をやっているわけです。比べて学内で喧嘩や腕相撲、延いては合気系の稽古が行われている光景を、一日にどれだけ見るでしょう? これは私の主観ではないと思います。
>合意が必要であるというウィキペディアのガイドラインは無い
これはちょっとおかしいのではないでしょうか。Wikipediaに関係なく、また反するのでもなく、人の意見を無視しないのは、会議のあたりまえの在り方ですよ。
私は無視をしたくないと思います。が、しかし、無限に待てる時間はないので、「待った」と言える一定時間待ったのちは、お返事がないと判断したいと思います。
>公式資料
これは引用した合気道の理念が間違っていない以上、必要ないんじゃないでしょうか。「間違ってはいないけど、本を提示出来ない以上認められない」と仰るのならその通りですが、個人的にはそこまでするのもいかがかと思います。
Wikipediaの独自研究のページを拝見しても、特に反した箇所は見当たりませんでした。
「どちらか両極端に定まる傾向」は、中立概念の提示が公に見当たらない事を以って、そう表現しています。
「合気が出来れば無敵だなどと油断せず、さりとて合気は実戦を想定していないともしない、ちょうど中間の立場の、実戦性を厳格に追究している個人や会派は、今現在きわめて少数に留まるのが、現状と言えよう」
このようにしてみても良いかも知れませんね。ただ、前に書いたのとイコールですし、やや長くもなりますけれど・・--顔の無い人 2010年6月12日 (土) 18:28 (UTC)
合気道ですが、ここに公式声明がありますね。
http://www.aikikai.or.jp/jpn/what.htm
「合気道は他人と優劣を競うことをしない」
合気無敵論は保江邦夫氏著「合気開眼」全編にわたっています。
また「実戦」は辞書でもあっけなく定義されていますよ。 http://dic.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E5%AE%9F%E6%88%A6無事本 2010年6月12日 (土) 18:52 (UTC)
>顔の無い人さん
- ではなく、無事本さんにも「実戦とは対素人なのか?」と言われたり、その限定性が既に指摘されていますよ。
「実戦」も「素人」もそもそも曖昧な定義なので無意味な指摘です。何を以て「素人」とするのか、状況によっていくらでもカテゴライズ可能だからです。たとえ大東流の師範であったとしても「私は合気道は素人です」と言えば「素人」になってしまいます。何も「限定」することはできません。
…で、「実戦とは対素人なのか?」が、顔の無い人さんの言う
但しその護身部分が極度に狭くなっていないかや、実戦が極度に狭い(意味の)護身を指すのかが、問われているところなのです。
なのですか?良く分かりませんね。やはり唐突と言わざるを得ません。
- ではなく、保江本に描かれる(吉祥丸氏の)指導の実像です。
それは保江さんから見た吉祥丸さんの一面に過ぎません。吉祥丸さん自身が「合気道は実戦を想定しない」旨示した理念なり合気道の公式資料なりで無ければ意味がありませんよ。つまり「合気道は実戦を想定しない」という理念が合気道家の(あなたの仰る)「合気道の総意、考え方として」合気道家に広く共有されているかどうかが問題なのです。
- あると思います。より解かりやすく述べれば、理念だけではなく、それにプラス実状――この場合「実戦練習をしていない」ですね――が加わる事により、「想定していない」になると思います。
合気道は約束稽古・形稽古を徹底することが全ての現実への応用の道という考えです。「形稽古=実戦練習」と言ってもいいでしょう。日本古来の武術には形稽古しか行わない流派も多くあります。それらも当然「実戦を想定していない」わけではありませんでした。従って、「想定していない」にはなりません。
- 逆に言えば、(実戦に関して)理念で否定している、練習もしていない、通じた公式記録も見られない、これだけ揃っていてナゼ「想定している」になるのでしょう?
先に言ったように形稽古=実戦稽古です。警視庁や機動隊でも合気道を実戦武道として取り入れています。
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/kouhoushi/no6/welcome/2_05.htm http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/kouhoushi/no6/welcome/3_09.htm
「通じた公式記録」にはこんなものもあります。この事件は私も憶えています。
外国人武道家が痴漢の容疑者取り押さえる /京都
「七条署は26日、外国人男性に痴漢をしたとして右京区西院西溝崎町、印刷会社勤務、高井繁一容疑者(51)を府迷惑行為防止条例違反(卑わいな行為)容疑で現行犯逮捕した。調べでは高井容疑者は26日午後8時5分ごろ、JR京都駅(下京区)の烏丸中央コンコース北口広場にいた山科区居住のアルゼンチン国籍の男性(23)に近づき、服の上から男性の下腹部を触った疑い。男性が日本語で「何しとんねん」と一喝すると同容疑者は逃げ出したが、すぐに男性に取り押さえられた。同容疑者は否認している。同署によると、男性は居合道3段、合気道初段。5年前に来日し、現在は武道具店に勤務しながら武道を練習しているという。
2005年10月28日朝刊」 http://blog.livedoor.jp/asatei/archives/50151747.html
比べて学内で喧嘩や腕相撲、延いては合気系の稽古が行われている光景を、一日にどれだけ見るでしょう? これは私の主観ではないと思います。
実戦は「学内」だけで行われるものではありません。「実戦」は範囲が広大です。人と人との些細な喧嘩だって何だって「実戦」なのですから、柔道部の生徒数などと単純比較できるはずがありません。ナンセンスです。
- >信頼に足る統計データ
- だと思います。事実目の前に示されている、ごまかしようのないデータなのですから。
分母3人では「信頼に足る統計データ」になり得ません。何かの冗談であることを祈ります。--Musounoken 2010年6月12日 (土) 22:22 (UTC)
>顔の無い人さん
- 逆に言えば、(実戦に関して)理念で否定している、練習もしていない、通じた公式記録も見られない、これだけ揃っていてナゼ「想定している」になるのでしょう?
先に申し上げたように、「理念で否定して」いないし「練習もしてい」るし「通じた公式記録」も見られるわけです。また植芝吉祥丸道主は『合気道-復刻版』(植芝吉祥丸著・植芝盛平監修 出版芸術社、1996年、ISBN 4882931192)の26ページで
合気道が武道である限り、それはあくまでも強くなければならない。どんな邪なものが来ても、いかなる不正な事象に対しても、断乎としてこれを払いのけて、正しきを護るだけの強さは常に持っておらなければならない。
と強い調子で述べています。これを読んで「理念で実戦を否定している」武道だとは、私はとても思えません。
合気道が理念で否定しているのは「実戦」ではなく、「勝った負けた」を人同士が競い合うことです。 また単純に「勝ち負けを否定している」のかと言えばそうでもありません。たとえば植芝盛平はこう述べています。
いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。 敵が、『宇宙そのものである私』とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうという気持ちをおこした瞬間に、敵は既に破れているのだ。 (高橋英雄編著 『武産合気-植芝盛平先生口述』 白光真宏会出版局、1986年、ISBN 4892140805、15-14頁)。
「私は最初から勝っているのだから勝ち負けを言うことに意味がない」敢えて言えばそういう思想が垣間見えます。これも「実戦を否定している」ことには全く繋がりません。
とにかく合気道の公式資料のどこにも書かれていないことを、また合気道の実際の経験も無い、思想も内実も知らない門外漢が「合気道は理念で実戦を否定している」と不正確な情報を言い募るのはお止めになるべきです。
- これはちょっとおかしいのではないでしょうか。Wikipediaに関係なく、また反するのでもなく、人の意見を無視しないのは、会議のあたりまえの在り方ですよ。
ではお伺いいたしますが、あなたはこれまでのウィキペディアの活動で、記事を書き換える際はいちいち全て元の執筆者の了解を得てから書き換えて来たのですか?おそらくそんなことはないでしょう。
私が言ってるのは「無視しろ」ということではありません。発言は大いに結構です。しかし発言の無い元執筆者を必ず待つべきでもないし、記事の編集はそのことには拘束されないと言うだけのことです。
- >公式資料
- これは引用した合気道の理念が間違っていない以上、必要ないんじゃないでしょうか。
「引用した理念」というのはウィキペディアの「合気道」の記事の引用ですか?それは前にも言ったように「自己参照」なので出典として認め難いです。また何度も言うようにその理念のどこにも合気道が「実戦を想定しない」旨書かれていないので
、「合気は実戦を想定していない」というあなたの主張の典拠足りえません。
- 「どちらか両極端に定まる傾向」は、中立概念の提示が公に見当たらない事を以って、そう表現しています。
あなたが知らないというだけで「どちらか両極端に定まる傾向」と決め付けるのは言い過ぎでしょう。あなたはそんなに武道関係の本を漏れなく目を通し、武道言論界全体を誤り無く公平に俯瞰できている、という自信が御有りなのですか?余り自分の知識を過信せず、「誰それのこういう意見がありますよ」と照会する程度に留めた方が良いです。
- 世にある実戦のパーセンテージは、喧嘩よりも試合(乱取、スパーリング)のほうが遥かに多いですよね? 腕相撲よりも多いと思います。また合気上げの練習回数よりも、多いと思います。
パーセンテージが多かろうが少なかろうが定義が曖昧で論議に支障や誤解を来たす言葉であることは確かでしょう。現に私とあなたの間で「実戦」の意味が違っていて
- 試合に素人が出てきて勝った例など、少なくとも見た事がなかったです。Muso氏の仰る実戦とは、何でしょう?
と聞き返さなければいけなかったではありませんか。それを防ぐためにサブセクション名を変更して明確にしようと言っているだけなのに、なぜ理由にもならない反論を並べるのか理解不能です。あなたや無事本氏のような人と話していても議論が停滞するだけです。他の皆さんのご意見を広く求めます。またコメント依頼によって外部の方の客観的な意見も求めたいところです。--Musounoken 2010年6月13日 (日) 04:15 (UTC)
無視しても全く問題はないのですが、一応皆さんに向けて言っておきましょう。
「大辞泉」(小学館)の「実戦」にはこうあります。
- じっ‐せん【実戦】
- 演習などではない実地の戦い。実際の戦闘、または試合。「―の経験がない
「大辞林」(三省堂)
- 訓練や演習などに対して、実際の戦闘
「広辞苑・第四版」(岩波書店)
- 演習などに対し、実際の戦闘。「-に強い」
「角川国語辞典・新版」
- 実際のたたかい。
辞書によって表記はまちまち。「試合」を含めるかどうかも統一されていません。
まあしかし、仮に全ての辞書に「試合」が載っていたとしても「実戦=試合」ではありませんね。試合以外の「実戦」も無限に有ることに変わりは無いわけですから、やはり議論にあたっては定義をなるべく厳密に近づける必要があります。辞書の定義がどうだとかはどうでも良い話です。以上。それ以外のことは賢明な読者ならお分かりになることですから書く必要はありませんね。--Musounoken 2010年6月13日 (日) 09:53 (UTC)
>辞書の定義がどうだとかはどうでも良い話です。
ぜんぜん良くありません。
公的な資料なのですから。
問題なのは、辞書でいう「訓練」や「演習」を、「(形)=実戦」と断定してしまっているあなたの個人的な定義です。--無事本 2010年6月13日 (日) 16:47 (UTC)
良いんじゃないでしょうか。辞書には「実際のたたかい」と書いてるんですから。「実際のたたかい」…広大ですねえ、些細なケンカから戦争に至るまで、いろんなケースがありますね。
- 問題なのは、辞書でいう「訓練」や「演習」を、「(形)=実戦」と断定してしまっているあなたの個人的な定義です。
覚えがないですね。有るならその箇所を引用してください。
ところで「乱組み」というのは「=実戦」なのですかね?--Musounoken 2010年6月13日 (日) 21:52 (UTC)
「合気道は約束~」の一行であなたが書いていますよ。
>「乱組み」というのは「=実戦」なのですかね?
実際の戦闘ですから実戦でしょう。--無事本 2010年6月14日 (月) 08:45 (UTC)
私Musounokenが書いたのは以下の文章です。
- 合気道は約束稽古・形稽古を徹底することが全ての現実への応用の道という考えです。「形稽古=実戦練習」と言ってもいいでしょう。
「形稽古=実戦練習」と書いているだけですね。“「(形)=実戦」と断定してしまって”はいませんよ。
- 実際の戦闘ですから実戦でしょう。
別に異論はありませんよ。ただし「乱組み」は殺し合いやルール無用の壊し合い・果し合いの類ではありませんよね?より厳密に言えば「実戦」の範疇の中での、乱取り・スパーリングのような実戦的稽古の一つと考えてよろしいですか?--Musounoken 2010年6月14日 (月) 12:08 (UTC)
>形稽古=
>~練習と書いているだけです
その前提として、見学者との形を例に挙げて「実戦」と書いていましたよね。
>乱組みは >ルール無用 >ではありませんよね?
