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ノート:南部氏

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差し戻し理由

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「合戦」と「征伐」とでは意味合いが変わってきます。この場合、源頼朝が平安末期に奥州へ兵を動員させた理由は、対立していた藤原氏追討のためですよね。とすると、「合戦」より「征伐」が歴史的に合ってる用語の使い方だと思います。歴史は専門ではないですけど、「東北人である私としては、中立的視点を欠いた表現」という理由での文言差し替えには同意できません。「東北人である私としては、中立的視点を欠いた表現」という考え方こそが「中立的視点」を欠いています。--FOXi/Talk/Log 2008年7月19日 (土) 14:34 (UTC)[返信]

歴史学的には、「奥州征伐」が古くからの呼称ですが、近年は「奥州合戦」という呼称のほうが主流となっています。理由については「征伐」も参照していただきたいのですが、まさに「征伐」という語句が中立的視点を欠いた表現だからです。ただ、この項目の本文では「源頼朝による」という語句があり、「源頼朝による奥州合戦」という言い回しは少々変なので、「源頼朝による」を削って、「平安時代末期の奥州合戦のころ~」とするのがよいのではないでしょうか。--210.138.182.133 2008年7月19日 (土) 15:18 (UTC)[返信]
凄く個人的な事ですが、そうですか、最近では奥州合戦という呼称に変わっているのですね。私が歴史を学んだ頃は「奥州征伐」でテストに出たのが遠い昔の様に感じます。とまぁ、こんな事はどっか置いといて、210.138.182.133さんが提案の書き方に全面的に賛同致します。--FOXi/Talk/Log 2008年7月22日 (火) 00:24 (UTC)[返信]
ご意見、ありがとうございます。それではそのように編集させていただきます。--210.138.182.133 2008年7月22日 (火) 14:44 (UTC)[返信]

源頼義から南部光行までの清和源氏系図はよく知られた系図ですので、この南部氏の系図では削除が適当かと思われるので削除とさせておただきました。--真実一郎 2011年6月15日 (水) 19:09 (UTC)[返信]

統合提案について

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南部藩南部氏盛岡藩(及び八戸藩)の記事の整理(分割・統合)を提案します。

南部藩の記事は、主に南部氏の歴史年表と盛岡藩の行政・交通等の解説とからなっています。しかしながら、南部藩の「略史」節冒頭には「詳細は「南部氏」を参照」とありますが、南部藩の方が詳しい記述となっているほか、盛岡藩の「藩の職制」節、「家臣団構成」節との重複が著しく、更には盛岡藩の記事中「領内の統治」節、「領内の主要交通路」節及び「城地」節は南部藩の記事へのリンクとなっています。

このままでは、記事の読者がリンクを往復する必要があり、極めて利便性に欠けると思います。

そこで、南部藩の記述を全て(或いはほとんど)南部氏と盛岡藩(一部は八戸藩か?)に転記し、南部藩の記事は盛岡藩へのリダイレクト(又は簡潔な解説のみを残した誘導ページ)とすることを提案します。--ろう(Law soma) 2014年1月28日 (火) 01:07 (UTC)署名付記[返信]

