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ノート:北条氏政

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越相同盟(越相一和)の時期、謙信が北条氏に対して、十分な援軍を派遣できなかった理由

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不本意ながら、ジャムリン氏と意見の食い違いが見受けられますので、ノートに書き込ませて頂きます。越相同盟の締結にも関わらず、謙信が北条氏に対する救援を全く怠ったかのような意見が根強いようです。しかし謙信のことを、約束を反故にする不届き者のように批判するのは、如何なものかと思います。

確かに、北条氏が信玄の攻撃を受け、小田原城や三増峠で戦った時、謙信は援軍を相模に派遣しませんでした。しかし、越後・春日山城を本拠地とする謙信が、相模・小田原城や三増峠まで援軍を送るには莫大な出費を要します。事実、謙信が幾度も北条討伐のため関東出兵を繰り返していた時期、越後の家臣・領民の不満は大変に大きなものがありました。本庄繁長・北条(きたじょう)高広などの家臣が謀反を起こした程です。上杉氏と北条氏が同盟を締結したからといって、救援を要請されれば即座に後詰めを派遣するというのは非常に難しいのです。しかも謙信は、越中で敵勢力と対峙していました。

北条氏は、越中で苦戦する謙信に援軍を送ったことは一度もありません。 一方、謙信は、元亀元年(1570年)10月、元亀2年(1571年)11月の少なくとも2回、北条氏に対する援軍を送っています。

謙信の北条氏に対する救援が不十分であったのは史実ですが、こういった謙信側の事情も記述するのがフェアなのではないでしょうか。 --海流の中の列島

ならば削除するのではなく、併せて上記のことを記載すれば良いだけのことではありませんか?その方が多角的な視点による情報を持ち寄ったことになり、より詳細で公平な内容になるので良いと思います。別に上杉謙信を批判する意図は毛頭ありません。逆に氏の方が謙信のみに肩入れした記述や削除を作為的にしているようにも見えます。--ジャムリン 2010年5月17日 (月) 22:26 (UTC)[返信]
議論中に申し訳ありませんが、海流の中の列島氏に確認したいことがあります。まず、上杉家は北条家との交渉成立後に、北条家に連絡もなく武田家と停戦をしている事は御存知でしょうか?足利義昭の1569年8月書状などの内容から7月か8月に成立したことが分かります。上杉方は直江氏が窓口となっていたこともわかっています。これが事実の一つであることは納得していただけると思います。しかし、他の項目でこの内容をあなたに消されてしまいました。それも何のコメントも無く。たしか足利義昭書状と根拠も書いていたはずなのですが。こういった行為をしておきながら「謙信側の事情も記述するのがフェアなのではないでしょうか」と主張されても説得力に欠けると思います。それともう一つ、「北条氏は越中で苦戦する謙信に援軍を送ったことは一度もありません」とありますが、まず要請してないでしょう?そもそもこの時期武田軍は主に北条家とぶつかっており、本格的に上杉家に主力を差し向けてなどいませんからね。それから出陣要請先は主に北信濃です。「相模まで」と「北信濃に」を同様に語るのは無理があります。もちろん謙信にも事情があったのは分かりますし、1569年11月に北条氏政が同陣に応じなかったのも事実です(氏政にも事情あり。北条軍は武田と駿河で交戦中で12月には駿府陥落)。しかし謙信は約定そのものは破っていないという論調で文章を書き続けるのもおかしいのでは?--名前は使っておりません。

第三者様、ご意見ありがとうございます。貴方のおっしゃった、謙信が越相同盟締結中に信玄と停戦したという内容は、今までに読んだことがありません。その義昭の書状は信頼できるものなのですか?私は、謙信と信玄が停戦したのは1555年、犀川の戦い終了後の1年程のみだと認識しております。事実、1570年10月には上杉軍は武田軍と上野で交戦しています。

北条氏に有利な書き込みばかりしていれば、ページのバランスが崩れて百科事典としての体をなさなくなります。史実であれば何でも書き込んでよいというのではなく、バランスを考えて書き込んでください。なお、この欄に書き込む際には著名する決まりですから、名前が無いのなら自分の番号を記入して下さい。 --海流の中の列島

ジャムリン氏は、謙信が足利義昭から上洛要請を受けていて、越中へ進出していたので、越相同盟の義務を果たせなかったかのような書き込みをされていますが、1570年の時点では、謙信に上洛の意図は有りません。越中へ出兵していたのは、能登畠山氏から救援を要請されていた為、そして椎名氏が信玄方に裏切って一揆軍と手を結び、越後を脅かしていた為です。また、謙信が越相同盟に関して、約定を破った事実は有りません。謙信が下野 唐沢山城の佐野氏を攻撃したのは、佐野昌綱が謙信に再び謀反を企てた為です。事実誤認の書き込みがあまりにも多かったので、修正させていただきました。もう少し信頼性のある資料を十分に吟味された上で書き込みされることを期待します。--海流の中の列島 2010年5月23日 (日) 06:25 (UTC)[返信]
おっしゃっていることが海流の中の列島氏の独自研究でないのならば、海流の中の列島氏が他に求められるように、海流の中の列島氏自身もその旨を出典付きで投稿いただければと存じます。その方が記事としての充実がみられると思います。Wikipedia:検証可能性の方針には「■記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。(1)記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典(参考文献)―を明らかにすべきです。(2)出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。 (3)出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。」とあり、さらに「ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。」とあり、私は参考文献で検証可能の出典を示しました。Wikipedia:信頼できる情報源でいうところの「ひとつまたはそれ以上の一次資料または二次資料を要約したものです。学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版された二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、信頼できると考えられます。」の二次史料集としての文献、同じく三次史料です。書籍用のリンクコードまで記載しました。その出典を除去されたうえに、ご自分では代替の出典を出すことなく、自説を展開されられているのは海流の中の列島氏ではないでしょうか?--ジャムリン 2010年5月23日 (日) 15:48 (UTC)[返信]