そうですね。
社会的制約の無いぶん、ルール無用と称した暗闘より厄介な面も孕みますが、厳密には実戦「的」稽古にカテゴライズされるかも知れません。
但し形では思いもかけない自由攻防で構成されていますので、型に対置して広く実戦と定義するのが正確かとは思われます。--無事本 2010年6月17日 (木) 16:54 (UTC)
>無事本さん
- その前提として、見学者との形を例に挙げて「実戦」と書いていましたよね。
それは以下の文章ですね。
- 私が想定した「実戦」とは正に街中の喧嘩を含むようなものから合気道の稽古で素人の見学者に技が掛からなかった場面までを広く含みます。
この文章で私が言いたかったのは、「素人の見学者に技を掛ける」というのは、自分の技の有効性をテスト(実践)する機会であるということ、つまり腕試し(試合)=広義の「実戦」という意味合いです。
なお合気道の稽古は一般的に「形稽古」と言われますが、空手や居合のような一人形などと違い、二人一組で互いに負荷を掛け合い技を練り合って行くかたちに成っています。もちろん負荷の程度にも段階があり、負荷よりも流れを重視したり呼吸の合わせ(タイミングなど)を重視する稽古も有り、技の種類や稽古者の練度によっても稽古のあり方・意味合いも変わってきます。
しかし大筋では「捕り(仕手)-受け」の間で技の有効性を確かめ合い(試し合い)高め合って行くという前提があり、限定された一定の約束の中でそれなりの攻防も展開されています。そういう意味では(“力”を使うかどうかはさておき)「腕相撲」に近いものでもあるとも言えるでしょう。「形稽古」と単純には言いながら、潜在的には「試合」の要素を含むものでもあるわけです。それは大東流など他の合気系武術でも同様の稽古形式になっているのではないでしょうか?
- 但し形では思いもかけない自由攻防で構成されていますので、型に対置して広く実戦と定義するのが正確かとは思われます。
つまり分類として言うなら「乱組」は「(自由攻防のある)実戦稽古」という範疇になりますか?「実戦」ではやはり範囲が茫漠とし過ぎるので「実戦稽古」が適当ではないでしょうか?--Musounoken 2010年6月17日 (木) 18:18 (UTC)
別に乱組み自体は実戦稽古と呼ぼうと構いませんが、本文に用いるとなると「実戦稽古における実戦性の論点」では文章がおかしいので、単に実戦性の論点で良いと思います。--無事本 2010年6月22日 (火) 16:37 (UTC)
>無事本さん
なるほど。では「試合・実戦稽古における実効性の論点」としてはどうでしょう。--Musounoken 2010年6月22日 (火) 19:47 (UTC)
- もしくは他の段でも述べていますが、「試合・自由攻防練習における実戦性」で如何でしょう。単語の重複回避・意味の明確化が図れると思います。--Musounoken 2010年6月23日 (水) 14:56 (UTC)
試合は却下です。
まともに攻防せずに試合に勝つため限定の技術も「試合」ですから(特筆性)。
自由攻防練習=自由攻防ですから、結局は「自由攻防の論点」のほうで一括化するか、従来の通り「実戦性の論点」で一括化するかだと思われますね。--無事本 2010年6月25日 (金) 17:48 (UTC)
>無事本さん
- まともに攻防せずに試合に勝つため限定の技術も「試合」ですから(特筆性)。
しかし本文では「試合(または乱取、スパーリング)に身を置かれた時、合気が本当に効くのか」と記述されているのですが。「まともに攻防せずに試合に勝つため限定の技術」があることと、「合気が試合で効くかどうか」は問題が別なのでは。--Musounoken 2010年6月25日 (金) 21:17 (UTC)
では本文の題名と本文の解説部分の両方を、単純に「自由攻防」の表現で統一したらベターでしょう。--無事本 2010年6月26日 (土) 19:41 (UTC)
とりあえず、本文のサブセクションタイトルは“「実戦性」の論点”のまま、内容には「試合」を残したまま、新たに「街中でケンカに巻き込まれたり暴漢に襲われた場合」の記述を加えました。http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E5%90%88%E6%B0%97&diff=32866085&oldid=32866008#.E3.80.8C.E5.AE.9F.E6.88.A6.E6.80.A7.E3.80.8D.E3.81.AE.E8.AB.96.E7.82.B9
また顔の無い人氏による出典の無い記述は削除しました。もともとは顔の無い人の
- 「合気は実戦を想定していない」は、主に合気道の総意、考え方として、取りました。
という発言の「実戦」が何を意味するかをきっかけに提議したサブセクション名変更提案ですが、「合気は実戦を想定していない」を削ればこの問題は解消します。また「街中でケンカに巻き込まれたり暴漢に襲われた場合」を加えれば、ここでいう「実戦」が具体的に何を指すかをかなり明確にできます。とりあえずここを出発点にしてはどうでしょう。--Musounoken 2010年7月2日 (金) 22:09 (UTC)
とりあえず、議論下では合意なき段階で文全体を改訂するのはマナーとして控えましょう。
スタンスごとの言い分を中和する形で、文の並びを差し戻させていただきました。--無事本 2010年7月3日 (土) 08:25 (UTC)
補足です。
- 合気道は約束稽古・形稽古を徹底することが全ての現実への応用の道という考えです。「形稽古=実戦練習」と言ってもいいでしょう。
上の考えを合気道の公式資料として表明しているものとして、植芝吉祥丸・植芝守央(前・現合気道道主)、合気会発行の『規範 合気道 基本編』(1997年、ISBN 4882931435)があります。(以下同書17-18頁より引用)
- Q:合気道で強くなれるのですか。
- A:十分強くなれます。合気道は日々の心身の鍛練です。心の修養ができれば何事にも動じません。その強さが重要です。
- Q:稽古を見ていると人がクルクル回っていて、実際に武道として使えるように思えないのですが。
- A:例えば、学校の勉強をしていて基礎や基本の問題を解くとしましょう。それに対して、「こんなものが入試に出るはずがない」と言って入試問題ばかり解こうとしている学生がいたとしたら読者はどう思いますか。その学生の学力は向上するでしょうか。「しない」とは断言できませんが、基礎や基本を無視して円滑な向上は望めないでしょう。何につけ、一見、遠回りのように見えながら、基礎や基本をしっかり身につけた方が、上達は早いのです。そのまますぐに役に立ちそうに見えることを学ぼうというのは、武道で言うと「こう来たら、こうする」式のものに堕しやすいものです。それらはすぐに役に立ちそうで、実は逆に使えません。起こり得る全てのパターンを予習することなど不可能ですし、実際の場面で、いちいち「こう来たら、こうする」などと思い出して動こうとしたら、間に合わないからです。(中略)すべてをすぐに役に立てることは不可能です。基礎を何度も修練している内に体が体得するのです。体得すれば、自ずと実際に使えるようになります。
- 先ほど、「こう来たら、こうする」式のものは役に立たないということを書きました。蹴り技を稽古の中で使わないのですから、合気道は蹴り技に対処できないのでは、と「こう来たら、こうする」式の発想の人は考えるに違いありません。タイに合気道を指導しに行った人から、聞いた話です。ご存じのようにタイでは、ムエタイが盛んです。やはり、実際、試さなければ認めない人というのはどこにでもいます。この指導員は、ムエタイをやっている人に試合を申し込まれました。最初は、合気道ではそのような申し出に応じないと応えていましたが、立ち合わざるえなくなったのです。仕方がない、と無念無想で相対した次の一瞬には、そのムエタイの人を一教で押さえ込んでいたのです。これには押さえ込んだ指導員本人もびっくりしていました。本人自身、一教が現実の場面で使えるなどとはそれまで考えていなかったからです。これは「こう来たら、こうする」などとは一切考えずに自然に体が動いた結果でした。このように日々の鍛錬がきちんとなされれば蹴り技にも対処できるのです。
つまり「約束稽古・形稽古を徹底することが全ての現実への応用の道」ということ、また、日々の基本稽古が「実戦」ということも想定しているということ、これが現在、合気道(合気会)側の公式なものとして示された考えです。--Musounoken 2010年6月14日 (月) 20:28 (UTC)
そのタイ人との「試合」というのが、何を指すかによるでしょうね。形指導的なのをオーバーに試合と表現したのかも知れません、またその合気道指導者がどなたで、実際にあった事なのかも、それだけでは不明です。
吉祥丸氏の実像は保江氏が著作に証言しているので、言行にどのくらい隔たりがあるのかが、よく解かる資料になっています。 ・・・・とは言えこれは保江氏の一方的な、すなわち真実ではない証言である可能性も、無論汲まなければなりませんが。
いずれにせよ公の場で証明されない限り、想定しているとは言いがたいのではないでしょうか。--顔の無い人 2010年6月15日 (火) 09:06 (UTC)
- 「公の場で証明されない限り、想定しているとは言いがたい」 試合が無いと実戦を想定していない、という事ですか?警察、自衛隊等で採用されている事実はどうでしょうか?実戦を想定していないものを取り入れる意味は無いでしょう?それから合気会と岩間スタイルについての論文
- ですが、こちらでも合気会が実戦を想定していない、とまでは書いていませんが?そもそも合気道は争わずに勝つ事を目的としていますが、これは戦わない、勝ちを求めない、という意味ではなく、起倒流等、昔の武術の理念、逆らわない、必要以上の力を使わない、といったものと共通の理念だと思いますが。それらの武術や試合をおこなわないさまざまな武術も実戦を想定していないという事でしょうか?どうしても実戦を想定していない、とwikipediaで書きたいのでしたら、何か参照できる文献の記載をもって書き込むべきです。乱組についても同じです。「乱組とは○○」等かかれている本や記事を一つ持ってくればすむ話ですよ。--Hakusai 2010年6月15日 (火) 10:16 (UTC)
警察等は、資格に柔道の段位を必要とします。そのため警察官志望者は、毎日道場で練習をし、段審査の試合に出場してきます。一般の柔道愛好家、もしくは部活動の少年達に勝たなくてはなりません。それとは別に警察官は走りこみやウェイトトレーニング、合気道や様々護身術的なものも学びますが、柔道以外(の徒手武道)に、級や段位の取得を必要とするものはありません。割かれる練習時間のパーセンテージも、相対的にかなり低いものに留まります。ここからも、実戦技法として採用されているのは、柔道だと言えるのではないでしょうか。
合気道は「勝つ」事は目的にしていないと思います。否定という表現もとられているほどですので。また力を使わずという意味も、確かに一部含まれるとは思いますが、二代目道主の実像からも、それは最初に122氏が書いた意味の「実戦」に於いてではないようです。
想定は、対素人の護身という意味では想定している(面もある)、対格闘技の試合(含む喧嘩)という意味では、残念ながら全く以って想定していない、そしてこの現代では実戦はほぼ試合や乱取、スパーリングがそれを占め、必然それをイメージする人も多い、よって想定されていない、こう単純には言えてしまうのではないでしょうか。--顔の無い人 2010年6月15日 (火) 10:50 (UTC)
>顔の無い人さん
- そのタイ人との「試合」というのが、何を指すかによるでしょうね。形指導的なのをオーバーに試合と表現したのかも知れません、またその合気道指導者がどなたで、実際にあった事なのかも、それだけでは不明です。
あのねえ…。(苦笑)もう少し相手が何の話をしているのか良く考えましょうよ。私が言ってるのは「合気道が『実戦性』についてどう考えているか」ということであって、「合気道が実戦に通用するか」とか「タイ人は本当にいたのか」とかいう話じゃないですよ。(笑)
- いずれにせよ公の場で証明されない限り、想定しているとは言いがたいのではないでしょうか。
だから想定していることを刊行物に書いてるじゃないですか。「想定している」と「実際に通用するかどうか」は話が別でしょ。「想定」していても実際には通用しないことは幾らでもありますよ。顔の無い人さん、あなたはこれまでどのような「実戦」の場でも自分の実力を通用させることが出来たのですか?勝ったこともあれば負けたことも有るでしょう。負けたのは「実戦を想定していなかったから」ですか?「想定」してもいなくても通用しないものはしない、負ける時は負けます。「実戦に通用しない」と「実戦を想定している」かどうかは別の話でしょう。
ところで「実際に通用した」例として私が挙げたアルゼンチン人合気道家の話は無視ですか?
- 割かれる練習時間のパーセンテージも、相対的にかなり低いものに留まります。
その「パーセンテージ」は誰が計ったのですか?データを示して下さい。
- 合気道は「勝つ」事は目的にしていないと思います。否定という表現もとられているほどですので。
植芝盛平は「最初から勝っている」と言ってましたからね。「吾勝、正勝、勝速日」(自己に勝つ、正しく勝つ、勝つこと昇る日のごとく速し)とも言ってるので、「勝ち」は結構目的にしていますよ。ところで「否定という表現」の出典は?またウィキペディアの「合気道」ですか?
- 想定は、対素人の護身という意味では想定している(面もある)、対格闘技の試合(含む喧嘩)という意味では、残念ながら全く以って想定していない、
あなたが知らないだけですよ。知らないことを何でそんなに自信満々で断定できるかな。その神経が分かりません。
例えば西尾昭二曰く
- 私は「武道の価値は他武道との比較において決まるものである。小器用に合気道の一教、二教ができても他に通じなくては駄目だ」と、私のところに来る人には言っております。「柔道も剣道も空手も、みなそれぞれ研鑽を重ねております。我々はそれを手本にして、それ以上の研鑽をしなければならない。武道の技に悠久不変の技はない。他が変われば当然、それに対応して変わっていくものである。変わらないのは開祖の示された合気道の心である」と言っております。(西尾昭二 『許す武道-合気道-入身一足の理合』 どう出版、2004年、ISBN 4900586293、3頁。)
- そしてこの現代では実戦はほぼ試合や乱取、スパーリングがそれを占め、
だから占めてませんて。「実戦」の意味範囲が限定不能なのにどうやって「占め」てるかどうか計量できるのでしょう。
- 必然それをイメージする人も多い
たとえば新聞社やシンクタンクなど信頼すべき機関による“「実戦」の単語からあなたがイメージするものは何?”とかいう世論調査のデータでもあれば信用できるけど、そうじゃないですよね。あなたの勝手な思い込みでしょう。
- こう単純には言えてしまうのではないでしょうか。
世の中そう単純な人ばかりではありません。現に私とあなたの間で「実戦」の意味が違っていて
- 試合に素人が出てきて勝った例など、少なくとも見た事がなかったです。Muso氏の仰る実戦とは、何でしょう?
