ノート:古見駅 (愛知県)
当駅折り返しについて
[編集]折り返し列車の存在について、過去の記述では1980年代には折り返し列車が存在し、当該列車は種別高速となっているが 1980年代高速の停車駅は常滑-大野町-尾張横須賀-太田川(以下略)であり、極めて不合理である。すなわち、当時の旅客需要から見ても中核駅である太田川始発にするか折り返し設備のある大野町から走らせる方が妥当であり。名鉄では標準停車駅ではない駅を発着する定期優等列車が存在する事例もあり、このことだけをして存在を否定することは妥当ではないが実際その存在を示す根拠も示されていない。上記の場合も基本的には車両留置の都合などおおよその理由の見当は付くが(国府や須ヶ口発着の特急など)古見発高速を設定する理由がない。 大野町-(回送)-古見-(普通)-太田川-高速の見間違い(あるいは、それを古見「折り返し」と「思いこんだ」)ではないのか?
また、設備面で見ると、過去存在した渡り線は名古屋方面から北列車が折り返すには極めて都合の悪い構造(駅南方に設置され、左分岐で構成される渡り線であった。すなわち構内で手間のかる入替を本線上で行う必要があり、さらにこのために下りホーム南端から100m以上先に出発信号を設置しなくてはならない)であった上に1990年には既に古見駅は「停留所」となっており「列車」の折り返しは当然出来ない。当時太田川以南で停車場であったのは大野町と常滑だけである。また、撤去されるまで当駅の渡り線の分岐機は電動化されていない。あくまで主張するのであれば社史などに基づく信号上の構造変更など適切な根拠を示してあって然るべきである
すなわち古見折り返し列車の存在は極めて考えがたい 常滑線開通以来、朝倉駅周辺が開発されたのは高度成長期以後の話であり、それ以前に朝倉、あるいは古見で折り返しを行う必要性はないに等しい。他方、高度成長期以後は上記の通り設備面から折り返し列車の存在は考えがたい
wikipediaの性質から見て、断片的な記憶による記述が全くなされるべきではない無用なものと言うわけではないであろう が、明確な根拠のある事実とそうではないものとは 「明確に」 区別されていなくてはならない --130.54.130.244 2012年1月30日 (月) 05:02 (UTC) 追記--130.54.130.237 2012年2月10日 (金) 09:19 (UTC)
- コメント - 古見着は確認できませんでしたが、古見発は少なくとも1980年代には存在しました。名鉄・バス時刻表vol.1 を確認すると古見6時34分発、太田川6時42分着の普通電車(3743F)が確認できます。ただ、発車だけなら折り返し線がなくても(常滑や大野町で折り返して古見まで回送すれば)可能ですし、この電車は始発間際なのでそういった回送作業で古見まで来た可能性はあります(逆に古見着はこの列車以前はもちろん、終電間際(つまり前日運用)にも存在しませんでした)。
- とりあえず上記IPさんも『古見-(普通)-太田川』の存在は指摘してますし、元も取れているので「古見始発」の点は本文に記載してもよいように思います(逆に上記の過去存在した渡り線は要出典事項ではなかろうか)。--ButuCC+Mtp 2012年5月5日 (土) 12:44 (UTC)
- コメント 当時の大野町駅には名古屋方より回送され6:20頃に回送で折り返す列車が設定されていました。古見発にするならば常滑まで走らせる必要性はどこにもないわけで当然のことでしょう。回送列車ですので当然公式出版物での出典はありません。「始発」列車があったことを本文に述べることは問題無いでしょう
- ただ、「方向幕が入っていた」事を根拠に初期にあった様に「折り返し」列車が存在した等という無茶苦茶な論理立てはすべきでは無いでしょうね
- 渡り線の存在は動画のリンクでなされていますが、同時に「そもそも折り返し不可能」の根拠にもなっています。本文には手を入れておきます
- --125.29.95.200 2012年6月24日 (日) 08:18 (UTC)
- コメント相も変わらず、証拠能力のない根拠を示して当駅行、あるいは折り返し列車を主張する編集が続いている(既に削除した)。ネット掲示板の誰が書いたともわからない「見た、聞いた」に何の検証可能性も証拠能力も無いことは言うまでもない。行き先方向幕や、駅の行き先表示器に枠が設定してあったからと言って、それが理由になることもない(表示が自在のLED表示器や液晶ディスプレイなどでなければ、運転障害時に備え折り返し、あるいは運転打ち切り駅の枠を与えておくことは不思議ではない)。異常時に折り返しがあったかどうかは、本稿の論旨と明らかに異なる。