賛成 南部藩の江戸時代以前の記述は南部氏に、それ以降の記述は盛岡藩(八戸関連は八戸藩)に転記でよろしいかと。関連して、盛岡藩の支藩である七戸藩盛岡藩に転記・リダイレクト化したほうがよいと思います。平成・南部藩という記事があるようですから、転記後の「南部藩」は曖昧さ回避のほうがよいかもしれませんね。--F.M.H会話2014年1月30日 (木) 06:11 (UTC)[返信]
コメント ご意見ありがとうございます。細かいところまでチェックしておりませんが、基本的には私も江戸時代以降は盛岡藩(及び八戸藩)、それより前は南部氏への転記と同意見です。転記後の南部藩については、おっしゃるとおり曖昧さ回避ページの方がよさそうですね。賛成します。--ろう(Law soma) 2014年1月31日 (金) 00:31 (UTC)[返信]
反対 ベースになる記事(南部氏盛岡藩)について整理されてからはいる問題だとおもいます。まず、南部氏にはついて伝承を主体に記述しており、最近の研究成果などのついての記述が見あたらない。また「八戸氏」に関する記述が分割れており、その他の「南部氏の庶家‎」に対しても南部氏のなかで統一されていない。盛岡藩八戸藩についても同様に分割されており、そちらも相互にリンクする必要が生じて利便性に欠けるのではないでしょうか(1.南部氏、八戸氏、その他庶家 2.盛岡藩、八戸藩も統合しますか?)
1.「詳細は「南部氏」を参照」については、まだ詳しく記述出来ますが(青森、岩手県史を参考文献としています)「南部氏」側の記事内容と、異なる部分が出て来るため記述を控えています。
2.>>盛岡藩の「藩の職制」節、「家臣団構成」節との重複が著しく 該当箇所はIPアドレスが異なるのでわかるとおもいますが、記事を記述する直前に「家老」「高知」を書かれたがいたために補足説明として残しておきました。
3.南部藩の「詳細は「南部氏」を参照」、盛岡藩の「領内の統治」節、「領内の主要交通路」節及び「城地」節は、南部氏・南部藩の記事へのリンクを解除して、それぞれの記事を育ててもらえば解決するのでは? 分割統合するのでしたら今後、該当記事への記述は控えさせていただきます。--Manono会話2014年2月1日 (土) 07:59 (UTC)[返信]
コメント ご意見ありがとうございます。おっしゃるご意見は、ベースとなる記事の整理が先行すべきということと承りました。それに対しては次のように考えております。
「南部氏」「盛岡藩」ともに定義がしっかりしている反面、「南部藩」は定義がはっきりしておりません。正式名称として存在しない俗称に過ぎないとも思います。であれば、その定義に即した記述とすべきでしょう。
記事内容については信憑性の高い史料(県史、論文など)に即したものを主とし、出典が明らかでない記述は「要出典」としてうえで従の記述にすべきと思います。異なる記述は両論併記とすべきでしょう。
補足説明は不要です。概要を書いて詳細をリンク先に飛ばすことはありえますが、俗称の記事に飛ばすのは合点がいきません。
Manonoさんのご協力がないとここまでの記事充実はなかったと思いますので、反対なのでしたら対案をお示し下さい。--ろう(Law soma) 2014年2月3日 (月) 03:08 (UTC)[返信]
(追記)要は、南部氏に最近の研究成果などについての記述がないのであれば加筆するのが筋であって、別項目に書くよりも利便性が高いと言うことです。ベースとなる記事の整理のために南部藩から個々に転記する方が先とのお考えであれば、それなりに理解出来ます(それでも重複感は否めませんが)。--ろう(Law soma) 2014年2月5日 (水) 00:14 (UTC)[返信]

(インデント戻します)対案が出ないままManonoさんの編集が進んでおりますが、上記問題について如何お考えなのかをお示し下さい。このままではManonoさんのご意見を取り入れることのないままでの分割統合となってしまいます。--ろう(Law soma) 2014年2月18日 (火) 06:58 (UTC)[返信]

提案から4週間、反対意見に対する質問からも3週間近くが経ちました。Wikipedia日本語版の方針上、ラフコンセンサスが成立していると思いますので、もう少し待ってみて反論の強化(対案等)がなければ、分割統合を実施します。--ろう(Law soma) 2014年2月25日 (火) 00:38 (UTC)[返信]

統合提案についてへの提言

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盛岡藩明治維新からの記述や南部藩の鎌倉・南北朝時代から明治までの時代ごと事細かい事件や事跡は南部氏や南部氏研究には必要なことと思いますが、ウィキペディアの性格上こういう部分は、南部氏の研究者や南部氏をもっと知りたい歴史好きの方向けの丁寧な記述だとおもいます。しかしウィキペディアで武門として南部氏を検索して南部氏を他の足利氏や新田氏と比較して見る場合、そこまでは普通見ないのではないでしょうか。ウィキペディア南部氏の南部氏系図には南部氏の正史と言われる南部史要などの記述をもとにした南部系譜が書かれていますが、一般的に知られる武家家伝_南部氏の嫡家系譜とは別にウィキペディア南部氏ではこれまでどうり、太平記の記述や南部系譜の系図を採用すべきでしょう。南部氏は鎌倉崩壊から南北朝の激動の時代に主家の存続も危ぶまれる時代でした。太平記はところどころですが南部氏のそれを伝えています。 ウィキペディア南部氏に「太平記」の記述を採用することで、南部氏の読者には鎌倉以降の南部氏や中世日本史への興味を深めて頂けるはずです。