大変遺憾なご主張です。ご自分のご勝手な想像で、近年の研究結果と異なる投稿をされてきたのを棚に上げられては、取り留めのない議論になってしまいます。以前に比べれば出典等を明記され、公平な書き込みをするよう努められた形跡が窺えますが。ご自分の間違いに気づき、心を入れ替えて投稿されていらっしゃるのでしたら大変結構です。--海流の中の列島 2010年5月24日 (月) 12:06 (UTC)[返信]

出典は提示してします。その出典に関してもウィキペディアの投稿方針を違えておりません。--ジャムリン 2010年5月26日 (水) 04:39 (UTC)[返信]
っっっっっっっっy--152.165.117.12 2023年10月4日 (水) 05:04 (UTC)[返信]

三増峠の戦いでの氏政の追撃の遅れに関して

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氏政による信玄軍の追撃が遅れたのは事実ですから、この書き込みを削除する必要は無いのではないでしょうか。普通、敵軍が攻囲を解いて軍を引き上げた場合、篭城側は即座に追撃戦を挑むものです。まして、甲相国境付近に氏照・氏邦隊が待機して挟み撃ちにする作戦であれば、急ぎ追撃しなければなりません。諸事情があったのでしょうが、氏政隊の遅れさえ無ければ、信玄を挟み撃ちにして勝利を収められた可能性もある戦いです。氏政が遅れたとみて間違いないでしょう。氏照・氏邦隊の攻撃が早すぎたわけでは有りません。--海流の中の列島 2010年5月23日 (日) 06:25 (UTC)[返信]

武田軍の迅速さに対比して遅れたということで削除してませんが?出典まで脚注に明記しました。一応引用とはいえ、脚注でもあり、参考文献にあたれば検証可能なためと著作権に配慮して、該当文まで投稿することはひかえましたが、脚注に投稿した引用元は日付付きで上杉家文書として残っているものです。参考文献の中にありますし、上杉家文書であれば、上杉氏研究のための史料文献としても記載されているものは後北条氏文献よりも多いはずです。巷間で言われるところの三増峠の戦いについては史料的価値の低いとされる甲陽軍鑑よるところが大きく、現存する各関係人物感状・書状でも甲陽軍鑑とは食い違いが見られ、未だ研究途上にあるものと理解しております。関係リンクを辿ればウィキペディア内でも出典が明記されておりますので、そちらはには目を通されたうえ、検証されてはみていかがでしょうか?氏の投稿部分については、独自研究にあたらないというのであれば是非とも出典付きで投稿願います。--ジャムリン 2010年5月23日 (日) 15:48 (UTC)[返信]

私の「氏政隊の追撃が遅れた」という書込みを一方的に削除され続けていらっしゃったので、不思議に思っていた次第です。書店に置かれているどの歴史本にも、氏政隊の追撃の遅れは記されています。なぜ一方的に削除されていたのか理解に苦しみます。--海流の中の列島 2010年5月24日 (月) 12:06 (UTC)[返信]

片方が迅速ならば、もう片方が普通の進行でも、比較して遅くなるのは当たり前で、尚且つその迅速であった理由がことさらに書かれていれば(小荷駄捨ててまでという部分です)、充分に理解できるものだと認識しておりましたので。そうでない方もいらっしゃるようですので、描写として重複になるかとも思いましたが、残すことにしました。そして重ねてになりますが、海流の中の列島氏の投稿部分については、独自研究にあたらないというのであれば是非とも出典付きで投稿願います。--ジャムリン 2010年5月26日 (水) 04:36 (UTC)[返信]
私が書込みに際して参考にした本の題や番号をメモする必要があるということでしょうか。書店内でペンでメモするのは難しいですし、携帯のメモ機能を使うと店員に睨まれるので多少面倒ではあります。何やら回りくどい皮肉をおっしゃっているようですが、それだけの知性があるなら、wikipedia本文への書込みでも氏の才能を発揮して貰いたいものです。
そもそも三増峠の戦いは北条方の領土内での戦いです。地の利は北条氏にあるのですから、信玄の撤退が迅速だったとはいえ決戦に遅れるようでは戦国武将として落第です。第一次月山富田城の戦いでの尼子晴久、砥石崩れでの村上義清、刀根坂の戦いでの織田信長。これらの諸将の追撃戦での迅速な行動と比べてみては如何でしょう。--海流の中の列島 2010年5月31日 (月) 10:04 (UTC)[返信]
決戦ではなく追撃戦では?衝突した場所は、その後も武田氏に奪われること無く小田原の役まで北条領のままです。海流の中の列島氏は出典に関して他に求めることはなさっても、そしてそれが既にウィペディアの方針に添って提示されており、尚且つネットでの検索が容易にも関わらず、お疑いのようですのに、ご自身はウィペディアへの投稿は可能でもネット検索やメモを取ることすら難儀な状態だということなのでしょうか。大変なんですね。ご同情申し上げますが、投稿するからには、ウィペディアの方針に添うことを同意されてのことでなければなりませんので、の出典をお待ちしてます。私の方は既に提示済ですので。--ジャムリン 2010年5月31日 (月) 23:23 (UTC)[返信]