と聞き返さなければいけなかったではありませんか。この事実も無視ですか?
- >公式資料
- これは引用した合気道の理念が間違っていない以上、必要ないんじゃないでしょうか。「間違ってはいないけど、本を提示出来ない以上認められない」と仰るのならその通りですが、個人的にはそこまでするのもいかがかと思います。
「そこまでするのもいかがかと」じゃないですよ。そこまでしなければいけないのがウィキペディアです。単に「本」ということではなく公式資料の出典が示せないような記事なら削除されても仕方ありません。
- 腕相撲だって、鍛えればその体力により、護身となりうるでしょう。しかしそれを以って「腕相撲は実戦を想定している」とは、言いがたいのではないでしょうか。
しかし腕相撲の試合を想定して稽古しているなら「腕相撲は実戦を想定している」と言えますよね。「試合=実際の戦い」なんだし。--Musounoken 2010年6月15日 (火) 14:56 (UTC)
- 顔の無い人さん。「合気道は「勝つ」事は目的にしていないと思います。」とありますけど、musounokenさんがおっしゃるとおり、合気道は正勝吾勝勝速日、と言ってますし、一教表は動き始めの最初から最後まで常に相手に勝った状態である、とか言う言葉もあります。合気道は勝つことを目的にしていない、なんて言ったら笑われますよ。もちろん、なにか武道の試合に勝つ事を目的としていない、というならわからないでも無いですが。--Hakusai 2010年6月15日 (火) 21:23 (UTC)
- ところでHakusaiさんは「実戦」と聞いて真っ先に何を連想されますか?--Musounoken 2010年6月16日 (水) 13:24 (UTC)
- 考えたこと無いですけど、私みたいな一般人だとせいぜい犯罪に巻き込まれるとか、ガラの悪いのに絡まれるとかですかね(笑) 理屈を言えば、実践なら生活すべてなんでしょうが。あとは実戦というと戦争とか、スポーツや格闘技のように試合が目的なら試合も実戦ですよね。--Hakusai 2010年6月16日 (水) 14:25 (UTC)
- お返事ありがとうございます。私もHakusaiさんとほぼ同意見ですね。「実戦」と言えばまず真っ先に思い浮かぶのは街中で暴漢に絡まれるようなケース、次にテレビのニュースで良く目にする戦争の映像、それからサッカーや野球の試合かな。春先にスポーツニュースで「プロ野球各チームで紅白戦など実戦形式の練習が始まりました」なんてよく聞きますしね。柔道など競技武道に親しんでる人は「実戦=武道の試合」なのかも知れませんが、「現代日本人の99パーセントがそう思い浮かべるだろう」…てのは幾ら何でも。(笑)かくいう私も居合道で競技武道を行っておりますが、「実戦=居合の試合」という連想はにわかに浮かびません。居合において「実戦」と言えば、まず思い浮かぶのは居合の形において想定される「敵を如何に斬るか」という正に命のやり取りをする場面ですね。「実戦」の意味は人によって様々だと思います。--Musounoken 2010年6月16日 (水) 15:54 (UTC)
- 考えたこと無いですけど、私みたいな一般人だとせいぜい犯罪に巻き込まれるとか、ガラの悪いのに絡まれるとかですかね(笑) 理屈を言えば、実践なら生活すべてなんでしょうが。あとは実戦というと戦争とか、スポーツや格闘技のように試合が目的なら試合も実戦ですよね。--Hakusai 2010年6月16日 (水) 14:25 (UTC)
- ところでHakusaiさんは「実戦」と聞いて真っ先に何を連想されますか?--Musounoken 2010年6月16日 (水) 13:24 (UTC)
私の引用を無視してますよ。
http://www.aikikai.or.jp/jpn/what.htm
「合気道は他人と優劣を競うことをしない」
ついでに「実戦」の辞書的定義も再引用しておきます。
http://dic.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E5%AE%9F%E6%88%A6無事本 2010年6月13日 (日) 08:55 (UTC)
はじめまして、MARO1986と申します。
Musounokenさん合気道の頁の見事な編集お疲れ様です。何度も読ませていただいております。
さて
合気の実践性について議論中のようですが、実戦性は個人の信じる自由で良いのではないですか?実戦と言ってはいますが結局はケンカでしょう。大小すべての小競り合いに武力が入ればケンカです。またケンカを取り押さえる事も実戦に入るますかね。
格闘技にはこれを稽古した皆が誰でも倒せるといったものは無い事は明白です。絶対的に決まる事でないのに、なぜ柔道は実践的で合気道は実戦的でないなどと分ける必要があるのでしょうか?
稽古人口によるケンカをする際に相手が武道を稽古している確率(武道別)ですか?
よく剣道修行者が言う、柔道はケンカで剣道に勝てないの話で理由にされるのが柔道は道具に対する稽古をしてないかららしいです。ケンカでは周りにあるものすべてが武器になって襲い掛かってくるのにです。
また逆に柔道修行者は、そこらに棒が落ちてない場合が多いから剣道は柔道に勝てないという事が多いですね。
ケンカでは稽古している武道が左右するのではなく稽古を通じて鍛えられた体が決めてということでしょう。
このノートを読んでいると皆さんの私の考え・私の師の方が優れていると認めさせたい雰囲気が感じて成りません。
実戦性については、まとまらないなら載せない。ないしはそれぞれの先生の考え流派の考えを短く載せる。
のどちらかにすべきだと思います。
--MARO1986 2010年6月16日 (水) 16:27 (UTC)
>実戦と言っても結局はケンカでしょう。
一介のスポーツマンと一介の素人がケンカをすれば前者の勝つ可能性が大きいかとも思われますが、だからそのスポーツが実戦的だとは言えませんよね。
たとえば保江邦夫氏の謳い文句「武術の達人を一瞬で倒せる、『合気』」というような世界観が、長年の蓄積で大なり小なり 支配的なのに対し、恐らくは「実際はどうなの?」という検証的論点で書かれたのが原文の通りなので、要するに武術対武術が論点なのだと思われます。--無事本 2010年6月17日 (木) 17:23 (UTC)
>MARO1986さん、御意見ありがとうございます。
武道の実戦性についてのお考えは私もMARO1986さんとほぼ同様です。「ある武道・武術が実戦的であるかどうか」は、結局個人や状況に大きく左右されるものなので、論理的には決定不可能であると考えています。
たとえば総合格闘技の試合で柔道家がムエタイ選手に勝ったとして、それは柔道の力なのか、試合前に打撃の練習で開花した力なのか、もともとその個人の能力が優れていたからなのか、厳密に結論付けることは不可能です。合気や合気道が「実戦」に通用するかどうかは、通用するかも知れないししないかも知れない、通用する人もいるかも知れないしない人もいるだろう、一度通用した人でも場合や相手によって通用しない場合もあるかも知れない…ぐらいのことしか言えません。
ですので「実戦性については、まとまらないなら載せない。ないしはそれぞれの先生の考え流派の考えを短く載せる。」というご意見には賛成です。
なお現在主に議論されていたのは「合気の実践性」というよりも、「合気道は実戦を想定していない」という主張をされた顔の無い人さんの意見の根拠は何かという問題でした。以下の部分です。
- 「合気は実戦を想定していない」は、主に合気道の総意、考え方として、取りました。
私は「想定しない」は「合気道は実戦を考えていない」という意味で仰っていると思い疑問を持ちましたが、やがて顔の無い人さんが「理念で実戦を想定してない」「実戦に通じた記録がないから想定してない」「実戦とは試合、乱取、スパーリングのことである」という意味のことを言い出しました。
- 合気道ですが、Wikipediaにも「技の稽古を通して心身の練成と社会に有為の人材を育成し、同時に自然との調和、世界平和への貢献等を主な理念とする」とあります。ここは試合、乱取、スパーリングが実戦と扱われている項目なので、まさに「想定していない」で良いのではないでしょうか。
- 現実通用した公式記録もない、これを「想定している」とは普通言えないでしょう。
- いずれにせよ公の場で証明されない限り、想定しているとは言いがたいのではないでしょうか。
議論の流れが見えにくく語気荒く感じる部分は言葉足らずと反省しますが、私が合気道関係の引用を行ったのは上記の意見に対する反証であり、合気道の優位性を主張したり「合気道が実戦に通用する」と証明するためではないことは何卒御了解頂きたく思います。--Musounoken 2010年6月17日 (木) 15:31 (UTC)
合気道に稀に見られる「勝つ」が何を、実戦を意味しているのかが曖昧なのを、これまでの会話でご理解頂きたいと思います。結果や状況が実証されない以上、主張内容もぼやけるものだと思いますよ。
実戦の定義ですが、既に述べたよう、意味を拡げず限定しすぎず、バランス良い扱いが公的記事には求められるのではないでしょうか。素人相手のケンカに勝つ、これも実戦とは言えるでしょう。しかし試合(乱取、スパーリング)志向をお持ちの方たちには、ケンカにせよ試合にせよ、それらいわば自由攻防練習者たちに勝てなければ、実戦(で勝った)とは認めてもらえないと思います。素人が相手のケンカと言うか街中の実戦でも、実際結果を出しているのは、警察官の数からしても、柔道が圧倒的大多数かと思われます。またケンカと自由攻防練習の絶対数は、比較にならなく自由攻防練習です。
それらから、素人相手のケンカのみでは限定されすぎていて、さりとて戦争となるとどの武道や格闘技にとっても未知の極論なのでこれも偏りがあり、そうなるとちょうどバランスがとれているのが自由攻防練習(を実戦と扱う事)です。
多さ、(警察官などへの)資格の採り入れられ度、両方を満たしつつ、なお他の要素(ケンカや戦争)に他の素手技術に比して実績が足りないという事がない、むしろ圧倒的大多数、これらが揃っている自由攻防練習こそ、実戦と扱うにバランスが良いのではないでしょうか。
合気道は、(素人相手のケンカが)多くない、資格にも採り入れられていない、他の要素(ケンカや戦争)に他の素手技術に比して実績が殊更足りているという証明もない、これでは(合気道の)その取り組みを「実戦」と扱うのは、バランスが悪くなってしまいます。
なおここでは「取り組んでいるか」「取り組んでいないか」がテーマなので、「通用するか」「通用しないか」がテーマではない事を、ご理解頂きたいと思います。
なぜ「取り組んでいるか」がテーマなのかは、想定とは取り組みが重要だからになります。--顔の無い人 2010年6月20日 (日) 15:02 (UTC)
連続投稿、申し訳ありません。アルゼンチン合気道家の件ですが、読み返すと相手の男性は「素人」とは書いていませんでしたね。ひょっとしたら何かをやっていた可能性もゼロではなく、素人と決めつけたのは早計でした。--顔の無い人 2010年6月20日 (日) 17:41 (UTC)
>顔の無い人さん
- 合気道に稀に見られる「勝つ」が何を、実戦を意味しているのかが曖昧なのを、これまでの会話でご理解頂きたいと思います。結果や状況が実証されない以上、主張内容もぼやけるものだと思いますよ。
それは合気道(合気会)が競技試合を否定しているのですから、広く「実戦」あるいは克己などを含め「勝つ」ということを指しているのです。「ぼやける」というのはあなたの主観です。最初からそういう意味なのであって、別にぼやけたわけではありません。
- 合気道は、(素人相手のケンカが)多くない、資格にも採り入れられていない、他の要素(ケンカや戦争)に他の素手技術に比して実績が殊更足りているという証明もない、これでは(合気道の)その取り組みを「実戦」と扱うのは、バランスが悪くなってしまいます。
いやー、別に何も「バランスが悪い」などとは思いませんけど。
そもそもあなたが言う
- (素人相手のケンカが)多くない
- 資格にも採り入れられていない
- 他の要素(ケンカや戦争)に他の素手技術に比して実績が殊更足りているという証明もない
- その取り組みを「実戦」と扱う
それらがさも「ある武道が実戦を想定しているか否かを判断する条件」であるかのように語る、その前提は何ですか? それらの条件はいつ、誰が、どのような資格と権利で定めたのですか?私は全く寡聞にして知りませんが。
- なぜ取り組んでいるかがテーマなのかは、想定とは取り組みが重要だからになります。
武道によって「実戦」への想定のあり方はさまざまでしょう。その武道固有の主体的な思想に基づく想定であって然るべきでしょう。何を重要視なさるかはあなたの勝手ですが、「こういう条件がなければ『想定』したと認めない」ということは誰も合意していないと思いますよ。
- なおここでは「取り組んでいるか」「取り組んでいないか」がテーマなので
今はじめて聞きましたけど、それは違うでしょう。あなたにはそうでも私にとってはそうではありません。「あ~それは確かに『取り組んでいるね』と認めてあげます」と誰が決めるのでしょうか?その方は一体何様なのでしょうね?