記述内容については南部氏から盛岡藩(南部藩)に飛ぶようにしておき、南部藩と盛岡藩を統合するほうがウィキペディアで南部氏を検索して、調べる のに適してると思われます。南部氏の古文書は多くが南部晴政が家督を相続した際に三戸城の火災で消失したと言われています。それ以前の南部氏宗家の記述に伝記が多くなるのは当然でしょう。これを受け南部氏の記述に新研究の不足があるということでしたら、そこの足りない部分を南部氏に追加する方がウィキペディアでの南部氏研究が進むのではないでしょうか。——以上の署名の無いコメントは、真実一郎ノート履歴)さんが 2014年2月26日 (水) 13:23 (UTC) に投稿したものです(ろう(Law soma) による付記)。[返信]

真実一郎さん、ご意見ありがとうございます。おっしゃるご意見は具体的な分割統合の方法として承りました。
  1. 盛岡藩の明治維新以降の記述については、残しておいてもよいのではないか、と私も思っておりましたが、南部藩の年表等のうち「盛岡藩」成立以前の内容は南部氏に移動した方が正確だと思います。一般的にとは、江戸時代から明治時代初期にかけての行政区域として用いられますので、江戸時代以前の南部氏領を包括した記事では定義との乖離が見られると思います。
  2. ただ、おっしゃるご意見も分かります。一旦南部氏に統合した後で南部氏の歴史年表などの名称で再分割するのはあり得ると思います。盛岡藩だけが南部氏支配の藩ではないので、年表を盛岡藩にそのまま統合しては正確性に欠けるようにも思うからです。
  3. いずれにしても、南部藩を盛岡藩に統合(一部は八戸藩等に分割統合)という大筋は同意見ですので、年表等の取り扱いをどうするか、引き続きご意見をお寄せ頂きたいと思います。
--ろう(Law soma) 2014年2月27日 (木) 05:03 (UTC)[返信]

(ろう(Law soma) さん昨日のわたしの提言へのサインの付記ありがとうございました。

南部藩の「盛岡藩」成立以前の内容を南部氏に移動した方が正確だと思います。とのことですが、南部氏の略史から戦国時代までの記述ですが、南部藩の略史と鎌倉・南北朝時代以降の記述と比較したとき、太平記や伝記の記述のなされた南部氏の記述で十分事足りるとおもいます。南部氏の記述内容でこの時代の宗家南部氏の動きをある程度知ることができるのでは思います。
南部藩の年表の部分ですが南部氏の 目次に新たに鎌倉から明治時代までを記述した南部藩年表の記述全文(この全文は南部藩の記述をもとに作成が必要)にリンクさせて南部氏の各時代の記述の最後に年表リンク項目を設け、目次の年表の各時代にリンクするするようにしたらいかがでしょうか。
年表は目次のリンクとは別に各時代ごとに飛ぶようにしたほうが南部氏本体の記述をコンパクトにできます。
あと、南部藩の年表の記述は南部氏にリンクで統合しておきますが、必要があれば盛岡藩や、七戸藩や八戸藩のリンクされた各記述に年表を追加させるのがよいかと思います。
南部氏の記述で戦国時代以降の盛岡藩、八戸藩、七戸藩や南部氏の各氏族に触れた記述は、南部氏系図とともにそのままがよいかと思われます。

早い話、南部氏の記述にはできるだけ手を触れず、上手に盛岡藩や南部藩の年表などの記述を南部氏にリンクさせるかが肝要かとおもいますがいかがでしょうか。--真実一郎会話2014年2月27日 (木) 09:24 (UTC)[返信]