- これらの記述を行っている編者の主張は、例えば「さくら」等東海同筋ブルートレインの客車に備えられた方向幕に品川駅始め多様な途中駅があるから、それぞれの駅行が運行されていたと主張する様なものである。同時に、ブルートレインの品川打ち切りはダイヤが乱れた場合に少なからず行われた事であるが、そのことをして通常の運転の範囲の論述に品川行きブルートレインが存在した等と書くことは、言うまでもなく、馬鹿げている。
- 「検証可能性」と言う言葉の意味をよくよく考えていただきたい--125.29.95.200 2012年9月11日 (火) 13:44 (UTC)
- ※節化しました
- 書籍の配線図で渡り線が描画されたものを発見したので明記しておきました。
- 上記に「渡り線の存在は動画のリンク」とありますが、基本的に個人製作・投稿物による画像や動画についてはあくまで検証上の「補助」にすぎず、Wikipediaではそれを唯一の根拠として扱うことは出来ないと認識しています(極論ですが、メディアデータなどは各種ソフト等で個人レベルでの加工ができるため、公に出版された写真集やらビデオやらと比べて信頼性に欠けます。“実際に見てきた”情報はNGだがその情報が記載された出版物があるなら可、個人ブログ等の記載はNGだが公式サイトの言及は可、等と同じように考えればいいかと)。
- そういった意味ではIPさんが指摘しているようにネット掲示板の書き込みなどが論外であるのは当然として、仮に写真などが出てきたとしても出典不十分だと考えます。古見行き、折り返しの設定にしても、「古見」の幕にしても、述べるなら上述した不適なソース以外からの出典が求められます。
- (古見駅発着関連の掲載のため出典を探す方へ)差し戻された内容を確認しました。
- 1.「神宮前の時刻表」の典拠を示してくれませんでしょうか。もしそれが検証可能な状態であってこのページにも脚注(注釈ではなく、書籍情報やらページ数やら)が載せられるものなら、「古見ゆき」について記述することができます。
- 2.『№1482』確認しました(今回は典拠自体がNGなのでどうでもいいことですが、出典を示す場合ネット上ならURLを記載してほしいです。「どこどこの○のページ」と書くだけではいけません)。
- とりあえずこの書き込みから
- 古見幕の存在(写真)
- 昭和58年当時に古見行きがあった?
- 高潮などの理由で古見行き(打ち切り)になる?
- (2002年時点で)25年程前に古見-常滑が代行バスに?
- 朝に「古見行き」の定期列車があった?
- などの証言(出典ではない)が得られたわけですが、こういった意見(繰り返すが出典ではない)はいわば出典探しのためのヒントのようなものです。その言葉が事実か否か、書籍等で裏を取る必要があります。まったく情報が無の状態で始めるよりはガセでも何でもきっかけがあったほうが探しやすいので、これらの事実関係を洗い出し、それを出典として挙げれば記載が可能になるでしょう。
- IPさんは異常時に折り返しがあったかどうかは、本稿の論旨と明らかに異なるとありますが、個人的にはむしろ「災害等で古見以南が運休となって、結果(暫定終着駅として)折り返しが発生した」ことは結構特筆性のあるトピックだと思うので、出典が見つかるのならば今回の問題とは関係なく載せるべきものだと思います(災害の対象がはっきりすれば探しやすいのですが、この手の話題は自治体史とか郷土史系の書籍で見つかるような気がします。私は現状それを探す余裕が無いので保留としますが、よくよくは探そうかな)。
- 3.「折り返しは栄生ゆき高速」については完全に出典としての方向を見失ってます。この画像は古見駅となんの繋がりもないです。個人的な写真では駄目な事は既に述べましたが、そんなこと以前の問題としてこれは、『栄生行き高速表示の鉄道写真(場所は明らかに古見駅ではない)』という画像でしかないのに、そこから「この電車は古見折り返し電車の写真⇒折り返し電車が存在する」という解釈を含めてしまっています。そういうのは独自研究になりますので、写真を典拠とする場合は対象を直接示した物が必要です。
- 蛇足:各書籍等の記述で判明する断片的な情報ならともかく、私は名鉄電車・バス時刻表が発行された84年以前のダイヤグラムを完璧に確認する方法を知りません。内部資料など検証不能な物を除いて、もしもそういう資料が存在するなら検証ができて万事解決なのですが…。どうなんでしょう。--ButuCC+Mtp 2012年9月19日 (水) 15:03 (UTC)