- 素人が相手のケンカと言うか街中の実戦でも、実際結果を出しているのは、警察官の数からしても、柔道が圧倒的大多数かと思われます。
「警察官の数からしても」というなら柔道より逮捕術でしょう。警察官の必修実技です。そもそも他武道と数を比べてどうこう言う話でもありません。
http://www.npa.go.jp/police/school/taiku/taiho.htm
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/kouhoushi/no6/welcome/3_11.htm
- またケンカと自由攻防練習の絶対数は、比較にならなく自由攻防練習です。
「比較にならなく」って自信満々で言えるくらい、どうやって正確に数えたのか知りませんが、だからどうなんだという感じですね。
言葉の定義を問題にするならそんな比較よりも、現代日本人が「実戦」と聞いてまず何を連想するかという方が問題でしょう。たとえば「『実戦』と言えば『自由攻防練習』を連想します」という人が最も多いことを示す新聞社やシンクタンクによる世論調査があるかどうかです。
- 実戦の定義ですが、既に述べたよう、意味を拡げず限定しすぎず、バランス良い扱いが公的記事には求められるのではないでしょうか。
その「バランス」とやらを定めるためには前提として、上の世論調査のような信頼すべき機関によるデータが必要ですよね。あなた一人が判断するよりは遥かにバランスが良くなると思いますよ。
- それらから、素人相手のケンカのみでは限定されすぎていて、さりとて戦争となるとどの武道や格闘技にとっても未知の極論なのでこれも偏りがあり、そうなるとちょうどバランスがとれているのが自由攻防練習(を実戦と扱う事)です。
勝手に決めないで下さい。「実戦」は人によって解釈が異なります。あなたが勝手に決めてバランスを逸するより、それなら最初から「実戦」と言わず「競技試合・自由攻防練習」と明確に言えば済むことではありませんか。合気道についても
- 「合気は実戦を想定していない」は、主に合気道の総意、考え方として、取りました。
などと紛らわしい言い方をせず、
- 「合気は競技試合・自由攻防練習を想定していない」は、主に合気道の総意、考え方として、取りました。
と明確に言えば済むことです。それを敢えてそうせずわざわざ解釈の分かれる「実戦」の二文字に拘るのは何の意図があってのことでしょうか?全く理解に苦しみます。--Musounoken 2010年6月20日 (日) 18:20 (UTC)
合気道の「勝つ」は、「己に」あるいは「争わない事」とは明言されているようですが、「実戦に」とは未だ以って明文化されていないのでは。
採り入れられているのを(実戦力の)基準にしたのは、私ではありません。他の(ケンカなどの)要素を挙げたのも私ではないので、悪しからず・・
「取り組んではいないけど想定している」、このような例は武道に限らずあらゆる事象で、ほとんど無いかと思われます。
逮捕術は必修ではあるものの(合気道も一部では必修のようです)、資格ではありません。練習時間も比して圧倒的少量です。
ケンカと自由攻防練習の数比は、たとえば柔道部員の中学生を、少ない年度で4万7千人と設定します。彼ら(彼女ら)が一人一本 乱取をやれば、一日に全国で4万7千人が実戦を経験します。一都道府県につき1,000人が実戦を経験するわけです。どこに一日に1,000人もの中学生が、ケンカをする都道府県があるのでしょう? しかも毎日。しかも乱取が一日一本というのはありえないわけです。大人になるにしたがって、人は必然、ケンカをしなく(出来なく)なるものです。柔道なども競技人口は減りますが、しかし変わらず乱取稽古は行われ続けます。また自由攻防練習は、柔道だけではありません。ケンカと自由攻防練習の数は、比較にならないと言えるでしょう。
実戦の二文字ですが、こだわっているわけではなく、これも最初に用いたのは私ではありません。しかし適度に広い意味をカバーしてくれる表現なのは、否めないと思います。「試合・乱取・ケンカ・スパーリング」としてしまっては、単純問題、長いですよね。長くするよりも、短く「実戦」としたほうが、むしろ伝わりやすくもあるでしょう。伝わりやすいとは、多く一般の読者へです。
実戦の意味を広く捉えるのは、私個人は好きです。しかし現実問題、今この現代では、広く、合気道的意味合いでは、捉えてくれませんよね。それは明確な基準があるのですが、私が全てをお話差し上げる事でもないので、良ければお考えになられて下さい。--顔の無い人 2010年6月20日 (日) 19:50 (UTC)
>顔の無い人さん
- 合気道の「勝つ」は、「己に」あるいは「争わない事」とは明言されているようですが、「実戦に」とは未だ以って明文化されていないのでは。
何の問題もありません。議題は「合気道は実戦を想定しているか否か」です。「実戦に勝つと明文化されているか否か」ではありません。
- 逮捕術は必修ではあるものの(合気道も一部では必修のようです)、資格ではありません。練習時間も比して圧倒的少量です。
ソースもデータも無いので信用しません。別にソースは示さなくて結構です。「合気道は実戦を想定しているか否か」という議論の本筋に全く関係ありませんから。
- ケンカと自由攻防練習の数比は、たとえば柔道部員の中学生を、少ない年度で4万7千人と設定します。
- どこに一日に1,000人もの中学生が、ケンカをする都道府県があるのでしょう。
1000人くらいならあるんじゃないですか?一口に「ケンカ」と言っても大小様々ですからね。それにケンカは中学生だけがやるわけではありませんね。またケンカだけが「実戦」ではありません。「柔道部員の中学生を、少ない年度で4万7千人と設定します。」というのもソースも何もなしの勝手な設定なので信用しません。別にソースは示さなくて結構です。「合気道は実戦を想定しているか否か」という議論の本筋に全く関係ありませんから。柔道部員が幾ら多かろうが、自分のやってる乱取りを「実戦」と意識しているかどうかも分かりませんね。そういうデータもありませんから、そもそも無意味なたとえ話です。
- 採り入れられているのを(実戦力の)基準にしたのは、私ではありません。
おいおいちょっと待ちなさいよ。
- 合気道は、(素人相手のケンカが)多くない、資格にも採り入れられていない、他の要素(ケンカや戦争)に他の素手技術に比して実績が殊更足りているという証明もない、これでは(合気道の)その取り組みを「実戦」と扱うのは、バランスが悪くなってしまいます。
と仰ったのはあなた自身ではありませんか。それを今更「私ではありません」で済まそうとはどういうことか?
私でないなら私でないで、なぜ自分はその主張を行ったのかぐらい説明しなくちゃ駄目でしょう。
前回同様の疑問を繰り返します。
- (素人相手のケンカが)多くない
- 資格にも採り入れられていない
- 他の要素(ケンカや戦争)に他の素手技術に比して実績が殊更足りているという証明もない
- その取り組みを「実戦」と扱う
それらがさも「ある武道が実戦を想定しているか否かを判断する条件」であるかのように語る、その前提は何ですか? それらの条件はいつ、誰が、どのような資格と権利で定めたのですか?「私ではない」なら私ではないで、誰なのか教えて下さい。
- 「取り組んではいないけど想定している」、このような例は武道に限らずあらゆる事象で、ほとんど無いかと思われます。
「基準にしたのは、私ではありません」などと言いながら、まだ「取り組」みを勝手な前提にした決め付けをやめないんですね。前にも言いましたが、合気道は基本稽古の繰り返しが実戦のための稽古という考えです。従って「取り組み」自体は最初からやっています。「取り組みが充分ではない」、とか「取り組みの仕方が違う」といった批判は有り得るとしても、それは「想定しているか否か」とはまた別問題です。
- しかし適度に広い意味をカバーしてくれる表現なのは、否めないと思います。
だからその曖昧さが混乱の元なんでしょうが。
- 「試合・乱取・ケンカ・スパーリング」としてしまっては、単純問題、長いですよね。
誰もそんな長ったらしいのは提案してませんよ。私が提案したのは「試合・自由攻防練習」です。「ケンカ」について触れたのはMARO1986さんですが、氏は別に改名案に「ケンカ」を入れろと主張したわけではありません。「実戦」の二文字からMARO1986さんがまず連想したのが「ケンカ」だったということ、つまり「実戦」という言葉で「試合・スパーリング」という意味を伝えようとした顔の無い人さんの意図は通じなかったということですよ。
- 長くするよりも、短く「実戦」としたほうが、むしろ伝わりやすくもあるでしょう。伝わりやすいとは、多く一般の読者へです。
私MusounokenもMARO1986さんもHakusaiさんも「一般の読者」ですよ。ですが見事に伝わりませんでしたね。「いや伝わるんだ」というならば、何度も言うように、たとえば「『実戦』と言えば『乱取り・スパーリング』を連想します」という人が最も多いという新聞社やシンクタンクによる世論調査などのデータを示して下さい。
- しかし現実問題、今この現代では、広く、合気道的意味合いでは、捉えてくれませんよね。それは明確な基準があるのですが、私が全てをお話差し上げる事でもないので、良ければお考えになられて下さい。
価値観の異なる他者との会話において、こういう持って回ったような曖昧な物言いをするのはやめましょう。「明確な基準があるのですが、私が全てをお話差し上げる事でもないので」というのは、要するに「私は信頼に足る何らの明確なソースもデータも示すことができません」という意味でしょうか?それなら納得します。今までのあなたの発言において、そういうことはほぼ皆無と言ってもいい状態でしたからね。--Musounoken 2010年6月21日 (月) 13:11 (UTC)
「おいおいちょっと待ちなさいよ」と仰る前に、Hakusai氏が「警察、自衛隊等で採用されている事実はどうでしょう?」と書いている箇所を読み落とされないよう、お願いします。もう少々冷静に話されてはいかがでしょう。読まずに言葉遣い悪く、幾度も同じ議題を繰り返すのは、荒らしになるので、ご注意下さい。--顔の無い人 2010年6月22日 (火) 09:23 (UTC)
>顔の無い人さん
Hakusaiさんは「警察、自衛隊等で採用されている事実はどうでしょう?」と書いているだけですね。それが何か?これが一体どのような条件を主張するものなのでしょう?
- 他の要素(ケンカや戦争)に他の素手技術に比して実績が殊更足りているという証明もない
という条件はあなたの主張であって、Hakusaiさんの主張ではありません。論理の責任を他者に転嫁してはいけませんよ。
- 幾度も同じ議題を繰り返すのは、荒らしになるので、ご注意下さい。
あなたが自分の主張の理由とする信頼に足る出典やデータを出せば済むことです。それが出せないから同じ議題が繰り返されるのですよ。ウィキペディアの自己参照やあなたが恣意的に夢想する「ちょうど良いバランス」などではなく、明確な出典やデータがあれば話はすぐに終わります。そのような論者としての当たり前の責任も果たさず、他人を荒らし呼ばわりなど言語道断、それこそ論理放棄以外の何ものでもありません。少しは反省して頂きたい。--Musounoken 2010年6月22日 (火) 12:10 (UTC)
採用されている事を「実戦を想定している(武道である)基準」としたのが、Hakusai氏だったわけですが。「それ(採用)が条件である事を決めたのは誰ですか?」という旨をお聞きになったのがMuso氏です。
お解かりになりましたか? 以後は冷静になられ、言葉も慎まれて下さい。--顔の無い人 2010年6月22日 (火) 12:46 (UTC)
実戦の意味をMuso氏等合気道信奉者のよう捉えてもらえない明確な基準は、テレビです。テレビに映る武道、格闘技は、ほとんど全てが自由攻防です。演武会の類は、残念ながらほとんど映してもらえません。またケンカ、ここでは素手での取っ組み合いの意味になりますが、それもテレビにほぼ映してもらえません。戦争の素手の白兵戦など、数的には論外です。
今この現代に於いて、多くほとんどの方が目にする「実戦」は、パーセンテージとして試合形式の実戦がほぼ全てを占めます。お解かりになりますか?
「イメージする」といった、言葉にされるとその言葉にこだわり不満を覚えるかも知れません、しかし主旨は「実戦と言うと、この現代に於いて何が一番多いか」、これが今、そして初めから議論されている事ではないでしょうか。初めからと言うのは、初めに122氏が書いてからです。
但し「一番多いからそれのみをそれとする」という考えは、適切ではないと思います。ある程度漏れ出る「それ以外」も、重要かと思われます。しかし「それ以外」が「それ」を駆逐する、ひっくり返す根拠が不明であり、「それ」に比例する感、傾向も否めない事からも、矢張り「それ」が中心となるのではと、ご意見している次第です。--顔の無い人 2010年6月22日 (火) 13:32 (UTC)
実戦の種類にはケンカ、戦争(に於ける素手での白兵戦)、自由攻防練習(または試合)があります。よって、このどれか一つを実戦とするのは、不適切です。しかし絶対数には、隔たりがあります。
ケンカ ・・・ 少ない
戦争 ・・・ 少ない(あるいは「今この時代に於いては著しく一般的でない」と言うべきでしょうか)
自由攻防練習、あるいは試合 ・・・ 多い
放映量もですが、現実の数も比較にならないと言えるでしょう。そして「多い」のと「少ない」のとの関係性、応用力は、ナゾとも言えるし、「多い」ほうからが一方通行にある可能性さえ、高いかも知れません。いずれにせよ「少ない」ののほうに意味として重きを置く理由は、かなり薄まるのではないでしょうか。
解かりやすくは、今論じられているのはこれになります。--顔の無い人 2010年6月22日 (火) 14:03 (UTC)
>顔の無い人さん
- 「それ(採用)が条件である事を決めたのは誰ですか?」という旨をお聞きになったのがMuso氏です。
そんなことは言っておりません。人の話を良く読んでいませんね。私Musounokenは、あなたの発言を引用して
- 他の要素(ケンカや戦争)に他の素手技術に比して実績が殊更足りているという証明もない
という条件を設定したのは誰か?と聞いたのです。「採用」ではありません。あなたが言う「他の素手技術に比して」云々という条件です。Hakusaiさんも「他の素手技術に比して」などと一言も言っていませんよ。それはあなた自身の主張でしょう?もう少し冷静になってご自分と他人の発言の同異を確かめられては如何でしょうか。
- 実戦の意味をMuso氏等合気道信奉者のよう捉えてもらえない明確な基準は、テレビです。
他人のことを「合気道信奉者」とは随分常識を欠いた失礼な言い方ですね。(笑)
それからいつも気になるんだけど、「~のように捉えてもらえない」と書くところを「のよう捉えてもらえない」と「に」抜きで書くのは舌足らずの子供のよう見えるので(笑)「に」は入れた方が良いと思います。
- 今この現代に於いて、多くほとんどの方が目にする「実戦」は、パーセンテージとして試合形式の実戦がほぼ全てを占めます。お解かりになりますか?