真実一郎さんのご意見の核は「年表は細かすぎて、南部氏の概要を知りたい読者にかえって不親切。本文から切り離すべき」だと拝察しました。
であれば、年表はデフォルトで隠しておく手もあります(例:安東氏の系図節)。年表を各時代毎に切り分け、南部氏本体の記述の各時代毎の節の末尾に置くのです。リンクですと、結局は詳しく知りたい読者がリンクを行ったり来たりしないといけませんので。ご一考お願いします。--ろう(Law soma) 2014年2月28日 (金) 00:23 (UTC)[返信]
(ろう(Law soma) さん
>」真実一郎さんのご意見の核は「年表は細かすぎて、南部氏の概要を知りたい読者にかえって不親切。本文から切り離すべき」だと拝察しました。
であれば、年表はデフォルトで隠しておく手もあります
、ということですが、その通りです。わたし目次から別ファイルに直接リンクできると思っていてそこに年表全体や各時代をリンクしたらと、昨日書いたんですが、目次は本文へのリンクでしたので、目次への年表リンクと各時代からの目次の年表リンクは取り消します。
年表を南部氏の本文に加え隠すということですが、これも南部氏の本文をコンパクトにする意味から賛成できかねません。ご指摘の本文に南部藩の年表を組み込み隠すのも、リンクさせるのも読者の手間はそれほど変わらないとおもいますよ。
南部藩の年表は大きいですので南部氏に年表を組み入れるとかえって南部氏を編集しずらくしそうです。やはり、本文中に年表として新たなファイルにリンクさせ南部氏の年表として南部光行からの事跡を盛岡・八戸・七戸各藩成立以前やそれ以後と明治期などのように時代ごとにまとめ、年表だけ南部氏の年表として独立させて検索できるようにしたほうがいいと思います。
そうすればウィキペディアでの南部氏年表として読者に検証されながら次第に手が加えられ完成していくのではないでしょうか。南部藩の年表以外の
記述は盛岡藩(南部藩)と名前を変えて現在の南部氏の江戸時代にリンクするのがいいと思います。--真実一郎会話2014年2月28日 (金) 20:39 (UTC)[返信]
また誤りがあったので昨日の記述を訂正します。南部藩の年表以外の記述
誤 南部藩の年表以外の記述は盛岡藩(南部藩)と名前を変えて現在の南部氏の江戸時代にリンクするのがいいと思います     

 ですが

新 南部藩の年表以降の記述は盛岡・八戸藩(南部藩)と

名前を変えて現在の南部氏の盛岡藩の記述に統合して埋め込むのがいいかなと思ったのですが、明治以降の年表意外の記述の統合は八戸藩も混ざってるのでこれらをどうするかという問題も出てきて、双方のファイルが大きいのもあり、統合は大変な作業になりそうですよ。統合はやめるのも方法です。 --真実一郎会話2014年3月2日 (日) 13:58 (UTC)[返信]

おっしゃるようにファイルの容量は大きく、作業は結構大変そうです。一旦統合してから年表を分割するという考えを2月27日 (木) 05:03 (UTC)に出しましたが、最初から分割するというお考えはいい考えだと思います。
統合をやめるというのは、私自身の手間を考えると魅力的なご提案ですが、利用者の利便性、定義の不正確性及び記事の重複という問題の解消は考えて行かなくてはいけないと思います。出来る努力は惜しむべきではないと考えます。少々時間がかかることは覚悟しています。私としては「南部藩」という「俗称」が「盛岡藩」、「八戸藩」等の正式名称と併置されている現状の改善を考えているだけなのですが。
例えばですね、宇和島藩仙台藩の両者と別に「伊達藩」という記事があるということと同じ状態な訳ですよ。これは現状リダイレクトです。岡山藩鳥取藩及び姫路藩と別に「池田藩」とか。これは現状曖昧さ回避ページです。支藩でない藩を統合して別途記事にするのは不正確です。--ろう(Law soma) 2014年3月4日 (火) 02:53 (UTC)[返信]
論議中に気づいたのですが、このファイル統合の問題は元を辿れば、南部氏の江戸時代に盛岡藩で別ファイルがリンクされてますが、これとは別に俗称の南部藩が並立しているのが最大の原因だと思うのですが(ファイルを行ったり来たりする)、別ファイルの南部藩と南部氏にリンクされた盛岡藩の記述すべてを統合して盛岡藩として、現在の南部氏の江戸時代にリンクさせておけばいいいだけの話だと思います。南部藩のなかの八戸藩の記述はべつに八戸藩に転記する必要が出てくると思います。
この際に現在の南部氏の盛岡藩や八戸藩や七戸藩へのリンクはそのままを生かし、現在の南部藩の記述は盛岡藩や八戸藩や七戸藩へのリンク(リダイレクト?)だけに書き直すのがいいかと思います。--真実一郎会話2014年3月4日 (火) 10:56 (UTC)[返信]
おっしゃる内容の方向で議論してきたものです。(上の節参照)では真実一郎さんは大筋賛成ということで宜しいでしょうか? --ろう(Law soma) 2014年3月5日 (水) 04:19 (UTC)[返信]
ああ、ちょっと違いましたね。南部氏への転記はしないということですか。それでも問題はほぼ解決しますので、その方向で行きましょうか? 特に新たな異論がなければ、真実一郎さんのご提案でよいのではないかと思います。--ろう(Law soma) 2014年3月5日 (水) 04:22 (UTC)[返信]
では、南部藩の鎌倉・南北朝時代以降の年表は独立させて、新たに南部藩年表とかあるいは、南部氏歴史年表とかで別にして、年表以外の記述は南部氏に統合ということで了解いたしました。大変な作業になると思いますが、がんばってください。--真実一郎会話2014年3月6日 (木) 15:30 (UTC)[返信]