ButuCCさん よく解りました。説得力のある説明をされたのは貴殿のみです。 --以上の署名のないコメントは、114.160.218.97(会話/Whois)さんが 2012年9月22日 (土) 08:36 (UTC) に投稿したものです(ButuCC+Mtpによる付記)。
- >>ButuCCさん よく解りました。説得力のある説明をされたのは貴殿のみです。
- これは苦言を呈したIP氏への当てつけか?一々ButuCC氏の様な丁寧な説明を「ここで」させるまでもなく、投稿する前に読むべき注意書きに書いてある”すべきでないこと”が繰り返され、それに対し厳しいコメントが付いただけである。それを「説得力のある説明をされたのは貴殿のみ」言い換えれば、他者は「説得力が無い」説明をしただけと言っているようにしか見えない。
- そもそもなぜIP署名がない?前後の流れからIP 125.206.37.5氏だろうが、何事に付けコメントをどこかに書き込む前に注意書きをよく読む様につとめるべきであろう。それをせずして他者を非難するとは筋違いも甚だしい。特に直近の編集におけるref*3に付いては何なのだ。神宮前で取った栄生行高速列車の前頭部の写真?ButuCC氏は比較的穏やかな言い方しかしていないが「解釈を含める」どころか「ただの思い込み」というべきもの。さらに言えば、ほんの十数年前まで名鉄において北行の「新名古屋行」と「栄生行」の境は行き先表示も含めて(必然的に時刻表上でも曖昧。駅の行灯表示器でも「新名古屋(栄生)」とあった程)極めて曖昧で、新名古屋止まりと言いながら栄生まで乗車できるのはごく普通のことであった。神宮前まで乗車できる新名古屋行北アルプスと同じようなものである。すなわち、栄生行高速は「古見折り返し」の専売特許ではなく、それどころか、いくらでも走っていた新名古屋行高速列車の1カットに過ぎないと言うことだ。まずは自分の無知と、恥というものを知るべきだ
- 異常時に折り返しがあったかどうかは、本稿の論旨と明らかに異なるというのは、特記無い限り通常時の話、と言う意味ではないでしょうか?異常時の対応について一説設けて記述する分には、同氏の意見とも相違しないでしょう
- あくまで噂の又聞きですが、埋め立てが進展する以前、高波で上り線が波をかぶる様な事態になる時に古見以南単線(下り線=山側使用)で運用していたと聞いた事があります。
- 言うまでもなく今の安全基準の考え方からすれば論外でしょうが、社会事情も考え方も違う時代ですからおかしいと言うほどでもないでしょう。配線との矛盾もありません
- 古見行の存在については「知多半島の名鉄90年」(名古屋郷土出版社 1999 ISBN 4876701199)にちらほらと乗っている時刻表を見る限りありませんね。走っていたとしても数年にもならない程度か、時刻表に乗らない非常対応のどちらかでしょう。そもそもこの二十数年来、同駅に場内出発信号があるところも分機器に本線用の転轍標識が付いているのを見たことがありません。電動化されたことは一度たりともありませんから、必然的に線路閉鎖下でしか使用できないことになります。災害時にさえ、折り返しがあったかどうか怪しいものでしょう。線形は本編中に図示しておいた方が良いかも知れませんね--130.54.130.245 2012年9月24日 (月) 11:15 (UTC)
- 本日図書館に行く機会があったので軽くですが「知多半島の名鉄90年」と「知多市誌」を確認してきました。以前、「三河を走って85年」という書籍には年表に「新川町ゆき」が存在したことを示す記述が載っていたことがあったので今回も年表に注視してみたのですが、けっこう細かなことも掲載されている割に古見駅については駅舎改築の件しか載っておらず、残念ながら「古見ゆき」を示唆する記述は見当たりませんでした。
- 「90年」に掲載されている時刻表は古すぎて明らかに現在の配線とは異なる時期のものですので、現時点で議題にあがっている『晩年の配線での当駅止、折返しの存在』とは切り離して考える必要がありそうです(なので戦前の記述については今回特に細かく確認しませんでした。もちろん戦前期においても古見行が存在したという記述が見つかるならばそれはそれで大事なのですが、本件とはいささか話が異なるということで)。掲載された写真からも「古見」行のサボ・幕は見当たりません(余談ですが「新舞子」サボの写真なら2点掲載されていました)。