でもその「パーセンテージ」のデータを示すことは、あなたはできないわけですね。仮に「試合形式」をテレビで見る機会が他の実戦より多かったとしても、「実戦といえば試合を連想する人が最も多い」かどうかはまた別ですね。それを裏付ける因果関係を証明するデータはどこにもないのですから。その点は良くお解りになるべきです。
- ケンカ ・・・ 少ない
- 戦争 ・・・ 少ない(あるいは「今この時代に於いては著しく一般的でない」と言うべきでしょうか)
- 自由攻防練習、あるいは試合 ・・・ 多い
- 放映量もですが、現実の数も比較にならないと言えるでしょう。
これは何と言えばいいんでしょうか?「実戦の種類」を「ケンカ、戦争(に於ける素手での白兵戦)、自由攻防練習(または試合)があります」とたった三つに限定してしまうのもスゴイが、今地球上に何十億の人がいて、一体どれくらいの国で戦争や内乱やテロ・犯罪が行われているのか、考えたことがあるんでしょうか?どうしてこの方はこの広い世界をこうも自信満々に断定してしまえるんでしょうね?(^^;正にアンビリーバボーな不思議体験と言わざるを得ません。--Musounoken 2010年6月22日 (火) 15:32 (UTC)
形稽古=実戦なのか?
冗長なので項目を作成しました。 合気道(日本古来の武術とイコールではない)のどの資料に典拠するのか謎の主張ですが、形稽古は形稽古、実戦は実戦として当然住み分けるべきかと思われます。 「形稽古の論点」でいいのではないでしょうか。--無事本 2010年6月13日 (日) 03:32 (UTC)
形稽古は「実戦のための練習」ではあっても、実戦ではないでしょうね。柔道などにも形稽古は存在しますが、実戦パートとは分けて扱われるものです。実戦用の体作りになるのは、否定しません。走り込みやウェイトトレーニング、その他(格闘技ではない)スポーツのみをやっていて、たとえば素人同士の喧嘩に勝った例など、学校生活を思い出しての通り、枚挙に暇が無いでしょう。しかしそれを以って走り込みやウェイトトレーニング、その他スポーツが、いわゆる「実戦」であるとは、言えないですからね。そして実戦の量は、部活動等で行われる乱取が、日本全国の99パーセント以上を占めるでしょう。実戦とはほぼ試合や乱取稽古、スパーリングを指す表現であると、少なくとも今この時代に於いては、そう言えるのではないでしょうか。--顔の無い人 2010年6月14日 (月) 10:36 (UTC)
サブセクション「実戦性の論点」編集について
長くなったので節を分けます。
>無事本さん
- とりあえず、議論下では合意なき段階で文全体を改訂するのはマナーとして控えましょう。
- スタンスごとの言い分を中和する形で、文の並びを差し戻させていただきました。(「実戦性の論点」2010年7月3日 (土) 08:09; 無事本 (会話 | 投稿記録) による版)--無事本 2010年7月3日 (土) 08:25 (UTC)
そう言うのであれば、「本文の題名と本文の解説部分の両方を、単純に『自由攻防』の表現で統一」することも控えるべきですよ。そのことの合意はできていないでしょう。当該箇所は戻しておきます。また出典の示されない記述は削除対象ですので、当該箇所は削除します。(「実戦性の論点」2010年7月3日 (土) 09:46; Musounoken (会話 | 投稿記録) による版)--Musounoken 2010年7月3日 (土) 09:39 (UTC)
参考までに、上記の編集に至るまでの議論が見つけにくくなっておりますので、以下に引用しておきます。皆様のご意見をお願いいたします。--Musounoken 2010年7月3日 (土) 10:23 (UTC)
もしくは他の段でも述べていますが、「試合・自由攻防練習における実戦性」で如何でしょう。単語の重複回避・意味の明確化が図れると思います。--Musounoken 2010年6月23日 (水) 14:56 (UTC)
試合は却下です。
まともに攻防せずに試合に勝つため限定の技術も「試合」ですから(特筆性)。
自由攻防練習=自由攻防ですから、結局は「自由攻防の論点」のほうで一括化するか、従来の通り「実戦性の論点」で一括化するかだと思われますね。--無事本 2010年6月25日 (金) 17:48 (UTC)
>無事本さん
まともに攻防せずに試合に勝つため限定の技術も「試合」ですから(特筆性)。
しかし本文では「試合(または乱取、スパーリング)に身を置かれた時、合気が本当に効くのか」と記述されているのですが。「まともに攻防せずに試合に勝つため限定の技術」があることと、「合気が試合で効くかどうか」は問題が別なのでは。--Musounoken 2010年6月25日 (金) 21:17 (UTC)
では本文の題名と本文の解説部分の両方を、単純に「自由攻防」の表現で統一したらベターでしょう。--無事本 2010年6月26日 (土) 19:41 (UTC)
とりあえず、本文のサブセクションタイトルは“「実戦性」の論点”のまま、内容には「試合」を残したまま、新たに「街中でケンカに巻き込まれたり暴漢に襲われた場合」の記述を加えました。http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E5%90%88%E6%B0%97&diff=32866085&oldid=32866008#.E3.80.8C.E5.AE.9F.E6.88.A6.E6.80.A7.E3.80.8D.E3.81.AE.E8.AB.96.E7.82.B9
「合気は実戦を想定していない」は、主に合気道の総意、考え方として、取りました。
という発言の「実戦」が何を意味するかをきっかけに提議したサブセクション名変更提案ですが、「合気は実戦を想定していない」を削ればこの問題は解消します。また「街中でケンカに巻き込まれたり暴漢に襲われた場合」を加えれば、ここでいう「実戦」が具体的に何を指すかをかなり明確にできます。とりあえずここを出発点にしてはどうでしょう。--Musounoken 2010年7月2日 (金) 22:09 (UTC)
無事本氏によって取り消されてしまいましたが、上記のような理由で、改めて以下のような文案に変更することを提案します。
合気の精妙な技が激しい実戦の中で使えるかという問題。たとえば有名な合気技法の指導者たちが、総合格闘技の試合(もしくは乱取、スパーリング、または街中でケンカに巻き込まれたり暴漢に襲われた場合)に身を置かれた時、合気が本当に効くのかといった疑問である。限定された条件下でよくかかる技でも、どのような攻防が繰り広げられるか分からない状況でとっさに合気の技を使うことは可能なのか。合気の条件にリラックス・脱力ということが言われるが、激しい攻防の最中にそのような状態に入るのは、常識的には難しい。手首を力いっぱい握られた状態から相手を翻弄する技術があったとしても、相手が手首を取りにくるとは限らぬ、自由に攻めてくる状況に於いて、同じように翻弄が可能かは、意見の分かれるところである。
繰り返しになりますが、主な変更点は太字で示した通り「実戦」として想定されるものの中に「街中でケンカに巻き込まれたり暴漢に襲われた場合」を加えたことです。また以下の、
- 合気系修行者たちは、この問題について概ね二通り、すなわち「合気が出来れば無敵なのだからそんな事は考えなくて良い」「合気は実戦を想定していない」[要出典]の、どちらか両極端の考えに定まる傾向があり[要出典]、(実戦性という)そのものズバリに向き合われていないのが、現状と言えよう。
という、顔の無い人氏による出典の無い記述はいつまで待っても出典が示される気配がないため、ウィキペディアの公式方針「Wikipedia:検証可能性」に則って削除しました。
== 方針 ==
- 記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。
- 記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典(参考文献)―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。
- 出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。
以上、このノートをお読みの皆様のご意見を頂きたいと思います。遠慮なくご発言下さいますよう宜しくお願いいたします。--Musounoken 2010年7月3日 (土) 11:33 (UTC)
自由攻防の表現は誰も合意していない人がいませんよ。--無事本 2010年7月4日 (日) 08:55 (UTC)
>無事本さん
「本文の題名と本文の解説部分の両方を、単純に『自由攻防』の表現で統一」することには賛成しません。サブセクション自体が奥歯にものが挟まったような曖昧な文章になるからです。具体的に「試合・スパーリング」「ケンカ・暴漢に襲われた場合」と言った方が明確になって良いと思います。
また「まともに攻防せずに試合に勝つため限定の技術」があるから「試合」を排除すべきとも思いません。それは「合気が試合で有効かどうか」とは次元の異なる問題だと思います。--Musounoken 2010年7月4日 (日) 09:55 (UTC)
なるべく後付けで発言しないで下さいね。
で、
>合気の精妙な技が激しい自由攻防の中で使えるかという問題。限定された条件下でよくかかる技でも、どのような攻防が繰り広げ>られるか分からない状況でとっさに合気の技を使うことは難しい。合気の条件にリラックス・脱力ということが言われるが、激し>い攻防の最中にそのような状態に入るのは、困難である。手首を力いっぱい握られた状態から相手を翻弄する技術があったとして>も、「その上で相手が自由に動いてよい」状況に於いて、同じように翻弄が可能かは、意見の分かれるところである。たとえば有>名な合気技法の指導者たちが、自由攻防の状況に身を置かれた時、合気が本当に効くのかという極めてシンプルな疑義が持ち上がる。
どこの奥歯にものが挟まっているのか不明ですし、
試合に特化された技術の介在と、合気の目的(有効性)の違いは、全く同一次元の問題なので、悪しからず。--無事本 2010年7月4日 (日) 17:11 (UTC)
お返事が遅れました。まずは出典(合気道の理念および結果が他の格闘文化に比して見られない事実)が示されているのに合意なき本文改変が見られたので、慎重を期し差し戻しました。ご不快かも知れませんが、今一度冷静な編集会議をお心がけ下さい。
さて「どれくらいの国で戦争や内乱、テロや犯罪が――」とのご意見が出ましたが、今のテーマに沿った詳細をご提示頂ければ、会議に有用な情報になると思います。まずはお聞かせ下さい。--顔の無い人 2010年7月4日 (日) 14:39 (UTC)
>顔の無い人さん
「合気道の理念および結果が他の格闘文化に比して見られない事実」という主張はあなたの独自研究であって「出典」ではありません。ウィキペディアの公式方針「Wikipedia:検証可能性」、ガイドライン「Wikipedia:出典を明記する」をよく読み、内容を理解してから編集に参加してください。--Musounoken 2010年7月4日 (日) 15:12 (UTC)
合気道が理念で勝ち負け、争い事を否定しているのは事実なので、独自研究ではありません。(実戦に於ける)結果が他の格闘文化に比して見られないのも、これもまた見られない、挙がらないのは事実なので、独自研究ではないと思います。--顔の無い人 2010年7月4日 (日) 15:29 (UTC)
>顔の無い人さん
ではその「事実」を裏付ける具体的な信頼すべき機関によるデータ、掲載した参考文献の提示をお願い致します。あなたが「事実」と感じるかどうかではなく、社会で認められた情報かどうかが重要です。
このような基本的なことはウィキペディアの公式方針「Wikipedia:検証可能性」、ガイドライン「Wikipedia:出典を明記する」をよく読めば分かることです。繰り返しますがこれらをちゃんと読んで、内容を理解してから編集に参加してください。--Musounoken 2010年7月4日 (日) 16:02 (UTC)
>無事本さん
- なるべく後付けで発言しないで下さいね。
「後付け」はこの場合に言う言葉ではありません。私は「自由攻防に統一」するというあなたの意見には一度も同意していません。
- 自由攻防の状況に身を置かれた時、合気が本当に効くのかという極めてシンプルな疑義が持ち上がる。
ではその「自由攻防の状況」とはどんな状況なのか?という疑問が生まれます。そこは曖昧にせず、はっきりさせた方が良いでしょう。
- 試合に特化された技術の介在と、合気の目的(有効性)の違いは、全く同一次元の問題なので、悪しからず。
どこが「同一次元の問題」なのですか?「試合に特化された技術」が在ろうが無かろうが、そういうもので生じる有利不利を乗り越えて「合気」が効くかどうかが問題になるだけです。「試合に特化された技術」の有無がどうして問題なのか意味が分かりません。--Musounoken 2010年7月4日 (日) 20:29 (UTC)
後付けはこの場合に使われる言葉です。
自由攻防の表現は誰にも反意を明示されていません。
>「自由攻防の状況」とはどんな状況なのか?という疑問が生まれます。
>そこは曖昧にせず、はっきりさせた方が良いでしょう。
既に該当本文に概説されていますので、よければご参照ください。
>有利不利を乗り越えて「合気」が効くかどうかが問題
それは違いますよ。
どの技術でもそうですが、まず使えるに適した土台ありきです。
土台が異なれば通用しなくとも元の技術自体が必ずしも実用的でなかったとは言えませんし、必ずしも異なる土台に挑戦(指標と)しなければならないこともありません。--無事本 2010年7月5日 (月) 09:17 (UTC)
>無事本さん
- 後付けはこの場合に使われる言葉です。
どうしてそう仰るのか全く分かりません。あなたが何と言おうと、私があなたの「題と本文を『自由攻防』に統一」案に一度も同意していないのは事実なので、後付けも先付けもありませんよ。この点は譲りようがありませんね。逆に伺いたいのですが、
- 自由攻防の表現は誰にも反意を明示されていません。
と言うのであれば、私の編集した「実戦性の論点」(2010年7月2日 (金) 21:35; Musounoken (会話 | 投稿記録) による版)も「誰にも反意を明示されていません」なのですが。それをあなたは
- とりあえず、議論下では合意なき段階で文全体を改訂するのはマナーとして控えましょう。
と問答無用で即時「差し戻し」たわけですね。これは矛盾していませんか?
