ノート:南江久子
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「久子」について
[編集]おつかれさまです。 さて、いきなりですが、楠木正成の妻の名前が「久子」だという根拠は何なのでしょう? 私の記憶が確かなら、『太平記』や『梅松論』には名前は記されていないはずです。同時代史料にも記録がないはずです。 出典の提示をお願いします。 同じく、生没年、出生地や親についても出典をお願いします。 正成自身の生年もわからないのに、なぜ「久子」の生年だけわかるのでしょう? --221.184.223.180 2009年11月30日 (月) 17:08 (UTC)
大正時代の創作説について
[編集]出典となった「解説 正成伝承の生成――淵源としての『理尽鈔』」に明確な記載がありませんでしたので、該当箇所を除去させていただきました。また、『楠公夫人傳』の序には観心寺の資料とともに、松尾家の資料を参照された旨が書かれております。松尾家親族の方が著された『楠氏と松尾』には、明治33年8月に当時の松尾家当主が東條村村長に提出した楠公妻女古碑発見届が掲載されており、「楠公妻女久ノ方」という文言があることから明治期には「久」という名前が伝わっていたことが分かります。また、同書に記載された別の古文書には「後室俗名壽之方」とあり、字は異なりますが、「ひさ」と読むことができます。少なくとも松尾家には上記の口伝や古文書が残っており、織田完之氏により創作されたというお説は明確に誤りだと言えます。--Days for archaeology(会話) 2021年2月2日 (火) 05:19 (UTC)
- Days for archaeologyさん、ご指摘とご訂正ありがとうございます。今井氏・西尾氏ともに織田完之の文献を起点としており、今井氏の解説の題が「正成伝承の生成」ですから、てっきり早とちりしてしまいましたが、確かに厳密に読むと織田完之氏による創作とまでは言い切ってはいないですね。久子説が遅くとも明治時代にはあった点は興味深いです。ご教示どうもありがとうございました。--Senu(会話) 2021年2月2日 (火) 14:27 (UTC)
- お返事ありがとうございます。説というか、江戸時代に伊勢神戸藩領の大庄屋・代官を務め、観心寺中院住持を代々輩出し、楠妣庵観音寺を守っていた甘南備の松尾家ではそのように伝わっていたということです。ただ一般に流布されたのは織田完之の論考以降だと思いますので、甘南美寺の記事にあります岐阜県山県市の久子伝承がどのようなものかどのように成立したのか興味はあるものの、なかなか現地へ行けないでいます。--Days for archaeology(会話) 2021年2月3日 (水) 11:59 (UTC)