確認

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確認 それではコンセンサスが形成されましたので、来週早々からでも作業にかかります。異論があれば、それまでにお願いします。--ろう(Law soma) 2014年3月7日 (金) 00:09 (UTC)[返信]

報告

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報告 分割・統合が完了しました。まだ一部に重複が残っているかもしれませんが、概ね整理できたと思います。今後も気付き次第修正していきますが、議論にご参加頂いた皆さんのご協力も是非お願いします。--ろう(Law soma) 2014年3月10日 (月) 01:57 (UTC)[返信]

関連カテゴリに関する提案

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  1. Category:南部大膳大夫家Category:盛岡南部家へ統合して廃止
  2. Category:南部左衛門佐家Category:八戸南部家へ統合して廃止
  3. Category:南部主悦家(「悦」は「税」の誤記か) → Category:七戸南部家へ統合して廃止

以上の3件を提案します。例えば1件目を例にとると、南部大膳大夫家=盛岡南部家であり、大名家から転じて華族家になって以降のみに後者を限定するような用法はないはずです。また、転封が頻繁に行われた大名家や藩でなければ、一般的には官名を用いた「徳川常陸介家」よりは領地を冠した「紀州徳川家」の形式の方がわかりやすいと考えます。

一方、華族になってからを下位に分けるかどうかですが、南部家以外でCategory:武家華族の家系に収められていたのは

  • 旧藩時代の名字を改めて先祖の姓氏を名乗るなどした
  • 維新後に分家した

という2パターンになっています。例えば「足利」を名乗っているCategory:足利子爵家の人物を、Category:足利氏Category:古河公方足利家の直下あたりで扱われるとごちゃごちゃしてわかりづらいので別にカテゴリを設けてCategory:喜連川家の下位でひとまとめにした、といったところでしょうか。南部家の3家については、そうした配慮は不要です。ただ、近現代の南部家を区分する必要性を全否定まではしません。もし、特に必要だというのであれば、先例にならって

  1. Category:南部伯爵家またはCategory:盛岡南部伯爵家
  2. Category:八戸南部子爵家
  3. Category:七戸南部子爵家

の新設ではどうでしょうか。--エンタシス会話2019年6月12日 (水) 12:34 (UTC)[返信]

最終形態はどうあれ、「南部主悦家」はどうやら明らかな誤記ですので、ひとまず空にして即時削除に回すことにします。--エンタシス会話2019年6月13日 (木) 11:34 (UTC)[返信]
遅くなりましたが、議題のカテゴリを作成したIP不定の者です。私が同カテゴリを作成した動機として、盛岡藩主家はともかく、「八戸南部家(氏)」、「七戸南部家(氏)」の用法に関しては、南部氏の最初期に分かれた系統(根城南部氏→八戸氏並びに七戸氏)と、三戸南部氏の後身である盛岡藩主家の分家の系統(八戸藩主家並びに七戸藩主家)の二つの意味合いがあると思われたからです(加えて七戸藩主家は旗本だった時期もあります)。もっとも、この基準に従うならば、武家華族に限定してのみ、「八戸南部家」、「七戸南部家」の語句を用いるのは明らかに不適切ですので、ご提示の通り、Category:八戸南部子爵家Category:七戸南部子爵家を新設すべきだと思います。盛岡藩主家に関してですが、先の二家が武家華族に関する新カテゴリを設置するのであれば、それに合わせて同じくご提示のCategory:盛岡南部伯爵家を新設すべきだと思います。--220.148.191.199 2019年6月17日 (月) 03:13 (UTC)[返信]
それで、近現代の華族南部家を区分する必要性は、本当にあるんでしょうか? そこが明確にならない限りは、少なくとも私自身には作成の意思はありません。--エンタシス会話2019年6月17日 (月) 11:00 (UTC)[返信]

当初案通りの統合を、残る2件についても進めます。華族南部家のカテゴリに関しては一旦保留とします。--エンタシス会話2019年6月22日 (土) 01:13 (UTC)[返信]

ここまでで止めておきます。他の大名家のカテゴリにも影響しそうですから。--エンタシス会話2019年7月4日 (木) 18:12 (UTC)[返信]