しかも自分でそう言っておきながら、単純に前の版に差し戻すのでもなく、実際は合意もなく勝手に「題も本文も『自由攻防』に統一」した自分の文案に書き換えています(「実戦性の論点」2010年7月3日 (土) 08:09; 無事本 (会話 | 投稿記録) による版)。これはダブルスタンダード以外の何ものでも無いのではありませんか?
- >「自由攻防の状況」とはどんな状況なのか?という疑問が生まれます。
既に該当本文に概説されていますので、よければご参照ください。
あなたの編集した本文「『実戦性の論点』2010年7月3日 (土) 08:09; 無事本 (会話 | 投稿記録) による版」には、
- どのような攻防が繰り広げられるか分からない状況
手首を力いっぱい握られた状態から相手を翻弄する技術があったとしても、「その上で相手が自由に動いてよい」状況
といった曖昧な表現しかありません。私がお聞きしたいのは、「試合」を除外せよと言うのであれば、「自由攻防」とは、具体的にそれ以外の何を指しているのか?という疑問です。
- どの技術でもそうですが、まず使えるに適した土台ありきです。
それが本題にどう関わるのか良く分からないのですが一応聞いておきます。その「合気」が「使えるに適した土台」とは具体的に何でしょうか?--Musounoken 2010年7月5日 (月) 14:26 (UTC)
あなた自身が会話で分かりませんを過剰に多用している事態から自覚していただきたいのですが、少し物覚えや注意力にご難がおありのようですね。
あなたの後付けとは異なり、あなたの編集内容に関してはとっくに(何度も)反意が明示されていますので、頑張って思い出すか探し出してみて下さい。
それから私は特に試合を除外してはいませんし、自由攻防の概説は個々の(主観的には、状況に沿った代表的な)技法を最も一括化した、明瞭な表現です。--無事本 2010年7月6日 (火) 14:05 (UTC)
>無事本さん
- あなたの後付けとは異なり、あなたの編集内容に関してはとっくに(何度も)反意が明示されていますので、頑張って思い出すか探し出してみて下さい。
何度も申し上げた通り私に後付けの論理はありませんし、頑張っても心当たりはありません。そう自身満々で仰るなら簡単に該当箇所を示せるはずですが、そうしないのは「反意の明示」が無いからなのでしょう。
- それから私は特に試合を除外してはいませんし、
いやしかし、
- 試合は却下です。
- まともに攻防せずに試合に勝つため限定の技術も「試合」ですから(特筆性)。
と御自分で仰り、あなたの編集した本文「『実戦性の論点』2010年7月3日 (土) 08:09; 無事本 (会話 | 投稿記録) による版」でも「試合」の二文字は排除されていますが。少し物覚えや注意力にご難がおありなのでしょうか?
- 自由攻防の概説は個々の(主観的には、状況に沿った代表的な)技法を最も一括化した、明瞭な表現です。
「明確」かどうかはさて置くとして、その「自由攻防」とはもっと具体的に言うと、何なのですか?「試合を除外していない」と言うのなら「試合」なのですか?「乱取り・スパーリング」なのですか?「街中のケンカ・暴漢に襲われた場合」は含まれるのですか含まれないのですか?お答え下さい。--Musounoken 2010年7月6日 (火) 17:32 (UTC)
言われたそばから読まずにキーを乱打しないで下さいね。
>街中のケンカ・暴漢
>は含まれるのですか
あなたの後付けとは異なり、どう反意が示されていたか、これで思い出せ(見付けられ)ますか。
>「試合」の二文字は排除されていますが
原文では排除されていませんね。
何故あなたの「編集」(≠「試合」)が差し戻されたのか、これまでの会話を(あなたの場合、数日でもかけて)再確認(初読かな?)してみて下さい。--無事本 2010年7月7日 (水) 08:55 (UTC)
>無事本さん
- あなたの後付けとは異なり、どう反意が示されていたか、これで思い出せ(見付けられ)ますか。
いやあまったく分かりませんね。この会議室で過去に誰かが「街中のケンカ・暴漢」を本文に加えよ、という主張をしたことがあったのでしょうか?それに対して誰かが「反意を示した」という出来事があったでしょうか?私の記憶の底を幾らかっぽじいてもそのような場面に覚えはありません。私自身そのような主張をしたこともありません。数日も掛けるまでもなく答えは出ております。無事本さんは何か夢でもご覧になっていたのではありますまいか?
で、肝心なお答えについては無視ですか?
- 試合は却下です。
- まともに攻防せずに試合に勝つため限定の技術も「試合」ですから(特筆性)。
これは「試合」の排除でなくて何なのか?
- どの技術でもそうですが、まず使えるに適した土台ありきです。
その「土台」とは具体的に何か?
- 自由攻防の概説は個々の(主観的には、状況に沿った代表的な)技法を最も一括化した、明瞭な表現です。
「自由攻防」とは具体的に何か?「試合」なのか?「乱取り・スパーリング」なのか?「街中のケンカ・暴漢に襲われた場合」は含まれるのか含まれないのか?「個々の(主観的には、状況に沿った代表的な)技法」とは何なのか?言葉を曖昧に濁さず、具体的にお答えください。--Musounoken 2010年7月7日 (水) 11:46 (UTC)
あなたの後付けとは異なり、あなたが実戦と主張する(そして事実勝手に本文に書き加えてしまった)街中のケンカや暴漢は、大略二箇所で明解に論駁されていますので、頑張って思い(探し)出してみて下さい。
>「自由攻防」とは具体的に何か?
ですから本文に二箇所概説があります(これで二度目ですよ)。--無事本 2010年7月7日 (水) 18:15 (UTC)
>無事本さん
- 街中のケンカや暴漢は、大略二箇所で明解に論駁されていますので、頑張って思い(探し)出してみて下さい。
ほおそうですか。二箇所も誰かが「街中のケンカ・暴漢」を本文に加えよ、という主張をしたことがあり、それに対して誰かが「反意を示した」「明解に論駁」したという出来事があったのですか?私が幾らこのノートページの記録をさらってもそのような箇所は発見できません。本当にあるのならご提示ください。
- >「自由攻防」とは具体的に何か?
- ですから本文に二箇所概説があります(これで二度目ですよ)。
「概説」とかそういう高度な表現ではなく、「試合」なのか「乱取り・スパーリング」なのか「ケンカ・暴漢に襲われた場合」なのか、そういう実体的・具体的表現でお願いしますと申し上げております。
- どの技術でもそうですが、まず使えるに適した土台ありきです。
「合気」が「使えるに適した土台」とは具体的に何か?こちらも是非お答え下さい。--Musounoken 2010年7月7日 (水) 20:34 (UTC)
主張どころか実際にあなたは反意を無視して本文に加えるまでしてしまいましたので、力みかえる前に時間をかけてでも該当箇所をじっくり探索してみて下さい。
ケンカや暴漢の取り扱いはそこに明示されていますし、それと合気が使える土台も自由攻防の概説で触れられていますよ。--無事本 2010年7月8日 (木) 01:02 (UTC)
>無事本さん
- 主張どころか実際にあなたは反意を無視して本文に加えるまでしてしまいましたので、力みかえる前に時間をかけてでも該当箇所をじっくり探索してみて下さい。
何を仰っているのかまったく意味不明ですね。私は該当箇所が有るなら具体的に示してみて下さい、と言っているのですよ?それがこの答えですか?全然噛み合ってませんね。日本語分かりますか?
大体「ケンカ・暴漢に襲われた場合」を本文に加える文案は、私の書き込んだ「2010年7月2日 (金) 21:35; Musounoken (会話 | 投稿記録) による版」が初出です。したがって「ケンカ・暴漢に襲われた場合」を本文に加えよという主張が「反意を明示された」というような事実は有り得ません。無事本さんはこれまでにも何度か実際には書かれていないことを事実として主張する性癖がありましたが、ここでもその行為を繰り返してしまったようですね。
- ケンカや暴漢の取り扱いはそこに明示されていますし、それと合気が使える土台も自由攻防の概説で触れられていますよ。
無事本さんの脳内には存在するのかも知れませんが、生憎私もここを御覧の読者の皆さんも、読心者や魔術師の仲間ではありませんので見ることができません。よろしければそこがどこなのか、誰にでも分かるように明示して頂けませんでしょうか?どうぞよろしくお願い申し上げます。--Musounoken 2010年7月8日 (木) 11:15 (UTC)
あなたの脳内には存在しないのかも知れませんが、「まず真っ先に」でページ内検索してみて下さい。
次に「スポーツマン」で検索し、次に(ここの)サブセクション7を何度でも読んでみましょう。
あなたがまず真っ先に持ち出したケンカや暴漢が、以後の(大略)二箇所で論駁されているにも関わらず、あなたはアッサリと無視して本文に組み込んでしまいましたね。
あと実際には書かれていないことって何ですか?