- 折返しに関する直接的なトピックではないので蛇足ですが、「知多市誌」にある記述および統計を見てみると古見駅の地位(利用客数)がかつては現在の朝倉並の位置にあったことが伺えます。常滑線のうち知多市内にある寺本・朝倉・古見・長浦・日長・新舞子の昭和30~50年代の比較なのですが、30年代の比較では上位順に『寺本・古見……新舞子……長浦・日長・朝倉』という具合で朝倉は最低クラスの乗降数だったのが50年代には朝倉の開発が進んで『朝倉……寺本・新舞子・古見……長浦・日長』といった具合に変化していることが伺えます(新舞子・長浦・日長はほとんど横ばいに推移)。あまり昔に遡りすぎると前述のように『晩年の配線での当駅止、折返しの存在』とは別個の議題となるので難しいところですが、旅客需要が『寺本≒古見>新舞子>その他』という状況下であること、大野町まで行かず新舞子止まりが存在した(上記)ことを考えると、あながち古見で折り返しを行う必要性はないに等しいとは言い難く、古見止まりの妥当性は意外とあったのかもしれません。もちろんこれは予め断ったように当駅止を示唆する直接的な出典ではないので、本文に反映させられるのは利用状況節もしくは歴史節に「旅客需要」に関して書くことが出来る、ってだけの話ですが。--ButuCC+Mtp 2012年9月27日 (木) 11:55 (UTC)
- >大野町まで行かず新舞子止まりが存在した(上記)ことを考えると、
- >古見で折り返しを行う必要性はないに等しいとは言い難く、古見止まりの妥当性は意外とあった
- この二つをつなげるのは結局始めの議論に戻るでしょう。折り返しの有無と同駅終着列車の有無は別の問題です。
- また、直ぐに原典を確認できる状態では無いので、記憶違いであれば申し訳ないのですが件の新舞子止は夏臨の写真であったかと思います。今でも尚、それなりに海水浴客のある同駅ですから、平均的な乗降客の人数が大差ないからと言って古見止の妥当性を議論しても仕方がないでしょう。詳しいダイヤがない限り何とも言えませんが、海水浴臨であれば折り返し作業の間合い等々の都合で新舞子-大野町間回送にするのは別段不自然な話ではありませんし、「新名古屋行」のお約束(北行は実質栄生行、南は神宮前行)同様、実態は大野町行であった可能性もあり、見たままの情報以外何かを引き出す事ができるとは考えられません。
- 乗降客数の面で言えば、朝倉、新舞子界隈の新興住宅地が開発される以前の常滑線沿線で比較的人口があった所は太田川~横須賀、大野町、常滑の三点であり、当時の高速、臨時特急の停車駅にも反映されている訳です。知多市域のみの乗降客数をして議論するのは早計に過ぎます。
- 結局は「要出典」の一言に尽きるでしょうね--130.54.130.239 2012年10月1日 (月) 07:35 (UTC)
- それについては私も「あったのかもしれません」としか言ってませんし、その二つを繋げようともしていません。
- 折返し線を使った当駅終着なのかそうでないのかは別個で考えるというのは今まで意識してませんでしたが、ここでの議題はそういう方向なのですか?
- 乗降客数に関しては同年代の他の自治体史なども照合していずれ「利用状況」節に反映させようかと考えています。現状でも知多市域に限定した駅勢圏の変化については加筆出来ます(知多市誌にモロに書いてある)が、それだとちょっとつまらないので。
- 高速が設定されたのは昭和52年なので昭和30年代の古見とは関係のないことです。臨時特急はその性格(観光特急など)によって停車駅の選択が変わりますし、定期列車の停車本数によるところもあるので何とも言えません。
- 114.160.218.97さん(↓)。次は是非署名をお願いします。末尾に「 --~~~~ 」と付け加えれば自動で署名できます。--ButuCC+Mtp 2012年10月1日 (月) 11:41 (UTC)
- PS:『日本鉄道旅行歴史地図帳』によると、1953年6月28日改正の常滑線急行停車駅(朝夕のみ)は「神宮前・大同町・太田川・尾張横須賀・古見・新舞子・大野町・多屋・常滑」だそうです。特急は無いです。--ButuCC+Mtp 2012年10月1日 (月) 15:30 (UTC)
130.54.130.239さんは熱いですねー。追い付けません。 私まで笑われてしまいました。--以上の署名のないコメントは、114.160.218.97(会話/Whois)さんが 2012年10月1日 (月) 10:18 (UTC) に投稿したものです(ButuCC+Mtpによる付記)。
報告 - 114.179.108.102さんの投稿で古見行きが1962年に存在したことが検証されました([1])。ただ、その列車が渡り線を使ったかどうかまでは判断できないので言及は避けました(古見始発列車の時間をみるといくつかは使っているっぽい[2]が推測なので反映せず)。--ButuCC+Mtp 2013年6月23日 (日) 09:28 (UTC)