中には実際に書かれていること(史料上記載が存在する)なのに書かれていないと頑なに合意を拒否し、要出典符を外そうとしない編集者(とは言えませんね)が居るらしいのですが、まさかその類型ではないでしょうね。--無事本 2010年7月8日 (木) 14:54 (UTC)
>無事本さん
- 「まず真っ先に」でページ内検索してみて下さい。
↓
- お返事ありがとうございます。私もHakusaiさんとほぼ同意見ですね。「実戦」と言えばまず真っ先に思い浮かぶのは街中で暴漢に絡まれるようなケース、次にテレビのニュースで良く目にする戦争の映像、それからサッカーや野球の試合かな。春先にスポーツニュースで「プロ野球各チームで紅白戦など実戦形式の練習が始まりました」なんてよく聞きますしね。柔道など競技武道に親しんでる人は「実戦=武道の試合」なのかも知れませんが、「現代日本人の99パーセントがそう思い浮かべるだろう」…てのは幾ら何でも。(笑)かくいう私も居合道で競技武道を行っておりますが、「実戦=居合の試合」という連想はにわかに浮かびません。居合において「実戦」と言えば、まず思い浮かぶのは居合の形において想定される「敵を如何に斬るか」という正に命のやり取りをする場面ですね。「実戦」の意味は人によって様々だと思います。--Musounoken 2010年6月16日 (水) 15:54 (UTC)
- 次に「スポーツマン」で検索し、次に(ここの)サブセクション7を何度でも読んでみましょう。
↓
- 一介のスポーツマンと一介の素人がケンカをすれば前者の勝つ可能性が大きいかとも思われますが、だからそのスポーツが実戦的だとは言えませんよね。
たとえば保江邦夫氏の謳い文句「武術の達人を一瞬で倒せる、『合気』」というような世界観が、長年の蓄積で大なり小なり 支配的なのに対し、恐らくは「実際はどうなの?」という検証的論点で書かれたのが原文の通りなので、要するに武術対武術が論点なのだと思われます。--無事本 2010年6月17日 (木) 17:23 (UTC)
やってみましたが何も起こりませんね。この箇所のどこに「本文にケンカ・暴漢に襲われた場合を入れろ」という主張やそれに対する「反意の明示」、「合気」を「使えるに適した土台」の説明があるのか皆目見当が付きません。そのような箇所は私の脳内にはもちろん、このノートページのどこにも存在しません。やはり無事本さんは夢を御覧になっているのではありますまいか?もしかしたら何かの間違いかも知れませんが、もし他に有ると仰るのであれば、今度こそ一目で分かるようにご提示いただけませんでしょうか?--Musounoken 2010年7月8日 (木) 15:25 (UTC)
既にサブセクション7すら抜け落ちていますよ。--無事本 2010年7月8日 (木) 16:36 (UTC)
>無事本さん
「サブセクション7」とか「『スポーツマン』で検索」せよとか回りくどい言い方ばかりなさるのは余程自分の文章に自身がないのでしょうね。でその「サブセクション7」=「形稽古=実戦なのか?」を含めて何もないのですが。あなたが挙げたいずれの箇所にも「本文にケンカ・暴漢に襲われた場合を入れろ」という主張やそれに対する「反意の明示」、「合気」を「使えるに適した土台」の説明はまったく存在しません。無事本さんは実際に書いていないことを「書いている」と強弁する行為の常習犯なので、また今回もその性癖が出てしまったわけですね。
ちなみに「形稽古=実戦」ってどなたが主張されたんでしたっけ?--Musounoken 2010年7月8日 (木) 20:30 (UTC)
回りくどいも何も単に書かれているというだけです。
>形稽古=実戦
ちなみにあなたの主張ですが、今そこを読んでいる時点で既に間違っています。--無事本 2010年7月9日 (金) 17:33 (UTC)
>無事本さん
- 回りくどいも何も単に書かれているというだけです。
「単に書かれているというだけ」なら、簡単に引用明示できるはずですが、あなたにはそれがまったく出来たためしがない。幾らあなたの脳内にそれが書かれていたとしても、外から見ることが出来ない以上意味がありません。
- >形稽古=実戦
- ちなみにあなたの主張ですが、今そこを読んでいる時点で既に間違っています。
既にご指摘済みですが。
私Musounokenが書いたのは以下の文章です。
- 合気道は約束稽古・形稽古を徹底することが全ての現実への応用の道という考えです。「形稽古=実戦練習」と言ってもいいでしょう。
やはり物覚えや注意力に相当ご難がおありのようですね。--Musounoken 2010年7月9日 (金) 19:38 (UTC)
外から見ることが出来ないのではなくあなたが個人的に見ていないという状況です。
たった今でも指摘されているのになお読むところを間違えていますし。
>「形稽古=実戦練習」と書いているだけです
まあついでですからこっちにも少し付き合うと、
この中の練習の単語をあなたが純粋に「演習」の意味で書いて弁別していると(事前に)言うのでしたらそれはそれでいいのですが、
あなた自身が稽古の中の一局面(対素人の見学者)を実戦と書いていること、
あなた自身が形稽古を試合(実戦)の要素を多分に含むと書いていること、
あなた自身が乱組み(実戦)を実戦練習(≠演習)と書いていいでしょうかと書いていること、
これらからあなた自身が「形稽古=実戦」と喝破してしまっているに他ならないのですよ。
今ここで指摘されている話題と同じく、よくよく(何日でもかけて)省察してみて下さいね。--無事本 2010年7月10日 (土) 18:23 (UTC)
>無事本さん
- たった今でも指摘されているのになお読むところを間違えていますし。
「次に(ここの)サブセクション7を何度でも読んでみましょう。」というから読んでみたら今度は「なお読むところを間違えていますし。」ですか。
時間稼ぎのつもりなのかどうか知りませんが、そうやって辻褄の合わないことを繰り返して議論を混乱させても、あなたへの評価は上がらないと思います。
- あなた自身が稽古の中の一局面(対素人の見学者)を実戦と書いていること、
「対素人の見学者」に技を験すということは単に「稽古の中の一局面」とは違いますからね。
稽古の約束事(「受け」は「取り」に適度な負荷を掛ける・無理に力で頑張らない)を知らない素人に技を掛けることは、反面自分の技を験される行為でもあるので、「試合=実戦」とも言い得ますよ、ということは以前にも書きました。
従って「あなた自身が稽古の中の一局面」を「実戦と書いている」と単に言うあなたの主張は間違いです。第一どこにもそのような文章はありません。
また実際に書いていないことを「書いている」と言ってしまってますね。
- あなた自身が乱組み(実戦)を実戦練習(≠演習)と書いていいでしょうかと書いていること、
「(≠演習)」などと私は一度も書いた覚えはありませんが?私が書いたのは以下の文章です。
私Musounokenが「(≠演習)」「と書いている」という現実は存在しません。それは無事本さんの脳内に合成されたまぼろしの映像です。
また実際に書いていないことを「書いている」と言ってしまいましたか。
- これらからあなた自身が「形稽古=実戦」と喝破してしまっているに他ならないのですよ。
あなたが論拠とする「これら」の事実はあなたの脳内にしか存在しない架空の事実なので、それを現実世界の他者に当てはめることはできません。残念ながらそれが事実です。他人が書いていないことを「書いている」と脳内で捏造するのはいい加減やめましょう。それはとても「編集会議に参加しましょう」と他人に言えるような態度ではありませんよ。他人にどうこう言う前に、自分のそのような症状を少しは自覚すべきだと思います。--Musounoken 2010年7月10日 (土) 23:28 (UTC)
サブセクション7の中で読むところを間違えているんですよ。
ただでさえ短いセクションなのですから会話にそって見つけて下さい。
>≠演習
>などと私は一度も書いた覚えはありません
すると「=演習」ということですね。
それだと矛盾が生じてしまいます。
乱組み(自由攻防)より低負荷の「素人との形稽古」を実戦と言い、乱組みを演習と言ってしまっていることになります。
あと「稽古の中一局面」はあなたから「形稽古で素人に」と書き出したことですし、形稽古は多分に試合の要素を含むとも(←何度も言いますが)あなたから書き出していますよ。--無事本 2010年7月13日 (火) 18:42 (UTC)
無事本さん
何か変に編集合戦になっています。何人もMUSOUNOKENさんにご賛同しているのに、あなた一人が勝手にノートで議論しろと、差し戻しています。この編集合戦の責任は間違いなく無事氏に有ります。ご自分が何を書いて何をこのノートで主張したいのか全く理解不能です。あなたや顔のない人とこれ以上論議しても、無意味です。ここは多数決でとりあえずMUSOUNOKENさんの
「合気の精妙な技が激しい実戦の中で使えるかという問題。たとえば有名な合気技法の指導者たちが、総合格闘技の試合(もしくは乱取、スパーリング、または街中でケンカに巻き込まれたり暴漢に襲われた場合)に身を置かれた時、合気が本当に効くのかといった疑問である。限定された条件下でよくかかる技でも、どのような攻防が繰り広げられるか分からない状況でとっさに合気の技を使うことは可能なのか。合気の条件にリラックス・脱力ということが言われるが、激しい攻防の最中にそのような状態に入るのは、常識的には難しい。手首を力いっぱい握られた状態から相手を翻弄する技術があったとしても、相手が手首を取りにくるとは限らぬ、自由に攻めてくる状況に於いて、同じように翻弄が可能かは、意見の分かれるところである。」
でまとめた方が無難でしょう。少なくても私を含めて9人の方がMUSOUNOKENさんのご意見にご賛同しています。
いい加減に諦めたらどうですか?--118.111.34.120 2010年7月12日 (月) 15:55 (UTC)
>間違いなく
>全く理解不能
>無意味
>いい加減に
まあノートに書き込んでくれるのはいいんですが、できればもう少し具体的にお願いしますね。
>無難
それ正反対ですよ。
あなたは議論の分かれている「ケンカや暴漢」を、
☆ 議論のまとまりを待たずに(相手方の意見を無視して) ←今ここです
本文に組み込んでしまっている、それに対し私は
☆ 議論の分かれているキーワードは本文から一旦外し、それにそって文を整形しよう
とのスタンスから原文維持派をとっている次第です。
まさに無難です。
対立意見を盛り込んだ「自由攻防」の表現からなる私自身の編集は、なぜか勝手だという(それこそ本当に勝手な)名目で差し戻されてしまいましたけどね。--無事本 2010年7月13日 (火) 18:58 (UTC)
>無事本さん
- 対立意見を盛り込んだ「自由攻防」の表現からなる私自身の編集
単に曖昧な表現でごまかしたものを「対立意見を盛り込んだ」と言うのは自画自賛です。曖昧な表現は百科事典にそぐいません。
真に「対立意見を盛り込」もうと言うのなら、「試合・スパーリング・ケンカ・暴漢に襲われる」全てを書けば良いのであって、私の文案の方がはるかに「対立意見を盛り込」んでますよ。(笑)
- サブセクション7の中で読むところを間違えているんですよ。
- ただでさえ短いセクションなのですから会話にそって見つけて下さい。
「サブセクション7」には、「街中のケンカ・暴漢」を本文に加えよ、という主張を誰かがし、それに対して誰かが「反意を示した」「明解に論駁」したという部分はありません。問題外です。
こっちが本題なので個別にコメントしておきます。
まずスポーツマンのクダリですが、(既に該当箇所の引用符にある通り)どの主張に対して発話された内容なのか、再確認してみて下さい。
それとサブセクション7においては、素人同士の~言えない、の箇所を再読(初読?)してみましょう。
いずれも、ケンカや暴漢を実戦の定義に加えることが「否定」されています。--無事本 2010年7月14日 (水) 19:18 (UTC)
- 乱組み(自由攻防)より低負荷の「素人との形稽古」を実戦と言い、乱組みを演習と言ってしまっていることになります。
どちらが「低負荷」かどうかなど誰にも量りようが無いので議論以前です。大体負荷が高いか低いかで「実戦」かどうかが決まると誰が決めたのですか?
第一私が「『素人との形稽古』を実戦と言」った事実も文章も存在しません。
また書いてないことをあったと言うのですか。
- あと「稽古の中一局面」はあなたから「形稽古で素人に」と書き出したことですし、
ああ…。また書いていないことを「書き出した」と言ってしまってますね。
「形稽古で素人に」などと私が「書き出した」事実は全くありません。
有るなら引用表示してみて下さい。もちろんできるわけが有りません。そのような文章は現実にはないのですから。
形稽古は多分に試合の要素を含むとも(←何度も言いますが)あなたから書き出していますよ。
「形稽古は多分に試合の要素を含む」という文章も書いてはおりません。これも引用表示して頂きたいものです。もちろん無いのだからできるはずがありません。また書いていないことを「書き出した」と言ってますよ。
何度言って治らないようですが、あなたの脳内の映像で事実を語るのはいい加減にしませんか?議論が成り立ちません。
現状では無事本さんが一人意味不明な異議を唱えてスムーズな編集作業を妨害している状態になっています。自分の脳内で完結した論理を振りかざすのでなく、誰にでも分かるように話す努力をして下さい。時間と手間の損失です。--Musounoken 2010年7月13日 (火) 21:20 (UTC)
>ケンカ
>暴漢
それは対立意見ではなくあなたの意見です。
自由攻防の表現は別に曖昧でも何でもありませんよ。
ケンカや暴漢よりずっと具体的な動きの概説も添付していますしね。
>素人との形稽古を >実戦と言 >った文章も存在しません。
合気道の稽古で、をページ内検索してみて下さい。
これは乱組みや竹刀打ちではなく形稽古のことですよね。
>形稽古は >試合の要素を含む >という文章も書いてはおりません。
「形稽古」と単純には言いながら、で検索してみて下さい。--無事本 2010年7月14日 (水) 18:59 (UTC)
>118.111.34.120さん、コメント・御賛意ありがとうございます。
- この編集合戦の責任は間違いなく無事氏に有ります。ご自分が何を書いて何をこのノートで主張したいのか全く理解不能です。あなたや顔のない人とこれ以上論議しても、無意味です。
全く同感です。一体何を主張したいのか私も全く理解不能です。お陰でウィキペディアにおける「合気」についての知識や情報の提供という目的が阻害されていることは誠に遺憾な事態と言うべきでしょう。困ったものですね。--Musounoken 2010年7月13日 (火) 22:23 (UTC)
「『実戦性』の論点」・出典を明記した文案
「『実戦性』の論点」を、真に対立意見(「試合・乱取り・スパーリング・ケンカ・暴漢に襲われる」)を盛り込み、また「合気が本当に効くのかといった疑問が生じる」という記述に関する実例・ソース(『Yahoo!知恵袋』(“合気 実戦”での検索結果・「合気道は、実戦(ストリートファイト,総合格闘技,軍隊格闘技)において有効なのでしょうか?」他。)
『OKWave』(“合気 実戦”での検索結果・「総合(異種)格闘技の試合において、合気道の選手(または合気術を主体にした選手)をほとんど見かけないのは何故でしょうか?」他。))を明記した文章に編集しました。
(2010年7月13日 (火) 23:35; Musounoken (会話 | 投稿記録) による版)
「実戦性」の論点
合気の精妙な技が激しい実戦の中で使えるかという問題。
合気の条件にリラックス・脱力ということが言われるが、激しい攻防の最中にそのような状態に入るのは、常識的には難しい。手首を力いっぱい握られた状態から相手を翻弄する技術があったとしても、相手が手首を取りにくるとは限らぬ自由に攻めてくる状況に於いて、同じように翻弄が可能か否かは意見の分かれるところである。
これはウィキペディアの公式方針「Wikipedia:検証可能性」、考慮すべきガイドライン「Wikipedia:出典を明記する」を尊重したものです。
ウィキペディアの編集にあたっては、個々の編集者の主張や価値観を強く打ち出すのでなく、具体的なソースや出典に基づくものにするべきです。また具体的な出典に基づかない検証不可能な記述、意味不明瞭な曖昧な記述は速やかに排除されるべきでしょう。--Musounoken 2010年7月14日 (水) 00:38 (UTC)
合意なき編集につき、差し戻しておきました。
当初から私は、実戦の主条件に試合を据えることには論駁していましたし、
というより誰もそんな主張(編集)はしていないので、
総合格闘技の試合、でカッコに括るのは明らかにおかしな編集です。
合気系の主設定は手首取りなので、まずはそこからの自由度を論述した内容のほうが主観的ではなく、元の編集を尊重しました。--無事本 2010年7月14日 (水) 19:59 (UTC)
>無事本さん
ソースの提示なきあなたの編集は差し戻しました。編集するのであれば新たなソースを、特に該当箇所を引用表示の上提示して下さい。
- 当初から私は、実戦の主条件に試合を据えることには論駁していましたし、
「当初」でなく、つい最近になって唐突に言い出したと思いますが。あなたは現に
- また「実戦」は辞書でもあっけなく定義されていますよ。 http://dic.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E5%AE%9F%E6%88%A6
--無事本 2010年6月12日 (土) 18:52 (UTC)
とお書きになってますよね。もう忘れたんですか?
- 合気系の主設定は手首取りなので、まずはそこからの自由度を論述した内容のほうが主観的ではなく、
そんなことはありません。合気道でも大東流でも正面打ちも有れば横面打ちも有れば突きも有ります。手首取りだけが主設定と言うのは主観的です。
また実戦になればそのような合気系の設定など通用しません。どこのキックボクサーなり暴漢なりが「合気系の主設定は手首取りなので」とご親切に気遣って手首を掴んでくれると言うのでしょうか?それこそ有り得ない設定です。--Musounoken 2010年7月14日 (水) 21:34 (UTC)
>「当初」ではなく
>つい最近になって唐突に言い出した
チャンピオンスポーツでページ内検索してみて下さい。
>合気道でも大東流でも
ではなく合気系です。
ここ合気道や大東流のページではなく合気のページですよね。
合気、として示される技法の大多数は(少なくとも一般の人々が抱く代表的なイメージは)手首取りからのものですし、
本文(の該当セクション)でも手首取りを基本に据えた記述があるので、自然な流れでまずは原文を優先する次第です。
それとあなたの編集ですが、インターネットの書き込みは出典にはなりません。--無事本 2010年7月15日 (木) 14:37 (UTC)
>無事本さん
- チャンピオンスポーツでページ内検索してみて下さい。
もう検索は結構です。意見は具体的に述べて下さい。
- それとあなたの編集ですが、インターネットの書き込みは出典にはなりません。
「出典」ではなく「実例・ソース」であると書いてあります。
「たとえば有名な合気技法の指導者たちが、総合格闘技の試合(もしくは乱取、スパーリング、または街中でケンカに巻き込まれたり暴漢に襲われた場合)に身を置かれた時、合気が本当に効くのかといった疑問が生じる。」という文章に対して、実際に誰が疑問を表明しているかを示す実例であり、なおかつ実際に多くの人々の間に疑問が生じていることを示すソースです。
- >合気道でも大東流でも
- ではなく合気系です。
「合気道」も「大東流」も「合気系」武道・武術の筈ですが。
「合気道でも大東流でも」ない「合気系」とは何なのか、具体的に教えて下さい。
- 合気、として示される技法の大多数は(少なくとも一般の人々が抱く代表的なイメージは)手首取りからのものですし、
「合気」と言えば「少なくとも一般の人々が抱く代表的なイメージは」合気道でしょう。
「合気 実戦」での検索結果も、ほとんどが「合気道」に関する質問で占められています。
『Yahoo!知恵袋』(“合気 実戦”での検索結果・「合気道は、実戦(ストリートファイト,総合格闘技,軍隊格闘技)において有効なのでしょうか?」他。)
『OKWave』(“合気 実戦”での検索結果・「総合(異種)格闘技の試合において、合気道の選手(または合気術を主体にした選手)をほとんど見かけないのは何故でしょうか?」他。)
無事本さんが「一般の人々が抱く代表的なイメージは手首取り」だと言うなら、そのソースを示して下さい。--Musounoken 2010年7月15日 (木) 15:44 (UTC)
むろん私は一貫して具体的に意見を表明しています。
でもその都度失念されたり無視されたりするので、省察を促している次第です。
>「合気道」も「大東流」も「合気系」武道・武術の筈です
ええ。
ですからその中の「合気」を扱っているのがこのページなんです。
>「合気」と言えば >合気道でしょう。
それは違いますよ。
合気道の略語としての合気でしたら場合その可能性も残りますが、このページの合気は純然たる技法としての合気ですからね。
>「出典」ではなく「実例・ソース」
あまりお堅いことは言いたくないのですが、事典編集における実例・ソースは出典のことであり、インターネットの書き込みは以下のように扱われます。
ですから本文に組み込むのは不適切と言えてしまうのが現状ですね。--無事本 2010年7月15日 (木) 17:38 (UTC)
>無事本さん
- むろん私は一貫して具体的に意見を表明しています。
- でもその都度失念されたり無視されたりするので、省察を促している次第です。
検索して出てきたのは「試合」でなく「乱組み」についての文章であり、どこにも「試合」のしの字もありません。
あなたのもってまわった不明瞭かつ曖昧な独考には残念ながら興味が沸きませんし、そのような態度は会議には著しく不適切です。「試合」を本文に加えることに異議があるならその旨明確に述べて下さい。
上記のどこにも私がソースとして挙げたサイト「Yahoo!知恵袋」「OKwave」のような大手のQ&Aサイトの扱いはは含まれていませんね。
またインターネット上の書き込みだからという理由だけで「本文に組み込むのは不適切」であるとも言えません。→「Wikipedia:信頼できる情報源・オンラインの情報源とオフラインの情報源」
- 合気道の略語としての合気でしたら場合その可能性も残りますが、このページの合気は純然たる技法としての合気ですからね。
それは個人の主観ですね。「合気の技法」という時に、「合気」の項目本文で「合気道の“合気”は扱わない」と宣言されてもいるわけでもありませんし、「手首取りの合気だけを扱う」と宣言されたページでもありません。合気道では「手首取り」だけが合気を使う場面ではありませんので、それに限定せねばならない理由もありません。
- 合気、として示される技法の大多数は(少なくとも一般の人々が抱く代表的なイメージは)手首取りからのものですし、
で、その主張を裏付けるソースは無いのですか?--Musounoken 2010年7月15日 (木) 20:53 (UTC)
もってまわっているのではなくあなたが読んでいないのです。
ご自分の不手際を、なるべく他人に責任転嫁しないで下さいね。
>どこにも「試合」のしの字もありません。
「試合制度」で検索してみて下さい。
>「試合」を本文に加えることに異議があるなら
別に異議はありませんよ(これ言うの二度目です)。
試合を主条件に据えることに異議を唱えているだけですから。
当たり前の話ですね。
伝統武芸は試合を主目的として編纂されているわけではありませんし。
>私がソースとして挙げたサイト「Yahoo!知恵袋」「OKwave」のような大手のQ&Aサイトの扱いは含まれていません
それらはこの場合「掲示板」と言います。
そりゃチャットやツイッターの扱いも明示されてはいませんが、チャットは明らかに掲示板、ツイッターは明らかにブログでしょう。
以下の「理由」に、まさに当てはまる場所であってしまうことも、(以下を)ご参照のうえ、ご配慮ください。
>私達にはそれらの記述や投稿を誰が書いたり投稿したりしたのかを知る術がありません。
>また、それらには編集者による監視や第三者による事実確認が欠けています。
また、あなたの挙げたリンク先には「フルテキストで」と条件が添付されているのをお読み落としなく。
>このページの合気は純然たる技法としての合気です
>↑それは個人の主観ですね。
いえいえ。
主観じゃありませんって。
なぜ合気がページとして独立しているのか、基本的なところからお考え直しいただければと思います。
>主張を裏付けるソースは無いのですか?
参考文献の一件目からして示演(付属の映像資料ふくめ)の大半が手首取りですよ。--無事本 2010年7月16日 (金) 18:02 (UTC)
>無事本さん
- 「試合制度」で検索してみて下さい。
伝統武芸なり乱組みなりの話はそれぞれの項目でも立ててそちらでやって下さい。
- 試合を主条件に据えることに異議を唱えているだけですから。
あなたが異議を唱えようが唱えまいが、「合気が試合で通用するのかどうか」という疑問が世の中に広く存在するのは事実なので関係ありません。主条件に据えるべきかどうかを主張する場ではありませんので。
- >また、それらには編集者による監視や第三者による事実確認が欠けています。
それが問題になるのは、ネット情報の“内容”を事実の根拠として主張した場合についてでしょうね。
つまり、仮に私が
「合気は試合に通用します。それはネットに『私は試合に合気で勝った』という書き込みがあったからです」
とでも書けば問題でしょう。なぜなら「合気で勝った」のが事実であるかの「検証可能性」がないからです。
しかし今回私が挙げた「Yahoo!知恵袋」「OKwave」は、「合気が試合で通用するか?」という疑問が実際存在しているかどうかについての「検証可能性」を満たすだけものであり、情報内容の正当性や真偽を問うものではありません。この点で全く文脈が異なります。
- なぜ合気がページとして独立しているのか、基本的なところからお考え直しいただければと思います。
植芝盛平や塩田剛三らの映像、また佐川幸義についての著作などで有名な「合気」という不思議な現象があるからでしょうね。
- 参考文献の一件目からして示演(付属の映像資料ふくめ)の大半が手首取りですよ。
それがどうして「合気、として示される技法の大多数」なのか、「(少なくとも一般の人々が抱く代表的なイメージは)手首取り」なのか根拠不明です。
ソースとしては認めがたいですね。--Musounoken 2010年7月16日 (金) 19:51 (UTC)
>無事本さん
突然失礼します。 私は女性で合気道を習っています。 実はカウンセラーの資格も持っています。 無事本さんは何かコンプレックスをお持ちですか? 何かそのようなご主張の文章の書き方です。 このままでは、いつまでたっても編集がまとまらないと心配しています。 何とか似た項目である「合気道 ウィキペデア」のような編集ができないでしょうか?--118.109.130.85 2010年7月17日 (土) 14:09 (UTC)
>乱組みなりの話はそれぞれの項目でも立ててそちらでやって下さい。
乱組みではなく試合の話です。
>主条件に据えるべきかどうかを主張する場ではありません
それは違いますよ。
ここは編集内容に関して話し合う場です。
当初から一貫して主張している通り、
伝統武芸がことの発祥や稽古体系からして試合を主目的としていないのは明らかなので、
試合を実戦性の主条件に据えるべきではありません。
>今回私が挙げた「Yahoo!知恵袋」「OKwave」は、
>「合気が試合で通用するか?」という疑問が実際存在しているかどうかについての検証可能性を満たすだけものであり、
>情報内容の正当性や真偽を問うものではありません
それも違います。
検証可能性について早くも二行目にて以下のように論及されています。
>編纂する際、良い記事を執筆するためには、
>広く信頼されている発行元から
>すでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論についてのみ
>言及すべきです。
ですからあなたの挙げた掲示板は出典とはなりえません。
>なぜ合気がページとして独立しているのか、基本的なところからお考え直しいただければと思います。
>植芝盛平や塩田剛三らの映像、また佐川幸義についての著作などで有名な「合気」という不思議な現象があるからでしょうね。
そういう抽象的な話ではなく、流派は流派、合気は合気、だからです。
>それがどうして合気、として示される技法の大多数なのか、
>少なくとも一般の人々が抱く代表的なイメージは)手首取りなのか
>根拠不明です
>それがどうして
>大多数なのか
大半が、と私書いていますよね。
>無事本さんは何かコンプレックスをお持ちですか?
>何かそのようなご主張の文章の書き方です。
あっそう。--無事本 2010年7月18日 (日) 14:37 (UTC)
>無事本さん
- ですからあなたの挙げた掲示板は出典とはなりえません。
分かりました。それは認めましょう。私の文案はここで取り下げることとします。
その上で無事本さんにお伺いしたのですが、
- 合気の精妙な技が激しい実戦の中で使えるかという問題
- 知られる様々な合気技法の指導者たちが、指導ではない柔道や総合格闘技の試合(または乱取、スパーリング)に身を置かれた時、合気が本当に効くのかという、極めてシンプルな疑義が持ち上がる。
という本文の記述は、そもそも具体的に誰が言っているのですか?--Musounoken 2010年7月18日 (日) 16:35 (UTC)
ブロックの報告
議論の途中ですが、利用者:無事本(会話 / 投稿記録 / 記録)さん、利用者:顔の無い人(会話 / 投稿記録 / 記録)さんの両アカウントを、ブロックされているユーザーのブロック破りの強い疑いとして暫定で無期限ブロック対処いたしました。また両アカウントは同一人物(もしくは同様の意思を持った関係者)によるものと思われますので「無事本さん、そうですね。木村氏は高齢者ではありません。--顔の無い人 2010年5月22日 (土) 08:28 (UTC)」という形で、複数を装っていることから、この議論自体が歪な形で進んでいることが強く懸念されます。
Musounokenさんにとっては急なことで混乱をさせてしまいますが、記事及び議論の正常化に向けて、両アカウントからの説明を待ちたいと思います。ご理解ください。--海獺 2010年7月18日 (日) 18:40 (UTC)
>海獺さん
御連絡ありがとうございます。
了解しました。今後の推移を見守りたいと思います。--Musounoken 2010年7月19日 (月) 13:35 (UTC)
お知らせです。利用者:顔の無い人氏が今度は別アカウント「利用者:殿岡」でブロック破りをしていたため、また無期限ブロック処分を受けています。今回は異議申し立てを行っていますが、「利用者:顔の無い人」=「利用者:殿岡」であることは認めたものの、「利用者:無事本」・「利用者:らむちゃん」との関わりは否定しています。詳細は現在議論進行中の「利用者‐会話:殿岡」をお読み下さい。--Musounoken 2010年12月5日 (日) 16:56 (UTC)